ノイジーレイジー
――――あなたは、きっと、覚えていないでしょうね――――
世界は音で満ちている。
しゅわしゅわと喜びが弾けるシャンパンの泡音。
ぽつりぽつりと降り注ぐ、涙の音。
めらめらと燃える炎の音。
技術の革命を経て、賑やかな世界はさらに騒がしくなった。
それにもかかわらず、
人々の耳は手入れを怠った木管楽器のように傷み、音をとらえにくくなっていってしまった。
世界はこんなにも色々な音で満ちているのに。
花の歌。冬の歌。蛍の歌。いろんな歌を歌った。
ヒトに頼まれて歌うようになった。
やがて、争いを勝ち抜いたヒトによって囚われるようになった。
「はあ、はあ、はあ………………っ!」
走る。走る。走る。
雨に濡れるのも、靴をはいていない足に血が滲むのも気にせずに。
逃げる。逃げる。逃げる。
長年封じていた竜の力をためらいなくふるいながら。
そして、見つけた。誰よりも愛しい人間を。
彼を見つけたのは十数年前のことだった。
その日は、歌を歌っていた。
暇をもてあまし、ちょうど視界に入ったもののを想い、歌を紡ぎだす。
それが屋敷という広く、狭い鳥籠に閉じ込められたわたしの唯一の楽しみだった。
水面に浮かぶスイレンを眺め、歌っていると。
がちゃり、と堅く閉ざされているはずの扉が開いた。
「!」
そこにいたのはゆで卵のようにまるまるとした、くるん髭の男ではなく
小麦色の髪に木の葉がさわさわと揺れるのを思い出させるような森の色をした目をした
ちみっこい男の子がいた。
「いまのおうたをうたっていたのは、おねえさん?」
こくり、とうなずく。
「すごいねっあんなにキレイなおうた、はじめてきいたよ!」
腐るほど聞いてきた、定型的な感想だった。
「……ありがとう」
ありふれた賛辞に、型で抜いたような返事を返す。
「……白いおうただったね」
「え」
白――――――――――?
「おねえさんは、白いスイレンのおはながスキなの?」
ぱちり、と瞬きをする。たしかに白いスイレンが好きだ。
けど、さっきの歌には色を入れてうたっていない。
庭に咲いているのも夕焼けのように朱いものだ。
「なぜ、白だと思ったの」
「なんとなくみえたから、かな」
「見える?」
「うん。かぜにゆれているキレイな、白いスイレンがうつったんだ」
「そう」
喜、哀、愛、狂、笑、壊、和。
生まれては消え、消えてはまた現れる、ちいさな波紋たち。
世界は、たくさんの音でつくられている。
かの偉人と書いてヒマ人と読む哲学者のひとりは
世界は水でできているだの火でできているだのいろいろなことを言っていたけど。
彼はきっとこういうだろう。世界は色でできている、と。そう感じた。
「おねえさん、寂しいの?」
「…………」
「ここを出たいとは思わないの」
「…………あまり」
ここを出たら、また争いに巻き込まれる。哀しくて、うるさいのは嫌いだ。
「こら!こんなところに勝手に入って!!」
金髪の、やさしそうな女の人が、ていっと男の子の襟首を掴む。
「ごめんなさ~い」
「ほら、行くわよ。父さんが待っているわ」
「はーい」
ごそごそとポケットをあさりながら答える。
「あったあ」
ちいさく折りたたまれた紙きれを、あげる、と差し出してくる。
「これがあれば寂しくないよ」
何かの本の一部らしく、びっちりと文字がならんでいた。
幾百もの文字の中、ひとつの文が浮かび上がってきた。
『セカイは色でみちている。君の色を探しにいこう』
これってどういう、とたずねかけるが
男の子は紙を握らせてにっこりほほ笑み、母親に手をひかれて出ていってしまった。
男の子が出ていったあと、紙を開いてみた。
三匹の子犬がじゃれあっている、かわいらしい絵だった。
けして上手いとは言えない拙いものだってけど、どこかあたたかい絵は、
絵はがきとして売られていてもなんの遜色もないような不思議な雰囲気を持っていた。
紙に耳を当ててみる。
木の葉がやわらかな風にそよぐような、心地良い音が聴こえた。
数年後、彼が宮廷でひっぱりだこだという偏屈な
でも、とても優れた画家に弟子入りしたと、風の噂で聞いた。
そして時は昨日に遡る。
十数年前とは違う主に連れられて、展覧会へ行った。
正直、退屈だった。
計算しつくされた空間構成の宮廷画に、肖像画。
人間の醜い部分を凝縮させたような暗い、重い色彩。
仰々しく奏でられるヴァイオリン、チェロ、
コントラバス。絵と色と楽器は、泥をぬりったくったような旋律を奏でていた。
「!」
遠くにある、鮮やかな蒼が目に入った。
「――であって、――――ので、―――――――」
大きく成長した、彼だった。
「これは海なのかね、それとも空なのかね?」
「どちらでも。
海も空も見る人によって違うものとして映る。
美しく映るか淀んで映るのかも違う。
そしてどんな思いを馳せるかも、何を試みるかも人それぞれである。
そしてその結果空や海が曇ったり荒れたりするのも偶然で、澄み渡るのも偶然。
人の心も未来もそんなものではないか、と。そういう思いが込められているんです」
やりたいならやってしまえ、といったところですね、そういって笑った。
やりたいなら、やってしまえ。
わたしは、今の主から逃げることにした。
水の竜巻をつくる。
雨を凍らせ、槍を降らせる。
川の水を氾濫させ、足止めをする。
着実に追手の数は減っていくとはいえ、やっぱり脱走はそう簡単ではなかった。
身体に散る赫い跡がそれを物語っている。
周りを見回すが、目に入るのは、木。木。木。灰色の空。
何もない。
急ごうと足を踏み出した。
が、次の瞬間。つるっと足を滑らせ、ごすん、と近くに座り込んでいた
くたびれた皮のマント姿の人間につっこんた。
鈍く重い衝撃が、いっきにその人間の意識を覚醒させた。
痛っ。誰だよ、せっかく夢の世界に片足つっこんでいたっていうのに
急につっこんでくるなんてひどいじゃないか。
そう視線が語りかけてきた。
「ごめん」
心の内を読んだかのような的確な言葉に、青年が言いかけた非難の言葉が拡散していった。
まじまじと見つめた後。
「おま……」
何者、と言いかけた口を細長い指で遮る。
「何か羽織る物はありませんか」
こげ茶色の鞄を漁って
かわいらしい、白地にピンク色の花の刺繍をした布きれをさしだしてきた。
男の人なのに、どうして女物のマントを持っているんだろう。
眉間にしわがよる。
色々と問い詰めたいことはあるけど、我慢しておとなしくそれを頭からすっぽり被り
伸ばしっぱなしになっている長い髪をつっこんだ。
「失礼します」
きょとん、とする青年はスルーし、顔を胸にうずめる。
決して筋肉質ではないけれど、頼もしく、温かい胸だった。
「な、な、な…………!!」
青年の胸の鼓動が、ぐーんと速くなる。
ぺちゃっぺちゃっぺちゃっと土の上を歩く音が近づいてくる。
追手だろう。
早く、気づいて!
やっと抱きついてきた意図を理解したらしく、背に腕をまわして白布に顔をうずめてきた。
かかる吐息が、熱い。
どくん、と胸が大きな音をたてた。
足音は此方へ向かってくることはなく、遠くへ離れていった。
ほっと息をつく青年。
「おい、行ったぞ。離れろ」
「…………」
「おい」
わたしを引きはがそうと肩に手をかけるが被っていた白布がぱさりと落ちただけだった。
「……もう少し」
あなたは、きっと、覚えていないでしょうね。
絵をくれたこと。言葉をくれたこと。
あなたはきっと、知らないのでしょう。
何度あなたの絵が、音が、笑顔が、わたしを救ったのかを。
背にまわした腕に力がこもる。
「もう少し、このままで」
何を言ってるんだよ、居心地悪いわ!と叫びかけた口が、突き飛ばしかけた手が
雷に打たれたように動かなくなる。
視線の先にあるのは解けた手首の細布の下から覗いている
水晶片のような淡い蒼に雨告げの花のような薄紫色
それに永久に積もる雪のような白銀の欠片。
本来人間ではなく魚に張りついていて
人間に張り付いていたら相当不気味であろうはずである断片は
わたしが人ではない化け物だというものを黙示している。
頑丈な首輪。足首の赫い跡。背に影を落とす大きな痣。鱗。
これを見て彼は何を思うのだろうか。
突き放すのだろうか。
蔑むのだろうか。
一人は哀しい。寂しい。つらい。うるさい。雑音。雑音。欲望。陰謀。
自然の音楽会と称するほどに好きな雨音が、急に重く、冷たく感じられた。
ぽすっと、大きな手が頭を包んだ。
音も無く滲んでいく世界。
色彩が欠けていて満ちている、人ならざらぬものに絵描きは微笑んだ。
世界は色彩で満ちている。君の色を探しにいこう、と。
昔と、なんら変わりない笑顔で。
人ならざらぬものの頬を、透明な雫がつたった。
虹の架かる空の下、どの草木の露よりも輝く雫だった。
――――――――これは、一匹の竜と一人の絵描きのおはなしです。
End.
氷原に咲く花の続編として書く予定の話でしたが
話が膨らみすぎて、締め切りに間に合わせるのが無理っぽそうだったので
絵描き♀→絵描き♂
竜:アクアリーデ♂→竜:アクナリーデ母♀
に変更しました。
この後、絵描きさんと竜さんは世界中旅して
特に気に入った水の綺麗な王国に住みつきます。
そして色々あってフィルクイン王国に住んでいたところ
退治され、アクアリーデくんが生まれます。
そして氷原に咲く花へつづく……!
みたいな感じです。