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番外編「王者の証」

  王者の証





 室内には、黄昏に似た空気が漂っていた。

 ベッドに横たわる亜麻色の髪の少女は、口を一文字に引き結び、身じろぎもせずに窓外を見つめている。

 窓の外は室内の雰囲気とは対照的に、よく晴れている。

 そして、場には彼女一人だけではなかった。少女を見つめている、黒髪と赤毛の少年がいた。

 二人はそろって室内と同じ色の空気に染まっていた。

 停滞した場に、かすかに乱れた息が混じる。ベッドに横たわる少女は荒い息を吐きながら、きれいに晴れ渡った空から視線を動かさない。

「私……もう駄目だわ」

 普段の溌剌とした声はなりを潜め、かすれてひび割れている。喋ることも苦しいのか、言葉の合間に咳が混じる。

 だがしかし、そんな哀れな様子に対して、返ってきたのは辛らつな言葉だった。

「何が駄目なんだよ」

「ただ熱出して寝てるだけじゃないか」

「ていうか、イリスも熱出して寝込むことあるんだな……」

 カイゼルは奇妙な生き物でも発見した学者のように、眉根を寄せる。

「小さい頃から数えれば、ないこともなかったよ。でも、基本的に倒れるまでは病気じゃないって考えだから、それこそ滅多になかったけど」

「今はどうなんだ? 割と元気そうに見えるが……」

「単に、病気になった自分を演じてみたいだけだと思うよ。だって、訓練校に入ってもう二年。この間、大抵の悪戯はやり尽くしたって言って、暇そうにしてた」

「イリスは暇つぶしで熱を出すのかよ……」

「ううん、さすがにそこまで器用じゃないと思うよ。ただ、動けるけど面倒なだけだよ。だってさ、寝込んでいれば授業はさぼれるし。昔は遊ぶことが第一目標だったから、それこそ寝込む暇があるなら、熱で頭やられても遊び倒すんだよ」

 ヘーゼは息を吐く。過去、彼女の病気にまつわる件で、また色々とあったのだろう。

「……最後のお願い、聞いてくれる?」

 そんな色々など、おそらく消しゴムで消したように忘れ去っている少女は、熱で潤んだ目を彼らに向ける。

「一生に一度のお願いなんて、もう何十回も聞いたよな」

「むしろお願いじゃなくて、命令だけど」

 二人はイリスが反撃してこないのをいいことに言いたい放題で、彼女の方はいつものように、人の話をまったく聞いていない。

「最後に……あれが食べたいわ」

「……あれ?」

 二人は互いに顔を見合わせた後、首を傾げる。

 イリスは一人、酔ったように溶けた目で、何かを求めるように手を伸ばす。

「そう、あれよ!」

 起き上がろうとしてまた咳き込む。その様子に、二人は一抹の憐憫を覚えたりもしたが、一瞬だけですぐに霧散した。

 それだけ普段、この少女に虐げられていた。

「このカイルンゴルム幼年兵部隊訓練校の伝説……王者の証をこの手に!」



 王者の証。

 ご大層な名前だが……

「要するに、学食のメニューだろ」

「しかも、正式名称は卵パンだし」

 二人はイリスの見舞いを終えた後、そのまま学生食堂に移動していた。

 今日のメニューはやたらと大きめに切られた野菜のシチューと、煉瓦のように巨大な黒パン。

 訓練校では、割と平均的なメニューになる。

「卵パン、ねえ……」

「伝説になるくらい美味しいらしいよ」

「そうか」

 カイゼルはぱさついたパンをかじりながら、気のない返事をする。

 と、食堂の一角がわっと盛り上がった。

 つられて顔を向けると、食堂の端に置かれたテーブルに生徒が何十人も群がっている。学生食堂の食事では足りない成長期の子供達の為に出される補助食だった。卵パンもそのうちの一品になる。

 彼らの年代は寝ているだけで腹が減る。食べた端から消化して、エネルギーに換えてしまうのだ。その勢いは、比喩でなく皿まで食べそうなほどすさまじい。

 そんな彼ら為に、補助食は格安で出される。

 そう、三度の食事は無料……というか、授業料に組み込まれているのだが、この補助食は有料なのだ。基本的にはその日の食材のあまりを、パンに挟んだだけ。日によって具はバラバラで、ベーコンやチーズが入っている日もあれば、野菜クズの炒め物が挟まっているだけの日もある。

 しかしこれが、食堂では超人気メニューなのだ。

 実を言えば、数年前までこの補助食は不評だった。金を払ってまで食べるには、日によってハズレが多い。それでも、おかわりがもらえず空腹を抱える子供達は仕方なしにそれを買っていた。

 そこに彗星のごとく飛来したのが件の卵パンだった。

「……話しによると、具材は目玉焼き、ハム、チーズと野菜らしいよ」

 ヘーゼは手持ちのメモに目線を落とす。得意技、というほどではないが、ヘーゼはこういった情報収集に長けている。一見すればこづいただけで泣き出しそうな外見だが……そんな弱々しそうな見た目だからか、相手は割と簡単に必要な情報を落としてくれる。

「卵は堅焼き、ハムは日によってはベーコンだったり塩漬け肉だったり。野菜も特に決まってないみたい」

「で、なんでそんなパンが伝説なんだよ。美味い以外に」

「まあ、一人で卵一個独占できるだけで美味しいメニューだとは思うけどね」

 ヘーゼもまた、口中の水分を持って行かれそうなほど乾いたパンをかじる。

「そんな卵パンは日々争奪戦。供される数は日によってバラバラ。まったく出ない日もある。しかも問題なのは、普通の野菜パンと混ぜて販売されているという点。買って封を開けるまで、中身がわからないんだ。そんな限定メニューだからこそ、手に入れた者達は王者の称号を与えられる……」

「俺はこの二年、訓練校の食堂で食事しているが、一度も食べたことがないぞ」

「そりゃあ、カイゼルはあの群れに混じったことないでしょ」

 ヘーゼは机を倒す勢いで補助食を買おうとしている生徒達に視線を向ける。

「混じる以前に、金がない」

「切実だね」

 そうやって、指をくわえて見ているだけしかできない子供は、何もカイゼルだけではない。授業料の安さで進路を選んだ者達も多いこの訓練校。基本的に衣食住は保証され、学用品も支給される為、まず現金は必要ない。

「で、イリスはそんな伝説メニューが食べたいと」

「イリスも最初は手に入れようと挑戦してたよ。でもほら、飽き性だから」

「俺は昔、パンを得る為に机上を土足で駆け抜けたイリスを見たぞ」

「……そうそう、その件が元で他の生徒のひんしゅく買って、止めたんだよね」

「とりあえず、並んでみるか?」

「今から行っても無理だよ」

 机回りは飢えた生徒の人垣に包囲し尽くされていたが、その数は徐々に減ってきている様子だ。

「それに、今日は例のパンはなかったみたいだし」

「……なんでわかるんだ?」

「だって、誰も騒がないし」

 ヘーゼは呑気にシチューを口に運んでいる。

「王者コールがないってことは、今日はなかったんだよ。ま、昼になくても、もしかすると夕食時に出てるかもしれないよ」

「ヘーゼ、お前、妙に詳しいな」

「前、イリスがね……そこら辺は、色々と察してよ」



 夕食でにぎわう学生食堂。

 その日の授業からの開放感も手伝って、この時間帯は少しだけ浮ついたような空気がある。

「買えたぞ」

 カイゼルは微妙によれた格好で席まで戻ってきた。息を吐きながら、彼は持っていた包みを机上に投げ出すと、自分の身体も椅子に放り出す。

 補助食の群れに混じった感想は、格闘術の授業より疲れた。その一言に尽きる。

 ぐったりと自分の食事にも手をつけず、机に突っ伏しているカイゼルに、ヘーゼは遠慮がちに声をかけてきた。当のヘーゼもカイゼルと一緒に立ち向かったのだが、机に辿り着くこともできずに人の群れから弾き出されてしまった。

「……ちょっと中を見てみなよ」

 ヘーゼに言われ、カイゼルはのろのろと包み紙を開け、パンをそっと持ち上げてまた戻した。

「野菜だけだな」

 再び、息を吐く。

「このパンの最大の難問。買って封を開けるまで、中身がわからないってことだね」

「中を見てから買うとか」

「パンはおばちゃんから手渡しされるし、選んでいたら人垣に追い出されるよ。そこら辺は暗黙の了解なんだからね」

「……厳しいな。見舞いに持って行くにはもう少し簡単な手土産にしてくれよ」

「それに、明日にはイリスも全快してるんじゃないの?」

 そんな彼らの望みは、イリスが夜中に高熱を発したことで絶たれた。



「……あのイリスがって、職員室は大騒ぎになってたぞ。それこそ伝染病から食中毒まで、可能性のありそうな原因を全部当たってる」

「午前中には熱も引いたみたいだよ。ただ、さすがに大人しくしているみたいだけど」

 二人は顔をつきあわせながら、そろって同じように眉根を寄せる

「しょうがない……と、いうと非常に薄情な気がするが、イリスが回復しない以上、あれを手に入れるか……」

「じゃあ、今度は少し、遠回しに攻めていこうか」

 そして、彼らの情報収集は始まった。

 放課後から訓練校内を駆けずり回り、王者の証を入手した生徒やそれに関与した人間を捕まえては話を聞いていた。

 その間接的なやり方に、先に根を上げたのはカイゼルの方だった。

「……そもそも、情報なんて集めて何になるんだ? 要は人垣を乗り越えてパンを買うだけだろ」

「それに失敗したからこうやって、ちめちめした真似しているんじゃないか」

 ヘーゼは息を吐く。カイゼルも、息を吐くどころかその場に座り込んでしまいたかった。

 しかし現実はそうも言ってはいられないので、仕方なく歩き出し、道行く生徒を捕まえては王者の証を買えたことがあるか尋ね、該当者がわかれば直接話を聞きに行った。

 王者の証を買った学生その一。

「え? いや、普通に買っただけだよ。それで中身を見たら卵パンでさ。途端に回りから王者扱いでびっくりしたよ。味は……美味かったな……」

 彼はその時の様子を思い出したのか、虚空を見上げる。

「パンはいつも通り、ぱさぱさだったよ。卵は堅焼きなんだけど、こう、ほんの少し柔らかいんだ。塩漬け肉も噛めば噛むほどいい味が出るし……そうそう、何と言ってもチーズだよ! とろける風味がすべての味を調えつつさらに倍加させ……」

 長いので、後半は聞き流した二人だった。

 他の生徒の話も似たり寄ったりだったが、中には食堂のおばちゃんの仕事を手伝って横流しを企んだ者や、集団作戦で買い占めを行って王者の証を入手した後、その事実が発覚して他の生徒の袋叩きにあった者まで様々だった。

 そうやって、ほとんどの生徒が寝る体勢になるまで情報収集は続き、話を聞く人間も尽きた頃、二人はカイゼルの部屋で再び顔をつきあわせていた。

「……要約するとだ、本当に偶然だな。狙って手に入るもんじゃあなさそうだ」

 散々歩き回って話を聞いた結論が、それだった。

「となると後は……」

「調理済みの物を盗む!」

「カイゼル……いきなり直接的な手段に出たね。でも、調理場はおばちゃんでいっぱいだし、紙で包んであるから見分けがつかないよ」

 もちろん、全部盗み出せばその中に当たりが入っているのは間違いない。だが、物理的に不可能なので敢えて二人はその点には触れなかった。

「材料を調達して作る!」

「おばちゃんの食堂で培った技術を駆使しないと、あの味は出ないよ。それに、問題は卵だ」

 ヘーゼはぴしりと指を立てる。

「あの卵がすごいらしいよ。なんかもう、とにかく美味しくって、でも市販品じゃないらしい」

「俺達が普段食べているのとは別の卵なのか?」

「噂だけどね」

 そこで会話が途切れてしまう。しばらくの沈黙の後、カイゼルはやれやれとのびをしながら言った。

「じゃあ、今度はその卵の出所を探ってみるか」

 その日、二人がイリスの見舞いに行かなかったのは、薄情なのではなく……まだ目的を果たせていないので、顔を合わせづらかったのだ。

 とりあえず、二人ともイリスの無茶な要求に呆れてはいたが、まだ降参するには早いと互いに思っていた。



 翌朝。ようやく空の端が明るくなってきた頃、二人は抜き足差し足で食堂に……いや、調理場へと向かっていた。

 さすがに騒がしいのは鳥くらいのこの時間、歩いていても誰ともすれ違うことはない。

 それでも精一杯注意を払いながら進み、彼らは調理場の裏口が見える茂みの中に身を潜めていた。

「ね、眠い……」

「しっかりしろヘーゼ、ここで倒れてどうする! 俺達の使命を忘れたのか?」

 カイゼルは放っておくと、すぐに上と下の瞼がひっつきそうになるヘーゼの肩を揺さぶる。

「うう……そもそもさ、なんで僕達はこんな真似をしているの?」

「それは聞くな、考えるな!」

「与えられた命令に盲従するのはよろしくないと思うよ。一兵卒でも自由意思くらいはあるわけだし」

「兵士の方がまだ気楽だと思うぞ。なんで病人の見舞いの為に、俺達が早朝から調理場を張っているんだか……」

「……身も蓋もない言い方だね」

「お、誰か来たぞ!」

 カイゼルはすかさず身を低くする。そうやってこっそりと枝葉をかき分けて確認すると、籠を抱えた人物が、食堂の裏口を叩いていた。

 少し間を開けて出て来た食堂のおばちゃんとその人物は、慣れた様子で言葉を交わすと、相手は籠を渡し、代わりに野菜の入った箱をもらう。

 そして、去って行った。

 二人はその人が角を曲がるまで、身を伏せたまま息を殺していた。

 ようやく息を吐き、カイゼルは起き上がる。

「……見たか?」

「うん、見た、ような気がする……」

「あの人は……いや、考えるのは後だ、とにかく後を追うぞ!」



 訓練校の敷地は広い。生徒達は四年間、ここを学舎として過ごすのだが、校内の、特に裏手側は四年あっても足を踏み入れる者は少ない。練兵場より向こうは、一応、裏門らしきものは作ってあるのだが、そもそも周囲が原生林に覆われている為、どこまでが訓練校で、どこからが違うのかその区分は非常に曖昧。そして前述したように、裏門より向こうはほぼ、手つかずの森林が広がっている為、不用意に足を踏み入れればそれこそ普通に野外訓練ができる。

 そんな裏側の敷地にも、建物はあった。

「訓練校教員宿舎ねえ……」

 カイゼルはこぢんまりとした建物を前にして呟く。小さいと言っても、それはカイゼル達が寝泊まりしている生徒用宿舎と比べてだが。

「ねえ、今の人、本当に……」

「言うな。俺だって見たものを否定したいくらいだ。だがここは推測するよりもまず、事実を確認すべきだ!」

 二人はこそこそと裏手に回る。建物の周囲には何の遮蔽物もない為、壁に貼り付くようにして進んだ。

 裏側は、正面と同じく特に何もない……と、予想していたのだが。

「なんだ、あれは……」

 カイゼルは建物の角から顔を出し、首を傾げる。宿舎裏の一角に、小さな小屋があった。直接土の上に立てられた小屋の周囲には、カイゼルの背丈ほどの柵が作られ、その中には白や茶色の生き物が、元気に動き回っている。

 十羽ほどの鶏だった。

「鶏がいるな」

「うん、どっからどう見ても鶏だね」

 鶏はこつこつと土を掘り返しては餌をついばんでいる。その様はなかなか愛らしかったが、今は鶏を鑑賞している場合ではない。

「この鶏が、例の卵パンの卵を産んでいるのか?」

「おそらく、そうだろうね」

 一歩踏み出しかけたカイゼルは、倒れそうな勢いで元いた位置に戻る。

「ちょ、カイゼル。どうしたのさ!」

「いいから隠れろ!」

 カイゼルはヘーゼの頭を押さえつける。

 裏口を開けて一人の人物が出て来た。先ほど食堂にいた者だった。

 その人物は男性。がっしりとした体つき、黒髪を根本でひとくくりにしている。

 よく知っている人物だった。その為、彼が調理場に現れたことが信じられなかったのだ。

「ヘルクラウト先生……」

 調理場に卵を持ち込んだのは、この訓練校の教師の一人ヘルクラウトだった。格闘術を専門とし、その教え方にはとにかく容赦という言葉が欠落している。

 その鉄面皮の教師は、調理場でもらった野菜クズを持ったまま柵の中に入ると、手でちぎっては足下に投げている。途端に鶏が集まって野菜クズをついばみ始めた。

 朝の清浄な空気とよく晴れ渡った空の下、鶏に餌をやる光景は、穏やかそのものだった。

 餌を与えている当人が、訓練校内で比喩でも何でもなく鬼教師と呼ばれていることをのぞけば。

「あの先生が……鶏の餌やり?」

「むしろ鶏を餌にする勢いじゃないの……?」

「落ち着けヘーゼ。そ、そうだ。きっと当番制か何かで、たまたま今日だけ先生がやってるんだよ。そうでもないと……信じられん!」

 声を潜めて話していたつもりだったが、何か気配でも感じたのだろう、格闘術教師は顔を上げた。

「そこで何をしている」

 低い声に身を強張らせ、二人はどうしよう、と顔を見合わせたが……大人しく出て行く以外の選択肢は思いつかなかった。

 処刑場に引き立てられる罪人のような気持ちになりながら二人は並んで出て来ると、格闘術教師は餌やりの手は休めずに告げる。

「早起きなのは感心だが、隠れ潜んでいるというのはいただけんな」

 そこで言葉を切ると、淡々と、何の調子も変えずに言った。

「手が空いているのなら、鶏小屋の掃除でもして行け」

 二人はぽかんとした顔をしていたが……ここでもまた、鬼教師の言葉に従う以外の選択肢はなかった。

「……なんでこんなことに」

「でも、先生の後をつけていたことがばれなかっただけよかったよ」

 二人はこそこそ言いながら、鶏小屋の掃除をしていた。寝床の藁を取り除いていると、そこからころりと卵が転がり出る。

「あ、卵」

 土と糞に少々汚れていた卵は、カイゼルが手に取ると、まだほんの少し暖かかった。

「まだ卵があったのか」

 どこから見ていたのか、小屋の入り口にヘルクラウトが立っていた。今までの会話を聞かれていたのではないかと危惧したが、教師はそんな様子などおくびにも出さずに小屋の中に入ってくる。

「……あ、その……はい」

 どうぞと手渡そうとすると、彼は首を振った。

「持って行け」

「え、でも……」

「それをイリスに食べさせてやれ」

 もう今日の分は調理場に出してしまったから、必要ないと教師は言った。

 まさかその調理場裏口から後をつけてきたとは言えなかったので、カイゼルは大人しく卵を懐中にしまう。

 そして鶏小屋の掃除が終わった途端、朝食に間に合わなくなるからとヘルクラウトに追い出された。

 帰り道、二人は腕を組んで悩んでいた。

「……結局、なんであの先生が鶏を飼っているのか聞きそびれたな……」

「チャンスがあっても、僕には訊く勇気はないよ……」

 それもそうだな、とカイゼルは納得し、懐の卵を撫でた。

 人間誰しも、普段見せているのとは違う顔があるもの。あの鬼教師が生徒ではなく鶏を可愛がるくらい、それこそ可愛い話ではないか。

 カイゼルは、無理矢理そう納得する。

 と、そこでヘーゼが袖を引いた。

「あのさ、考えたんだけど……」



「さあ、王者の証だ!」

 二人の派手な登場を目にしても、イリスの反応は薄かった。少々やつれ、ぼんやりと視線をさまよわせている。

 だが目の前に置かれた包みを見て、意識がしっかりしてきたようだ。

「よく手に入ったわね」

 イリスは鼻をすすりながら言った。さすがに、いつもの破天荒さは影を潜めている。

「まあ、病人の頼みだからな」

「食べなよ。ほら、食堂のおばちゃんにミルクも温めてもらったから、これも一緒に」

 ヘーゼは持ってきたカップを渡す。

 イリスはじっと卵パンとカップで湯気を上げるミルクを見下ろしていたが、不意に身を起こすと隣の机に手を伸ばす。

 引き出しからぬぅっと出て来たのは、特大のナイフだった。イリスは無言で皮のサックからナイフを引き抜く。肉厚の刃物は凶悪な輝きを放ち、人の腕くらい簡単に切断できそうだった。

 当然、突然そんな刃物が出て来る理由がわからなかった二人は、そろって悲鳴を上げる。

「ま、待てイリス……熱出して思考がよくわからない方向に行くことはある。だが、それは駄目だぞ!」

「ひぃぃぃぃぃぃ! 僕達、ちゃんと王者の証を持って来たじゃないか! そりゃあ、ちょっとズルして別ルートから入手した卵を食堂のおばちゃんに頼んでこっそり卵パンにしてもらったわけだけど!」

「ああっ! ヘーゼ、ばらすな!」

 しまった、とヘーゼは頭を抱えて転がる。

 そんな醜態をさらす彼らには見向きもせず、イリスはナイフを無造作に振り下ろした。

「ああああああああああああぁっ!」

「ぎぃやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 二人の悲鳴が響き渡る中、卵パンは半分になった。

「え……?」

 カイゼルは無意識に頭をかばっていた手をどけ、恐る恐る目を開くと、見えたのは二つになった卵パン。

 イリスはその一方を手に取ると、呆然と立ちつくすカイゼルに向かって突き出す。ヘーゼは床に倒れ、泡を吹いて失神していた。

「はい」

「……なんで?」

「とにかく苦労したみたいだし、半分こよ」

「どうも……」

 言って、カイゼルは半分になったパンを受け取る。

 イリスが単純に自分達の苦労をねぎらうことなど今までなかった。その為、このすっぱりときれい分断されたパンにどんな意味が隠されているのか真剣に考え込んでしまった。

 そんな風に思い悩んでいることに気づかないのか無視しているのか、イリスは早速卵パンを食べ始める。

「美味しいわよ。カイゼルも食べたら」

「あー、そうだな」

 もそもそとパンを食べる様子はいつもより元気がなかった。むしろ、ここまで静かな彼女は初めて見た気がする。

 カイゼルは小さく笑って息を吐く。

 案外、本当に何の裏もないのかもしれない。

「ありがたくいただくよ」

「ヘーゼにも分けてあげてね」

「……これをさらに半分に分けるのかよ」

「このナイフ使ったら? よく切れるわよ」

 だったら最初から三分割にすればいいものをと思ったが、口には出さずにナイフを借り受けた。


【王者の証 終】


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