表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/45

9-4「歓びの歌」

 四章「歓びの歌」



 どこからか持ってきたのか、あるいは、コートに隠していたのか、シリカは手にした双眼鏡をのぞき込んでいる。

 眺めているのは、開け放った窓の向こう。

 教会の壁よりも彼方、市壁を越えた荒野。かがり火に照らし出された黒い集団が見える。

 これが、サヤキの言っていた応援部隊なのだろう。

 市壁の向こうは遙か彼方まで見通せる平原となっている為、その集団を隠すものは何もなかった。

 むしろ自分達の姿を見せつける事で、市民を威嚇しているのかもしれない。

 そして、視線を今度は教会の壁に向ける。中庭を無意味に走り回る兵士と、門を必死になって抑えている一団。どうやら、市壁を軍隊に囲まれていると知った市民が、いい加減、我慢の限界に達し、教会内へ乗り込もうとしているのだろう。

 市壁の向こうにいる軍隊が動くのが先が、市民が教会内になだれ込んで来るのが先か。

 どちらにしても、あまり猶予はなさそうだ。

「いやはや……すっかり囲まれていますね」

 双眼鏡の精度はなかなかのものだったが、これだけですべてを捉えきる事は不可能だった。シリカはそれ以上、観察するのを止め、双眼鏡片手に振り返る。その先では子供が二人、むっつりとした顔で立っている。

「シリカ……お願いだから、落ち着き払って深刻な事を言わないでよ」

「しかも、笑顔で」

「ですが、慌てふためいても何も解決しませんよ。それより、このまま外の方々に突入して来られると、これからの行動が難しくなりますね」

「えー、でも、混乱している方が隙ができそうよ?」

「それはそうですけど、市門を封鎖でもされたら容易にはこの国から出られなくなります。もちろん、抜け道くらいはあるでしょうが、私はあまりこの国やその周辺の地理に詳しくないので、下手な行動は避けたいのです」

「じゃあ、この間の地下道を使いましょうよ」

「え、でもあれって……」

 ヘーゼはさぁっと顔を青くする。確かに、シリカに地下道の写しをもらったが、今、手元にはない。持ち出す余裕もないまま、謎の女……マナール、しいては三人目だが……に無理矢理宿舎から連れ出され、そのままだ。

「宿舎に置いたままだ……」

 イリスもその事を思い出したのか、首の後ろをかく。

「そういえば、そうね」

「せっかく写してきてもらったのにね。上手くいかないもんだよ……」

「まぁ、無いものを悔やんでも仕方がないです。ある程度は私も覚えていますが、完璧とは言いがたいので……」

「覚えてるの! あんなに複雑で入り組んだ場所を?」

「まぁ、ざっとですけど」

 こうして、地下道を進む強攻策を実行しようとするイリスと、とにかく物置にでも隠れてやり過ごそうという消極案を出すヘーゼとで、しばらくの間もめた。

 そして、討論が次第に平行線というよりは、半ば一方的な暴力に発展しかけた頃、シリカはそろそろ口を挟もうかと顔を上げ、そのまま硬直する。

 何か、低く鳴動するような音が聞こえる。まるで何百もの馬が駆けるような、腹の底に響く低音。外の軍が動き出したのかと思い、窓外を確認したが、特に動きはない。

 代りに、窓枠が微かに鳴っている。

 次第に……強く。

 そして這い上がってくるこの不安定な感覚は……

 シリカの意識が閃く。それは自覚してのものではなく、ほとんど本能とでも呼ぶべき反応だった。

「イリス、ヘーゼ! 何かにつかまりなさいっ!」

 反射的に叫んだ瞬間、床が波打った。そう感じるほど激しい衝撃が彼らに襲いかかる。シリカは窓枠をつかもうと腕を伸ばしたが、揺れに立っていられず、そのまま床に投げ出される。転がりながら、それでも二人の姿を必死に探す。元から大して離れた場所にはいなかったので、二人はすぐに見つかった。

 だが、側まで辿り着くのは困難だった。

 上下に揺さぶられるような激しい揺れは収まらない。そうこうしている間に、壁に無数のヒビが走り、建造物全体が悲鳴のように軋んだ音を立てる。構造材が歪む激しい音を耳にし、シリカは思わず絶望的な気分になる。

 天井が落ち、床が抜ければまず助からない。

 窓が無様に開き、勢いで壁に叩きつけられる。衝撃で砕けたガラスが床に散った。

 幸い、シリカの考えは現実にはならなかった。

 揺れは少しずつだが確実に収まり、しばらく身を伏せている間に、収束を迎えた。

 それでも、数呼吸の間、誰もが動かずに身を伏せていた。

「…………うわー……さすがに、やばかったわね」

「怖いよー地震なんて嫌だよぅ、もう帰りたいよー……」

 座り込んだまま立ち上がれないイリスと、床に丸まって半泣きのヘーゼ。二人が無事な様子を確かめ、シリカは安堵の息を吐く。

「二人とも、建物の中にいるのは危険です。次がこないとも限りませんので、早くここから出ましょう」

「そうね、けど、なんか足がおかしい……ふらふらするわ」

「ていうか、立ち上がれないし」

 言いながらもどうにか身体を起こす二人を視界の端に気にかけながら、シリカは窓外に視線を向ける。

 闇の中、目をこらす。そこかしこに、にじむような火の光が見えた。一瞬、状況を把握する為にかがり火を焚いたのかと思ったが、そうではない。

 火の手は街のあちこちから上がっている。

 よくよく見れば、中庭にはぽっかりと穴が開いていた。同じように、地面に沈み込むようにして崩壊している家屋が大量にある。

「……地下道が……崩れたようですね」

 それ以外にも、倒壊した家屋が目立つ。おまけに、雪の舞うこの気候、そして自分達の置かれた状況が把握できない不安な心理状態もあって、ほとんどの家屋内で火が使われていたはずだ。

 見ている間にも、ぽつぽつとそこかしこにオレンジに輝く光が増えていく。

 闇と、寒さとで、救助作業や消火活動ははかどらないだろう。

 シリカは空を見上げる。闇は濃く、夜明けまで、まだずいぶんと間があった。

「なんか……街の方、燃えてない?」

 イリスの声に、シリカはひとまず考えを止める。今は全体を見通している余裕はない。まずはここにいる子供達の安全を確保しなければならなかった。

「そのようですね。今の地震で、地下道も部分的に陥没したようですので、地下を行く案は、残念ながら不採用ということで」

「じゃ、じゃあそこの洋服箪笥の中に隠れていようよ!」

「もっとダメよ! 大体、私達は何の為にこんな寒くてつまんない国へ来たの、カイゼルを助ける為でしょう!」

「うわぁ……なんだか今さらのような気がするけど、本当の事だよ……」

「しかし、カイゼルやギーヴルがどこへ行ったのかわからない以上、どうする事もできませんよ。むしろ私達の安全を確保する方が先かと」

 シリカの提案に、イリスはさも不満とばかりな顔をして腰に手を当てる。

「なぁに男二人が揃って消極的な意見を並べてんのっ! そんなの私達がわかんないなら、知ってそうな人間を捕まえて聞くだけよっ!」



 ファルゼンはティラハンの動きには気づいていたが、あえて放っておいた。

(盲目の娘に何ができる。それよりも、もうすぐ、もうすぐすべてが終わるのだ……)

 いや、彼にとっては、そこからがはじまりだった。

 たとえ、この後、彼が生き残れなくとも。

(そうだ、滅びがなんだ……肉体はとうの昔に塵となった。今や他の生物に寄生するだけの、脆弱な存在に成り下がってしまった。もっとも、今の状態では本当に俺自身が生きていると呼べるかどうかも怪しいものだ……)

 自分自身の存在が、どうにもあやふやになっていた。まるで、自身が亡霊のように思える時がある。

 いや、復讐に凝り固まった自分は、十分にその素質を備えているだろう。

 あれが今も生きているだけで、身が焼き切れるほどの怒りと憎しみを覚える。

 奪われた命に代りなどない。そんな事は理解できている。あれを滅ぼしたところで何も変わりはしない。

 それでも……生かしてはおけない。

 元々、生まれるべきではなかった命なのだ。ただそれ以前の状態に戻るだけ。間違いは正さなければならない。

 男の目が復讐の喜びに輝いていたその時。

 地が揺れた。

 下に引き込まれるような感覚の後、不快な鋭い音が響き、周囲の壁に、無数の亀裂が走る。

 ファルゼンは不意をつかれ、慌てて水晶壁に向き直る。

 予期せぬ出来事だった。

 確かに目覚めを待ってはいたが、まだ少しの間は眠りの中にまどろんでいるはずだった。それなのに、どうしていきなり覚醒するのだ。

「っ、求める者の気配に惹かれたかっ!」

 その間にも石壁の亀裂は音を立てて広がり続け、さらに内部でも弾けるような音が何度も響く。足下が不安定に揺れ、天井からぱらぱらと石の欠片が降ってくる。視界の端で、カイゼルが転倒するのが見えた。

「   ティラハンっ!」

 カイゼルの叫びが聞こえた。

 その、刹那。

 輝く白い光が、洞窟中を覆い尽くした。

 顔を手で覆っても、無理矢理突き刺さってくるほどの、強い光。

 同時に周囲の石壁が弾け飛び、内部から透き通った六角形の構造体が出現する。そして崩壊の余波はすぐさま天井まで駆け上り、むき出しの岩壁が落下した。

 天井のほとんどが、瓦礫となって降ってくる。

 だが……圧倒的な質量で下にいる者達を押しつぶそうと迫っていた岩の群れは、同時に発生した白光に焼かれ、空間が一気に破裂する。

 音にしようがない衝撃に大気が震え、大地が揺らぐ。

 すべてを破壊し、消滅させ……そして沈黙が戻る。

 その一瞬で、何もかもが消え去っていた。弾けた岩も、周囲に散っていた瓦礫も。

 洞窟の景観は様変わりしていた。

 天井がなくなっていた。そこから夜の空が見える。爆発の衝撃はほとんど上へと抜けていったのだろう。そして周囲の壁だった場所から、透明感のある多面体の構造体がいくつも出現していた。

 わずかな光に透明な輝きを放つそれ。内部では青白い光が揺らめいて見える。

「…………水晶の林みたいだ……」

 カイゼルは、倒れたまま呆然とつぶやいた。

 衝撃波にはじき飛ばされたが、後ろの水晶壁は崩れることなく残ったので、彼の身体はそこで止まっていた。だが全身を飛来した無数のつぶてが襲い、ひどい有様だ。汗かと思って額をぬぐった手は、血に染まっていた。

 それでも、どうにか生きている。

 上から岩が降ってきた時、もう駄目だと思った。だが光に岩は粉砕され、今は細片も残っていない。

「あ……ティラハン?」

 そして崩れ落ちた空間のただ中、ティラハンがたたずんでいた。

 彼女もまた、傷ついていた。

 ボロ布と化した衣装のそこかしこに血がにじんでいる。

 それでも彼女は立ち上がった。

 轟音が鼓膜を突き刺し、震動が平衡感覚を奪った。もう、立っているだけで精一杯だ。立ち上がれたのも、ほとんど気力のなせる技だろう。

 ティラハンは感覚だけを頼りに、足を引きずりながら移動する。

「あなた……だったのね。私に声をかけていたのは」

 見えないが、確かにそこにいるはずの相手に向かって、必死で手を伸ばす。

 たとえこの目には映らなくとも、訴えかけるような声ははっきりと自分に届いているのだから。

「あなたの気持ち、わかるわ…………私も、弱いから」

 光が弾けた時、ティラハンの中に流れ込んでくる感情があった。

 痛々しいまでに傷ついた思いが、そこにあった。

 異質故の受け入れられない悲しみ。

 儚く、それでも相手へと募らせていく思い……

 そして、裏切りの痛み。

「私には、わかる……」

 ティラハンの目の端から、透明な滴が音もなく滑り落ち、顎を伝って落ちた。その滴を追って、彼女はくずおれる。

 同じだ。

 この人は、幼い頃の……そして、今の自分と何も変わらない。

 あまりにも脆弱で、もろくて……それでも、願っていた。

 強くなりたい。

 それは肉体的な意味も含まれていたが、自分の足で立ち上がれる力より、立ち続けられる強靱な精神が欲しかった。

 けれど、その願いは……かなわなかった。

「……捨てたい過去はたくさんあるのに……どうしても欲しいものだけは、見つけられなかったのね……」

 ティラハンは、カイゼルを振り返る。どうしてだか、その時だけは彼のいる場所がはっきりとわかった。

 彼が状況を飲み込めず、呆然として、それでも自分をまっすぐに見ていてくれる事もわかった。

 もう、それで十分だ。

 彼は優しい人だ。ずっとずっと傍らにいてもらって……自分を守って欲しかった。

 だからこそ、言える。

 あなたに会えて良かった。

 上手く言葉にはならないけれど、ありがとうの言葉さえ……自分の思いを乗せるには不十分だ。

 結局、口をついて出たのは、まったく正反対のそれ。

「カイゼル……ごめんなさい」

 声は、彼の元までは届かない。そうなるように、わざと小さく、自分の思いを口にする。

「どうしたんだ、ティラハン!」

 カイゼルの叫びが、遠くに聞こえる。

「…………ごめんなさい。次に生まれ変われるなら、私はもっと、心の強い人になりたい……」

 足下から、いや、地面に触れた個所から徐々に身体の感覚が失せ、冷たく、熱を失っていく。

 床を吹き飛ばし、露出した水晶柱が、彼女の肉体を侵していた。

 浸食は足だけでは留まらず、音を立てて下半身を這い上がる。細い身体がすぐさま膨れあがり、衣服を突き破って鋭く透明な水晶がのぞく。

 少女の肉体は変質し、まるでガラス細工のように透明感のあるものに置き換えられていく。

 ……そして、変化が終わると……彼女は砕けた。

 はらはらと舞い散る雪のように、ティラハンの皮膚が剥離する。

 まるで花びらか蝶のように、散り、飛んで消えていく。

 かしゃり、と元の質量からは考えられないほど軽い音を立て、彼女だったはずのそれは細かく砕けて床に散った。

 そして氷が水に戻り、地に染みるように……その欠片は霧散した。



「……ティラハン…………」

 カイゼルは、その場から動けなかった。

 ティラハンが誰もいない場所に向かって歩き出したと思っていると、どういうわけだか……彼女が、まるで氷の彫像のように奇怪な姿に変貌する。そして驚くカイゼルの前で、彼女は砕けて消えてしまった。

 一人の人間の死と思うには、あまりにも現実感を失う光景がそこにあった。

 何が起こったのか、どうしてそうなったのか……カイゼルには理解できない。

 ただひとつだけ言えるのは、あの弱々しく笑っていた少女は、もうどこにもいないのだということ。

「ふん、覚醒したあれに食われたか」

 どこからか現れたファルゼンの乾いた声に、カイゼルの神経がささくれ立つ。

「っ、ちくしょう    っ!」

 カイゼルは叫んだ。

 喉からではなく、身体の一番深い奥底からほとばしり出てくるような絶叫だった。

「なんなんだよっ! こんな……何が、一体、どうなってんだよ! もう、いいから……ティラハンを……彼女を返せぇっ!」



「なんか……あっちの空、光ってない?」

 すっかり様相を変え、歩きにくくなった道に辟易しながら、イリスは空を指さす。

 確かに、彼女が示す先の空が、白っぽくにじんでいる。

「そうですね、でも日の出には早いですし……そもそも、あちらは太陽が昇る方向とは違いますからね。一体何の光でしょうか?」

「うわーん! なんだかよくわからないけど、天変地異の予感がするよ!」

 三人はひとまず崩壊の危険性がある建物から出る事にした。だが外は混乱のまっただ中、誰も状況を把握できず、右から左へ走り回っているだけだ。

 これではそれこそカイゼルの行方を捜す前に、自分達のこれからを心配しなければならない。

「まったくもう、誰か指揮を執ってこの集団を黙らせてくれないかしら」

「しかし、まとめようにも、指揮を執る人間がいませんからね」

 サヤキはこの状況を見る限り、本当にすべてを投げ捨てて消えたのだろう。そして本来、国の中枢部を仕切るはずの組織は、彼の率いた軍勢により完璧に解体されてしまっていた。

 四公も、シリカが知っている限りでは一人しか残っていない。

(この混乱の収束状況は、彼女がどう出るかにかかっていますが……手足となる人員も限られているでしょうし、正直、難しいでしょうね)

 シリカは客観的に判断を下すと、再び空を見上げた。

「おいっ!」

「あれは……なんだっ!」

 突然、人々の間から、悲鳴と絶叫が上がる。

「なになに、今度はどうしたの?」

 イリスが面白がって声の方に行こうとするのをシリカは襟首をつかんで引き留める。文句を聞き流していると、さらに複数の悲鳴が聞こえ、人の集団がこちらに向かって逃げてくるのが見えた。

「え? え? 今度は何が起こったのさ!」

「とにかく、状況を確認しましょう」

 三人は悲鳴の中心から逃げる人並とは逆に走り出した。

 皆口々に「化け物だ」と叫び、その表情は恐怖と驚愕に引きつっている。

 シリカは思わず彼らと同じように回れ右をしたくなったが、最低でも何が原因の騒動なのかは確認したかった。場合によっては、闇雲に逃げるだけの方が危険な場合もある。本当なら、一人で偵察に出たかったが、混乱する一方の状況では、イリスやヘーゼから一瞬たりとも目を離したくはなかった。

「   っ!」

 通りを塞ぐようにして倒壊している家屋を曲がると、急に視界が明るくなる。だが眩しいというほどでもなく、先ほど見た空のように、道がぼんやりと薄明るい。

 いや、地盤沈下を起こしてぽっかりと空いた空洞……そこからのぞく地下道から、その光は漏れていた。

 水晶のような透明の六角柱が地面から突き出ている。内部が青白く光る結晶。そして水晶の間から次々と現れる発光体の正体に、一同は足を止める。

「なに、あれ……」

 イリスはそれ以上言葉を出せず、ヘーゼにいたっては、口を酸欠の魚のようにぱくぱくとさせていた。

「……天使」

 シリカは下唇を噛む。

 そして彼の言葉はある意味、目の前の存在を正確に現していた。

 発光体は、奇怪な生き物だった。

 人間に似た、だがバランスがおかしいくらいに細く長い四肢、そして身体に不釣合いなほど大きな……まるで翼のような器官。

 身体と同じ白い髪をなびかせ、瞳まで色を失っている。

 まるで物語りの挿絵に描かれるような存在が、そこに出現していた。それも、多数で。

 地下道から、それらは飛ぶような動きで出て来る。

 そして、天使は逃げまどう人々に取り付くと、まるで祝福を与えるように長い腕を絡ませた。

 捕らえられた者達は半狂乱になってもがくが、腕は緩むことはない。

 だが、そうするうちに人の動きが鈍くなる。天使と触れている部位から、身体が変質していった。ぱきぱきと音を立てて、ガラスか水晶のような硬質なものに肉が変換されていくのだ。

 やがて腕の中で人は動かなくなり、細かな破片となって砕け散った。

「ひ、人が……」

「あの化け物に、食べられたの?」

 イリスとヘーゼは顔色を失い、シリカの後ろに隠れる。

 あまりにも静かに行われる、凄惨な光景に、周囲の人間は言葉をなくして立ち尽くす。

「……かえしてっ!」

 子を奪われた女が半狂乱になって天使につかみかかる。その頃になってようやく人々は何が起こっているのかを理解する。一人が走り出したのを合図に、他の人間達も一斉に逃げ出す。

 場は混乱した。

 逃げる者、他人を踏み越えて行こうとする者、天使に食われている人間を助けようとする者。

 そこへ、乾いた破裂音が響く。

 音と同時に子供を抱えていた天使の頭部が砕け、だらりと力を失って地に落ちる。すかさず女が倒れた天使の身体の下から子供を引きずり出し、そのまま脇目もふらずに走って逃げていった。

「……今のは……ヘーゼ?」

 シリカは、振り返って驚愕する。

 ヘーゼの構えた銃口から、細く煙が昇っている。

「…………あ」

 かたかたと、ヘーゼは小刻みに震える。

 撃ってしまった。

 泣き叫ぶ子供の姿を見て、頭が白くなり……反射的に銃を抜いて、相手の急所である頭部を打ち抜いた。

 身体に当てれば、誤って子供にまで傷を負わせてしまったかもしれないから……

「僕…………」

 だが、そんなものは言い訳だ。

 たった一発の弾丸で、相手の命を奪ってしまった。

 あれが天使だろうと、化け物だろうと……人を撃ってしまった。

「ちょっとヘーゼ、しっかりしてよ!」

 イリスの声に、ヘーゼはようやく我に返る。

「あ……イリス、僕……人を…………」

 ヘーゼは手に握ったままの鋼の器物を思わず捨てようとする。しかしその手にシリカの手が重ねられた。

「あなたは、子供を助けた。……その事だけは、忘れないで下さい」

「シリカぁ……」

 シリカはもう一方の手でヘーゼの身体を引き寄せる。彼は倒れ込むようにしてシリカにすがりついてきた。

 イリスが、シリカの服の端を引く。

「……ねぇ、ちょっと」

「っ、これはどうも……なんですかね」

 言いながらもシリカの足は既に方向を変えている。

 頭を打ち抜かれた天使の身体が変化を起こしていた。先ほど食われた人間のように表面が高質化し、やがて、折れて崩れた。

 死んだというより、壊れたと表現した方が正しいような崩壊だった。

「これって……生きてるの? 本当に生物……?」

「……きっと、私達の考えが及ばないような存在なのですよ」

 砕けた欠片は内部で青白い星のような光が灯っていたが、やがてそれらも瞬くのを止めた。

「こんなのが地下道から出て来るなんてね。私達、地下に潜らなくて正解だったわ」

 イリスの軽口も、どこか引きつっていた。

「行きましょう。少なくとも、ここから離れなければ」

 今のところ、天使はこれ以上穴から出て来る様子はない。しかし、地盤沈下を起こしている個所はここだけではないし、この場から飛び立った天使はまだ大量に存在しているのだ。

 シリカは自身の左腕に意識を向ける。ほんの少しだが、感覚が戻っているような気がする。指は相変わらず動かないが、指先以外は問題ない。

 そして手首に埋め込んだ神造器アーティファクトもまた、起動を促す信号を送ってくる。

(アーティファクトは使える……。これであの天使と渡り合うことができますね)

 ヘーゼの撃った弾丸は、確実に効果があった。つまり、あの天使は人の手で倒すことができる存在だ。

 しかしこれから先も、銃一丁だけでそう都合良く行くかどうかはわからない。使える手は、多い方がいい。

 シリカは、アーティファクトをもう一度発動させようとする。

「ダメよ、シリカ」

 突然、イリスがシリカの左手をつかんだ。

 彼女はいつになく強い視線を自分に向けている。

「あれは、ダメなの」

「イリス……。しかし、このままでは……」

 だがイリスはシリカの手をつかんだまま、先を歩き出す。

「あんな変な武器、使わなくても何とかなるわよ。いいから、シリカは黙ってついてくる! ほらっ、ヘーゼもいつまでしょぼくれてんのよっ! せっかく銃を持っているんだから、自分で先陣切って行くくらいの気概を見せなさいってば!」

「あわわ……相変わらず容赦ない……」

 ヘーゼに蹴りを入れるイリス。半泣き状態でも、自分で歩き出そうとするヘーゼ。

 その様子に、シリカは小さく息を吐く。

(守られるだけの子供ではない、ということですか)

 そして少しだけ、笑った。



 カイゼルは叫んだ。

 声は洞窟内を反響し、そのまま崩壊した天井を抜け、夜の中へと消えていった。

「ティラハンっ!」

 あまりにも、あっけなかった。

 彼女は死んだ。

(これが……こんなのが、人の死なのか?)

 少なくとも、少女は砕け散る瞬間までは生きて動いていた。そしてそこには嗚咽も、断末魔の悲鳴もなかった。

 首を切られたり、焼死体になったというのならわかる。

 だがこれは、果たして死んだと言えるのか。

 少女はこの世界に何も残さなかった。まともな遺体すら、残らない。彼女の身体は、ガラス細工を床に叩きつけたように砕け、破片も溶けるようにして……消えた。

 見せつけられたものに対して、まるで実感が湧かない。

 生と死の定義が、崩れていく。

「こんなのって……」

 カイゼルは膝をつく。やるせない思いがのしかかって、足に力が入らない。

 痛いほど胸が苦しいのに、涙も出てこなかった。

 世界が、霞がかかったように遠くに感じる。

「どうして……」

「それは、貴様に力がないからだ」

 かけられた冷ややかな声に、カイゼルは弾かれたように顔を上げる。

 ファルゼンがどこか遠くを見るような、けれど冷ややかな眼差しで立っていた。

「状況を覆せるほどの力もなく、その行動を起こす為の気概も持ち合わせてはいない。ただの……人間にすぎないからだ」

「……なんだよ、それ」

 カイゼルは苛立ちのこもった眼でファルゼンをねめつける。

「言葉の通りだ。貴様は無力だ。そうやって、哀れみを請うように泣き叫んで、何もできず、しようともせずに終わっていくがいい」

 カイゼルは反論しようとして、言葉をつまらせる。

 確かに、自分には何もできない、いや、抗うだけの手段も持ち合わせてはいない。

 それでも……

「なんで……なんで、あんたにそこまで好き勝手言われないといけないんだよ!」

 カイゼルは声を張り上げた。その行動が、多少意外だったのだろう、ファルゼンはついと顔を上げる。しかしそこには何の感情も含まれていない。別段気を悪くしたような素振りもなく、カイゼルの怒声は相手の表面をなぞっただけだった。

「何をわめこうが、結局、貴様が自分自身で物事を打破する能力がない事は事実だ」

「あんただって、神様って訳じゃないだろうが」

「この世界において、絶対者という存在ではないが、少なくとも、それに近い力はある」

「……じゃあ、俺もその力を手に入れて、それであんたをぶちのめしてやるっ!」

「言っただろう、貴様はただの人間にすぎない。それに……あれが復活する。小細工をいくら労した所で、無意味だ」

 ……風が、吹いた。

 ひやりと湿り気を帯びた空気が、ゆっくりと流れていく。

 そして、空気に押し上げられるようにして、雪が……雪のような青い切片が音もなく舞い上がる。

 内側から青白く発光するそれらは、風に吹かれて集まっていく。

 洞窟の中心部へ。

 青い雪は集まり、互いにふれあって澄んだ音を立てる。それらが何十、何百と集合し、音は集まってひとつの旋律を奏でる。

 カイゼルは顔を上げた。

「歌が……」

 それは、声として届く音ではなかった。

 どこまでも透明で、涼やかな音。

 そして青い雪は、吹き上げられて集まり、ひとつの姿を作り上げた。

 風がやみ、ちらちらと淡く青く光る雪が消える。

 雪の中から現れたのは……果たして人なのだろうか。

 まるで同じ雪でできた人形かと思わせるほど、その髪は白く、肌は象牙色だ。瞳は眠っているように閉ざされていた。

 一瞬、消えてしまった白い少女を連想したが、まったく違う人物だ。

「誰なんだ……?」

 でも、見覚えがある様な気がする。

 まるで、触れれば崩れてしまいそうなほど繊細な雰囲気を持つその人は、ただ静かにたたずんでいた。

 まとう空気は近寄りがたいというのではなく、すぐ側にいても不思議ではない穏やかさがある。まるで生まれ落ちたばかりで、今まさに羽根を開こうとしている儚く弱々しい蜻蛉のようだった。

 カイゼルはゆらりと立ち上がる。それに割り込むようにして、笑みを含んだ声がかかった。

「あれが、本体だ」

 振り返ると、ファルゼンが口元を歪めて笑っている。だがその動きがおかしい。まるで壊れた人形を無理矢理動かしているようなぎこちなさだ。先ほどの衝撃波で、ずいぶん手ひどくやられたのだろう。

「あの女の遺伝子情報を得て、行動を起こす為の端末体を構築したのだろう」

 ファルゼンはひび割れた笑声を漏らす。

「そして……あれが、この世界を壊す」

 カイゼルは弾かれたように顔を上げる。

「この人が、眠っていたものだっていうのか……」

 驚くカイゼルに、ファルゼンは哀れみと嘲笑の混じった顔を見せた。



「うひぃぃぃぃっ!」

 情けない悲鳴を上げながらも、ヘーゼは銃口を標的からそらさない。

 立て続けの銃声。そして、二体の天使は地に落ちて動かなくなった。やがて天使の身体から氷柱のようなものが突き出し、次第に身体は砕けていった。

 その様子から、ヘーゼは目をそらさずじっと見ていた。

 そうやって、自分が行っている行為を自身に再確認させるように。

「…………っ」

 いくら、頭の中で眼前の存在は人間ではないと繰り返した所で……精神のどこかで、納得できないという声が上がる。

 もしかすると自分は、とんでもない過ちを犯しているのではないかと……

「ヘーゼ! 叫んでばかりいないで、もっとこう、転がりながら連射するとか、後ろを見ないで撃つとかそんな真似はできないの?」

 後ろで聞こえる甲高い声に、ヘーゼはゆるゆると振り返る。その表情は泣き出しそうに歪んでいたが、それでもほんの少しだけ安堵の色があった。

「……そんな曲芸みたいな真似、絶対に不可能だって!」

 ヘーゼは叫んだ。ほとんど、やけくそに近いような感じだったが。

「イリス、ヘーゼ、大丈夫ですか?」

 振り返ったヘーゼは、通りの向こうから走ってくる姿を見つける。先ほど、行く先を天使にふさがれ、シリカが応戦している間に別の二体に襲われてしまい、一時的に彼と離れてしまったのだ。

「平気よ。ヘーゼががんばってるから」

「うぅ……珍しく僕も役に立っているんだけど、ひたすら怖いよぉ……」

 それでも、ヘーゼは空の弾倉を震える手で交換する。

「何はともかく、無事で良かったですよ」

 シリカは息を吐くと、剣の状態を確認する。これは先ほど拾ったものだった。しかしたった一度の戦闘で、既に刃こぼれが生じていた。

「ねぇ、シリカ。どこに行こうか? このまま逃げるだけじゃあどうにもならないわ」

「そうですねぇ……」

 シリカの視線が泳ぐ。

 天使の数はさして多くはないようだが、かといって、イリスの言うように逃げ続けるだけでは埒があかない。

「おい、そんなところで何をしているんだ!」

 突然かかった声に、三人は顔を見合わせ、次いで、声の主を捜す。

 彼らに声をかけた人物は、屋根の上にいた。

 手近の屋根の上から、軽い足取りで女が降り立つ。

 一目で染めたとわかる、鮮やかな金髪の女だ。

「早く、壁の中へ……って、あんた達は」

 女は、彼らの顔が見える位置まで来ると、驚愕の声を上げる。

 その様子に、改めて女の顔を子細に眺めた二人がそれ以上の声を上げる。

「あー! さっきの誘拐犯!」

「すいません、ごめんなさい。もう後ろから刃物でつついて脅さないで下さいっ!」

 わめいている二人の様子に辟易している女にシリカは近づく。

「あなたは確か……」

 そこで、シリカは言葉につまる。いくらなんでも、「あなたは先ほど私を半殺しにした方ですね」とは言えなかった。

「マナールだ。こうやって話すのは、初めてだね」

「こんな所で会うのは、まぁ、お互い様だと思いますが、あなたはどうしてここへ?」

 シリカの質問に、マナールは苛立ったように口を尖らせる。

「避難民の誘導だよ。もうこの辺りはあらかた終わったはずだけどね」

 そう言われてみれば、先ほどから他者の存在が見受けられない。天使から逃げるのに気を取られ、人の流れが変わっている事にまるで気がつかなかった。

「皆、どこへ集まっているのです?」

「ひとまず、教会の壁の中だよ。あそこには崩れたといっても、この国では一番堅固な建物だ。それに、戦乙女がいるからね。糧食もあるし、多少の籠城はできるさ」

「じゃあ、僕達もそこへ……」

「行ってどうするのよ! カイゼルを助けるんでしょ。見捨てるなんて友達甲斐がないわね!」

「うぅ……正論なんだけど、イリスが口にするとこうも虚しい言葉もないよね……」

 イリスに襟首つかまれて引きずられながら、ヘーゼは涙をにじませる。

「まぁ、こっちも無理強いはしないさ。色々と、お互い事情はあるからね」

「あの、その教会ですが、まだ組織的に動けるような余力があったのですか?」

 シリカの質問に、マナールは疲れたように肩をすくめる。

「組織も何も、ようやく立ち直り始めたばかりさ。レムルス枢機卿ががんばっているよ」

「……やはり、彼女ですか」

 もっとも、本当に今のシンフォルンでは彼女以外にそういった諸々の采配を行えるような人物はいないだろう。いや、能力的には同程度の人間はいるだろうが、人間やはり、知名度が優先する。同じ命令でも重みが違うのだ。

「さっき、偶然助けてね。こっちも色々問題抱えているからさぁ。まぁ、取り入るなら権力者に限るよ」

 じゃあね、と手を振ってよこすマナールを、シリカが引き留める。

「……あの化け物とは、もう戦いましたか?」

「   教会内にいた奴は、戦乙女が何とかしたらしい。けど、民は相当数やられたよ……」

「私達も先ほどから何体か相手にしましたが、倒せない存在ではないですよ。ですが、接触すると取り込まれますので、銃火器類などを使って遠距離から攻撃を仕掛けるのが妥当でしょう。それでも手や足を切断した程度では止まりませんよ。狙うのは、頭部です。もちろん、銃の数は足りないでしょうから、弓や槍を使って間合いを取り、とにかく相手には触れずに叩くことです」

 シリカが一息に告げると、さすがにマナールが唖然とした顔をする。そこで改めて、一行の様子を子細に眺める。

 と、感心したように嘆息する。

「……よくもまぁ、子連れで生き残ったもんだ。こっちは逃げるだけで精一杯で、とても相手にする気にはなれなかったね」

「彼が……ヘーゼが銃を持っていましたので。それに助けられましたよ」

 ちらりと視線で少年を示すが、当のヘーゼはびくりと肩を震わせて逃げ腰になる。

「そう。アドバイスをありがとう。あんた達も早くこんな国から出て行くんだね」

「うーん、本当にそうしたいところなんだけど、カイゼルがどこにいるのかわからないのよ」

「追いかけていったギーヴルもどうしているやら……」

 子供二人が息を吐き、肩を落とす様子を見て、マナールは少しの間考え込むような素振りを見せる。

「……当てがないわけじゃあないけど」

 そう前置きをしてから告げる。

「アドバイスのお礼に、ひとつ行きそうな場所を教えてあげるよ。あの空が光っている辺りに、遺棄された旧神殿跡地がある。あそこは……まぁ、色々あって。その地下なら、あるいは、ね」



 雪人形は、目を開けた。

 そこもまた、色を失っていた。かろうじて、薄い銀の瞳がカイゼルを見ている。

 視ている、ではない。視界に入れていると表現するのがもっとも近い、無機質な眼差し。

 カイゼルの存在を認識はしていても、そこには何の感情も含まれてはいなかった。

 乏しい表情。むしろ喜怒哀楽すべてがすっぽり抜け落ちてしまっているようだ。

 静かな洞窟内に、不可思議な音が響く。細かく空気が震えるような、しびれるような音がする。

「なんだ……この音?」

 それは次第に音量を増していく。

 声と同時に、周囲で……何かが動く。

 地面から、湯気のように白い影がいくつもいくつもわき上がった。それらは波打ちながら盛り上がる。

 影が伸びて……人になった。

「なっ……」

 カイゼルは絶句する。

 漂うように姿を現したのは、どこか現実感の薄い人物の群れ。

 そして……全員、同じ顔をしていた。もっとも、よくよく見れば、ほんの少しずつだが、一人一人の雰囲気は異なっている。

 視線はすべて、カイゼルに集中していた。

 大勢の人間に声もなく見つめられ、カイゼルは居心地の悪さに身じろぎする。

 と、同じ顔の集団が声を発する。鋭い風切り音のような、それでいて悲鳴のようにも聞こえる声。

 突き刺さるような声に、カイゼルは反射的に耳を塞ぐ。

 長時間この状態が続けば、聴覚が麻痺してしまいそうだ。

 多重にぶれる声。それでいて、ひとつに聞こえる。

 次第に、カイゼルを取り巻く人の形が変わっていった。形状が崩れ、手足が細く、長く伸び、背中が盛り上がって奇怪な形状を見せる。漂白されたように白い肌、瞳も色を失ってしまう。

 ただ一人、中心にいる人物だけが変わらず、立ち尽くしていた。

「何なんだ、こいつらは……」

 カイゼルはわけがわからなくなる。既に頭の中は音で満たされ、足下がふらつく。よろめいたその背は、水晶壁にぶつかってかろうじて止まった。

 白い人の群れは、甲高い声で歌う。

 知るよしもないことだが、それらは外でヘーゼ達の前に現れた天使と同型の存在だった。

「歓喜の声だ……」

 ファルゼンは何かに取り憑かれたような顔で笑う。実際問題、彼は復讐という影に取り込まれていたが。

「魂と、その器が場に揃い、ようやく目覚めたか!」

 天使の歌声に混じって、狂ったような笑声が洞窟内にこだまする。

 魂と器。

 前者は、もちろんカイゼルのことだろう。後者の意味はわからなかったが、おそらく……ろくでもないことなのだろう。

(そうだよな……俺が魂を持っているなら、それを入れる器……肉体が必要なはずだ)

 だが、それらしい物が用意されている様子はない。

 しかしファルゼンは揃ったと叫んでいる。

 それなら……

 カイゼルは周囲を見回し、そして慄然とする。

(……もしかして……この人、なのか?)

 振り返った先にいたのは、磔にされた青年の姿。

 呼吸するだけの、魂のない屍。

 ぞくり、と悪寒が走った。身体が小刻みに震える。けれど手足は凝り固まったように動かない。

「何だよ……。この人は、人質じゃあなかったのか!」

 カイゼルは怒りをはらんだ目をファルゼンに向ける。

 狂声を上げ続けていた彼は、カイゼルの声に意識を現実に引き戻す。

 振り返った顔には、亀裂のように醜く歪んだ笑みが浮かんでいた。

 それは、相手を嘲る為だけの笑い。

「確かに、人質でもあった。だが、この人間はここに生かされている傍ら、集めた欠片を入れる、文字通り入れ物になっていたのだよ

 そして……魂が手元にやってきた際、新しい肉体を構築する為の素材として形相変換する。そこにいた女を使って、あれが端末体を構築したようにな。なんとも無駄がないことだ」

 相手の言っている事のすべてを、カイゼルは理解できたわけではない。

 それでも、自分でも意外なほどの怒りにカイゼルは突き動かされる。

「…………なんだよ」

 カイゼルは、ぐらぐら揺れる頭を押さえながら、水晶壁に拳を打ち付ける。骨にまで衝撃が走り、痛みに顔を歪める。それもかえって、ふらつく思考を覚ます役に立った。

「っ、くそおっ! 誰がお前の思う通りになんかさせるかよ!」

 力がない。

 そうだ、その通りだ。自分には、ファルゼンに……いや、取り巻くすべてに立ち向かえるような能力もなければ、機略を巡らせる知恵もない。

 何もかも、あいつの言う通りだ……

 だが、それでも。

「ふざけるな……」

 悔しかった。

 これまで、さんざんな目に遭ってきた。状況も事情もわからないまま、ただ振り回され続けてきた。それなのに、相手は勝手に事を終わらせようとしている。

 カイゼルを無視して。

「そんなのはもう、まっぴらだ」

 悪態をつくカイゼルの声は、これまでとは明らかに違っていた。静かで、冷ややかだったが……奥底には、力強い響きがこもっていた。

 彼は怒っていたのだ。

「…………」

 カイゼルは、大きく息を吸い込む。頭が割れそうに痛んだが、構ってはいられない。

 悲鳴のような声は、少しずつだが沈静化しているようだ。

 ゆっくりと、すがりついていた壁から離れ、カイゼルは自分の足で立ち上がる。

 そこに立っていたのは、周りに振り回されてきた無力な少年ではなかった。

「力がないって言うなら、手に入れてやる!」

 カイゼルは壁に手をつく。

 マドカは、この水晶壁すべてが、マテリアだと……魔法を発動させる媒体だと説明していた。

 それなら、この欠片ひとつでもカイゼルの魔力許容量を駆使し、その力を発動させれば、相当程度の破壊力を望めるだろう。

 だが、彼とマテリアを結ぶ魔器は存在しない。そして未加工のマテリアを使うのも初めてだ。

 通常のマテリアは、真球状に加工されて魔器に組み込まれる。理屈のほどはよくわからないが、内部での反射効率に関わってくるらしい。

 もっとも、その加工にした所で、今のところ一番その方式が、魔法を発動させるのに適しているというだけで、マテリアという物質そのものを解明したわけではない。

 この物質の元が、一体何だったのか……その真実に気づいているのは、まだほんの一握りの者達だけなのだから。

 そしてカイゼルは、その少数の一人だった。

 マテリアの正体……それは、この世界に落下した異種の人間なのだ。

 カイゼルは水晶壁に触れている個所から、マテリアが発する独特の波動を読み取ろうとする。すぐに指先から、鼓動のような震動が伝わってきた。

 淡く……そして暖かい。

 今までの石とは違い、この水晶壁が〈生きている〉からだろうか。

 生きているから、逆にこちらから呼吸を合わせてやらなければいけない。

「……なぁ、聞こえているんだろう?」

 繋がっている個所から、じわりと暖かいものが流れ込んでくる。

 そしてカイゼルを取り巻く世界が色を変えた。

 マテリアに同調した際、カイゼルには見えないものが見えた。

 光と音が、複雑に絡み合ったもうひとつの世界。

 それらはすべて、互いを補うようにして繋がり、決してどれも独立はしていない。

 世界は、繋がっている。

 どんな些細な存在でも、そして自分自身も、その一部だということ。

 それはここに在る、水晶壁も例外ではない。葉脈のように細かく枝分かれしながらも、他の存在に絡み合っていた。

 中心に立つ雪人形もまた、たどればカイゼルと繋がっている。

 だから、その人に向かってカイゼルは語りかけた。

「あなたは……あいつに使われることが望みなのか?」

 だが、雪人形は無表情のまま、それこそ彫像のように身じろぎもしない。

「それとも……もう、俺の言葉に耳を貸すような心もなくなって、何もかも、どうでもよくなっているのか?」

 動かない人形。そして、その白い姿を見つめていると、消えた少女と重なった。

 自分は今、とんでもない事をしようとしているのではないのか。

 相手は、ティラハンを容赦なく飲み込んだ存在。

 そして自分自身もまた、この雪人形の暴走に様々なものを狂わされてきた。

 恨みをぶつけるならまだしも、力を借りるなど……筋違いだ。

(けど……もう、逃げてばっかりなのは嫌なんだよ!)

 力が欲しい。

 あるいはその思いは、子供じみた考えだったのかもしれない。ゆえに、カイゼルの中に力に対する具体的な想像などなかった。

 ただ、この煮えたぎった思いを、直接相手にぶつけて殴り飛ばせるようなものが欲しかった。

「頼む! 俺に力を貸してくれ!」

 ティラハンを飲み込んだ存在に、カイゼルは一瞬だけためらったが、この状況を覆す為の力を得る為ならばと、その逡巡をかなぐり捨てた。

 もう、なりふり構わっていられない。

「俺に従えぇっ!」

 カイゼルは絶叫した。

    瞬間、雪人形を中心に風が巻き起こった。風圧で呼吸が止まりそうなほどの勢いだ。

 そして風に巻き込まれるようにして、雪人形の姿が、塵となって散り消える。

 いや、消えたわけではない。

 空間に漂い、カイゼルの周囲を取り巻く。

 風に乗って、疾風の勢いで。そのすべてが、カイゼルに向かって収束した。



 声が聞こえる。

 それは現実に耳に届く音ではなかったのかもしれない。

(夢を見ているのか……?)

 その確証もない。眠った覚えもなかった。

 それでもこれが夢だと感じるのは、世界が白く霞んでいるから。曖昧に閉ざされた世界にいるのは、カイゼルだけだった。

 いや……そうではない。

 漂うカイゼルに、何かが触れた。姿は見えなかったが、自分に覆い被さるような気配と、そこから伝わってくる感情の揺れがあった。

 相手の思いが、波のように押し寄せてくる。

 苦痛を覚えるほどの感情の渦。

 異様な浮遊感にカイゼルは包まれながらも、そこから発せられる声を聞いた。

(なな……あなた、なに……?)

 静かだが、どこかぶれたように聞き取りづらい声。

(俺はカイゼル)

(だ、れ……だれれれ…………)

(……誰でもいいよ。ただ、力を貸して欲しい)

(なな、なんで……)

(あそこでふんぞり返っている奴を、ぶん殴りたいんだよ)

(そ、そな……いたいの、やだ、やだ……)

(じゃあ、あんたはどうしたいんだよ! 俺はあんたに喰われるのも嫌だし、あいつを殴りたい。けど、その為にはあんたの力がいる。……矛盾してるけどさ)

(わかか、わか……ない……)

 カイゼルはひとつ息を吐いた。

 この声の主は、ひどくおびえている。その為、物事をきちんと把握する事ができず……いや、見る事もせず、自分の殻に閉じこもってしまっているのだろう。

 それに、この〈声の主〉には何か違和感を覚えた。それこそ声だけなので、カイゼルにも感じている差異が何なのか、はっきりと説明はできない。

 カイゼルは肩で息を吐く。

(……ずっと、ここにいるつもりなのか? こんな、何もない所で)

(うん……ここ、まてる……ずぅっと)

 どこまでも続く、乳白色の世界。地平線も見えない。自分がここに立っているという感覚すら怪しいものだ。

(誰を待っているんだよ。よく知らないけど、あんたが探している人は……もう、亡くなったよ)

(……しん、だ? そな、ななな!)

 悲鳴。戸惑うように気配が揺れる。そして不意に、何かに気づいたのか、声は安定を取り戻す。

(でも、あな、あなたここにいる)

(俺は……違うよ。俺はあんたの探している人じゃない)

 カイゼルは、探し人の魂を持っている。その為、カイゼルの上に、相手の幻影を重ねて見ているのだろう。

(…………俺は、違うんだ)

 しょせんは、代り。

 その時……カイゼルを取り巻いていた感情の枝葉が、焼けた鉄に触れたように勢いよく離れる。

 いきなりの反応にカイゼルがいぶかしんでいると、再び激しい感情がぶつかってくる。

(そな、なな……あな、あなたは****だよ!)

 音として耳に届かなかった部分は、誰かの名前だろうか。

 窒息しそうなほどの勢いに、カイゼルは何も言葉を繋げられない。

(いやだ、やだ、やだやだ。そばにいて、まもって、どこにもいかないで!)

 声は軽い錯乱に陥っている。

 打ち寄せる波のように、寄せては返し、激しく吹き出す感情の渦。

    泣いている。

 泣き叫ぶ姿も見えないのに、カイゼルは漠然とそう感じた。

 悲痛な叫び、そう……まるで幼子のように。

(そう、か……)

 カイゼルは違和感の正体を知る。

 子供なのだ。過去を認めたくないのだ。いつまでも自分の殻の中に閉じこもって、自分にとって都合の良い夢を見続けているだけ。

 今の状態が正しいのか、そうでないのか。考える事を放棄してしまっている。

 その為に、幼児のような状態に陥っている。

 考える事も、悩む事もせずにすむように。

    いや、少し違うのかもしれない。

(……もしかして、全部わかっているんじゃないのか?)

 本当は、すべてを理解しているが、わざと考えないようにしているのではないか。

 ただひたすらに、求める存在を待ち続けるだけの存在。

 なんて……虚しいのだろう。

(なぁ……)

 カイゼルはぽつりと囁く。

(もう、ここを出ようよ。終りにしよう)

 カイゼルはゆっくりと、手を伸ばす。

 ふと、思った。

 自分はこうして、誰かに手を差し出す事が多いような気がする。

 別に、自分自身がそんなに頼れるような存在だとは到底思えない。むしろ逆だろう。まだまだ自分は子供だし、力もない。だから、相手に自分を頼って欲しいのではなく、差し出した手を互いに繋げる事で、自身を安心させたいのかもしれない。

 一人じゃないと、自分と相手に言い聞かせて。

 ここにいない、小生意気な少年に言わせれば、甘いのだろう。おまけに馬鹿もつくかもしれない。

 そんなとりとめのない思いにふけっていると、淡くたゆとう、白色の空間の中から、華奢な腕が伸び……

 何かが、カイゼルの中に溶け込んでいった。

 途端に、すぅっと周囲の景色が戻って来るのを感じる。

 意識した瞬間。脳を直接殴られたような衝撃を覚える。

 だがそれも一瞬の閃きで、次の瞬間には膨大な情報がカイゼルの中に流れ込んでくる。

 あふれ出た力に触れ、カイゼルは目を閉じた。どうすればいいのか考える必要はない。ただ、流れに触れただけで、すべてを理解できる。

 力は彼の命令を待っていた。

 ゆったりと顔を上げると、不機嫌そうに顔を歪めたファルゼンがいた。

 あくまでも冷静を装っていたが、言葉にはしたたるような侮蔑がこもっていた。

「ふん、あれを支配下に置いただと? だが貴様が支配しているのは、本体の末端……わずか数パーセントにすぎない。そんな微少な力で、何を変えるつもりだ」

「けど、同じ力を互いに共有している以上、俺がさらに支配域を広げて、その差を覆す事だって可能なはずだ」

 自分の口から出る言葉は、どこか遠かった。

 知らないはずの知識、関われるはずもない、物質の裏側への介入。

 それらを……確かに、今のカイゼルは理解していた。

 曖昧で、強大すぎて……既に力とも呼べない、万能な何かを。

「っ、ふざけるな。それで私に勝ったつもりか!」

「……違う。勝ち負けなんかない。ただ、これで終るだけだ!」

「   そう、君の言う通りだよ」

 声と同時に、カイゼルの隣にふわりと人が現れた。

 ひどく儚げな雰囲気をまとったその人物。

 ツェレムは、急に自分が現れて呆然としているカイゼルに、疲れ切ったような微笑を浮かべる。

「終りにしよう……何もかも」

 そして、磔になっている青年に、ちらりと視線を向けた。

「彼にも、ね……」

 カイゼルは、ツェレムの言葉に背を押されるようにして、無言で歩き出す。

 どうすればいいのかなんて、何も考えていなかった。

 そのまま、磔にされている青年の前に立つと、その胸に突き立つ水晶の杭に手をかける。

 ひやりとした感触。水晶の内部では、青白色の揺らめきが淡く輝いている。

 握った杭を、カイゼルは力一杯引いた。

 その時、水晶壁の一部が盛大な音を立てて破裂し、そこに捕らわれていた人物を解放する。

 力無く倒れ込んできた身体。カイゼルは両腕を広げて男を抱え込んで支えたが、その肉体の冷たさにぞっとする。その意味を考えないようにして、水晶壁に背を預けるようにして座らせた。

「…………」

 膝をついて青年の顔をのぞき込んだが、変わらずその目は閉ざされている。そして水晶の杭が抜けた胸は……ぽっかりと穴が空いていた。

 それは彼自身の、心の空洞のように思えた。

 カイゼルは、ツェレムを振り仰ぐ。

「いいんだよ、これで」

 異邦人は項垂れたまま、静かに囁いた。

「このまま……終わらせたいんだ」

 カイゼルは頷く。彼の手の中で、杭は音を立てながら変形し、瞬く間に彼の左腕を半ば覆ってしまう。

 籠手ヴァンブレイスのようなそれ。

 ツェレムはそっと、籠手に手を沿わせる。

「僕が力を集束させる。こんな……力とも呼べない強大なものを制御するには……残念だけど、君の身体では保たないよ。でも、今の僕にできるのは補佐だけ。照準を定めて、引き金を引くのは……君にしか、できないんだ」

 カイゼルはこくりと頷く。

 そう、この異邦人達の抱える力はあまりにも強大で凶暴すぎる。ツェレムの言う通り、カイゼルには力を完璧に制御することは不可能だ。

 身体が、すべてを支えるにはもろすぎる。

 ファルゼンもまた、同様の枷に縛られていた。人の器に収まっている為、全力を出し切る前に肉体が砕けてしまうだろう。

 彼らの周囲を、再び散り始めた青い雪が取り巻く。

 いや、散っているのは……

「……っ!」

 振り返って、カイゼルは驚愕した。

 ツェレムの身体から、次々と表面の組織が剥離し、青く溶けて散っていく。長衣に誤魔化されていたが、片腕もない。

 右腕が失われたのは、ここに来る前の話だったが、カイゼルには知るよしもないことだった。

 ひとつはっきりしている事は、カイゼルの籠手に集束する力と引き替えに、ツェレムの身体は崩壊していく。

「や、やめてくれよ!」

 カイゼルは焦って叫ぶが、ツェレムは籠手から手を離そうとしない。

「僕のことは、いいから」

 笑った。もっとも、そのひび割れた顔では表情など望むべくもなかったが。

「っ!」

 そして籠手が急速に熱をはらむ。いや、そう感じただけで温度は上がっていないのだが。

 意識が籠手に向かった瞬間、カイゼルの感覚や思考が恐ろしい勢いで拡大していくのを感じる。自身としての人格はそのままで、急速に感覚が鋭敏になる。

 側にある、ツェレム。水晶壁。崩れ落ちた瓦礫。狂声を奏でる天使の群れ……そして、ファルゼン。

 すべてが知覚できた、

 場からは一歩も動かないのに、どこか上方で世界を見下ろしているような感覚。

「…………」

 その時、カイゼルの意識に何かが引っかかる。

 拡張された意識は、後ろを見ずとも背後の状況すら認識する事ができたが……カイゼルは、顔を向けて振り返った。

 視線が、合った。

 生きる屍と化していた青年が、目を開けてこちらを見ていた。

 乱れた髪の隙間から見える瞳は、髪に比べると色素の薄い、琥珀の瞳。角度によっては、金色にも見えるだろう。

 彼が笑った……ような気がした。

「……っ! わぁぁぁぁぁぁっ!」

 叫び、カイゼルは前を向くと、自分から標的までの距離を貫くように、腕を振り下ろした。

 瞬間、虚空をまばゆく染める白光。

 渦となるのは轟音だった。

 まぶたを通して視界が白く染まり、爆風が耳を叩く。

 感覚が切り離され、まるで、世界すべてがなくなって、自分だけがそこにいるような気がした。

 光が消えた後、訪れた闇の中でカイゼルは身じろぎもせずに立っていた。

 左腕から、籠手がするりと抜け落ち、地面に落ちて砕け散る。

「…………」

 呆然と顔を上げると、そこに立っていた姿に身を縮ませる。

 爆発が炸裂し、衝撃に地面がえぐれていびつな同心円を描いている中、それはまだ存在をとどめていた。

 それでも、身体は半ば消し飛んでいたが。

「はぁははははは!」

 くぐもった笑声が、歪んだ声帯からこぼれる。

 天使の群れはもうどこにもいない。だが、それはいた。

「これで、終わったと? 本当にそう思うのか?」

 ファルゼンは壊れかけた玩具のように、ひしゃげた身体でそこにあった。

「本体は……一時的だけど、この子に隷属している。後はちょっかいかけてくる君さえ大人しくなれば、どうにでもなるよ」

 ツェレムはその状態を見ても、無表情に告げる。

「ふん……だが、もうあれの力を集束させる事は、貴様には無理だ。そのまま……朽ちて消えろぉ!」

 呪詛の声を吐くファルゼン。その喉からは、ごぼごぼと異様な音がする。

 その時、遥か上方から勢いよく下降してくる存在があった。

 それにファルゼンは気づいて振り仰いだが、いかんせん、彼は動けるような状況ではなかった。

 ファルゼンの肩から腹にかけて、刃物に似たものが身体を突き破った。

 それは鋭く研ぎ澄まされた、水晶柱だった。

 一抱えもある水晶柱にその身を刺し貫かれても、ファルゼンは倒れなかった。いや、突き抜けた水晶柱と、半ば崩れた身体が互いを支え、微妙なバランスを保っている。

 そのシルエットはまるで、奇怪なオブジェのようだ。

 そして落下してきた柱には、人も乗っていた。

「すまんなぁ」

 水晶柱から手を離し、オブジェの背を蹴ってギーヴルは地面に降り立つ。

「前のあんたを見とったら、このくらいせんと止まってくれそうになかったからな」

 言葉は軽いが、その目には相手に対する同情の色はない。

「よぉ、カイゼル。生きとったか?」

 切り替えたように笑顔で振り返ると、ギーヴルはカイゼルに向かって来る。

「え……ギーヴル、なんで?」

「ギリギリセーフってところか。なんや上から見たらピンチっぽかったからな、急いで降りてきたんや」

 あまりの状況の変化に、カイゼルの頭はまだついてこられない。

「ぐ……ぐぉ……お……」

 絞り出すような声に、二人は振り返る。

 ファルゼンは突き立てられた水晶を抜こうとしてか、胸をかきむしるようにしてもがく。しかし限界なのだろう、手は目的の部位に触れる事すらできず、指先は虚しく空をかく。

 ファルゼンは、壮絶な眼差しでギーヴルをにらみすえる。

「き、さまぁっ……!」

「よくもやってくれたな、とでも言いたいんか? そんなセリフ、油断した悪役のお約束やで」

 もうほとんど人の形状を保っていられないほど崩壊した身体で、ファルゼンは動こうとする。

 ギーヴルが、一瞬目を細めた。

「せやから、油断すんなって言うとるやろ」

 瞬間、ファルゼンの至近距離で白光が弾け、光の帯が身体を直撃する。つんざくような轟音と熱を伴った衝撃波が弾け、カイゼルは叩きつける熱風に顔を手で覆う。

「がぁっ?」

 ファルゼンは右上半身をえぐられ、そのまま衝撃に跳ね飛ぶ。瓦礫の乗った地面を無様に転がり、叩きつけられて止まった。

 光が収束し、そこにぱちぱちと静電気の弾ける音が残る。青白い火花の中心にいたのは、マドカだった。

 少年は発する火花が自分を傷つけるのも構わず、まるで幽鬼のように凍り付いた表情をしている。右腕にはまった腕輪から、ぼんやりとした光がこぼれていた。

「これって……マテリアを使ったのか?」

 カイゼルには魔法を使う際の流れが見える。今、マドカを取り撒く火花は、彼自身が術を部分的に制御し損なった為に起こる余波だろう。

 それだけ、感情が乱れている。

「……やる……」

「マドカ……?」

 無表情だった顔に、恐ろしく暗い色が浮かぶ。

 カイゼルの言葉に耳を貸す事もなく、少年は喉が裂けんばかりに絶叫する。

「殺してやるっ!」

 マドカの目が、異様な光を帯びている。

 熱に浮かされたような、それでいて、相手を見据える視線は冷え切っている。

 少年は、まっすぐに倒れたファルゼンに向かう。

「お前が……お前が……あいつを……エディ殺した。だから、オレが……オレがお前を殺すっ!」

「っ、やめろマドカっ!」

 カイゼルは飛び出したが、もう遅い事は自分でもよくわかっていた。

 マドカが右腕を伸ばす。その手首に収まっている、美しい装飾の腕輪。その中心を彩る透明な石から光が溢れる。

 空間の一点に光が集まり、そして逆に膨張する。

 弾けた光が衝撃波となって解放された。

 瞬間、轟音と光の渦が虚空をまばゆく染める。

 すべてが白く塗りつぶされた。

 ファルゼンは……その姿を借りた異邦人の存在は、光の中で瓦礫と共に消滅した。



 払暁の先触れがようやく見え始めた。

 紺青の空の端がにじむように明るくなると、途端に夜は片隅に追いやられ、代りに現れた太陽によって、すべてが光の中にさらされる。

 夜が、明けた。

 そして深い地下の空洞にも、柔らかな光が射し込んでくる。

 それでも閉ざされていた空間の温度を上げるには、いささか力不足だった。

 カイゼルは手近な瓦礫に背を預け、ぼんやりと目の前の光景を眺めていた。

 朝日が昇り、光の角度が徐々に変わって、その人の姿を影から追い出す。

 まだわずかに漂う粉塵の向こうに人がいる。

 ツェレムが、立ち尽くしていた。

 白い衣装の端が、微風に揺れている。

 そして少しだけ強い風が吹いた瞬間……衣装は闇色のマントに変化した。

 髪の色も、空色から……金に。

「……あの人は……」

 ほんの数時間ほど一緒にいただけだが、その暴風のような勢いと、髪と同じ鮮やかな笑顔ははっきりと覚えている。

 銃使いガンスリンガー……ジクス。

 彼はうつむいていた。

 足下には、青年が一人倒れていた。彼の名前はレキ。だが、その身体は大理石のように白く変色し、皮膚には細かい亀裂が走っている。それはもろく、今にも崩れ落ちそうだった。

「ごめんよ……」

 ジクスの身体が、糸が切れたように崩れる。

 そのままレキの傍らに跪き、押し殺した声を漏らす。

「…………ごめん……」

 肩が震え、やがてそれは全身に伝わる。

 だが、涙は出なかった。

 いくら自分の精神を追いつめようとも、人に似た形状を保つのが精一杯の身体では、擬似的な涙も流せない。

 もっとも、枯れるほど泣いたとしても……それは自分の精神に安定を保つ為の反射的な行動にすぎない。自分を哀れんで流す涙にどんな意味がある。

 彼は死んだ。

 泣いて叫べば奇跡が起こり、彼が生き返って自分の罪が帳消しになるなんて、そんなご都合的な展開にはならない。

 悔恨が絶え間なく自分を責め立てるが……それすらも、己を楽にさせようという心が生んだ幻聴だ。

 そう、彼は自分を責めない。責められない。

「僕は君から人としての生を奪い……死すら、与える事ができなかった。せめて、恨み言でも吐いてくれたら、憎んでくれたなら、僕はもっと楽になれたのに……」

 彼の前で、かつてレキと呼ばれた青年の身体は、もう限界だったのだろう、崩れ、一塊の砂となった。

 もう一度風が吹き、ジクスが顔を上げると、揺らめくようにその姿は、ツェレムそれに戻る。

 あの頃とは変わってしまった姿。それは、逃げ続けていた自分の心を如実に現していた。

「ごめんなさい……僕には、君の痛みや苦しみを背負う余裕もはないんだ……」

 レキは苦悶の声さえ発することはない。

 涙も流さず、瞬きさえもせず、恨みや非難のこもった視線を向けてくれることさえしない。

 何か言い残すことも……できなかった。

 カイゼルは、その姿を呆けたように、ただ見続けていた。

 不意に、彼の隣にギーヴルが立つ。

 その気配に気づいたカイゼルは、ぽつりと言った。

「……俺は、あの人のことは何も知らないけど……あの声は、悲しすぎるよ。   まるで、あのまま壊れていくみたいで……聞いていると、なんだか胸が痛いんだ」

 ギーヴルは、何も言わなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ