9-3「道具の反逆」
三章「道具の反逆」
(ここにいるよ……)
「………?」
誰かに呼ばれた。
ティラハンはふと、そんな感覚に襲われた。
聴覚を頼りに周囲の様子を探るが、場には……少なくとも、カイゼルともう一人の他は誰もいない。
(誰なの……?)
腕を伸ばすが、それは虚しく空を切るだけ。
カイゼルは行ってしまった。彼女の側には誰もいなかった。
(怖い、怖い……っ)
何にも触れない手。自分の側に頼る者が誰もいない事実に、彼女はそのまま奈落へと突き落とされるような気持ちになる。
闇の中、震える少女は、同じように小さくなっておびえていた過去を知らぬうちに反芻していた。
そして声は、虚空に繰り返す。
(きて、ここにきて……)
生まれつきハンデを背負った彼女に、世界は優しくはなかった。
幼い頃の事は、実を言えばあまり覚えていない。
視覚がほとんどなかったせいか、映像よりも声や音、そして臭いの方が印象に残っている。
覚えているのは、ひどく耳障りな声。自分を罵り、時には暴力を振るった存在。もしかするとあの人達が、自分の親だったのかもしれない。
ティラハンは、彼女自身はどこの国かは覚えていないが、路地裏にひしめく貧民窟の一角で生まれた。
どこの国でも同じだろうが、彼女のいた場所は特に貧富の差が激しかった。富を享受できるのは、一部の金持ちや特権階級だけで、国民の大部分は重税にあえぎ、苛酷な労働を強いられ、貧しさに溺れて死んでいくしかなかった。
それでも彼女が間引かれる事なく生きてこられたのは、彼女を守ってくれる存在がいたから。
ティラハンは彼らを自分の兄弟だと思っていた。事実は異なるのかもしれないが、彼女は自分の側にいた少女や少年を姉や兄として慕った。
彼らが幼く、つたない手で彼女の世話をし、彼女の存在を疎む両親から隠すようにして育ててくれた。
すえた臭いが充満する路地裏の片隅で、まるでままごとのような生活が続いた。
しかし、五歳になった頃、ティラハンは売られた。
側にいてくれた兄弟の数も、その頃には何人か減っていたが、それでも泣いて止めさせようとしていたのを覚えている。
だが、彼女はあっけなく親の手で誰かに渡された。
わずかな金銭と引き替えに。
それからは目まぐるしい日々だった。日ごとに彼女の周囲を取り巻く状況は変わり、理解できた頃にはまた売られる。
しばらくたった後、自分は外見が珍しいから売り買いの対象にされる事を知り、そして従順に振る舞ってさえいれば、泣いて暴れる隣人より、ほんの少しだけ手加減してもらえる事を覚えた。
何年も何年も……暦を理解できるような教育も受けず、ただひたすらに抑圧される日々が続いた。
暴力と、金とまやかし。
敵意と嘘と、痛み。
毎日が、その繰り返しだった。
(……はやく……きて……)
ティラハンはどこまでも落ちていきそうな意識を浮上させる。
先ほどから、自分を呼ぶ声があった。
弱々しく、今にも消え入りそうな声。
囁きかける声に、かろうじて落ち込んだ思考が回復する。
「……だれ、なの?」
洞窟内は暗い。その為、たとえ視力のほとんどない彼女でなくとも、相手をすぐに探し出す事は難しいだろう。
それでもティラハンは立ち上がった。足場も悪く、一度も訪れた事がない場所だ。どこに何があるのか見当もつかない。一歩踏み出しただけで、足は何かに当たり、その度に恐怖で足がすくんだ。
震えながらも、彼女は手探りで前に進む。倒れたら、もう一度立ち上がる。それが何度も続くと、今度は這ってでも前に進んだ。
「だ、れ……そこにいるのは……」
その声が、暖かいのか、冷たいのか、本当に自分に呼びかているのか。そんな事はもうどうでもよかった。
ただ何かを切実に求める、儚く弱々しい声に惹かれた。
つまづいて倒れると、身体は今までと違う、何かの壁面に強く打ち付けられた。触れると、今までの瓦礫よりも冷たく、まるで氷に触れているように滑らかで、そしていびつな壁だった。
「……あなたは、だれ?」
ティラハンは我知らず、壁面に話しかけていた。
( ここにいるよ、だから……)
「……………<」
ティラハンは目を見開いた。
先ほど感じたのと、同じ感覚。だがもっと強い。痛みを覚えるほど強く、頭に直接響く感覚だ。
(はやく、まってるから!)
声は強くなる一方だ。だが相手がどこにいるかはわからない。存在は感じても、気配がない。
「ねぇ、誰を待っているの?」
ティラハンは優しく呼びかける。そうしなければ声の主は今にも泣き出してしまいそうな気がしたから。
「私はここにいるわ……」
ティラハンは壁に沿うようにして立ち上がる。そして、壁面を抱きしめるようにして腕を広げた。
「だから、泣かなくてもいいのよ?」
ふっ、と何かが彼女の中を駆け抜けた。
「な、に……今のは……」
その表現できない感覚の直後……
ドーンという音を聞いたような気がした。
先ほどから、微かな震動は続いていた。
感覚が鋭敏な者ならば、何か気づいたかもしれない。たとえば、震源が複数である事。振動の方向がばらばらで統一性がない。
そして……
轟音と共に森の一部が陥没した。舞い上がった土埃が夜の闇を漂い、眠りを邪魔された野生動物達の悲鳴が響く。
その轟音と、地が揺れる衝撃にギーヴルは馬を止めた。先ほどから妙に落ち着きのなかった馬は、一応指示には従って足を止めたが、その場でしばらくもがいていた。
落ち着かせる為に首筋をなでてやる。馬は暴走する事はなかったが、それ以上一歩も前に進みそうもない。
「しゃあないな、こっからは歩きか」
馬を下り、そして馬の背に荷物のような格好で乗せているマドカを下ろす。一応、教会から出る前に手に入れた布でくるんでいるので凍えてはいないだろう。
布の端からのぞく顔は青ざめ、浅く、切れ切れの呼吸音だけが聞こえる。
状態は、悪くなる一方だ。
それでも少年をこの場に残して行く事も、引き返す事も今さらできない。ギーヴルは嘆息すると、華奢な身体を抱き上げる。もう片手で器用にランプを掲げた。
そして方向を見定める。
この少年の話が正しければ、前方に黒々とした影になっている山の麓に、旧市街の残骸……遺棄された教会の建造物群があるという。
ついでに空を見上げ、星の位置を見て大まかに時間を計算する。
ようやく夜半過ぎという所だった。夜明けまで、まだずいぶんと時間がある。
さて、行くかと少年の身体を抱えなおした途端、足下が激しく揺れる。思わず少年を落としそうになり、慌てて膝をつく。
少し離れた場所で、再び崩落音が聞こえる。
「なんやねん、さっきから……」
ギーヴルのいる場所からでは、地面が陥没していく様子はわからない。ただ、何か大きなものが崩れていく音とその衝撃だけが続く。
おびえた馬のいななきが、少し離れた場所で聞こえた。どうやら、目を離している隙に逃げたようだ。
その間にも地は鳴動を続け、地鳴りは周囲にこだまして不気味な咆哮を上げる。
それらが少し収まったと感じると、ギーヴルは立ち上がって歩き出す。こんな所でぐずぐずしている暇はなかった。
その時……
「なんや……?」
視界の端に、光が見えた。
ちらちらと舞うようにきらめく、青白い切片。
ギーヴルは手にしたランプでそれらを照らすと、光に反射して明滅する。硬質な光沢を放つ、ガラス片に似た何かは、いくつもいくつも虚空に出現し、互いにふれあって澄んだ音を立てた。
「青い……雪……?」
言った後で、自分の言葉の不自然さに憮然とする。
今は雪はやんでいるし、青く輝く雪なんて聞いたことがない。
地震の次は幻覚か、と思わず毒づきたい気分になる。
と、目の前で突然それは起こった。
空中を漂っていた細片が、虚空に収束する。
集まり、一瞬にして解け崩れ、ひとつの塊となったそれがまた別の形状を構築する。
あちこちが伸び、歪んで広がる。
ギーヴルが声を上げる間もなく、そこにひとつの姿が現れた。
「あ…………」
呆然と口と目を丸くするギーヴルの様子に、その人は困ったように笑う。
「 ごめんね、驚かしたみたいで」
「ツェレム……か……」
そうだよ、と穏やかに、そしてどこか悲しそうに笑うのは、教会内の爆発の後、行方をくらましていたツェレムだった。
「お前……どこにおったんや」
むしろ今の発光現象の方が気にかかったが、どうにも上手く言葉にならない。そしてギーヴルの質問に、ツェレムは首を傾げ、どう説明すればいいのか考え込むような素振りをする。
「どこというか……ばらばらになって吹き飛んで、ずっとこの辺りを漂ってはいたよ。消耗しすぎて視覚化はできなかったけど」
「相変わらず、わかりにくい説明やな」
だがここで懇切丁寧な説明をされても、ギーヴルには到底すべては理解できないだろう。だからあえてそれ以上、踏み込んでは尋ねなかった。
「皆には突然消えたように見えただろうね。けど、消し飛んだりして失った分の補充はすんだから、こうして戻って来たんだ。でも……間に合わなかったみたいだね」
ツェレムは周囲を見回し、息を吐く。
「カイゼルか……」
その言葉に、ツェレムは首肯する。
どうやら、消えていた間の状況は、概ね理解しているようだ。だからこそ、教会内ではなく、この場に現れたのだろう。
だが、ギーヴルはあえて違うことを口にする。本人が気にしている事をさらに追求しても仕方がない。
「もしかして、さっきからやたらと騒がしいんはお前のせいなんか? 一体、何をやって来たんや」
身を伏せるような強い揺れは収まっていたが、崩落自体は未だに続いているらしい。遠くの地滑りが引き起こす衝撃に、周囲の枝葉が小刻みに揺れる。
「思ったよりも地上に被害が出ているみたいだね……」
「ったく、何をやったらここまで激しい真似ができるんや」
「やっぱり、自分の身体を引き抜いて食べるのは無謀だったね」
「……はぁ?」
本当に意味がわからなくて、ギーヴルは顔をしかめる。ツェレムの言葉が足りないのはいつもの事だが、今日のそれはいつも以上にわからない。
「冗談みたいだけど、本当だよ。この地下……いや、大陸には僕の本体が根を張っていてね、それをごっそり奪ってきたんだ」
「で、この騒ぎか」
「根が通っていた分の穴を埋める事ができなくてね、空洞部分が一部崩落を起こしちゃった」
ふぅと小さく息を吐く。夜目にも、そこには疲労の影が見えた。
しかしツェレムはそれを振り払うように話題を変えた。
「それより、抱えているその子を見せてよ」
ギーヴルに抱きかかえられているマドカ。布の端をめくって状態を見た途端、ツェレムは眉をひそめる。
「……重態だね。よくここまで保ったよ」
そして優しく、だが有無を言わさぬ動作でギーヴルからマドカを取り上げる。
そのまま、ギーヴルから数歩の距離を置いた。
わずかに開いた間に、今度はギーヴルの方が顔をしかめる。
「ちょい待てや。お前、何するつもりなんや」
「決まってる、この子を助けるんだよ」
「どうやって!」
ギーヴルの苛立ちのこもった声には動じず、ツェレムは涼しい顔で続きを告げる。
「まず、この子を浸食している部分を取り除く。そして、失った部位を……再生させる」
「再生って……」
どうするんだ、とギーヴルは聞かなかった。尋ねた所で過程など彼には理解できない。
だが、目の前の存在がやると言った以上、それは可能なのだ。
しかしツェレムの一見、万能に見える能力だが、それを使うには相応の代償が必要となる。
この場合、その対象となるのは……
「あかん。絶対にやめろ!」
思わずツェレムにつかみかかろうと腕を伸ばす。だが、相手は彼の手からするりと逃げた。
埋まらない間合いの向こうで、ツェレムはいつものように笑う。どこか悲しげな、まるで泣き出すのをこらえているような顔で。
「せっかく動けるようになった所だけど、僕自身を変換して……この子の一部にするよ」
「あかん」
「嫌だ」
はっきりと、断ち切るような鋭い声にギーヴルは思わず言葉を飲み込む。
「前にも言ったよね。僕は僕の目の前で誰かが死ぬのは許せないんだ。絶対に助けるよ」
「っ、お前自身はどうなるんや!」
「僕は……もう一回、材料をかき集めるよ。この辺にはまだまだ根は張っているからね、いくらでも補充はきくよ」
「けど、そう上手いこといくんか?」
「簡単な事じゃあないよ」
ギーヴルの問いかけに、ツェレムは迷う事なく答える。
「さっきは運良く意識までは消し飛ばなかったけど、何度も僕自身を再構築すると、情報の劣化を招くんだ。つまり、僕が僕である事がどんどん削り取られていく。そしてそれだけの力を用いても、力は万能ではない。……いずれ僕は再生する事もかなわず、僕を構成する物質は、形状を保てずに崩壊するだろう」
「……せやったら、そのガキ放り出してとっととカイゼルの所に行けばええやろ。お前の目的は……あいつを助ける事なんやろ?」
ツェレムは寂しそうに笑って頭を振る。
「でもね、この子も僕達の馬鹿騒ぎが生んだ犠牲者の一人なんだよ。だから、僕はこの子を生かしたい。例えこの子が本心ではここで死ぬことを望んだとしてもね……。これは、僕自身のエゴなんだ」
変わらず、ツェレムは笑う。困ったような、それでいてうれしいような曖昧な微笑みで。
しかしギーヴル自身はまるで面白くはない話だ。
「ったく、勝手な奴やな。そうやって、自分一人で何でもできるつもりなんか? 無理や、絶対にどっかでぼろが出る」
「それなら……君の事も助けなければよかった?」
ツェレムは薄い笑みを浮かべる。
ギーヴルの心を、刃物ですっと撫で切りにするような微笑だった。
思わず、言葉をつまらせる。
「っ、それは……」
「ごめんね。君にとって、一番残酷な問いかけだって事は、わかっているよ」
ため息のような笑声を漏らし、ツェレムは目を伏せた。
「あの時、僕は君を助けた。そして今、この子を助けようとしている。同じだよ、そこには……何も違いはないんだ」
(怖い……)
カイゼルは正直にそう思った。
怖い時に怖いと思うと、余計に足がすくんでしまう。だからやせ我慢でも良いから、前を向かなければならない。
昔、誰かから聞いた言葉だ。
それでも……今、眼前に押し迫る恐怖に打ち勝つ術を、カイゼルは見つけられなかった。
全面にそそり立つ、青い水晶壁。
彼は磔になっている男の前に立った。
相変わらず、瞳は固く閉じている。
今にも目を開けて動き出しそうなほど、その姿は生を感じさせたが、同時に、決して動き出す事はないという、確信に満ちた何かがあった。
恐怖を覚えているのは、この男ではない。その背後にある、美しい水晶壁。揺らめく光が、まるで自分を観察しているような錯覚を覚える。
「その人間も、災難だった。いや……未だに完全に滅びる事もできずに捕らわれたままだ」
ファルゼンは少し離れた場所で告げる。会話をするには若干遠かったが、どちらもその距離を縮める事はないだろう。
「……あんたは、この人を知っているのか?」
背後から聞こえる声に、カイゼルは振り返らずに問いかける。
「あれの欠片の周囲をうろついていた人間だ。余計な魂なんぞ抱えていなければ、ただ死ぬだけですんだというのに」
表情はうかがえなかったが、その声音には少なくとも、この青年に対する憎しみはなかった。むしろ同情しているような響きさえある。
「貴様と同様、あれに振り回された人間だ。いいように使われた挙げ句、生きる時間のすべてをはぎ取られ、こんな地下で人質となっているのだ」
「……何の為の人質だよ」
カイゼルは反射的につぶやいた。
この水晶壁……いや、今や完全に異質な存在となっている人間は、元は異世界からの来訪者だった。
それは後ろでしゃべっているこの男も同様だったが。
異邦から訪れた者は、同じようにして世界に転落し……滅んでしまった同属を求めるあまり、現在まで続く暴走を繰り返している。
同属の砕けた身体の欠片を集め、失われた魂をその裡に再び収める為に。
実際、欠片がどの程度集まっているのかはカイゼルにもわからない。だが、行方のわからなかった魂は、カイゼルの裡にある。
(けど、俺にそんな実感はないけど……)
カイゼルは思わず胸を押さえた。
「確かに、この人間が抱えていた魂は失われ、今は貴様が新しい継承者だ。ゆえに、ここにあるのはただの抜け殻……あれにとっては何の価値もない存在になるな」
価値はない。それでも……死という終りを迎える事なく、二百年も無為に生かされ続けている男。
語るファルゼンの声は、どこか突き放したように冷たい。
「だが、今、この人間の価値は、裡に抱えていたものではない。この存在そのものに価値があるといえる」
相変わらず、振り返らないカイゼルの背に、低い笑声がかかる。
「貴様の前に現れた、あれの欠片……。欠片が求めるものは、なんだと思う?」
求めるもの……
カイゼルは、胸中で相手の言葉を反芻する。
こんな馬鹿げたことに関わる必要なんてないよ。
(そうだ、少なくとも、あの人は何かを終わらせようとしていたはずだ)
カイゼル自身を守る為に。
そして、その延長線にあるものは……
ちらりと青年を見上げ、カイゼルはわざと少しずれた回答をしてみせる。
「……俺には、あんたの馬鹿げた復讐の阻止……くらいしか思いつかないけど」
「それも、目的のひとつだ。欠片の最終的な興味は、すべてここで磔になっている人間に繋がる。この人間が滅びを迎える日まで、欠片の行動は止まらんだろうな」
カイゼルはもう一度、青年を見上げる。
語る事のない、魂のない屍。だが不思議と、不気味さを上回った、ある種の親しみのようなものを覚えるのは、彼があまりにも〈生きている〉ように見えるからだろうか。
「…………あの人は……ここにいる、この人を死なせる為に、今まで動いていたっていうのか?」
「もしかすると、あれに解放された後に、この人間がまた生きて動き回るとでも信じているのかもしれん。どちらにしろ、あの欠片が現在、唯一、俺の行動を妨げる石ころだ」
どうやら、ファルゼンにも守護者の本当の目的はわからないようだ。
カイゼルは、深く息を吐く。
何もかも、わからない事だらけだ。聞かされる話は、夢物語のような壮大で馬鹿げたものか、憶測と仮定ばかりで要領を得ないものばかり。
誰もが、自分の置かれた状況を完璧には把握できない。
いや……
(そんなもん、かもな)
どんな人間でも、自分自身がどこに向かうのか、周りがどう動くのか、そして、今、何をすればいいのか理解する事などできはしない。
(でも……だからこそ、何かしようって思うのかもな)
カイゼルは腕を伸ばす。
目の前の、物言わぬ青年に向かって。
だが指先が触れる前に、その背に声がかかった。
「もう、おしゃべりは終りだ」
背後で動き出す気配を感じ、カイゼルがそれに身構えた時……
ある種の違和感が足下から這い上がってくるのを感じる。不安定な感覚の正体は、すぐに判別した。基盤たる大地が揺れているのだ。
(始まった、のか?)
背後の水晶壁を振り仰ぐ。
震動はやがて轟音となり、ひときわ激しく浮き上がるような感覚の後、音を立てて地面に一本の線が走る。
「っな!」
カイゼルは思わず後退りする。背中が水晶壁にぶつかって止まった。
絶対的な境界線のような亀裂は徐々に広がり、そして揺れに立っていられずカイゼルは膝をつく。
何が起こるのかわからないという不安に、カイゼルが動けないでいると、ふと、意外な顔が目に入った。
ファルゼンもまた、揺れに足を取られている様子だった。そして、その表情は驚愕に歪んでいる。
(どうして、驚いているんだ? これもあんたの考えていた事じゃないのか?)
そこで不意に悟る。どうやら今の状況はこの男にとっても予想外の事態らしい。
「っ、そうだっ!」
カイゼルは半身を起こす。すっかりティラハンの存在を失念していた。どうにかして彼女を見つけようと頭を巡らし、そして、叫ぶ。
「 ティラハンっ!」
実際……ツェレムが消えていたのはわずかな時間だった。
だがそのほんの数分……あるいは、数十秒だったかもしれない……は、のしかかるほど重く、長く感じられた。
地面から、いや、その付近の空間から出現する青く光る切片。それらが動き、散り、砕けて再び集まり、瞬きの間に青い髪と白い衣装の人物を形成する。
だが、現れたその人は、揺らめく青い雪と同じように不安定な様子で上体を傾ける。かろうじて倒れる事は留まったが、そのまま力を失って座り込んでしまった。
「おい、ツェレム……」
呼吸は乱れていない。ただ、肩を落とし、うつむいているだけ。しかし傍目から異常が見受けられない事が、逆に不気味だった。
もう一度呼びかけて反応がなければ、頬のひとつでも叩くべきかと考えていると、不意にツェレムの肩が揺れた。
息が漏れる音が聞こえ、それは次第にかすれた笑声となる。
「……あははっ……どうやら、成功みたいだね」
どこか自嘲気味に笑いながら、ツェレムはゆっくりと顔を上げる。
その横顔を、未だ残っていた切片が青白く照らし出す。
「……っ!」
ギーヴルは、思わず半身を退いた。
「おい、その目……」
それだけをいうのが精一杯だった。
相手の状態を、どんな言葉で表現すればいいのかもわからない。
「ん……あぁ」
だが、ツェレムはあっさりした調子で右目を押さえる。
その手に、無数の細かいヒビが走っていた。衣装に隠れて見えないが、右半身も同じ状態になっていた。それらは裂傷の類ではない。
文字通り、身体が崩壊しかけているのだ。
再構築自体は成功した。だが、もう自分の身体を構成する材料自体がもろくなっている。
もう、次はないだろう。
指を動かす、そんな些細な動作だけで、手の甲、その一部が剥離した。
破片は、まるで砕けた陶磁器のようだった。
そして瞳もまた、ひび割れたように白く濁ってしまっている。右目の周囲には、深い皺のような亀裂が刻まれていた。
「大したこと……なくはないけど、大丈夫だよ」
立ち上がろうとして、ツェレムは大きくよろめく。手近の木に手をつこうとしたが、その手が虚しく空をかく。
「……見えてないんか」
恐る恐る尋ねると、
「この辺は暗いからね。明るい所に行けば、ものの輪郭くらいはわかると思うよ」
微妙に答えをかわされた事に、ギーヴルは反論しかけたが、それより先にツェレムが質問する。
「あの子は大丈夫?」
その言葉に、ギーヴルは後ろを振り返る。そこには地面に寝かせた状態のマドカがいた。
少年の身体からは異質な結晶は消え失せ、褐色の肌がのぞいている。きちんと確認したわけではないが、少なくとも、今のツェレムよりは健康体だろう。
「元気そうやで」
「そう、よかった」
ツェレムはぎこちなく笑う。本当ならもっとうれしそうな表情に見えたのだろうが、顔に走った亀裂のおかげで口元はひきつっていた。
「お前……なんで、そんな風に笑えるんや!」
ギーヴルに怒鳴りつけられるが、ツェレムはわけがわからないとばかりにぽかんとする。
「え? だって、がんばったのにこの子が助からなかったら悔しいでしょう? でも、助かったみたいだから、うれしい。それだけだよ」
「そんなん、ただの自己満足や」
言葉を吐き捨てるギーヴル。その様を、ツェレムは苦笑めいた微笑で眺める。
「そうだね、君の言う事は正しいよ。でも僕は、何をしようと、どうなろうとも、もう悔やんだり悩んだりしないって決めているんだ」
ギーヴルは口中でぶつぶつと文句を言っていたが、それでも意識のない少年を背負う。その様子に、ツェレムは彼に見えない角度で少しだけ笑った。
「さて、急ぐから飛ぶよ。本当は転移したい所だけど、君がいるからね」
空間転移。一瞬で長距離を移動できる能力は、この存在の専売特許だ。だが、特殊すぎる能力故か、他の人間には身体的に相当程度の負担がかかってしまう。そしてここには、二人の人間がいる。おそらく、目的地には瞬きの間に到着できたとしても、ギーヴルとマドカの両名はしばらく起き上がる事もできないだろう。
ツェレムはそれを避けようとしたのだ。
「……なーんて言っても、実は僕の方も転移に耐えられるかどうか微妙な所なんだけどね」
言ってツェレムは、自嘲気味に笑う。
「ワイはかまわんで」
「だから、無理はしたくないんだよ。飛んで行けば、歩くよりは速いから、大丈夫だよ」
さあ行くよ、とツェレムはさっさと動き出す。
「待てい」
ギーヴルは思わずツェレムの腕をつかむ。だが、その瞬間、異様な感触が走った。
軽い、まるで卵の殻を割るような音を立てて、ツェレムの右腕が砕けた。
いや、ギーヴルの手が握りつぶしてしまったのだ。
「なぁっ!」
「あ……」
肘から先が落ち、腕は地面にぶつかった衝撃で粉々に砕けた。
「あーあ……やっぱりダメだったか」
ツェレムは先がなくなった腕を掲げ、肩をすくめる。
ギーヴルは異様な光景に言葉を失ったが、己のやった事だけはかろうじて理解できた。
「すまんっ!」
「気にしないでよ、痛覚はもうないから」
切断面は割れたガラス瓶のように鋭利な角度で砕けている。だがその内部には肉も骨も見えず、血の一滴も流れない。
「いや、そんなあっさりとすませるな!」
「ギーヴル、手、大丈夫だった? 破片が刺さったりしてない?」
「お前は人の話を聞いてないだろうっ!」
片腕になったというのに、のほほんとしているツェレムにギーヴルは思わず声を張り上げる。
「……僕の身体は、もう色々とがたがきているんだよ。ほとんど中身は空っぽなんだ」
そこまで言ってから……ツェレムは常のように、少し悲しそうに笑った。
「どうしてそこまでしてって言いたそうだね? じゃあ、目的地に着くまでの間、少しだけ昔話をしよう」
言って、ツェレムは残った腕でギーヴルの手を取ると、その場から飛んだ。
目の前の存在が語るのは、ギーヴルが培ってきた常識が通用しない世界の話。
それでも……あまりにも荒唐無稽だが、語る内容はあくまでも真実だった。
「僕が……僕という存在が、一人ではない事に、君は気づいている?」
語るというよりは、自分に言い聞かせるような口調でツェレムはしゃべり出した。
「むしろ一人なんていう言い方もおかしいとは思うけどね。僕達は……ひとつの個性から生み出された、ひどくいびつな双生児だよ。個として生み出されながら、決して一人としては成り立たないもの。僕達のような複製存在は過去、無数に存在していて、それぞれ大陸中に散らばっていた……。僕はその欠片のひとつにしかすぎないんだ」
ツェレムは前方から視線を外さない。
もとより、もうほとんど視覚としての意味をなさない目だった。今、飛んでいるのも力の流れを追っているだけであって、実際に見えているわけではない。
だから、ギーヴルがどんな顔をして自分の話を聞いているのかはわからなかった。
「まぁ、お前のしゃべっとる内容から、目的の為に動いとるのはお前一人じゃあない事くらいはわかっとったけどな」
意外に驚いた様子のない、むしろ平板な調子の声だった。だからというわけではないが、ツェレムもまた、感情を動かす事なく続きを語る。
「僕達はね、この存在を生み出したオリジナルと同じ記憶や経験を完全に共有する。もちろん別れた後は、それぞれ得た知識や環境によって別個の個性を持って行動はするけど、あくまで別れた同一人物にすぎないんだ。当然、親と子、兄弟というわけでもない。そしてオリジナルとの最大の差異はね……」
そこで、ツェレムは言葉を切る。口元に自嘲気味な笑みが浮かんだ。
「上下関係がはっきりしているんだ。いくら同じ人格の複製でも、基本的に複製存在は手駒であって、オリジナルに逆らう事はできない。そういう意識が最初から刷り込まれてしまっているんだ。仮に反抗しても、消されるだけ。さっき君が砕いた腕のように、あっさり壊されて、それでおしまい。僕達は、その程度の存在なんだ」
ツェレムは笑う。すべてを受け入れ、同時にすべてをあきらめたものが見せる、どこか超越した微笑みだった。
「だって、僕達は目的の為に生み出されたのだから」
生きる為ではなく、あくまで、人が便利になるようにと道具を作り出すのと同じ感覚で作られた存在。
「僕達はね、ある人物を蘇生させる為に、この世界に散った欠片とその魂を探していた。長い……本当に、長い時間がかかったよ。複製存在の数も減った。いくらこの世界の人間よりも遥かに長大な時間枠を与えられていても、耐久的な限界や、色々な事故で……滅びていった。
やがて、僕と僕を生み出した存在だけになった。そして残る欠片も……最終段階に入った。ある程度、器を再構築するだけの欠片は見つかったけど。でも、肝心の魂はいつまで経っても見つからない。本当なら、寸暇も惜しんで世界中を探し回らないといけなかったんだけど……僕はその頃、精神的に限界を感じていた。もっと簡単に言うと、やる気を失っていたんだ。
長く生きすぎたんだよ。あまりにも長い間、大陸中をさまよい続け……僕はもう、おかしくなっていたんだと思う。受けた指令を忘れた事にして、人間の中に潜り込んで生活していた。人の中に紛れ、この世界の人間と同じように生き、暮らすうちに……僕は、ひどく人間に近づいてしまっていた。感覚や感情……本来なら、使役されるはずの存在だった僕に、喜怒哀楽といった心が芽生えてしまったんだ……」
物や人を見て、その対象物を〈認識〉する事はできても、〈感情〉を動かす事も、対象の心を理解する事もなく、死人のように何年、何十年……あるいは百年もの単位で過ごしていた。
いつから他の命に興味を抱き、感情を知るようになったのかは、自身にもわからない。だがそれには遥かに膨大で長大な時間がかかったはずだ。
その事が、今に至る分岐点となってしまった……。
ツェレム自身が……いや、あの頃は自分を個として分ける呼び名すらなかった……この世界に生きる存在に目を向け、自分から考えて行動し、ほんの少しずつだが他の命の傍らに寄り添う事を覚えた時……。
自身に、疑問に抱くようになった。
自分の居場所、存在、価値。そして……己の命そのものに対して。
それは道具としては、致命的な欠陥だった。
たとえどれほど思い、苦しんだとしても、それで何かが変わるわけではない。同時に、死人が心を持って生き返ったとしても、すべてを寛容に受け入れるほどこの世界は単純ではなかった。
「君も、僕という存在を見ていればわかるとは思うけど、僕はこの世界の人とはあまりにもかけ離れている。何年も何十年も姿形が変わらず、そのまま生き続けられるような存在を許容する場所は、どこにもないんだ。
……気づけば、僕は人に追われる立場になっていた。もっとも、追われた所で、追いかけてきた人間全員を死体に変えるくらい造作もなかったけどね」
殺した。
そう、当時は向かって来る存在すべてを滅ぼしていた。
まさしく道具らしい反応だった。
容赦ない殺戮が、さらなる殺意を呼び込む事も理解できずに。
「とにかく、僕は目的を見失い、中途半端に人として生き、人に追われ、去り……そしてすべてに飽きていた頃……彼に出会ったんだ」
ギーヴルは思わず身構える。
声の調子に、それまでの平板な調子から、わずかに跳ねるようなそれに変わる。
「名前はレキ。年はよくわからないけど、かなり若かったよ。とにかく元気だったし。その馬鹿みたいに一直線で、がむしゃらで、単純な所に惹かれた……自分とはまるで正反対だったからね」
彼との出会いは、今思い返しても……色々と、笑える。当時は感情が摩耗しすぎて、彼の行動がおかしいと気づく余裕もなかったのだが。
「けど、彼は僕を見つけてはいけなかったんだ」
ため息のような笑い声を漏らして、ツェレムは目を伏せた。
「彼が……探していた魂の持ち主だったんだ」
気づいた瞬間、すべてを……自分の存在すら消滅させてしまいたいほど悔やんだ。側にいればいずれわかった事だが、だからこそ、理解する前に離れなかった自身を激しく恨んだ。
「逃げる事はできなかった。しょせん僕は、オリジナルが生み出した手足のひとつ。いくらでも替えのきく存在だから……」
でも、と続ける声は、もうギーヴルの反応など気にしてはいない。
「僕は……反逆した」
自分自身を裏切る。これほど不可能で、矛盾した事もないだろう。
「一度人として生き返ってしまった僕は、彼を目的の為の道具として使い捨てる事はできなかった。……おかしな話だよ、それこそ過去には数え切れないほどの命を、目的の妨げになるからと、無造作に、まるで害虫を駆除するように奪ってきたというのに……自分が執着した存在だけは、別だなんてね」
もう、ギーヴルが自分の腕を握っているのか、そもそも自分は目的地へと向かって飛んでいるのか、それすらも軋んだ感覚では知覚できない。
それでも、吐き出される言葉は止まらない。やめろと口をふさがれても……すべてを告白できる機会は、今しかないから。
押し迫る感情をこらえるように、ツェレムは一度口を強くひき結ぶ。それでも、すべてを押し殺すことができず、続く言葉がかすれる。
「反逆は失敗に終わった。彼は……死んだ」
ギーヴルは何かを悔やむように目をきつく閉じる。
死んだ。
直球すぎる言葉は、どこか上っ面を滑っていった。
それでも耳に残った冷たい音は、何度も何度も繰り返される。
「彼はね、死んだよ……ううん、いっそ拷問でも受けた方がましなほど、残酷なものを与えられた……。彼はね、〈死〉を奪われた。
そして死ねなくなった時、彼は人でなくなったんだ……」
死を、失う。
言葉の意味が理解できず、ギーヴルの思考はしばらく麻痺していた。
「死なへんって……そいつは不老不死にでもなったんか?」
「……ただ呼吸するだけの状態を、不死って言えるならね。彼は自分で何かを考えて行動する事も、感じる事もできなくなった。熱くても寒くても……腕を切り落とされても、悲鳴ひとつ上げないんだ」
「そんなもん……生きとるって言われへんやろ」
「けど、肉体的には〈生きている〉状態の反応を示しているんだ。ただ、心がないだけ。魂が失われたからね」
「……せやけど、オリジナルが欲しいんはそいつが持っとる魂やろ。その……殺してしまったら、意味ないやんか」
ツェレムは口元を笑みの形に歪める。予想、いや期待通りの答えに満足したような素振りだった。
「確かに、僕達の暴走の果てに……せっかく彼の裡に宿っていた魂は、また消え失せてしまった。でもね、オリジナルは、僕と争って疲弊するより、魂を一度逃がしてでも、僕をもう一度手駒にする方を選んだんだ」
逆に魂を一度見つけたことで、再び見失っても探し出せるという根拠を与えてしまった。
「与えられた条件は単純。魂を探し出せば、彼を解放する、とね。
もっとも、彼は例えオリジナルの束縛から脱したとしても、もう、人としても生は望めないんだ……。魂が……いや、心が無いから。身体は生きていても、心が死んでいるからね。でも、せめて死なせてあげたい……。永遠に何かを感じる事も、思う事もできないまま、ただ呼吸をするだけの屍になったレキを、そのままにはしておけないんだ!」
その瞬間だけ、ツェレムの声に力がこもった。
決意と呼ぶには、あまりにも深い悔恨と悲痛に満ちていたが。
「……お互い、むちゃくちゃな理屈ばっかりやな」
ギーヴルはようやく息を吐く。ツェレムもまた、少しだけ強張った身体から力を抜いた。
「筋は通って無くても、これでお互いの目的ははっきりしたよ。僕は消えた魂の行方を追う。代償に、彼の死を望む」
「ちょっと待てい、やったらカイゼルを探しとったんは……」
ツェレムの目的は、カイゼルをオリジナルに渡さない為だと、ずっと思っていた。
だが、今、話した内容はまるで逆ではないか。
その考えを見透かしたのか、予測していたのか、ツェレムはあっさりと告げる。
「少し訂正するけど、僕はあの少年が生まれた時から、魂の継承者だって気づいていたんだ。それと同時に、その大事な大事な継承者は、僕の当時の相方の、預かりものだったんだ」
「相方?」
「うん、そう。長い間人の中にいすぎたせいか、どうしても、僕は人の側から離れられなかった。……一度感情を知ると、どうしても自分を見てくれる存在を欲してしまうんだ。
そんなとき、隣にいたのが彼。レキも楽しかったけど、その人も変な奴でね。僕の正体や目的を知っても、嫌な顔ひとつしないんだ。むしろどうでも良さそうな感じで、笑っていた。
そんな彼が受けてきた仕事が、赤ん坊を一人、シンフォルンから連れ出す事。彼と、赤ん坊の父親が協力して行われた仕事だった。
……その時に、僕は見つけてしまったんだ」
シンフォルン聖教国では、定期的に子供を教会へ捧げる習慣がある。それは過去、大国として存在していた頃からの悪癖でもあったが、国が分裂して二百年が経過した当時でも未だ、表立ってではないが、続いていた。
「自分の赤ん坊を、手土産みたいに神様にやってしまうんかい。ったく、ワイはそないけったくそ悪い宗教なんてごめんやで」
「けど、信者にとっては自分の子供が神の御子として仕えることは、きっと名誉な事なんだよ。……でも、その夫婦の意見は違ったんだ。少なくとも、父親は生まれた子供を必死で逃そうとしていた。わかっていたんだよ、教会に子供を差し出せば、その子の命はもうそこで終りだって。それなら自分の手で育てられなくとも、余所で……安全とは言いがたいだろうけど、生き延びる可能性のある道を与えてやりたかったんだろうね」
「またそれも、無責任な話やな」
父親の考えもわかるが、それでも共感はできない。
もし本気で子供の将来を考えたなら、他人任せになどせず、すべてを捨ててでもそこから逃げ出せば良かったのだ。
だが、それはあくまでも理想でしかない。人は生きていると、捨てられないものが多くなる。
そしてどこかで妥協した結果、赤ん坊を逃がす事が、男なりに考えた最善の策だったのだろう。
「まぁ、その父親がどこまで考えていたかは知るよしもないけどね。
……でも、僕は気づいてしまった。その赤ん坊が二百年前に消えていった魂を抱えている事にね。この子をオリジナルに差し出せば、僕の目的は終わる。正直、その誘惑に僕は揺れたよ。何より簡単だった。ひとつ命を差し出せば、全部終わるからね」
一度言葉を切ると、ツェレムは微苦笑を刻む。
「でも、僕は……寸前で踏み止まったよ。だって、あの子……僕を見て、笑ったんだ」
赤ん坊は口を開けて、顔全体で笑っていた。
相方の腕の中で、自分に起こった事も、これから待ち受ける事も知らず、無邪気に小さな手足をばたつかせていた。
不意に、わき起った感情をなんと説明すればいいのか。
どうしようもなく、目の前の存在に愛しさが募った。
抱きしめたい衝動を抑えながらも、ぎこちない微笑みを返した。
その時、思った。
この子が、ずっとこうやって笑っていられるようにしてやりたい。
その時にはもう、魂を渡しても、レキがもう、彼自身としては戻らない事は理解していた。割り切ってもいた。だからこそなのかもしれない。ツェレムはその時、言葉も話せない赤ん坊の姿に、今はもういない相棒の、失った未来を重ね合わせた。
「あの子は、僕にとってひとつの可能性なんだ」
贖罪。そんな単純な言葉ですませるには、あまりにも重い重い罪。
だがそれでも、この子が新しい名前と生活を得て、健やかに成長する事ができれば、ほんの少しだけ自分の抱えているものが軽くなるような気がした。
その瞬間、ツェレムは誓った。
この子を全力で守ろう。
そしてこの子が安らかな一生を送れるように、自分は逃げる事をやめよう、と。
「僕はその時、決めたんだ。僕自身を削ってでも、もう誰の命も犠牲にしないってね」
「で、あのガキをシンフォルンから離れた皇都まで連れて行ったんかい」
「まぁ、実際に連れて行ったのは相方だよ、僕はその直後に、彼と別れて……そのまま、彼とも、赤ん坊とも会わなかった」
「……一度も、会いには行かへんかったんか?」
「うん、僕が側に寄ると、それだけでオリジナルに気づかれてしまうかもしれないからね。だから相方とも別れたんだ。お互い、もう二度と会わないってね」
「そいつは……お前の元相方はどないしたんや」
「うん、それがさ、本当に秘密を抱えたまま墓まで行っちゃったんだよ」
「 ……」
「気づいていたら、少なくとも、行方だけでも追いかけていたら、あんな冷たい場所で死なせるような真似はさせなかった。 ごめん、後からこうすれば良かったなんて言うのは卑怯だってわかっているけど、彼はあんな所で死ぬような人間じゃなかったんだ!」
必死で後悔を口にするツェレムから、ギーヴルは目をそらす。それから軽く目を伏せて、なるたけ軽い調子で言った。
「きっと、そいつは笑っとるぞ」
自分はそこまで優しい人間ではない。これはただの自己満足の、口にするだけ虚しい言葉だ。
それでも、ほんの少し自分が我慢して相手が求めているはずの言葉を口にする。それで相手が救われるのなら、こんなものはたやすい演技だ。
「秘密を隠すんやない。無理したわけでもない。そいつはただ、自分のやりたいようにやっただけや。気にしてうじうじするくらいなら、前を向いてさっさとお前の用事を終わらせてやれや」
「……ありがとう、ギーヴル」
ツェレムは笑った。
きっと、彼の内心などすべて見抜いているはずだ。
けれど再び前を向いたその横顔は、どこか安堵したような色があった。
その時、眼下の風景が揺らいだ。
数秒前まで、闇の秩序に沈んでいた森林が姿を変えつつある。
何かが……ひどく歪んでいく。
「なんや……何が起こっとるんや?」
「地震だよ。いや……地下に眠るものが、動き出したんだ」




