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4-2「壊れた指輪」

   第二章 壊れた指輪



「なら、行って来るで」

「行って来るから」

「はいはーい。気をつけてね」

 イリスの軽い見送りを受け、ギーヴルとカイゼルの二人は宿を後にする。二階の窓から落ちそうなほど身を乗り出し、手を振っているイリスに手を挙げて応えながら、カイゼルは角を曲がった。

 早朝、というにはやや遅い時間。彼らの目的は、ただの散歩ではない。昨晩の夕食時に決定した、目標の為の第一歩。港の船舶組合に、西側へ向かう船の切符を買いに行くのだ。

 あの後、夕食の席で最終決定を出したのだが、ギーヴルは一言も文句をつけなかった。ただ一度うなずいただけで、それ以後話題にもしなかった。

 それをカイゼルはいぶかしく思ったが、問い詰めようにも早速予定を立てると張り切ったイリスに引きずられ、昨晩も同じようにヘーゼ達と同じ部屋で眠った。その為、彼とはまともに話をしていない。

「ったく、あのガキ、人が切符取りの激しさを教えたったら、笑顔で面倒押しつけよってからに」

 今、少し前を歩く彼は、ぶつぶつと独り言のように不平を漏らす。

「けど、イリスに財布を預けるのは心配だって、自分で言ってたじゃないか」

 カイゼル自身、イリスに金銭感覚が欠落しているとは思っていない。むしろ三人の中、交渉にかけてはずば抜けた才能がある。ただ彼女自身、基本的な常識が一部ごっそり抜け落ちているので、食料の買い出し程度はまだしも、公の交通機関では、下手をすればそのまま出入り禁止をくらってしまうほどの騒ぎを起こす可能性もあった。

「それを言うなら、俺がついて行く必要もないと思うけど」

 と、これは小声で言う。

 カイゼルがギーヴルと一緒に出る理由は、単に順番待ちの暇つぶし相手で、その相手役がヘーゼでないことは、過去の出会いを考えれば致し方ない選択だった。

 残りの二人もただ待っているのではなく、旅に必要な消耗品や食料の買い出しに行く手はずになっている。

「カイゼル、何か言うたか?」

「……色々と、言いたいことはあるんだけどね」

「なんやねん、それ」

 空は高く晴れているというのに、カイゼルの吐く息は曇天のそれだった。



 ルチル・オーバルの第三埠頭。

 ここは主に旅客用の船を扱う船着き場である。だが一口に旅客用と言っても、その種類や運賃は様々で、港には牛や蒸気機関などの動力を使った豪華客船や、帆船。手こぎの小型船が並び、実に豊富な船の見本市になっていた。

船の数が多いという事は、当然、それに乗ろうと集まる人間も正比例するわけで、船舶組合の窓口付近は切符を買う人と、船に荷物を積み込もうとする人と荷車で飽和状態になっていた。

「それにしても、すごい人だな」

カイゼルは人波にもまれて閉口し、少し先を歩くギーヴルの背を見失わない様、必死に足を前に進める。

「これじゃあどこが窓口だかわからないじゃないか」

組合の人間らしき男が、声を張り上げて列を誘導しているが、その効果はあまりない。カイゼルも冷静に聞いている余裕はなかった。その間にも、荷崩れした台車から落ちた粉袋に押し潰されそうになったり、何かよくわからない集団に囲まれ一緒になって流されたりと、散々な目にあっていた。これでギーヴルを見失わずにいられたのは幸運だろう。

「こら、ガキ。どこふらふらしとんや」

 声と同時にカイゼルはギーヴルに袖をつかまれ、ほとんど引きずられるように連れて行かれる。そしてようやく人の波が緩やかになった途端、地面に放り出された。

「った、何するんだよ!」

「そこが三等客船の最後尾や、しっかり並んどけよ」

 ギーヴルの声に起き上がってみると、確かに建物に向かって人が数珠繋ぎに並んでいる。カイゼルが言われた通り最後尾に並ぶと、ギーヴルはコートのポケットを漁っていた。

「すまんな、ワイは煙草買うてくるから、その順番死守しとけ」

 と、目的の物……煙草が見つからなかった彼は、くるりと回れ右をする。

「あっ! 待てよギーヴル!」

「終わったら菓子でも買うたるわ」

 追いかけるか、順番を取るかで迷っているうちに、ギーヴルは手を振りながら素早く踵を返す。

 だが、彼が人並みに消える寸前、その声は届いた。

「もしかして、ギーヴル?」

 周囲の音にかき消されそうな細い声に、ギーヴルはまともに顔色を変えて振り返った。

 カイゼルもつられてそちらの方に顔を向け、思わず息を詰まらせる。それほどそこにいた女は美しかった。

 均整の取れた肢体に、丈の長い衣装を身に着け、控え目に付けられた銀細工の腕輪が陽光に鈍い光を反射する。

 彼女はこんな人混みにもまったく動じず、むしろ人が彼女を避けているような足取りでギーヴルに近づくと、目の前で足を止める。

「久しぶりね」

 言って、美女はにっこりと嬉しそうに微笑む。黒目がちの瞳は旧知の者に会えた喜びで輝いている。だが逆にギーヴルは、何かに衝撃を受けたように呆然としていた。

 緩やかな風に、美女の肩を覆っていた薄手のストールがはためき、腰まで伸びる黒髪を揺らす。

「……フレデリカ」

 ギーヴルは、ようやくそれだけを呟く。

 その単語に、美女は花がほころぶような笑顔を向ける。

「あぁ、やっぱりそうだったのね。人違いだったらどうしようかと思ったけど、声をかけてよかった」

 嬉しそうに話しかける美女……フレデリカの言葉は、ギーヴルを素通りしている様子だった。それに気づいた彼女がいぶかしげな視線を向ける。だが、ギーヴルは美女が何か言葉を発する前に身を翻すと、少し進んだ列の先にいたカイゼルの腕をつかんで引っぱり出す。

「帰るで」

「え……えぇっ! 切符はどうするんだよ!」

 抵抗するカイゼルに、ギーヴルは先ほどとは違い、本気で引きずるような力で腕をつかんで離さない。

「ギーヴル、どこに行くの?」

 もちろん美女の言うことには耳を貸さない。

「ギーヴル!」

 だが、別の呼びかけに、金縛りにあったように立ち止まる。カイゼルはその隙に腕を解き、彼から一歩離れた。

 ギーヴルはゆるゆると振り返ると、視界に声の主を収める。

 フレデリカの背後に、彼女を守るようにして立つ男の姿があった。

 男の前では、彼女はずいぶんと小さく見えた。たくましく、引き締まった身体を日に焼けた肌が覆っている。癖の強い黒髪を根元で何とか束ねているが、まとめきれなかった幾筋かがこぼれていた。

 男はここまでよほど急いで来たのか、息を乱し、浅黒い肌に汗が光っている。そしてフレデリカに不安と焦りの混じった視線を向けた。

「フレデリカ、俺から離れるなと言っただろ」

「ごめんなさい。露店を眺めているうちに、人に流されてしまって。でも、そのおかげでギーヴルに会えました」

 彼女はのんびりとした受け答えで立ち尽くすギーヴルに顔を向け、次に男を見上げる。その楽しそうな表情に男は息を吐くと、怒りの矛先をギーヴルに向ける。

 深い群青色の瞳に、カイゼルはこの大男に怒られるのではという錯覚を覚える。男の視線にはそんな無言の威圧感があった。

「久しぶりだな、ギーヴル」

 そこに再会の喜びはなく、儀礼的な響きがあった。

「ルヴナン……」

「呼び捨てにするな。相変わらずお前は目上の者に対する敬意を知らんな」

「そんなもん、とっくにどっかへ捨ててきたで」

 ギーヴルの軽口にも男は乗ってこない。カイゼルは男とギーヴルを交互に見て、早くその場から逃げ出したい衝動に駆られた。

「……行くで」

 と、ギーヴルはカイゼルの腕を引いて歩き出す。男は、追って来なかった。



 カイゼル達は、というよりギーヴルは、彼の腕をつかんだまま波止場を歩き続け、やがて倉庫が建ち並ぶ区画に出た。そこは船舶組合前とは打って変わってほとんど人気がなく、昼間だというのに閑散としている。

「……ギーヴル……ギーヴル!」

 湖は穏やかな陽光を反射し、緩やかな風に静かに波打つ。

「ギーヴル!」

 カイゼルはその場に踏み止まると、つかまれている腕を引いて足を踏ん張り、男の足を止める。

「いい加減にしろ、どこまで行くんだよ!」

 腕はあっさりと解かれ、カイゼルは反動でふらつく。

 だが男は止まらない、そのまま歩みを進める。カイゼルはそんな、こちらが見えていないようなギーヴルに躊躇したが、すぐに走り出して男の前に回り込む。

「ギーヴル、どうしたんだよ」

 彼はそこでようやくカイゼルに目を向けた。

「……なんや、まだおったんか」

「いたじゃないだろ、自分で連れて来たくせに」

 そこでギーヴルは、ようやく周りの様子に目がいったらしい。頭を巡らし、静かすぎる景観をしばらく眺めていた。

「ずいぶん遠くまで来たんやな」

「おかげさまで。で、いったい何なんだよ」

「人の過去を詮索するなんて、あんまり褒められた趣味とちゃうで」

「やっぱり知り合いか……」

 カイゼルは面倒くさそうに呟くと、ギーヴルの横をすり抜け来た道を戻る。

「なんや、聞かへんのか」

「過去を詮索するのはよくないんだろ。それよりも今は、切符取りの方が重要だ」

「ワイの過去より切符かい。現実的な奴やな」

「過去よりも、前を見据えて生きる方が人間として大事だと思うよ」

「つまらんガキやな」

「どうせ話すつもりもないんだろ」

 時間の無駄だと、カイゼルは急いで踵を返す。しかしそんなカイゼルの背に、声が投げつけられる。

「今の男、ワイの兄貴で、一緒におったんはあいつの女……いや、もう妻か」

「似てない兄弟だな」

それは素直な感想だった。世間では似ていない血縁者などいくらでもいるが、彼らの間にある繋がりはずいぶん複雑そうに見えた。

「義理の兄弟やからな」

 その言葉に、カイゼルは立ち止まる。

「前にちょっと言うたやろ、ワイは……ワイ等の一族は、ロキが死んだ後、ほとんどの民が死んだり、残った奴らも次第に散り散りになった。ワイも同じや。親が死んで、仲間ともはぐれて死にかけとったところを今の親に拾われたんや」

 淡々と、昨日の夕飯の献立のようにあっさりと凄惨な過去を語るギーヴルに、カイゼル自身、しばらくその内容が頭に入ってこなかった。

「……辛い過去の割に、あっさり話すんだな」

「過去は過去や。湿っぽく喋って人の同情買うんは嫌やからな」

「じゃあ聞くけど、その義理のお兄さんとの感動的な再会の割に、やけに殺気だった空気が流れていたようだけど……」

「まぁ、怒るのも無理ないやろうな。もう二年近く連絡取ってへんし、おまけにいきなり出て行ったんやし」

「は……?」

「せやから、例の計画に参加する為に,ワイは兄貴達の所から出ていったんや」

 例の計画……それは昨年起きた誘拐事件を指していた。そこでカイゼル達三人はギーヴルと出会い、彼らの一族が滅びるに至った経緯を知った。

「もしかして、黙って出て来たのか?」

「いくら義理でも迷惑かけられへんからな。やからあの人らも、今までワイが何しとったかなんて知らんやろ」

「そりゃあ、怒るよな」

 親兄弟でなくとも、行方不明だった人間が突然目の前に現れれば、心配する気持ちはあっても、文句のひとつくらい言いたくなるだろう。

 ギーヴルはそこまで言うと、早足で歩き出した。

「なら、そろそろ切符買いに戻るか」

「……遅いよ」

 そして、カイゼルが何となく予想していた通り、二人が戻った頃には窓口は閉められ、船舶組合前は、先ほどまでいた倉庫街のように、閑散としていた。



「いーいっ! 今度こそ絶対なんとしても何が起ころうとも切符を手に入れてくるのよっ! それまで部屋に入れてあげないからっ!」

 意地悪な継母と、言うより、完璧にだだっ子の延長でイリスは二階の窓から通りを歩くギーヴルに向かって叫び、道行く通行人が全員何事かと振り返る。

 昨日、切符を手に入れずに帰った時の騒ぎは、この比ではなかった。

 ギーヴルは意外なことに、何も言い返さなかった。これ以上、好奇の視線に晒されるのが耐えられないのだろう、逃げるように行ってしまった。一人で。

 部屋に残るのは、当然いつもの三人組となる。

「……本当、よく宿から追い出されないものだな」

「寛大な店主に感謝だよ」

 カイゼルとヘーゼは、未だに窓外に向かって騒ぎ続けているイリスを無視して荷物の整理を始める。こんな時に手を出したら、余計に被害が大きくなるだけだ。だがずっと放り出していても、それに拗ねてまた怒り出すので、適当なところで声をかけてなだめてやる必要がある。

「この微妙な兼ね合いがいつも難しいよな」

「まぁ、あの調子ならまだ大丈夫だよ」

 それよりも、とヘーゼは昨日買った薬袋を掲げて息を吐く。

「この街って薬が高いよね。傷薬くらいなら、自分で調合した方が安いのに」

「俺達は学院で習ったから、簡単な薬草の見分けくらいはできるけど、普通、調合法は厳しく管理されるものだからな」

「あのつらい実技が、こんな所で役に立つとはね」

ヘーゼは当時を思い出したのか、肩を落として息を吐く。訓練校では指定された薬草を探して持ち帰るという課題があった。

だが、その中に訓練校周辺では絶対に生えていないものがあった為、探索は難航した。結局、あきらめて訓練校に戻った三人は、見つからなかった事実を教師に訴えると、教師は薬草の生息可能範囲を確認する為だと告げたが、授業の最終目的は持ち帰った薬草を調合する事だった。それでは本末転倒だと三人は詰め寄った。それに関して教師は何も言わなかったが、代わりに薬学の単位は落とされなかった。

「なんのかんの言って、後ろめたかったんだな」

呟いてカイゼルは鞄をひっくり返し、中身を全部出してしまう。残ったものはないかと中をのぞき込むと、内ポケットから紙袋がのぞいていた。

「あ、これ……」

シリカからもらった物だが、中は見ないままだった。特に意味はなかったが、開ける必要性も感じなかったのでそのままにしてある。

だがカイゼルも、ここまで来て考えを改める。たとえこの場ではシリカがこれを渡した意図は読めなくとも、いつかわかる時が来るかもしれない。

カイゼルは袋を鞄から取り出したが、ちょうどイリスの怒りがこちらに向かってきたので、取りあえず寝台の上にそれを置くと、わめく少女をなだめにかかった。



ギーヴルの足は船着き場には向いていなかった。

 朝市でにぎわう通りを逆送して歩く姿は多少人目を惹いたが、様々な民族がそれぞれの事情を持って通り過ぎる街の中、すぐにそれも当たり前の景色として忘れられた。

 彼は中心街から遠ざかり、さらに進む。その目には店先に並ぶ商品など映ってはいない。

彼は確固たる意思を持って、どこかに向かっていた。

街の中から、外へ。さらに林を抜けてたどり着いたそこは、カイゼル達が訪れた遺跡……白藍の砦だった。

だがギーヴルは砦には見向きもせず、代わりに空と湖の青が視界を埋め尽くすほど崖から身を乗り出す。そこから見える街は、地面に薄く貼りついて広がっていた。

「そんなところに立ってると、後ろから突き飛ばすわよ」

言葉の内容も物騒だったが、声音にはそれ以上のものが含まれていた。怒りを押し込めようとするあまり、平板になった声には、本気でそうしてやりたいという雰囲気があった。

 不穏な空気にも、ギーヴルは平然と答える。

「それは困るなぁ。それに、ワイを呼び出したんはそない物騒な用じゃないんやろ?」

振り返った先に女が立っていた。

炎のように赤く染まった髪を適当に結い上げ、露出度の高い衣装を着けている。だがそれは、男に媚びを売るような色気のあるものではなく、髪と同じようにどこか乱暴な印象を人に与えた。

女は胸の前で腕を組むと、皮肉っぽい笑みを浮かべる。

「殺してやりたいのは本当だけどね」

「おーこわぁ」

わざとらしく降参のポーズを取るギーヴルの態度に、女はむっつり顔のままで押し黙る。

 そのまま沈黙が互いの間に流れたが、先に抑圧に耐えきれなくなって口を開いたのはギーヴルの方だった。

「で、用事は何なんや。本当にワイをどうにかしに来たんなら、さっさとしろや」

ギーヴルの言葉に、女は薄く笑う。

「何を理由にお前を害する? 司祭を殺害したことか? それとも、勝手に|<慈悲深き蝶>(フェアリー)の指示から離れたことか?」

「まぁ、それ以外にある言われても……困るなぁ」

「その態度、言外に他にも何かやったと言ってるようなものだぞ」

「……お前、いったい何しに来たんや」

 顔をしかめ、立ち位置をずらして身構えるギーヴルに対し、女は初めて、友好的と取れなくもない程度には表情を緩める。

「心配するな、少なくとも、上の連中はたった一人の離反など大した脅威に考えていない。処分の話も聞いていない。ここに来たのは、個人的な理由半分、仕事半分だ」

女は笑みを消し、指を二本立てる。

「用件は、二つ」

どことなく硬い表情と、声。女はわざとそんな態度を取っているとギーヴルは感じる。そして見た目には押さえられている感情の裏に燃え盛る炎にも、気づいていた。

よほどその二つの用向きが大事なのだろう。ギーヴルが 黙って先を促すと、女は苛立たしげに叫ぶ。

「ひとつは、そう。あの子から盗った物を返しなさい」

「……は?」

ギーヴルは、しばらくぼんやりとしていた。事実、女の言っている内容がよく理解できなかったのだ。そしてようやくそれらしい事を思い出すと、女に食ってかかる。

「人聞きの悪い事ぬかすな。これは、もらったんやで」

「それがあの子の……シリルの性分だからよ! どうせあんたもしつこくシリルに付きまとったんでしょう」

「そないに大事なもんやったら、自分で管理しとかんかい」

言った後で、ギーヴルは後悔する。

彼女達に、そんな事はできない。

案の定、女はギーヴルの言葉に髪と同じように顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。

そのあまりの剣幕に、ギーヴルは頭の中で耳をふさいで音を切った。

だが、返せと言われて意地悪く取り上げるほど、ギーヴルの根性は腐っていなかった。

「……手、出してみぃ」

慌ただしく口を動かしていた女は、意外に大人しく静かになった。だが表情には不審感が現れている。それでも差し出された手のひらに、ギーヴルは懐から取り出したそれを載せるてやる。

「それが一番大きい奴や。あとは……粉々になってもうた」

女はギーヴルの言葉に首を傾げる。そして手の内にある金属と石の欠片を目に入れそうなほどじっと見つめて黙る。

ギーヴルは次に来る精神攻撃に備えて、今度こそ両手で耳をふさぐ。

「……ふ、ふざけるなぁ!」

ギーヴルが渡したのは、指輪だった物の破片だった。

元はマテリアを付けた、いわゆる魔器だったのだが、以前カイゼルが使用した際、力の負荷に耐えきれずに砕けた。

女は顔を赤くしたり青くしたりと忙しく表情を変えながら、ギーヴルに詰め寄る。

「マテリアは地上で金剛石ダイヤモンドと張れるほど硬度を持った物質だ。こんな……こんな、ガラス玉みたいに脆いはずがない!」

指輪にある石は、元の球形を留めていない。

「そや、お前の言う通りや」

驚愕に震える女を前に、ギーヴルはひどく落ち着いていた。

そう、自分は今まで奴が二度もそれマテリア を砕くのを見た。それでも、未だに信じられない。

壊れた指輪は彼らの常識を打ち壊す象徴のように見えた。

「けどそれをやったんは、間違いなく例のガキや」

ギーヴルの表情を見て、女の顔から怒りが消え、引きつったようなそれに取って代わる。

「……ふざけるな」

ようやく出たのは、それだけだった。だが前の言葉とは、込められた意味も感情も違う。

「そんな力が、あるわけがない。でたらめだ、馬鹿げている」

否定。自身の持つ常識からかけ離れたものを見たり、聞いたりした場合。大抵の人間はそれを拒否する。

「馬鹿なんは、お前や。マナール。そんなでたらめなもんやからこそ、お前らが狙うんやろ?」

彼女は静かになった。名前を呼ばれた事にすら、気づいていない。

大人しくなってしまった女の様子をいぶかしがるギーヴルの耳に届いたのは、かすれた笑声だった。

それは次第に高くなると、女……マナールは、胸元を覆っていたスカーフを剥ぎ取る。スカーフの下から、大胆に開いた胸がのぞく。白い肌に、ギーヴルは思わず視線を奪われる。

胸元には羽を広げた蝶の刺青があった。

「……面白いな」

マナールは不愉快そうな表情を緩めると、口の端を吊り上げて笑みの形を取る。

「それが、欠片を継ぐ者の資質か」

両の瞳に激情をたぎらせ、マナールはギーヴルをにらみつける。それを受けても彼は、表面上はまったく揺らいだ様子はなかった。

それに、今の彼女が燃やす感情は、彼には向けられていない。

「欠片を継ぐ者、ね。お前らが一生懸命探しとるらしいけど、何の隠語なんや、それ?」

 ギーヴルは思ったことを口に出しただけだが、マナールは言葉を額面通りに受け取らなかった。それどころか、いったんすべての感情を内に仕舞い込むと、笑った。

あからさまな嘲笑と侮蔑。

彼の無知をはるかな高みから見下ろす優越者は、笑った表情を崩さないまま告げた。

「言葉通りの意味だ。裡に欠片を抱いた者、それこそが創始者が求める存在」

「ガーデンを作った奴が……?」

 西側で信仰者の多い宗教『球状の楽園』ジャスパーガーデン。創始者の名はアーヴァン・キノッソとされている。ギーヴルにもその程度の知識はあった。

 もっと別のことも知っている。

 目の前の女は、そのガーデンが秘密裏に抱える組織〈慈悲深き蝶〉の一員だ。彼らは様々な、それこそ健全な信者には見せられない裏舞台で暗躍する。

 楽園の蝶は、婉然と微笑む。

「そう、欠片を継ぐ者を探すことが蝶の指名。そして、これがもうひとつの用件……『マドカ』が来ているよ」

 マナールの声音は穏やかだった。それを敏感に感じ取ったギーヴルは顔を上げたのだが、彼女と眼を合わせた途端、思わず身を震わせた。声を出さなかったのは、ひとえに忍耐の賜物だ。

彼女は変わらず笑っている。だがそこには、何も含まれていない。内心の動きに、表情がついて行けないのだろう。

 琥珀の瞳の奥で、冷たい炎が揺れている。

彼女は全身から怒りを吹き出していた。それの対象が自分ではないとは言え、ギーヴルは思わず一歩引き下がる。

「マドカから、用事が済むまで、あんたを例の子供から引き離しておけとの指令だ」

「ええんか、そないに内情ぺらぺら喋っても」

「どうせ、あれが動けば必ず騒ぎになる」

不穏な物言いに、彼は反射的に立ち位置をずらし、自身に有利な場所を取ろうとしたが、女の方が一歩早かった。

彼女は大振りな動作で右腕を下から上にかざす。それを見たギーヴルは、ほとんど勘だけで身を伏せた。次の瞬間、彼が今まで立っていた場所を、金の光が駆け抜ける。

軌跡は緩やかな弧を描くと、まるでそれ自身に意思が宿っているかのように、すっぽりと女の腕に収まった。

「残念、当たらなかった」

口調には微塵も悔しそうな響きはない。むしろ今の動きはわざと相手に攻撃の瞬間を教えたようなものだった。それでも彼女を知らない者なら、金の軌跡に身をえぐられていただろう。

彼女の両腕は、薄い金属の輪がいくつも連なり、触れ合うたびに軽やかな音をたてる。だがそれは見た目ほど優雅なものではない。円形の外側が刃になり、遠心力を使って相手に叩き込む。もちろん、それひとつを受けても致命傷には至らないが、普通の飛び道具と違って動きが読みにくい。おまけに刃に毒でも塗ってあれば、かすり傷でも死に至る。

ギーヴルは口中でうなる。彼はどちらかと言えば直線的な攻撃が主なので、彼女の武器が生み出す複雑な軌跡をとらえるのは苦手だった。

砦の周囲は切り立った崖に囲まれ、唯一の道はマナールが立ちはだかっている。通り抜けるのはさして難しくはない。だが問題はその後、女に背を向ける瞬間だった。

一番無防備になる時を、マナールは見逃さないだろう。先に彼女自身を叩くにしても、近接戦闘に持ち込んだ彼の背後に飛び道具チャクラムが狙うだろう。

一瞬、このままその用件とやらが終わるまで、彼女と睨み合っていようか、と不毛な考えが浮かんだ。もしも女が本気なら、最初の一撃をわざと外す必要はない。だがただの時間稼ぎにしては、妙に彼の神経を荒立てるような行動ばかりを取る。

「かかってこないの? 今のマドカは気難しいところがあるから、あの子供をはずみで傷つけるかもしれないけど?」

あからさまな挑発に乗るほど彼は愚かでも短慮でもなかった。それでも、気にならないと言えば嘘になる。

「……しゃーないなぁ。顔に傷がいっても責任は取れへんで」

彼も、〈マドカ〉の噂は聞き及んでいた。

だからこそ、彼女の挑発を受けて一歩踏み出す。

ギーヴルは段平を肩に担ぐような格好で走り出す。初速から、重量武器を背負っていることを感じさせないばねのような動きに、あっという間にマナールとの距離が縮まる。

女は唇を引き結び、琥珀の瞳に剣呑な光が宿る。

両腕を外側に向かって大きく振り上げる、それだけの動作で虚空に金色の輪がいくつも散った。

そのどれもが、標的とは見当違いの方向に飛んで行った。マナールはそれには躊躇せず、指にチャクラムを遊ばせながら後退する。

ギーヴルはさらに加速すると、勢いのまま段平を振り下ろす。斬るというより、すべてを叩き潰すような攻撃。そこにためらいの色はなかった。

だが、ギーヴルはあと一歩というところでいきなり踏み止まり、身体を旋回させた。一緒に段平も振り回すと、耳障りな金属音が盛大に巻き起こる。彼は飛来したチャクラムを三つ地面に弾き落とすと、逃した標的を探す。

マナールは踊るように奇妙な動きで左右に振れながら、ギーヴルと距離を開ける。後退する彼女が腕を振り上げるたびに、待ちかねたようにチャクラムがその腕に収まった。見る者には、金属の武器に意志が宿っているように思える光景だった。

だがそれはあくまで無機物でしかない。その証拠に、一度地に落ちた輪に動く気配はなかった。ただ、他者にそう思わせてしまう、彼女の使用者としての技量が凄まじいだけ。投げるタイミング、軌道を正確に読む目と、それに合わせて動ける体さばき。

マナールは戻って来た輪を、再び中空に放り出す。すべて違う方向に飛び去り、次にどんな角度で戻って来るのか予想もつかない。

ギーヴルは彼女が第二撃を放つ前に、その姿を視界に据え、段平を携えて疾走する。

地面を縮めるような走り方にもマナールは動じず、むしろ嬉々として近づいて来た。

だがギーヴルが彼女の間合いに入り、段平を振り下ろそうとした直後に、彼らの間を割って入った金光に、ギーヴルの動きが一瞬、鈍くなる。

マナールは横切ったチャクラムを左手で受け止めると、すぐさま投擲する。それをギーヴルは上体を反らしてかわした。顔の横を過ぎて行ったチャクラムには目もくれず、体勢を立て直そうとしたギーヴルの目に、マナールの不敵な笑みが見えた。それをいぶかしく思う間もなく、彼はほとんど垂直に落ちてきたチャクラムに右腕を縦に切り裂かれた。

先ほど投げつけられたものとは違う輪だった。

チャクラムは服を切り裂いたが、傷は皮一枚で済んだ。元々殺傷能力の低い武器の為、直撃でもしない限り致命傷には至らない。

「……やってくれたな」

傷は浅いが、その部位は二の腕から手首の辺りまで走っている。じくじくとにじみ出る血を見て、ギーヴルがうめく。

「あんたに殺気がないからだよ。ギーヴル、剣を振る勢いはいいけど、あたしを殺すつもりなんてないんでしょう?」

マナールは乱暴に言い放つと、口調そのままにチャクラムを放り投げる。

「ま、正直言うと、殺すのは嫌やな」

ギーヴルは段平を掲げて跳ぶ、女の顔が近づき、背後を飛んでいたチャクラムがその動きを見越したように追撃にかかる。背後からだけでなく、左右、そして上、さらには地をすれすれまで這うような動きをする輪が、突然、弾かれたように飛び上がる。これらの動きを微妙な指先の加減ひとつで行うのだから、マナールの技量は底が知れなかった。常人なら、軌道を読むこともできずに全身を切り裂かれていただろう。

ギーヴルは今までと同じように直線で迫る。後方では空を切り裂いてチャクラムが飛び交っていた。

だがギーヴルは突然、段平を手放した。身軽になった彼は地面を蹴って飛ぶと腕を伸ばし、マナールの胸倉をひっつかむ。不意をつかれたマナールは、腕のチャクラムを放つ暇もなかった。ギーヴルはマナールを引き寄せると、抱きしめるような格好を取ったが、そのままくるりと立ち位置を反転させる。そうやって、軽く相手の足を払うと、彼女の身体は簡単に倒れた。ギーヴルもすぐに身を伏せる。直後、彼らが今まで立っていた場所を五つのチャクラムが行き過ぎ、近くの木立に突き立って止まった。

マナールは倒れた格好のまま、目を丸くしている。

あのまま彼女が放り出されていれば、自身の放ったチャクラムで切り裂かれていただろう。

「殺し合いをする前に、お前にはまだ聞きたいことがあるんや」

彼女は身を起こすこともせず、ぶっきらぼうに言った。

「聞きたいこと? 大体察しはつくが、こんな三下が、細かい事情など知るわけないだろう」

「違いない」

「それなら、こっちも聞きたい。あんたこそ、この件に首を突っ込んでどうするつもりだ」

「お前らには、どうでもいい話しや」

「どうでもいい、ね。確かにそうだ」

マナールは上半身を起こすと、そのままかくりと首を落とした。

唐突さにギーヴルは声もかけられずにいたが、ややあってから、彼女は再び動き出した。のろのろとした動作で頭に手をやると、髪留めを外す。ばらばらと落ちた赤毛が表情を覆い隠してしまった。彼女はそれを意に介さず、ふらりと立ち上がる。腕から、残っていた輪が滑り落ちて行った。

彼女はゆっくりと顔を上げた。だがそれまでとは違い、目線の位置がおかしい。相手の目元ではなく、その少し下を見ている。威嚇するような態度もなくなり、どこか呆けたような感じだった。

「シリルか」

返事はない。しかし、わずかに首を縦に振った。

ギーヴルはいきなり変わった女の様子に、苛立たしげに頭をかき回す。

「都合が悪いとすぐに引っ込むんやから、かなわんわ」

彼女はギーヴルを見ても、眉ひとつ動かさない。仮面を変えたように、今までの印象を拭い去ってしまった姿は、滑稽だがどこか違和感を覚える。苛烈な性格から一転して人形のように無反応になってしまったのだから、なおさらだった。

彼は今までにも何度か『変化』を目の当たりにしていたが、それでも慣れるものではない。

突然、今まで目の前にいた人間が、そっくりの人形に置きかえられたように静かになる。そう思っていたら、人形がありとあらゆる罵声をまき散らし、派手な格好をする。

同じひとつの身体を共有している、違う人格。

「多重人格か。やっかいやな、色々聞こうと思とったのに。お前は人の言うことは何でも聞くが、自分では何もできへんからな。もちろん、口答えも」

あからさまな非難の言葉も、彼女には何の効果もなかった。

「まぁ、三人目が出て来られるよりはましやったけど。あれは聞くところによると、マドカ以上に恐いらしいからな、会わへん方が身の為や」

彼が聞いた人格は、全部で三人。

気性の激しいチャクラム使い、マナール。

マナールとは違い、何も喋らず、与えられた仕事を淡々とこなすだけのシリル。

そして、名前もわからないもう一人の人格。

本当の主人格が誰なのか、誰も知らない。もしかすると、まだ現れていないのかもしれない。

「しゃあない、あんたはもう帰るんやな。足止めももう充分やろ」

シリルはうなずくこともせず、踵を返して歩き出す。ギーヴルは段平を拾い上げると、何の躊躇もせず彼女を追い抜いて行った。


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