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3-4「空を見つめていた」

   第四章「空を見つめていた」



 夜気をはらんだ風が、頬を撫でる。

 そこは奇妙な場所だった。

 闇に沈んだ色のない時間に、その世界は艶やかな輝きを放つ。壁面を縦横無尽に走るひびは奇妙な幾何学模様を描き出し、非常に美しい情景を醸し出していた。

「何なんだ、ここは……」

 一歩踏み出す度に、かしゃりと音をたてて新たにひびが入る。

「ずいぶん脆いわねぇ」

「おまけに狭いし」

 場所は切り立った崖の底だった。底面は馬車一台が通れるほどの幅しかなく、押し迫ってくるような壁面に圧迫感を覚える。崖の上には木々が生い茂り、星明かりもわずかにしか届かない。吹く風に、どこかの壁面が崩れて落ちる。

「硝子谷か……」

 彼らにとってはなじみのない場所だったが、この様な地形は大陸中のいたるところで確認されている。しかし、地質学者が懸命に調査を重ねたが、この巨人の爪痕のような裂け目ができた理由を見つけられないでいる。

「きれいねー。さすが、隠れた観光名所ね」

「名所かどうかはともかく、隠密行動には向かない道だね」

 彼らが足を踏み出す度に、地面が割れて盛大な音をたてる。これなら河原を歌って歩いた方が静かだ。

「だから監視の目も少ないと。でも、こんなに足場の悪いところを進んで国境越えは辛いな」

 正確な距離はわからないが、黒帝騎士団が巡回している国境線を通過するまで、途中休憩を挟めば二日はかかるだろう。

「でもほとんど一本道で国境を通過できるし、監視の目も届かない。シリカもいい抜け道を見つけたわね」

「逆を言えば、シリカが知っていて、騎士団が知らないわけがないんだよね……」

 ヘーゼは今すぐ追っ手がかかって来るのではないかと、必要以上に周囲を警戒する。

「なに気弱なこと言ってんのよ。何から何まで心配して動かなかったら、せっかくの機会も棒に振ることになるのよ」

 イリスはいつものように、軽く笑う。危機感が足りないというより、完璧に状況を楽しんでいる。

「正論だが、イリスはその……もう少し躊躇するというか、結果を考えて動いた方がいいと思うぞ」

「結果なんて後から付いて来るものだし、それが正しい選択かどうかなんて、それこそやってみないとわからないわよ」

「そんな運試しのような判断で、人の人生を引っかき回さないでよ!」

 ヘーゼは早速、もう帰ると回れ右をするが、小山のような荷物を背負っている為、そうそう機敏には動けない。

「ヘーゼ。帰るのはいいけど、すぐには無理そうよ」

 イリスが指さす先に顔を向け、そのままヘーゼは表情を硬直させる。

「なっ……!」

 カイゼルも、事態に気づいて声を上げた。

 崖の両側に現れた複数の人影は、ためらうことなく垂直に近い壁面を器用に滑り降りてきた。そして背後も同じようにしてふさがれる。

 一見安全に見えた経路だが、脇道がない以上、両側をふさがれると簡単に押さえ込まれる。これが黒帝騎士団が常時監視員を置かない理由のひとつだった。

 人数は前後合わせて十人にも満たない。全員が武器を携帯しているが、奇妙なのがそのどれもが普通の格好をしていることだった。簡素な旅装束の者もいれば、ちょっと酒を買いに出るような気軽な者もいる。共通点は黒い覆面くらいだった。

「大変申し訳ないのですが……」

 声と同時に人の壁が割れ、そこから女が一人歩み出てくる。彼女だけは覆面を付けていないが、彼らの見知った顔ではない。だがカイゼルだけは遠目でその姿を見ていたはずだったが、印象になかったのと、闇が手伝って判別つかなかった。

 女……ガーデンの派遣司祭イレインは、崖を滑り降りた際に汚れた裾をはたきながら、それでも優美な笑顔を浮かべる。

「私達がお連れするのは一名様限りとなっております」

 そこで一礼すると、覆面男達がそれを合図に迫ってくる。

「ずいぶん唐突なご招待ね。でも、誰も招待状なんて持ってないわよ!」

「だ、誰だよこんな人達呼んだの?」

「俺が知るか! っていうか、俺のせいだったらすまん!」

 三人でひとしきり叫んだ後、壁を昇ろうとしたイリスにヘーゼが踏み台にされたり、不安からカイゼルにつかみかかって来たヘーゼをイリスと二人がかりで張り倒す。

「ど、どうするんだよぉ……」

 べったりと倒れ伏したヘーゼが、情けない声を上げる。

 ヘーゼに言われなくとも、最悪な状況に陥っていることはカイゼルにも理解できた。三人は訓練校で戦闘訓練を受けていたが、しょせんは訓練でしかない。実際、今のように武器を持った複数の相手に囲まれた状態で、素手で立ち向かえるほど場慣れしていないのだ。

「あぁっもう! こんなことしてる場合じゃないのにっ!」

「それをイリスが言うのかっ!」

 無意味に慌てふためく三人に、覆面男の手が伸びる。

 と、その内の一人が唐突に進路を変え、遠巻きに様子を見ていたイレインに向かって突進する。

 覆面男は、突撃の勢いを弛めぬまま、背負った幅広の剣を抜き放ち、そのまま振り下ろした。

 剣の重量と勢いの乗った一撃を、イレインは信じられない跳躍でかわした。剣先が長衣の裾を切り裂き、そのまま地面をえぐる。破片が舞い上がり、黒い雪のように周囲に散った。

 イレインはそのまま壁づたいに蹴り上がり、崖の頂上から、背約者に襲いかかる。しかし覆面男はすぐに後ろへ飛び跳ね、間合いを取った。司祭は崩れる足場で水面を跳ねる小石のように駆け、男の軌跡を追って、腕を振り下ろす。

そこから繰り出されたのは、細いナイフだった。

刀身は星明かりの中でてらてらと異様な輝きを見せている。男はナイフの軌道を読み、正確に避けていく。だがその動きはただ避けるにしては大きすぎた。

 急所に刺さらない限り、殺傷能力の低いナイフの攻撃に対し、男が大仰な動作で避けたことを考えると、おそらく刀身には毒が塗られているのだろう。

 その場は混乱していた。

 仲間だと思っていた男が、突然彼らの指導者に剣を向け、今は互いに睨み合ってぴくりとも動かない。

 助けに出るか、それとも当初の目的を果たすか。

 揺れているのは、彼らだけではなかった。

 カイゼル達もまた、その場から動くことができなかった。

 そんな混乱を知ってか知らずか、幅広の長剣……段平を持った男は、それを地面に突き立てると、今度は無造作に覆面に手をかけ、一気にはぎ取った。

「くぁーっ! 息詰まるわぁー!」

 覆面を投げ捨てると、手ぐしで髪を整える。くすんだ金髪、ひょろ長い体躯に、民族衣装のような長衣を羽織っている。そして一通り不満を漏らした後、無造作に段平を持ち上げて肩に担ぐようにすると、くるりと背後を振り返る。

「おう、ガキども。久しぶりやなぁ」

 言って、呆然とするカイゼル達にひらひらと手を振ってきた。

 三人は男を知っていた。

「……そうだな、一年ぶりくらいか?」

「出現の仕方が唐突な上に、間が悪すぎ!」

「あぁ……また何だか厄介ごとが雪崩のように襲ってくる……」

「お前ら、感動とか再会の喜びとかないんか!」

 だるそうに受け答えをする三人に、元覆面男ギーヴルは叫んだ。

 だが三人の反応も、当然だった。

 男は昨年起きた誘拐事件に深く関わる人物で、当時カイゼル達と立場上は敵対していた。その為、先ほどギーヴルが言ったような感傷に浸るのは難しい。

再会自体は、驚嘆に値すべき事なのだが。

「ったく、せっかく助けてやったっちゅうのに……」

 ぶつぶつと文句を漏らしていたが、不意に段平を振り下ろす。鋭い金属音の後に、地面にナイフが二本落ちた。さらに振り下ろしながらギーヴルは、後ろに下がって立ち位置をずらす。そして彼が先ほど立っていた場所に、ナイフが突き立った。イレインはわずかな時間差をつけてナイフを放ったらしい。

「人が再会の喜びを分かちおうてる時に邪魔すんな。無粋な奴やなぁ」

「……そういうことは、余所でやって下さいな」

 子供をたしなめるように柔らかく答えるイレインに、ギーヴルは不敵な笑みで返す。

「ワイは面倒くさがりやからなぁ、そんなに見たないんやったら、あんたらが帰ったらええんや」

「それは無理ですね」

 イレインは困ったような笑みを浮かべると、両手を軽く振った。それだけの動作で指の間に何本ものナイフが出現する。その様を見て、ギーヴルは凶暴な笑みを見せる。

「まぁ、そっちの方が話は早いな。あんたらに戻って、司教様にでもちくられたらワイが困るからなぁ」

「神はいつでもあなたを見ていますよ」

「そんな都合のええ神なんて……知るか!」

 ギーヴルは段平を構えて疾走する。派手な音をたてて地面がはぜ割れ、舞い上がる。それを切り裂くようにして迸る銀光。ギーヴルは段平の一閃で飛び来るナイフをすべてはらい落とす。だがイレインは背中に手を回しながら後方に跳躍すると、新たに握ったナイフをすかさず放つ。

「……何なんだよ……」

 カイゼルの呟きは、その場にいる全員の考えだった。戦闘を続ける男女を遠巻きに眺めるだけ。手を出そうにも、ギーヴルは段平を大仰に振り回し、イレインは一瞬の間も置かずにナイフを放ち、人間離れした跳躍力で駆け回る。

 だが先に忍耐が尽きたのは、覆面男達の方だった。彼らは何を思ったのか、じりじりとギーヴルに近づき、無謀にもつかみかかろうと手を伸ばす。ギーヴルはそれらを腕で払いのけ、道をふさぐ者は容赦なく斬り捨てる。

彼はさらに加速すると、イレインに向かって段平を腰だめに構えて突進する。それを見た司祭はまるで子供を受け入れるように両手を広げて微笑んだ。

 段平は易々とイレインの胸に突き立ち、剣先は背中を突き抜ける。そのまま勢いに任せて駆け抜け、ギーヴルは崖にイレインの身体を串刺しにした。

 激しく息をつくギーヴル。顔を上げると、イレインと目が合った。彼女は透明な微笑みを浮かべると、何かを飲み込むような動作をした後、がくりと力を失う。

 ギーヴルは反射的に段平を引き抜くと、そのまま後ろに倒れるようにして転がる。

「ふせろ!」

 その叫びを、とっさに理解できた者は少なかった。

 直後、閃光と衝撃が周囲を襲った。

 イレインの身体は内側から膨れ上がると、爆発、四散した。

 衝撃に人は吹き飛ばされ、勢いのまま地面や壁に叩きつけられる。風化していた硝子質の壁は、衝撃に崩れ落ち、滑らかな破片が月光を反射して虚空を彩る。

 だが被害は爆発の衝撃だけではなかった。イレインが隠し持っていたナイフが、爆風で打ち出され、近くにいた者達に襲いかかった。深々と突き立つナイフに、人は倒れていく。

 爆風が収まった後、静けさは戻ったが、代わりに苦痛に呻く声があふれる。

「あいたたた……」

「何かここ最近、よく吹き飛ばされている気がする……」

 カイゼル達はイレインからは離れたところにいたので、打ち身と擦り傷程度で済んでいた。

「ギーヴルも、助けるならまず私達の安全を確保してからにしてよ!」

 とうてい無理な要求を叫ぶイリスを後目に、カイゼルはギーヴルの姿を探した。人間爆弾となったイレインのすぐ側にいたのは彼だ、当然彼らよりも重傷を負っているはずだった。

「ギーヴル!」

 カイゼルの呼びかけに、応える声があった。

「……おう、ここや」

 暗闇に目を凝らすと、ギーヴルが崖に身体を押しつけるようにして立ち上がり、ゆっくりとだがこちらに向かって歩いて来るところだった。

「しっかし、自爆するなんてなあ。かなわんわ」

 声は多少頼りなかったが、軽口を叩けるくらいの気力はあるようで、差し迫って生命の危機というようなことはないらしい。

 こちらに近づきながら、やたらと文句だけを並べていたが、その口が唐突に止まる。

「……なんや、まだ動けるんか」

 ギーヴルを包囲するように、数人の覆面男達が動き出す。

「よくも司祭様を……」

「神の意志に逆らうか!」

「背約者め!」

 一人が飛びかかったのを合図に、動ける者全員がギーヴルを押し潰すように迫る。

「ギーヴル!」

「待ってカイゼル!」

 カイゼルは倒れたままだったヘーゼに足を引っ張られ、そのまま転倒する。何とか手をついて顔から落ちるのは防いだが、硝子質の破片が手に刺さり、痛みにもだえる。

「へ、ヘーゼ……」

 カイゼルが痛みと怒りを、実力行使で返そうとした時、それは起こった。

 先ほどとよく似た爆発が彼らを襲う。

 そしてカイゼルは、その日三度目。他の二人は二度目の衝撃と爆風で、地面を木の葉のように転がる。さらに今回は、叩きつけるような風が、文字通り彼らを吹き飛ばす。

 あまりの風圧に呼吸が止まり、衝撃の激しさに意識が寸断される。

「…………っ」

 一瞬気を失っていたカイゼルが、次に目を開けた時には荒れ狂う風は収まり、巻き上げられた破片が静かに彼の上に降り注いでいた。

 倒れた姿勢のまま、首だけ巡らすと、同じように倒れている二人を見つけた。

「……生きてるか?」

 ようやく身を起こすと、二人とも意識はあったのか、わずかに身体を動かし、苦痛の声を漏らす。

 周囲は静かだった。先ほどまで満ちていた呻きや呪詛の声は途絶え、聞こえるのは崖の表面が砕けて落ちる音だけだった。だからこそ、突然響いた足音に、カイゼルは心底驚いた。

 ゆっくりと地面を踏み砕いて近づく人物に、カイゼルはわずかに後ろに下がった。

「生きとったか? なかなか頑丈やな」

 姿を見る前に、その言葉にカイゼルは安堵の息を漏らす。

「ギーヴルこそ、あの爆発でよく無事でいられたな」

 目の前に立つ彼からは、焦げ臭い匂いがする。衣服の所々が焼け焦げ、どうやらまったくの無傷とはいかないらしい。

「ワイには神様なんかよりも、よっぽど現実的なお守りがあるんや」

 言って不敵に笑うと、胸元に手を突っ込んで首に下げていたものを取り出す。長めの鎖の先にぶら下がっているのは、ひとつの指輪だった。編み目のように細かい金細工が施され、中心には透明な石がはめ込まれている。女性用なのか、繊細なデザインのそれは輪が小さめに作られている。

「もしかして、それは……」

 カイゼルは痛みも忘れて立ち上がる。

「そう、マテリアや。これは風を起こすしか能がないんやけど、がんばれば台風並みの威力も出せるで」

「とんでもない災害よ! おかげでこっちは被害甚大だわ!」

 復活したイリスに詰め寄られ、ギーヴルはマテリアに伸ばされた手を軽くかわす。

「まぁ、お互い助かったんやし、ここは結果よければすべてよしやな」

「……い、今のはとことん怖かったんだけど」

 かたかた震えながら、ヘーゼはカイゼルの後ろで怯えている。ギーヴルに喰ってかかるイリスの怒りの矛先が、いつ自分に向くのか戦々恐々しているのだろう。しがみついてくる幼馴染みは無視し、カイゼルはギーヴルに声をかけた。

「なぁ、ギーヴル」

「なんや?」

「さっきあんたは俺達を助けに来たって言ってたけど……」

「助けに来た割には、ちゃっかり敵さんの中に入ってるあたり、怪しいよね」

 ヘーゼのつっこみを、カイゼルは脇と腕で首を締め上げて黙らせる。

「それに関しては、あんまり信用せえへん方がええで。こいつらの仲間になっとったんは、ワイの都合で、お前らを助けたんも……まぁ、成り行きってのもあったが、ワイの都合や」

「つまり、状況が変われば私達を売ることもあるわけ?」

「とりあえず、今は味方と思とってええで」

「限りなく不安な言い回しだな……」

 懊悩するカイゼル達に、イリスはいつもの調子ではっきりと答える。

「いいじゃない別に。普通に、危ないから助けに来ましたっていうより、よっぽどましな理由だわ」

 イリスはあっさり割り切ったらしい。物事を素直に受け入れることも彼女の特権だが、単に節操がないだけかもしれない。

「ギーヴルのことは置いといて、こいつらはいったい何者なの?」

 周囲に転がる塊、彼らはそれが何かを認識したくなかった。今ほど暗闇でよかったと思った瞬間はない。

「こいつらは、簡単に言えば裏の連中や。ある組織が非合法に抱える集団で、見ての通り危険でどうしようもない連中や」

「その、ある組織って何よ。もったいつけずに教えなさい!」

「ワイ、説明は苦手なんやけど……」

 言いかけて、ふと思いついたのか、くるりと踵を返す。そのまましばらく周囲をうろついていたが、目的の物を見つけたのか、しゃがみ込んで見聞した後、三人を呼びつける。

「ここを見ろ、これはな……」

「ちょっとそれ、死体じゃない!」

「今の状況でそんなえげつないことするか?」

「うぅ……死者への尊厳ないね……」

 口々に言いたい放題言われ、ギーヴルは握っていた死体の手を離して立ち上がる。

「ワイは十分譲歩したつもりやで……なんなら、『部分』を拾って来てそれで説明したってもええんやで?」

 完全に座った眼差しで見下ろされ、彼らは一様に黙った後、同時に口を揃える。

「どうぞ、続けて下さい」

「おお、素直なガキは嫌いやないで」

 言って再び死体の前にしゃがみ込むと、男の右腕を取り、革手袋を外しにかかる。

「……ワイは、あれからトル・トパァンを渡って西側に行っとった」

 取った手袋を、ギーヴルは無造作に放り投げた。

「お前らも聞いたことはあるやろ、西側にある二つの強国の存在……シンフォルン聖教国と、ギィカウ君主国」

 男の手の甲には、羽を広げた蝶の入れ墨があった。

「さっき、こいつらがあの女の事を司祭なんてぬかしとったやろう。簡単に言えば、相手は宗教やっとる連中や」

「宗教……西側で宗教なんて言えば……」

カイゼル達の持つ知識で出てきた名前は、たったひとつだけ。

「ガーデン……球状の楽園ジャスパーガーデン

「シンフォルン聖教国……でも、何でそんなものが僕達を……」

「奴らの標的は一人や」

 ギーヴルはことさらゆっくり立ち上がると、三人の顔を順番に眺める。そして淡泊に告げた。

「こいつらの狙いは、カイゼルや」



 彼らは逃げていた。だが足元は脆い上に、気を抜くとすぐに滑る。追っ手は崖の両側から、馬を使って迫っていた。実際はとっくに追いつかれていたが、相手は入り組んだ木々をすり抜けるのに苦戦し、彼らを追い抜いて先回りするまでには至らない。対して彼らは、壁面に足をかけることもできないくらいに脆い崖の底で、ただひたすら逃げるだけだった。

「ちょっと! 何で黒帝騎士団がこんな所にいるのよ!」

「そりゃあ、いくら警備が雑な区域でも、ここまで派手な騒ぎを無視するほど怠慢じゃなかったって事だろ!」

「あぁ、職務に忠実なんだね……」

「嘆くな! お前ら、何か他に道知らんのか?」

「騒ぎに荷担していた敵その一だったくせに! ギーヴルこそ、自分が盾になってる間に私達を逃がすとか、そのマテリアを逃亡資金によこすとかしなさいよ!」

「えぇい! 無茶なことを二つもぬかすな!」

 彼らは状況説明や、事態の把握もそこそこに、駆けつけた黒帝騎士団に発見され、現在まで不毛な会話を展開しながら、ただひたすらに走り続けていた。

「あ……確かシリカが、この道は一ヶ所だけ他の硝子谷と交差してるから、道を間違えるなって言ってたけど……。それに昔地質調査が行われた時、その分岐点に運搬や人の昇降の為に階段が作ってあるって」

カイゼルの言葉に、ギーヴルは救い主を見つけたような顔になる。

「それやぁ!」

「なに、もしかしてその階段から地上に戻るの?」

「ここまで事が大きくなった以上、こんな目立つ場所を歩いとってもしゃあないわ」

「私賛成! もう足が痛くてたまんないわ!」

「けど奴らを振りきる為に、一晩歩き続けてもらうで」

 不平はそれこそ、三人の口から同時に出た。

 だが考えることは、黒帝騎士団も同じだった。降りるだけならどこからでも可能だが、その逆は難しい硝子谷の中では、一方さえふさげば、中にいる者は網にかかった魚よりも簡単に捕らえられる。

「……なんか、騎士団の方々は先回りしているような気がするんだけど」

先ほどから、彼らを追っていた気配が途絶えている。しかし足音がうるさいので、それすら確認できない。

「ならもう一度、谷の入り口まで戻るか?」

「多分、さっきの爆発の現場に、何人かおるはずや。戻ったらそれこそ一網打尽やで」

「あぁ、進むも戻るも結果は同じ……」

カイゼルとギーヴルに冷淡に突っ込まれ、ヘーゼは目の端の涙をぬぐう。

「大体、何でお前らこんな所におんねん」

 ギーヴルは苛立ちを隠そうともせず、三人にぶつけてくる。

「カイゼルがシリカにこの道を聞いたから」

「一本道で国境を越えられると聞いたから、つい」

ヘーゼとカイゼルの返事に、ギーヴルはしばらく悩んだ後、実に冷静に切り出した。

「なら、別に谷に降りんでも、谷の両側にある森を突っ切れば、身を隠すこともできたんとちゃうか?」

「そう言えば、そうだな」

「イリスが突き進むから……」

「えーでも、景色はきれいじゃない?」

「お前ら……ほんまに何も考えてないんかっ!」

三人はギーヴルの叫びを無視して、責任の擦り付け合いを始めている。

「カイゼルがこんな道を通ろうなんて言ってくるから!」

「俺は他にも抜け道を聞いていたが、イリスが地質学的に貴重だとか何とか言うからこっちにしたんだろうがっ!」

「やっぱり素直に市門から出ればよかったんだぁ! いや、そもそも、旅に出ること自体をやめればいいんだよ。むしろ黒帝騎士団の皆さん! 僕を保護して!」

 とうとう我慢の限界だったのか、ヘーゼは夜も裂けろとばかりに声を張り上げる。

「ちょ! やめろヘーゼ!」

「黙らないと、後ろのギーヴルがヘーゼを真っ二つにするわよっ!」

「ガキどもっ! ええ加減にせんかいぃぃっ!」

イリスとカイゼルは、後ろから張り倒された。その隣でヘーゼも、同じように突き飛ばされて地面を転がる。

「うぅぅ……ひどい、僕は自由になりたかっただけなのに……」

 ヘーゼは背負った荷物の下で泣きだしてしまった。

「なんてひどいことするの、大人のくせに、大人げないわよ!」

口では非難しても、イリスはヘーゼを助けには行かない。

「やかましいわ。大体、お前らどこまで走るつもりなんや!」

「え……?」

 彼らはようやくあたりの状況に目を向ける。周囲は唐突に開け、ちょっとした広場のようになっている。だがよくよく目を凝らすと、そこは十字路の中心のようになっているだけで、未だに谷の底にいることには変わらない。

 そして、彼らの前に立ちはだかる者達がいた。

巨人がでたらめに付けたような爪痕の中で、彼らはお互いの姿を認識する。

「黒帝騎士団っ……!」

 先ほどから彼らを追いかけていた騎士団は、唯一の出口から先回りしたらしく、今は行く先をふさぐようにして展開している。人数は、五人ほどだった。抜刀していないところを見ると、捕まったところで差し迫って命の危機というものはないらしい。だが問題は、いかにして騎士団の追跡から逃れるかだ。少なくとも騎士団は、彼ら全員が崖を登って身を隠すまで黙って見ているほど無能ではない。

「こうなったらギーヴル、刃物を持ってる人の代表として、特攻かけてね」

「そないな代表は嫌や。そんなに戦いたいんやったら、自分で行かんかい!」

「でもほら、ギーヴルが騎士団の注意を引きつけている間に、僕達が逃げれば……」

「で、ワイは自力で逃げろと? なめたことぬかすとお前から先に突き出すぞ」

言いながらギーヴルは、ヘーゼの頭を鷲つかみにしてから足を使って器用に地面に突き倒す。そのまま背中に足を乗せるのも忘れない。

「あぁっ! 口よりも先に手が出るんだね!」

背骨がきしむほど強く踏みつけられ、ヘーゼは顔にはっきりと死相を浮かべる。

「ギーヴル、その辺にしてくれないか。ほら、騎士団の方々も、対応に困ってるじゃないか」

カイゼルはこちらの動向をうかがうあまり、動けなくなっている騎士団員を指さす。

「おー。確かにこんな所でガキ一人殺っても何の解決にもならんしな」

「いや、あの……殺さないでくれ。頼むから」

ヘーゼはギーヴルの言葉を聞いて、足の下で必死にもがく。だがギーヴルはうまく重心を移動して踏みつけているので、未だにヘーゼは起き上がることもできずにいる。

「けど、ワイが動くんはごめんや」

言ってギーヴルは足を外すと、方向も確かめずにヘーゼを蹴り飛ばした。ヘーゼは開放された喜びと、蹴りの衝撃に激しく二転三転した後、突き出た岩に後頭部を強打して静かになった。

「けどっ! 実際問題、今、満足に戦えるのはあんたしかいないんだよ」

目の端でヘーゼの行方を追いながら、カイゼルはギーヴルに詰め寄る。

「もういいわよ別に、そんなやる気のない人は放っといて、私達で何とかしましょう」

イリスはヘーゼをつついて遊んでいる。どうやらもう状況に慣れてしまったらしい。

「ほんまにどうにかできるんなら、ワイは手を貸さんけどな」

「何か、含みのある言い方だな」

「いや、ええで。お前らは三人仲良く捕まってくれ」

 言って、ギーヴルはひらひらと手を振ってみせる。どうやら本当に、彼自身が動くつもりはないらしい。

「……ギーヴル。俺達は、例え状況はどうあれ今は仲間だ。その、そういうのとは、ちょっと違うかな?」

 言いかけて、カイゼルは言葉をどう選ぶか迷ってしまい、腕を組んで唸る。

「手を貸してほしいんか?」

「え……その……」

「どないや、いらんのならワイは帰るで」

「まぁ……そうなんだよ!」

ギーヴルはその答えを聞いて、口元に意地悪い笑みを浮かべる。

「な、何だよその笑い方は……」

カイゼルはそれにただならぬものを感じ、大げさに後ろに下がる。だがギーヴルはそれを許さず、カイゼルの手首をつかむ。

「ちょっと手を貸してくれたらええんや」

どんな手だ、と叫びそうになった言葉を飲み込む。

「お前なら、できるんや」

その思いつめたように凄んだ目に、カイゼルは自身の言動を激しく後悔した。

ギーヴルはカイゼルの動揺を知ってか知らずか、笑みを張り付かせたまま自身の襟元に手を突っ込む。引っぱり出したのは、例の指輪だった。

「取れ」

「…………」

カイゼルは目の前に下げられたそれを、無反応に受け取る。

それを見てギーヴルは、手首から腕を放して一歩離れた。

「ギーヴル……俺は……」

指輪の力は、よくわかっている。だがカイゼルの胸中をよぎるのは、別のことだった。

手の内にあるそれは、繊細な見かけとは裏腹に、恐ろしい能力を秘めている。

彼はかつて、その力の片鱗を目にした。いや、自身で発現し、その恐怖をばらまいた。

己の意思を離れて膨れ上がる力。押さえようと焦るほどに、力は勢いを持って流れ込み、荒れ狂う。

方向性を失った力は、停滞することも消滅することもできず、ただその場に四散した。

そして、人を、傷付けた。

「だめだ、できない……」

カイゼルの中には、今も根強くその時の光景が、強い嫌悪感と共に残っている。

「それに殺傷能力はないで。ただ風を起こして、奴らを吹き飛ばすだけや」

それでも、カイゼルはギーヴルの言葉を拒絶するように俯いてしまう。その様に、ギーヴルはカイゼルの肩をつかむ。

「何をためらうんや。目の前に立つ者は、すべて敵。迷えば、それだけ己が傷付くし、最悪、死ぬかもしれんのやで」

「……敵じゃない……」

 カイゼルは戸惑いと嫌悪に歪めていた顔を、さらに引き締めた。

「あの人達は、俺の敵じゃない。人間だよ!」

「なら、大人しく捕まって戻ればいいんや。けど、今、皇都を出られたんは偶然や。次はないで」

次はない、その言葉にカイゼルは身を強張らせる。

「お前を狙うのは、ガーデンの奴ばかりとは限らへんで。あの国の中にもおる。お前は今、景品みたいに奪い合いになっとるんやで」

「そんな……」

 騎士団に、得体のしれない集団の襲撃と、ほんの一日で状況は目まぐるしく変わって思考が追いついてこない。

 カイゼル達がここにいるのは、競争の隙をついたから。

「突き崩すか、飲み込まれるか、二つにひとつや」

 言葉は静かで、勢いはない。だがカイゼルは、打たれたように顔を上げる。

「なぁ、どうすればいいんだ?」

「どうって……」

「これはどうやって使うんだ?」

 カイゼルがやる気になったのを見て、ギーヴルは周囲に視線を走らせる。その視線の先にいたイリスは、つまらなそうな顔をしてヘーゼの隣にしゃがみ込んでいる。どうやら邪魔をしたり、文句を付けるつもりはないらしい。

 ギーヴルは軽く肩をすくめると、カイゼルに向き直る。

「前やったんと、同じ要領や」

「悪いけど、あの時は本当に無我夢中で、何も……魔法を発動させたいなんて思わなかったんだ」

「そうか」

 何となく納得したような顔で頷く。

「ワイも、具体的な方法なんて説明できへん。そもそも、言葉として現わすことの難しいもんなんや」

 言葉につまったような顔で押し黙ると、一呼吸分の間の後、振りきるようにかぶりを振る。

「……魔法は、世界の在り方そのものなんや。何らかの存在に対して力は必ず生まれ、力は他の存在に干渉し、均衡を保ちつつ存在を固定しとる。お互いで、補いおうとるわけや。お前はその均衡の波に干渉し、流れを捻じ曲げ、己が望むものを世界から生み出す。せやけど、そのままやったら力はそこに在るだけ。放っておけば、すぐに拘束力を失って、流れ出る。いわゆる、暴走や。それをさせない為には、力の方向を定め、開放してやらなあかん。それがマテリアの役目。均衡に干渉し、力を引き出して流れを作る。そして開放する為の門としての役割を果たして始めて、魔法は世界に具現するんや」

「……難しいな」

一気に言われて、カイゼルは言葉の半分も理解できず、眉根を寄せる。

「口で言って理解できるもんでもないし、言葉だけで伝えられるほど簡単じゃない。要は人間一人が支えられる力と、マテリアとの関係を保てばええんや」

「できないと?」

「あん時は、痛かったで」

 ギーヴルは意地悪く口の端を引き上げる。彼の示すあの時に思い当たったカイゼルは、息を呑んだ。

「緊張するな」

「ええか。世界は波や、ワイらも、その波の一部でしかない。その中から、ひと滴だけを歪ませるんや」

ようやく事態の推移に気がついたのか、騎士団がカイゼル達に向かって来る。

「……っ!」

 その恐怖に、カイゼルは思わず手の内にある指輪を握り締める。カイゼルの中に、今まで感じたことのない不安感が、鼓動に合わせるように広がってきた。

「こら、余計なこと考えんな」

 ギーヴルがカイゼルの頭を軽くこづく。

「戦いで恐怖を麻痺させた者は生き残れん。けどな、ただ怯えて小さくなっとる奴にも、勝機はないんや」

「……うん」

 彼の言葉を理解できたわけではない。だが肩をつかむ手と、声の力強さがカイゼルの平静を失った心に一筋の光を投げかけ、取り憑いていたものを引き剥がしてくれたように感じた。

 その時、カイゼルは自身に流れ込む何かを感じた。

 それは握り締めている指輪からカイゼルの中に入ってくる。

 カイゼルが、指輪の中に何かを感じ、それをはっきりと認識した途端、それまで暖かさすら感じた力が、突如牙をむいた。

 凄まじい轟音が、耳を覆う。だがそれは聴覚で認識できるものではない。精神を直接揺さぶる、荒々しい流れ。

 それは何十、何万の、人の叫びにも聞こえた。

周囲の音が、寸断される。迫ってくる騎士団、その動きが、コマ送りのように、ゆっくりと奇妙な動きを取る。唯一確かなものは、己の鼓動。早鐘の様に脈打つ心臓に、カイゼルは息苦しさを覚えて目を閉じる。

 と、閉ざしたはずの視界に何かがあった。

カイゼルは慌てて目を開ける。だがそこには何も見えなかった。だが今でははっきりと、その存在……流れを感じ取ることができた。

世界に在る波が、カイゼルの手の内を中心にして激しく渦を巻いている。

「これが……世界に在る力……魔力?」

力の存在を意識した瞬間、流れはカイゼルに向かって襲いかかる。

カイゼルは全身を貫く感覚を表現する言葉を知らなかった。例えることもできないそれは、足元から削られるようでもあれば、包む込む温かさを感じる。

精神を内側から侵食され、崩される。それに耐えれなくなったカイゼルが意識を手放しかけた。だが、落下しかけた意識を拾い上げる手が伸びる。力強い感触。それを頼りに意識を移せば、目の前に迫る騎士団の姿があった。

「───っ!」

翻弄される意識が、焦点を結ぶ。それと同じようにして、流れが一点に集中し、拡大する。

 音が、戻ってきた。

カイゼルはそれを合図に、心の中で引き金を引いた。

視界のすべてが白く染まり、音が消え、不意に意識の輪郭が薄れる。

 視界が水に溶けるように拡散していった。



「……まぁ、やるとは思いよったけど、これはちょっと桁が違うで」

ギーヴルの、呆れたような、どこか呆然としたような呟きに、カイゼルは離脱していた精神を連れ戻して来る。

最初に感じたのは、自分を抱き留める腕の感覚。どうやら本当に失神していたらしく、足に力が入らず、目も開けられないほど疲労していた。

「どないや、立てるか?」

「ん……」

ギーヴルの腕をつかみながら、自分の足で立とうとするが、まるでそこから先の感覚を失ったように力が入らず、結局ギーヴルにまた支えられる。

「おっと、立てへんなら座っとけや」

結局カイゼルはギーヴルの言葉を額面通りに受け取って、地面に座り込む。

「何よ、ヘーゼの次はカイゼルなの?」

イリスの声、そして引きずるような音から察するに、ヘーゼも連れているのだろう。おそらく、襟首でもつかんで荷物のように。

「まーそのおかげで道も開いたし、他の奴らが追いついてこんうちに、さっさと行くで」

言葉の最後には、カイゼルは襟首をつかまれ、軽々と抱えあげられた。

「うわぁっ! 降ろせ、自分で歩くっ!」

「心配せんでも、上に登ったら嫌でも自力で行ってもらうで」

「上……?」

ようやく復活してきた視力が、焦点を結ぶ。変わりばえのない、硝子谷の風景。だが、どこか違う。

「道が……増えてないか?」

カイゼルがそう思うのも、無理からぬことだった。

十字路だったはずの一角が、激しく削られ、むき出しの岩盤を見せている。

「おーあれか。ほんま凄まじかったで」

「やっぱり、俺がやったのか……?」

そして、あまり聞きたくなかったことを尋ねる。

「……黒帝騎士団は、どうなったんだ?」

「きれいに吹き飛んだで」

ギーヴルは階段を見つけると、人一人担いでいるとは思えない足取で昇って行く。岩盤を直接削って作ったそれは、年月による風化と、先ほどの衝撃でか、半ば崩れている。

「あれはすごかったわっ!」

イリスがヘーゼを引きずり、興奮しながらその時の様子を、身振りを交えて話す。その度にヘーゼが岩に身体を打ちつけるが、彼女はまったく気にしていない。

「暴風、いいえ、凶悪なまでの威力に満ちた風に煽られ、黒帝騎士団の連中は、木の葉のように軽やかに舞い飛んでいったわ」

「あぁっ! 俺って奴はぁっ!」

「まぁ、多分生きとるやろ」

「仮にも皇都の騎士団に名を連ねる者達よ、この程度で棺桶に収まっては、根性が足りないと嘆かれるわ」

いったい誰が、こんな目に遭った彼らを叱責するのだろうか、とカイゼルは何となく悩んでしまう。

「よしっ! 着いたで!」

「なぁっ?」

唐突に放り出され、カイゼルは情けなく転がる。

「あー重かった。肩こるで」

そしてギーヴルはわざとらしく肩に手をやって首を回す。

「あのなぁ、もう少し労れよ!」

打ちつけた個所をさすりながら、何とか身を起こす。先ほどに比べて、身体の無力感は消えていた。

「ほらほらヘーゼ。いい加減に起きないと、崖から突き落とすわよ」

「おい、イリス。もう少しそっとしといてやれよ……」

放っておけば、イリスは本当にヘーゼを崖から突き落としてしまうだろう。制止の言葉をかけてから、カイゼルはギーヴルの姿を探す。

「ギーヴル……?」

彼は崖の縁に立って、宙に視線をさまよわせていた。

カイゼルも習ってギーヴルの隣に立つ。そこからは、彼が放った力の痕跡が、はっきりと見て取れた。

十字路から、斜めに走る新たな傷痕。硝子谷全体から見れば、それは本当に小さな物でしかない。だがそれを、己の手でやったことに、カイゼルはどこかに引き込まれそうな、奇妙な感覚を覚える。

それは会ったことのない実父が現れるという、彼の妄想が生み出す闇にも似ていた。

「───綺麗やな」

「は……?」

だがギーヴルの見ていたものは、違ったらしい。カイゼルは彼の視線を追って、その正体を知る。

「あぁ……」

 谷の周囲に、無数の星が生まれていた。月光を反射して煌めくそれは、空の星々に対抗するように、きらきらと輝いていた。

「硝子谷の破片が、風に舞い上げられて、月光を反射しとるんやな」

だから光の届かない、谷の底ではわからんかったんやな、とギーヴルは誰に聞かせるでもなく呟く。

「───なぁ、ギーヴル……」

 問いかけは、男の呟きに遮られる。

「力があるんは、そんなに悪いことか?」

カイゼルはギーヴルに向き直る。だがその横顔からは、質問の真意は読み取れない。

「その、持っているのが悪いとかじゃあなくて。……恐いんだ」

言葉は、カイゼルの本心だ。

「それはお前が何も知らんかったからや。人間は、理解できんものがあるから恐怖し、それを克服する為に、知ろうとする。お前は力があって、それを使えることを知った。これ以上、何を怖がるんや」

「だって、こんな強力なもの、今まで必要なかったからな」

「それを、お前を狙ってやって来る連中一人一人に説明してやるんか?」

「……ギーヴル、何を知ってるんだ?」

カイゼルの言葉など、ギーヴルはお構いなしに続ける。

「奴らはお前という存在が手に入れば、手足がちぎれようが、眼が潰されていようが関係ないんや。そんなの相手にお前は、今まで必要なかったから、これからも。なんて理由で追い返すんか?」

「……俺に、力の使い方を覚えろと?」

「それはお前の勝手や。けど、持っとる力があるなら、それを有効活用せんとな」

「活用って言われても……」

 そもそも、こんな力なんて必要ない。

「お前はなんか色々と思いつめとるみたいやけど、力自体に悪意はないで。要は、自分が何に向けて使うかや」

「……そう、そうかも、な……」

 言いながら、カイゼルはむしろギーヴルの言葉を自分自身に言い聞かせていた。

カイゼルの葛藤を知ってか知らずか、ギーヴルは彼の頭を掻きまわす。

「まーとにかく国を出るんやろ? また見つかったら面倒やし、さっさと行くで」

頭から手を離し、ぶっきらぼうに言い捨てると、ギーヴルは本当にさっさと行ってしまう。

 国を、出る。

 ほんの数時間前までは、イリスのわがままに付き合ったら戻る、その程度にしか考えていなかった。

 だがカイゼルが思うよりも、周囲は彼を放ってはおかないらしい。

 それこそ本当に、今、飛び出さなければ、迫る手に今度こそ捕らわれるだろう。

 それは、嫌だった。

 まだ、何も知らないのが、たまらなく悔しいと思った。

「…………」

カイゼルは振り返りもせずに先を歩く彼を、追うかどうか一瞬迷ったが、それでもかぶりを振ると、走り出した。

「あぁぁぁっ! 見捨てないでカイゼルっ!」

「ちょっと、まだまだ終わってないんだから、大人しくしなさいよ!」

「何がっ! 何がまだまだなんだよぉぉぉぅ!」

だが背後に響く、悲痛な声を聞いては、振り返らずにはいられなかった。彼は仲間の助けを受けてそのまま無視して行けるほど、非情ではない。



そして、カイゼルがヘーゼを救い出した後、未だに握り締めていた指輪が手の内で粉々になっていたことに気づき。さらに少し先で苛立たしげに待っていたギーヴルに、烈火のごとく怒られるのは、まだもう少し先の話だった。


【月と硝子の満ちる夜 終】



 次回「王を呼ぶ棺」へ続きます

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