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3-2「光がすべてを焼き尽くす」

   第二章 光がすべてを焼き尽くす



 カイゼルは街の通りをゆっくりと歩いていた。既に日も落ち、露店も店を閉め、代わりに酒場に明かりが灯る。街は次第に昼間とは違う姿を見せ始めていた。そんな中、カイゼルは人の少ない通りへと足を進めていた。街灯もまばらにしかなく、蜘蛛の巣のように延びた路地を抜け、建物と建物が近接した、道とも呼べない隙間を通り抜ける。その足に迷いはなく、何十かの角を曲がった時、ようやく足を止める。

 カイゼルの立つ角から、数軒程が密集して建つ家屋が見える。窓からは薄く明かりが漏れ、それを見てカイゼルは大きく息を吐いた。

「家に帰って来るのも久しぶりだな……」

 カイゼルは自宅を前にして、大きく伸びをした。



 戻って来ることは、特に予定外だったわけではない。ただ、どうしようか迷っていただけだ。

 訓練校祭終了後、浮ついた気分を叩きのめすようにテスト期間に突入した。実技はともかくとして、筆記試験は色々と気になる個所はあったがどうにか及第点は取れた。課題も最終〆切まで奔走し、すべて提出。ふらつきながら寮に戻ってすぐ、イリスやヘーゼと訓練校を出て来た。どうせ明日からテスト休みなので、校則上は何の問題もない。だが、本来この休みは、試験をパスできなかった、もしくは課題の期限に間に合わなかった者達に与えられた、最後の防衛線だった。もちろん、自信のある者や、既に投げている者は遊びに出てしまえばいい。カイゼルはそこまで自信があったわけでも、やけになったつもりもない。ただ、四回生の試験ともなると、特に後半はほとんど卒業の過程とは無関係になる。つまり、適当にやっておけば、教師達がまた適当に卒業させてくれる。

 だが今回の試験で、士官学校への推薦が決まるので、それだけは胃が痛かった。もし推薦が取れなければ、自力で試験に受かるしかない。もちろん、士官学校以外の道を選ぶこともできる。

 頭も胃も痛い問題だったが、だからといって、今から推薦に落ちた後のことを考えるのも、苦しかった。

 今回、自宅に戻った理由は、試験結果を寮で待つ緊張感から逃れる為だったが、一旦訓練校という場から離れて色々と一人で考えてみたかったからだ。

「……けど、何から考えればいいんだ?」

 まずそこで頭を抱えてしまうカイゼルだった。

 士官学校の件は、まだもう少しだけ先延ばしにしたかった。

 他に気になることというと、

「やっぱり、あれか……」

 カイゼルは肩を落とし、息を吐く。

 将来を思い悩む前に、彼の足元には別の難問が転がっていた。

昨年……正確に言えば、一年近く前になる。カイゼルは今まであった価値観や、世界が壊れる音を聞いた。

平凡な学生であるはずの彼を含む三人は、国家をひっくり返そうと企む集団に拉致された。とはいっても、彼ら自身はその計画に巻き込まれただけなのだが。

紆余曲折はあったが、最終的に場を静めたのは他でもないカイゼルの『力』だった。

マテリア……黄金以上の価値を持ち、金剛石を越える硬度を備える。そして最大の特徴は、使用者の精神力に感応して、すべての事象を歪ませる。

使用者に『魔法』を与える鉱物。

カイゼルは、今となってはほとんどお伽話になっているそれを発動させたのだ。

自身が持つ能力が、何を意味するのかはわからない。

それに、事件を境に、何かが劇的に変わったというわけでもない。

だからといって、このまま何の危機感も持たずに放り出すには奇妙な事件でもあった。

 とにかく一度、すべてをひっくるめて彼なりに整理する必要があった。答えが出るなんて、思ってもいないが。

 もちろん、久しぶりに両親に会いたいと思ったのも本音だ。

 もっと言ってしまえば……単に、これからという漠然としたものを考えるのを、少しでも先延ばしにしたいだけなのだ。

 カイゼルにはまだ将来の見通しなど、異世界の話ほど遠いことだった。



「……あれ?」

 その角で立ち尽くしていると、ひとつの家の扉が開き、思わずどきりとする。

「何で俺の家から……」

 人が出て来たのはカイゼルの家からだった。来客自体はさして驚愕することではない。ただその客の質が問題だった。

 その人物は、かっちりとした制服を着た男だった。男は振り返りもせず、足早に通りの向こうに消えて行った。

 その姿は、街を歩いていれば必ず見かけるほどありふれている。

「どうして銃士隊が?」

 それをいぶかしく思いながらも、家に向かってカイゼルは歩き出した。まさかここまで来て、何となく怪しそうだから後を尾けようだの、訓練校に戻ろうだのとは思わなかった。

「ただいまー」

 やや覇気のない声で言って、玄関を開ける。

 入ってすぐの部屋にあるテーブルの前に、父親が背を向けて立っていた。

「……カイゼルか?」 

 カイゼルが現れたことに、あからさまに動揺を顔に浮かべる。髪に白いものが混じっているが、カイゼルと同じ髪と目の色をしている。

「そうだよ、母さんは?」

 訓練校から持ってきた小さなザックをテーブルの上に置くと、そのまま席に着く。

「台所にいるはずだ」

「そう……。それは?」

 言って、テーブルに載っていた小さな手帳と書類を指さす。手帳は手の平ほどのサイズで、表紙は黒い革でできているが、傷だらけですり切れ、一目で古い物とわかる。

 カイゼルにとっては何気ない一言だったが、彼はまともに顔色を変える。だが取り乱したり、うやむやにするつもりはないらしい、ただどう切り出そうか迷っているように見えた。

「フィル……カイゼル……」

 声に顔を上げると、そこに母親の姿があった。だがその顔は、明らかに泣きはらした後があった。

「タリム、もう大丈夫なのか?」

「えぇ……」

 無理に笑ってみせ、そしてカイゼルの方に向き直る。

「カイゼル、久しぶりね。訓練校では色々あったらしいけど、元気そうでよかったわ」

 笑うその顔は、実年齢よりも若く見えた。だが実際彼女は、夫のフィルと大分年が離れている。

「え、うん。元気だったよ……」

 カイゼルは何となく目線をそらす。

「でも、休みでもないのに旅に出るのは感心しないわ」

「ははは……」

 昨年の事件で数日間行方の知れなかったカイゼル達を探す為、訓練校側が連絡を取ってきたらしい。もちろん両親がカイゼルの行方を知るわけがない。そしてカイゼルもまた、モリオン……事件の当事者である双子の片割れが、事件を表に出ないよう手を回してくれたおかげで、未だに両親にその事を話していない。

 表向きは、いつもの面子で気ままな旅に出たことになっている。

「夕飯はまだでしょう、今支度するから」

「じゃあ、俺は部屋にいるから」

 それ以上突っ込まれるのを避ける為、カイゼルは席を立つ。

「待て、カイゼル」

 だがフィルにもう一度座るように促された。

「何、父さん?」

 不審に思いながらも父の言葉にもう一度、腰を下ろす。彼はカイゼルの正面になるように座ると、書類と手帳をカイゼルの方に向けて押しやる。そしてフィルはひたとこちらを見据え、はっきりと言った。

「アンセムが、亡くなったそうだ」



 カイゼルの部屋は、二階にある。だがほとんど屋根裏のような造りで、上下の移動も階段ではなく梯子で行う。

 薄い床の上は、歩くだけできしんだ音を立てた。ベッドと机と物入れ、壁に作りつけの棚には本が並んでいる。昔からカイゼルは、暇さえあれば本ばかり読んでいた。だが自分で買える数など知れているので、もっぱら街の図書館に通う日々。イリスやヘーゼと遊ぶようになってからは、その量も大分減ったが、それでも図書館に新刊が入る日には必ず足を運んだ。

 そして彼のここ数年の悩みは、訓練校の図書館の品揃えの悪さだった。

 だが今は新刊漁りの情熱など、どこかに消えていた。

 持って上がったザックと、半ば押しつけられた例の手帳を机の上に投げると、そのままベッドに倒れ込む。長い間留守にしていた割には、埃も溜まっていない。おそらく母親がまめに掃除してくれていたのだろう。

「…………」

 顔を枕に埋めていたが、すぐに息苦しさから仰向けになると、そのまま顔の前で腕を交差して表情を隠してしまう。誰が見ているわけもないが、それでも今は誰とも顔を合わせたくなかった。

 きっとずいぶんと、情けない顔をしているはずだ。

「アンセム……おじさん……」

 彼はフィルの弟に当たる人物だと聞かされていた。だがそういう認識があったのは、もうずいぶん前の話になる。

「……父親、か」

 そして今まで当たり前だと思っていた家族が崩れたのも、この時だった。

 カイゼルはフィルとタリムの本当の子供ではない。実父は、アンセムだった。母親まではわからないが、彼はまだ一歳にも満たないカイゼルをフィルに預けた後、行方を眩ませてしまった。その後にフィルはタリムと結婚したが、二人の間に子供はない。

 二人の実子ではない……その事実をカイゼル本人が知ったのは、彼が十歳になった頃のことだった。

 家に突然現れた銃士隊に、カイゼルはただ驚いていた。母親が必死になってカイゼルを抱きしめ、守るように遠ざけてくれた。それでもカイゼルはフィルが銃士隊に囲まれている姿を、克明に覚えている。その後、カイゼルは事実を聞かされた。

 カイゼルが二人の実子ではないこと。

 そして、彼の血縁上の父親である男が、何らかの犯罪を犯したこと。

 逃亡していたアンセムは、間もなく国境警備隊である黒帝こくてい騎士団に捕らえられ、刑務所に送られた。罪状は、未だに聞かされていない。

 こちらには何の情報も入ってこず、連絡を取る手段もなかった。八方ふさがりになった彼らは……すべてにふたをした。

 一家は逃げるように常の生活を取り戻し、現在まで話題にすら上がらないようにしていた。冷たいようだが、彼らが意識したところで、男が二度と戻って来ないという事実は変わらない。

 銃士隊が持って来た書類には、簡潔に事実が並べられているだけで、書かれていること以上の事はわからなかった。

 ただ、アンセムという虜囚が死亡した、それだけ。

 カイゼルは、自分でも少し意外だと思ったが、無機質な書類に書かれた内容をあっさり受け止めていた。考えてみれば、悲しいと思う前に、カイゼルには男の記憶がない。顔も覚えていない父親が亡くなったと聞かされても、実感が湧かず、戸惑うばかりだ。

 はっきりしていることは、父にそれを聞かされたとき、カイゼルは安堵した。

 もう、これで顔もわからない『父親』が、いきなり自分を迎えに来ることはない。

 カイゼルにとって、両親はあの二人なのだ。自分をフィルに預けるまでにどんな経緯があったのかは知らないし、これから知りたいとも思わなかった。

 その恐怖も、今日で終わる。これからも常と変わらない家族三人の暮らしが続くのだ

カイゼルは机に向かって手を伸ばし、手帳を取る。中を見るかどうか、しばらく迷うように手の中でいじっていたが、意を決して表紙に手をかけた。

中は、細かい字で埋め尽くされていた。

くせ字ではないが、わざと字間を詰め、少し崩して書いてあるので非情に読みにくかった。

内容は、ほとんどが獄中での、不満ごと……例えば、隣の牢にいる男が脱走を企てようと壁を削っている音がうるさくて眠れない、と言ったような事ばかりだった。最も、刑務所の中で毎日のように劇的な事や、楽しい事が頻繁に起こるわけもなく、日付は二、三行書いては数ヶ月、下手をすれば半年近く飛んでいる場合もある。

だが、カイゼルがこの文章を読んで感じたのは、悲壮感や孤独ではなく、むしろ逆の性質だった。

「……楽しんでいる?」

誰かを罵るわけでもなく、過剰に出来事を脚色している様子もない。

ただ純粋に、自分の気になった事をメモしているといった感じだった。

そして、これも罪人にありがちな、罪に対する反省という項目が、どこにもなかった。

後悔もなく、心の内を吐露する事もない。よく言えば自然体、悪く言えば、無関心。

その隙間を埋める様にして、時折意味の取れない文章があった。


『始まりは、いつからなのか。

俺の行動、心のすべてが、定められていたのか

奴の笑みが、頭から離れない。

馬鹿にしているのか。

同情しているのか。

泣いているのか。

空っぽな、笑い。

生きていない、

死んでいるわけもない。

だがどこまでも透明で、つかみ所がない。

当たり前にある、風のようで、

それでいて鮮やかに突き刺すもの。

奴は今もどこかで、あの笑みを張り付かせてさまよっているのか。

だが、俺は二度と奴に会う事はない。

奴が現れるのは、石……欠片、そう、欠片を継ぐ者……その身を柩とした者達。

あの子の前にも、そのうちやって来るだろう。

あの、諦めたような笑いを浮かべて』


その文章だけは、読みやすく書いてあった。と、いうより、これが普段なのだろう。

この内容に、呼んだ人間全員が首を傾げたはずだ。それでも稚拙な文章ばかりを羅列した手帳に、役人もさしたる重要性を感じなかったのだろう。だからこそ、遺品として届けられた。

彼が指す『奴』に、カイゼルはまったく見当がつかなかった。他にも何ヶ所かその人物に関するらしい記述はあったが、どれもあいまいで、はっきりとした人物像はつかめない。

両親がこれをカイゼルに見せる気になったのは、この文章の最後に指し示す人物が、カイゼルだと思ったからだろう。

「……けど、どーだか」

 カイゼルは手帳を机の上に放り投げる。と、自分を呼ぶ声に起き上がり、その途端に手帳のことは忘れた。



 夕食後、カイゼルはすぐに家を出た。両親には、ヘーゼの家に行って来ると伝え、事実そこに向かって歩いていた。

 家族が久しぶりに揃った夕食は、ずいぶんと気まずいものになった。母親はあれこれと子供の世話を焼き、父親は口数が少なく、ほとんど喋らなかった。それは、いつもと変わらない風景だったが、互いに思っていることを隠していた為、そのずれが本来和やかなはずの夕食をぎこちないものに変えていた。

 その重苦しさが嫌で、カイゼルは家を出た。おそらく、彼が家を出れば両親は息を吐くだろう。そして、子供がいない間に色々とこれからについて相談するだろう。

 カイゼルも今回の件に関して、敢えて突っ込んで聞こうとは思っていなかった。

 彼もまた、今の生活を失いたくなかったからだ。



 カイゼルがヘーゼの家を逃げ場所に選んだのには理由がある。長年の付き合いからの気安さもあったが、もっと簡単に言えば、家が広いからだ。

 文字通り、通夜のような自宅にはとても戻る気にはなれない。しかし、同じ一般民衆の友達の家には、急の来客に対応できるような空き部屋はまずない。自分の部屋すらない者がほとんどだ。いきなり、家が気詰まりだから泊めてくれと言ったところで、事情はわかってもらえても気を遣わせるだけ。

 だがヘーゼは、普段は本人すらも意識していないが、中産階級のお坊ちゃんだ。屋敷には来客用の部屋くらいあるし、例え部屋が空いてなかったとしても、どこにでもカイゼル一人が寝る場所くらいある。それを思えば、自宅から小一時間歩くくらい何でもない。

 ヘーゼの家は、中心街近くの高級住宅街からは外れているが、それでも屋敷の作りは立派で、カイゼルなど未だに門の前で躊躇してしまう。

 幼馴染みの家を、素泊まりの宿のように利用するのはどうかと思ったが、さすがに一晩中当てもなく街をふらつくのだけは嫌だった。それに、深夜に誰もいない通りを徘徊している間に、またよくわからない考えに取り憑かれそうだった。

 そうやって、物乞いから逆に恵んでもらえそうなほど情けない顔をしてやってきたカイゼルを、ヘーゼはいつも通りに迎えてくれた。

「カイゼル。今日は泊まってくよね?」

 そして、期待通りの提案をしてくれた瞬間、カイゼルはようやく肩の力を抜いた。いや、気づかないうちにずいぶんと緊張していたらしい。

「あぁ、うん。そのつもりで来たんだけど……」

 今さらながら、考え無しに訪ねて来てしまったと後悔したが、ヘーゼの方はそれこそ気にした様子もなく半歩先を歩いている。二人は今、応接間へと向かっていた。

「来てくれて、すごく助かったよ……」

 ヘーゼは大きく息を吐く。

 どうやら何か問題が発生してるらしい。そしてそれが、この先にある応接間に潜んでいることを、ヘーゼの口振りから判断する。

「いったい、今度は何なんだ?」

 すっかり腰の引けているヘーゼを後目に、カイゼルは応接間の扉を開け放つ。

 場には、その場にいることを、何となく予想していた者と、予想外だった者達がいた。

「イリス……は、いいとして。何でシリカがここにいるんだ?」

「ちょっと、その言い方は何よ!」

 イリスはチェスをやっていたのか、駒を倒す勢いで椅子から立ち上がる。

「女の子が家に一人なのよ、心細くてたまらない乙女心がわからないのっ?」

「そんな事は関係無しに、イリスは昔からヘーゼの家に入り浸っていたじゃないか」

「だって、ここのご飯はおいしいし、ベッドもふかふかだからねぇ」

 この口振りだと、彼女はカイゼルと別れてすぐにヘーゼの家に向かったのだろう。イリスの住居は、ヘーゼの屋敷近くにあるアパートの一室だった。両親と三人で暮らすには、いささか手狭な上に、よくわからない物が所狭しと置かれている。何より、その両親がほとんど家に寄りつかないので、彼女が他人の家に世話になるのも仕方ないのだろう。

「イリス、王手ですよ」

 そしてもう一人の客であるシリカは、長椅子に腰掛け、変わらず愛想良く笑っている。

「えぇぇっ! ひどい!」

 だがチェスの相手は、シリカではない。彼の妹のフローライトが、楽しそうにチェスの駒で遊んでいる。

「イリス、あなたの戦法は奇抜ですが、基本的なルールを覚えないと、いつまで経っても妹には勝てませんよ」

 文句を言いつつも、もう一勝負する気なのか、イリスは駒を並べ始める。それを見ながらカイゼルはシリカの腰掛ける長椅子に座り、ヘーゼもその隣に来る。

「でも、シリカが来ていたなんてね、驚いたよ」

「フローライトが遊びたがっていたのでね、散歩ついでに連れて来ました」

 フローライトはチェスよりも、彼女の一手毎に表情を変えるイリスが面白くてたまらない様子だった。

 二人の様子をカイゼルが何となく眺めていると、ぽつりとヘーゼが変なことを呟く。

「フローラちゃんって、可愛いよね……」

「は……?」

 ヘーゼの言葉に、カイゼルは露骨に顔をしかめる。

「あ、いや、あの、シリカの実家が近くてよかったなーとか、えぇと、とにかくあれだ!」

「わからないって……」

「フローラにも、遊び相手ができてよかったですよ」

「ほ、本当、シリカ?」

 ヘーゼはカイゼルを乗り越え、シリカの手を取る。カイゼルは幼馴染みの重さに渋面を作ったが、ここは敢えて何も言わないでおくことにした。

「えぇ、これからも妹を頼みます」

「わかったよシリカ!」

 すがりついてくるヘーゼに、さすがにシリカの笑顔も引きつる。

「さぁて、兄の了承も得たことだし、そろそろシリカも本当の目的を白状なさい!」

 突然上がった声に顔を向ければ、滅茶苦茶になったチェスボードを前に、イリスが仁王立ちになっている。どうやらまた負けたらしく、さすがに不機嫌そうだった。フローライトは倒れた駒とイリスを交互に眺め、首を傾げている。

「は、白状とはまた大げさですねぇ」

「んふふ~妹を囮に真実を誤魔化そうなんて、まだまだ甘いわよ!」

 がん、とテーブルの上に足を乗せる。その衝撃でチェスの駒が絨毯の上に転がり落ちた。 

「イリス……机の上に足を乗せるのはよくないですよ」

 シリカの言葉に、イリスはあっさり従って足を床に下ろす。だがその代わりに指が突きつけられた。

「さぁ、シリカ、タダで人の家に泊めてもらえると思ってないでしょうねぇ?」

 悪役幹部のように、意地悪く言う。だが顔が笑っている。

「シリカ……いつものパターンで悪いんだけど、なるべく早めに喋るか、このまま帰るかした方がいいよ」

「あぁ……でもフローラちゃんは奴の手に……」

 ちょうど位置的に、フリーライトはイリスの後ろになる。

「そうですねぇ……。では、あなた達を巻き込むと悪いので、私はこれで失礼します」

 言って、シリカは立ち上がり、妹を促す。

「ちょっとぉ! その言い方はすごく気になるじゃない!」

「私はそう簡単には折れませんよ」

 にこやかな顔で、シリカはきっぱりと言った。

「う……その笑顔、今、シリカが怖いと思ったぞ」

「そうだね、怖いねぇ……」

 カイゼルとヘーゼは、二人揃って長椅子の隅まで寄っている。

「ここでモリオンなら、もう少しつつけばボロを出すのに!」

 何か違うことに対してしきりに悔しがり、拳を握り締めて口惜しそうに呻くイリス。

「それではそういうことで、おじゃましました。ヘーゼ、ご両親に挨拶もせずにすみません」

 一礼して踵を返したシリカを止めたのは、廊下から聞こえて来る声だった。



 にわかに部屋の外が騒がしくなってきた。切れ切れに人の声が聞こえ、どうやら何か言い争っているらしい。

「誰か来たのかな……?」

 ヘーゼは扉から顔を出すと、近くにいた女中に声をかける。女中はすぐに騒ぎを確かめるべく玄関の方に向かったが、それよりも早く騒ぎの源が迫って来た。

 その人物は女中数人を引き連れて現れた。いや、女中達はどうにかして乱入者を引き留めようとなだめていたのだが、実力行使に出られないのでそのままついてくる形になったらしい。そして扉から半身を乗り出しているヘーゼを押しのけ、人の群れは応接間になだれ込んできた。

「シリカ!」

 凛とした声音に、その場にいた全員が打たれたように顔を上げる。

「ここは余所のお宅ですよ、騒ぎは困ります」

 シリカはたしなめるように言って、訪問者の前に立つ。

「あら、それは困りましたわ。今まで私が行儀良くあなたが現れるのを待っていても、来て下さらなかったではありませんか。ただの一度も」

 最後の言葉に、妙に力が入っている。

 訪問者は、女だった。

 整った顔立ちをしているが、吊り上がったまなじりや、引き締められた口元にはかわいげというものがなく、美人にありがちな近寄り難さを全身から発散させている。

 淡い色の髪を細かく編んでまとめ、長く垂らして造花の髪飾りを付けている。服装はシンプルな青いドレスだが、胸元を飾る石が目を引いた。鳥の羽のような飾りと、いくつも透明な石を組み合わせているそれは、光に煌めく。

「そんな事を繰り返していれば、私が実力行使に出るのも仕方のないことですわ」

 きつく睨まれ、彼はばつの悪そうな顔をする。

「……わかりました、帰ります」

 言って、肩を落とす。そして振り返ると、事態が飲み込めずにいる彼らに向かって穏やかに笑いかける。

「お騒がせしてすみません。彼女……」

「親戚の、オルローンと申します。大変失礼な真似をして申し訳ありません。また日を改めてお詫びにうかがいますので」

 彼女は美しく礼をすると、扉の前で様子をうかがっていた女中には目もくれずに出て行った。

「それでは私もこれで失礼させていただきます」

 妹の肩を押しやり、踵を返したシリカにイリスが素早くタックルをかける。

「待ちなさいシリカ!」

 体重の差もあってか、倒れこそしなかったが、シリカは壁に手をついてしまう。

「な、何でしょう、イリス。私は急いでいるのですが……」

 事実、シリカは焦っている様子だった。

「まだなんにも質問に答えてないわ!」

「それはまた今度、まとめて答えてあげます」

「そんな風に子供を誤魔化してると、ロクな大人にならないわよっ!」

 激しくしがみついてくるイリスに、シリカはどうすることもできずに唸っているだけだった。だが、しびれを切らして現れたオルローンに冷たく見据えられると、シリカは無言で少年二人に助けを求めた。

「シリカ、この貸しは高いからな」

「ごめんね、シリカ……。もう、何に謝ったらいいのかわからないけど……」

 二人がかりでイリスをシリカから引き剥がすと、彼は妹と一緒に文字通り、逃げるように出て行った。

「あぁぁぁっ! シリカの卑怯者<」

 扉が閉められても、まだ罵りの声を上げるイリスに、二人は激しい疲労を覚えた。

「これから、こいつをなだめないといけないんだよなぁ……」

「今さらだけど、帰る?」

「そうしたいとこだが、手伝うよ」

 カイゼルは軽く手を振って、引きつりながらも何とか笑い返した。



 路地にぽつりと灯った街灯の下に、二頭立ての馬車が停車していた。

「……本当に、驚きましたよ。久しぶりですね、オルローン」

 先に妹を客室に乗せてから、彼は後ろに立っていたオルローンに向けて手を差し出す。だが彼女は顔を背け、はっきりとシリカを拒絶していた。

「……すみません」

「どうして、謝るの」

 彼女はゆっくりと顔をこちらに向ける。

「この事は、ずいぶん前から決定していたこと。ただ、先延ばしになっていただけですわ」

「ですが、私は……」

 うなだれるシリカの前に、オルローンは左手を差し出す。それをシリカは取ると、彼女は右手でドレスの裾を持ち上げて客室に乗り込む。

「私はあなたの妻となることに、異存はありません。……たとえあなたがこの事を、どう捉えていようとも」 



 翌日の昼過ぎ、カイゼルは上機嫌で家路についていた。理由は、ザックの中に入っている本だった。昨晩はイリスの機嫌を取るのに必死になって寝るどころではなかった。それでも午前中にはヘーゼの家を後にし、カイゼルは近くの図書館へと向かった。そこで訓練校では入れてもらえなかった本を、選びに選んで五冊ほど借り、他にも目に付いた本を片っ端から読んでいた為、図書館を出たのは昼を大分過ぎていた。

 さすがにかなりの空腹感を感じたので足も速い。だが下町の通りを歩いていると、見知った顔を見つけたので立ち止まる。

「モリオンじゃないか」

 カイゼルの呼びかけに、彼は面倒くさそうに顔を上げただけだった。

 彼らのいる場所は、皇都の外輪近くになる。やたらと家が建ち並んでいるかと思えば、ぽっかりと空いた区画がある、そんな雑多な場所だった。彼がいたのは後者の空き地。中心街とは正反対の、区画整理もされていない場所に彼がいることは、意外でも何でもなかった。モリオンは赤嶺騎士団……皇都を警備する銃士隊を抱える騎士団に所属している。今もかっちりと制服を着込み、それとは正反対にやる気のない、どこか生気の抜けたような表情をして、廃材の上に腰掛けていた。

「こんな所で、仕事中じゃないのか?」

「仕事ならしている」

 近づいて来るカイゼルに、モリオンは外輪の方を顎で示す。つられて顔を向けたカイゼルが見たのは、十数人の集団だった。性別や年齢もバラバラの集団は、おそらく木箱の上に立っているであろう、一段人々よりも高い所にいる人物の話に聞き入っているらしい。

「……怪しげな新興宗教の集会を取り締まりに来たのか?」

「集会だが、新興ではない。お前、ガーデンって聞いたことはあるか?」

「宗教だろう」

 あっさりとその一言でくくるカイゼルに、モリオンもさして気にしていない様子で答える。単に、モリオンも同じ考えなのかもしれない。

「そう、その宗教の伝道師だか牧師だかが、わざわざ皇都まで演説に来ているから、それの警護と監視だ」

「モリオン一人で?」

「……人手不足は、どこの部署でも同じだ」

 モリオンはぐったりと膝に顔を埋める。

「ひょっとして、寝不足か?」

 だが返事はない。カイゼルはモリオンよりもやや下あたりの廃材に座ると、ザックから本を取り出す。

「昨日さ、ヘーゼの所に泊まったんだけど、シリカに妹さんも来てたぞ」

 モリオン相手には、身内の話を振る方が効果的だと、カイゼルは既に学んでいた。案の定モリオンは、はっきりわかるほど疲労の浮かんだ顔をこちらに向ける。

「でも俺が来てすぐに、女の人と一緒に帰ったけど」

 言いながらも、目と意識は既に本に向いている。

 そのまま時間だけが過ぎ去る。

 ざわめきも遠い町外れ。穏やかな空気の中、カイゼルがめくるページの音が、妙に乾いて聞こえる。

「……今日、兄さんが結婚するんだ」

「へぇ、そうか」

 返事はしたものの、カイゼルはモリオンの言葉をほとんど聞き流していた。やや遅れてから頭の中に届いた内容を、さらに何度も反芻する。そしてページをめくり、そこに図書館の貸し出しカードをしおり代わりに挟み込むと、ぱたんと本を閉じた。

「な、何だよそれぇぇっ?」

「えぇぇぃ! 反応が遅い<」

 廃材の上に立ち上がったカイゼルに、モリオンは叫ぶ。だがよほど疲れているのか、一緒に立ち上がろうとはしなかった。カイゼルは元いた位置に座り直すが、何から問いかけていいのか悩んだ。

「……やけに唐突だな」

 ようやく出てきたのは、それだけだった。

「婚約自体は十年ほど前から決定していた。ただ単に、式を挙げる機会がなかっただけだ」

 憮然と言い放つモリオンに、カイゼルはおおむねの事情を理解した。

 モリオンの双子の兄シリカは、長い間行方を眩ませていた。そして昨年、ようやく家族と再会を果たした。それでも皇都にある自宅に戻ったのはつい最近だった。失踪から再会に至るまでも一筋縄ではいかず、その際に起こった事件により重傷を負ったシリカは、療養の名目で皇都から離れた祖父の別荘で暮らしていたのだ。

「つまり、また脱走を試みる前に、手っ取り早く鎖を付けておこうという、姑息な計略というわけか」

「身もふたもなく言い切れば、そうだ」

 はっきりと核心をつかれ、モリオンは顔を引きつらせる。

兄と違い、この男は考えていることがすぐ表情に出る。

「まぁ、手段はどうあれ、めでたいじゃないか。案外、子煩悩ないい父親になるかもしれないぞ。それにしても、シリカも水臭いな、昨日教えてくれたらよかったのに」

 最初の衝撃から立ち直り、軽く笑って再び本を開こうとするカイゼルに、モリオンは大きく息を吐く。

「いくらめでたくとも、結婚する件を、本人が昨日まで知らなかったのは問題だと思うがな」

「は……?」

 カイゼルは本にかけた手を止め、モリオンに向き直る。

「どうやら継父や向こうの両親は、かなり本気だったらしくてな。実は俺も、昨日の晩に女中達が連名で花束を贈って来るまで知らなかった。で、継父を問いつめてみたところ、そんな話が出て来たというわけだ」

「……シリカ本人は、何て言ってたんだ?」

「継父に白状させた時は、さすがに驚いていたが……。その後、俺は継父と口論になってな。状況が状況だけに、かなり頭にきていたのも事実だが……。とにかく、その隙に兄さんはフローラを連れて屋敷を出てしまった」

 そして逃げ出した先が、ヘーゼの家だったらしい。家出というにはいささか情けない逃亡先だが、妹を連れてはそうも無理はできなかったのだろう。いや、無理をしない為に、敢えて妹の手を引いて行ったのかもしれない。

本気なら、それこそ皇都から出ている。

「……聞くけど、そんな唐突すぎる結婚話を持って来る所の娘さんって、どんな人なんだ?」

 婚約した相手は行方不明になり、見つかって、いざ話を進めてみれば、当人は事を知らないでいたという、ある意味最悪な展開について来られるような貴族の娘など、カイゼルには想像できなかった。

 モリオンは、ただ遠くを見ていた。

「お前も昨日、ヘーゼの所にいたなら会ったはずだ」

「き、昨日って……」

 カイゼルの脳裏に、昨晩現れた女性が浮かぶ。

「でも、親戚って言ってたぞ! あ、結婚すれば親戚か?」

 それが予想通りの反応だというように、モリオンは慌てず、ただカイゼルの方を向いた。

「……彼女は、オルローン・フィカエ・シュリッセラは……。家名こそ違うが、リンドブルム家の血縁者だ!」

 叫んだモリオンの言葉に、カイゼルは二重の意味で驚いた。

「フィカエって……王族じゃないか。モリオンの家は、本当に王家と血縁関係にあったんだ」

 王族に血縁関係があることは聞かされていたが、カイゼルは話半分にしか信じていなかった。

「血縁といっても、俺の祖父の姉の旦那が、先代の国王と腹違いの兄弟だったんだ」

「じゃあ、その娘さんとシリカは又従兄弟になるのか?」

「いや、もう一世代離れている。俺達の又従兄弟にあたるのは、彼女の母親だ」

「……む、難しいな」

 頭の中で必死に家系図を作ろうと悩んでいるカイゼルに、モリオンは呆れた様子もなく先を続ける。

「はっきりしているのは、これが政略結婚だということだ。兄さんはシュリッセラ家の財産流出を防ぐ為、婿養子になるんだ」

「話が見えないんだけど……」

「簡単に言えば、シュリッセラ家はここ何代か女系が続いた。一族は家の名を守る為に、仕方なく財産の大半を相手の……婿養子にした家に渡していたんだ。いくら王族とはいえ、しょせんは側室生まれの分家筋。よほどのことがなければ継承権も回ってこない。そんな名前だけの家に、わざわざ自分の息子を婿養子に出す貴族など、そう多くはない」

「だから金で釣って、家を継がせると……考えただけで楽しくない話だな。けどそれだと、今回の結婚話はどうなるんだ?」

 先ほどモリオンが言ったように、自分の家に利点が少ないのに、長男を婿養子に差し出すなど、いくら親戚でも親切にしてはいきすぎている。

「今回に限っては、そうとも言えない。確かに、一度親戚で固めてから、それ以上の財産の分与を少なくすることも目的だが……。もしかすると、王位継承権が回ってくるかもしれない」

 語るうちにモリオンは、常の精彩を取り戻しつつあった。カイゼルもまた、彼の話に本の存在を忘れて聞き入る。

「現国王には、正妃、側室合わせて五人の子供がいた」

 その過去形の言い方に、カイゼルは引っかかる。

「いたって、今はどうなんだ?」

「かなり前に、不慮の事故で正妃の子供二人が死亡した。今、継承権を巡って争っているのは、全員側室の子ばかりだ。そしてもしかすると……また数が減るかもしれない」

 不穏な物言いに、さすがにカイゼルも顔をしかめる。

「それって、権力争いとか、派閥って奴か?」

 モリオンは黙って首肯する。

「とにかく今は、大臣連中も誰につこうか必死なのさ。そして万が一、全員共倒れという結果になったときの大穴が、オルローンだ」

 もちろん、全員が死亡するような結末は、そう滅多には起こらない。だが宮廷を混乱に陥れた犯人として、追放なり権力や財産を奪うなりして、政治の表舞台から消し去ってしまえば、それは死んだと同じ意味になる。

「なら、もしも上手く行けば……シリカが国王なるのか?」

「上手くという表現が当たっているなら、な……」

 モリオンは憮然と呟き、溜息を乗せて吐き出した。

 ようやく集会が終わったらしく、人々は笑顔を受かべて散って行った。



 カイゼルは曇り空のような顔で通りを歩いていた。新しい本に巡り会え、浮ついていた気分は既に消し飛んでいる。シリカの結婚話など、他人事と割り切ればいいのだろうが、近しい間柄でそんなきな臭い話を聞かされて、笑って済ませろという方がどうかしている。

「何だかなぁ……」

 腹も減っているので、思考はそれこそ転がり落ちるように最悪な方へと突き進む。

「話としては、おいしいのかもしれないけど、それって結局シリカ自身も様々な謀略とか陰謀に巻き込まれるかもしれないって事じゃないか。てか、シリカはどうなんだよ」

 ぶつぶつとカイゼルは独り言を漏らしながら足を進める。聞かされた話には、もう少し続きがあった。それはシリカが白扉騎士団への入隊が、正式に決定したことだった。

 これも何年も前からあった話だが、本人の失踪の為、うやむやになっていたことだ。仮にも王族に名を連ねる者ならば、それ位の地位は持つべきだという配慮なのだろう。それにしたところで、騎士団の件など、あまりにも唐突で、しかも今さらな話だった。格調が高く、おまけに楽な職種なら、他にいくらでも空きはあるだろうに。

 よりによって、白扉騎士団の団長の方から是非にと話しが来たらしい。

 その地位も、時と場合ですぐに入れ替わってしまうのだろう。

 どちらにしても、すべてにおいて、シリカの意思が介入する隙はなかった。

 答えの出ない疑問を浮かべながら角を曲がった途端、カイゼルは思わず足を止めた。そして素早く建物の陰に身を潜ませる。

「どうなってるんだ……?」

 家の前には、軍馬が四頭。そして二頭立ての馬車が一台あった。だがカイゼルを驚かせたのは、馬ではない、それらに乗って来たと思われる人物達だった。

 街で見る、赤嶺騎士団の実用的な制服よりは装飾の多い、儀礼めいた格好。

「何で、白扉はくひ騎士団が……」

 そこにいたのは一人だったが、馬の数からしてもっといるだろう。カイゼルが見ている前で、玄関が開いた。先頭に一人、そして、他の二人に引っ張られるように出てきた者達に、カイゼルは絶句した。

「と、父さん、母さん!」

 思わず飛び出しそうになったが、状況が読めず、カイゼルはその場に立ち尽くす。

(何で、騎士団がうちに……?)

 どうすればいいと思っても、思考は空回りして焦りばかりが募る。しかも後ろから、白扉騎士団の団員が二人迫ってきていた。

「……っ!」

 カイゼルは反射的に彼らに向かって走り出し、間をすり抜けるようにして駆け抜けた。いぶかしげな顔を向ける団員に、今さらのように家の前にいた騎士が怒声を張り上げる。

 カイゼルは母親の叫びを聞いたような気がした。

 背後で自分を止めようと動き出す気配を感じ、カイゼルは心臓をわしづかみにされたような錯覚を覚える。

 カイゼルの脳裏に、昨晩告げられた言葉が甦る。彼の叔父……正確には、彼の父親が刑務所で死亡した。

 おそらく、騎士団はその件絡みで出て来たのだろう。

 そして、彼らの狙いはおそらく……

(俺だ、あいつら、俺を連れて行くつもりなんだっ!)

 思いこみかもしれない。

 それでもカイゼルは自身の直感に間違いはないと、心のどこかで冷静に感じていた。



 カイゼルが逃げる理由もわからないまま走る姿を、眺めている者があった。その人物は、通りにある一番背の高いアパートの屋上から、じっとカイゼルと、彼を追っている者達に視線を向けていた。追いかけっこの集団が遠ざかると、それを追いかけて屋根から屋根へと移動して行った。



 カイゼルは網目のように張り巡らされた路地を、縦横無尽に走り回る。人一人が通るのがやっとの、建物との間が迫っている、道とも呼べない道。外輪街は、でたらめに建てられた家が密集しているおかげで、突然目の前に壁が現れることもある。それらをカイゼルは易々と駆け抜けるが、追っている者達はそうもいかない。既に何人かは方向を見失い、迷子となり果てていた。

 逃亡はカイゼルに有利な状況だったが……彼が知っているのは昔の下町で、最近の地図は頭に入ってなかった。

「なっ……!」

 行けると思っていた先に、木箱が山と積まれて道を塞いでいる。引き返そうにも、騎士達がすぐ側に迫っていることが、通りを反響する声と足音でわかる。カイゼルは仕方なく木箱をよじ登る。運がよければここで全員撒けるはずだった。

 だが運はカイゼルに向いていなかった。

 足をかけた木箱のふたが抜け、はまった足を抜こうとしてもがいているうちに、団員の一人が彼の姿を見つけ、仲間を呼びながら近づいて来る。

 焦りから、唸るような声を上げて必死に動かない足に力を込める。

 高い壁、役に立たない足、迫ってくる騎士。半ば諦めかけていたカイゼルの目に、金色の光が飛び込む。

「え……?」

 光は鋭い音を立てながら、木箱を昇ろうとしていた団員の胸に食い込むと、そのままえぐるように回転してその動きを止めた。木箱を倒し、派手な音を立てて転がる男の胸に突き立っているのは、ドーナツ型の薄い金属。それは外側が刃となっている武器、チャクラムだった。

 男の動きは確かに止まったが、意識はあるらしく、弱々しく身体を起こそうともがく。その間にも、仲間が駆けつけて来る。カイゼルはいぶかしく思いながら、それでも追われる恐怖から、一気に足を引き抜くと、今度は足場もよく確かめずに一息で上まで登り詰める。制止の声がかかるが、もちろん無視した。

 そのまま反対側に飛び降りようと身体を浮かしたとき、突然背後に赤い光が生まれる。その唐突な現象に、思わず振り返ったカイゼルが見たのは、赤い光の塊が宙に浮かぶという、非常に奇妙な光景だった。だが光が何なのかを判断する間もなく、それは集まりかけた騎士達の真ん中に突っ込むと、破裂するような音を立てて砕けた。

 砕けた光は衝撃を生み、爆風にカイゼルは吹き飛ばされ、木箱の頂上から反対側に向けて転がり落ちた。木箱に何度も身体を打ちつけ、通りに転がったカイゼルが見たのは、激しく吹き上がる炎だった。

 熱風が、じりじりと肌を焦がす。木箱の壁を一枚挟んでいるのに、汗が噴き出すほどの熱気だ。

 カイゼルは呆然としたまま、落下の時に打ちつけた右腕をかばうようにして立ち上がる。炎は既に木箱や、周囲の建物にも回りはじめ、このままではカイゼル自身も危なかった。

 だが彼は動けなかった。

「炎が……現れた?」

 そうとしか表現できないような現象だった。今まで火の気のない場所に、突然現れた光がすべてを焼き尽くす。不可思議な光景。だがカイゼルはそれと似たような現象を見ていた。

 いや、体験した。

「マテリア……なのか?」

 光と、衝撃。それは昨年カイゼル自身が引き起こした現象と酷似していた。彼はそれに気づくと、周囲を見回す。マテリアによって炎が生まれたのなら、当然それを扱う術者が存在する。そして火災が起こる前に、チャクラムを投げた者の存在もあった。しかし集まりかけた野次馬にも、屋根の上にもそれらしい者は見受けられなかった。

 カイゼルはしばらく迷うようにうなだれていたが、やがて黙って歩き出した。

 考えなければならないことは増えたが、それよりもまず、どこかに身を隠す方が先だった。


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