その夜
酒のアテとして出されたレーズンバターを一匙口に含み、ガイザーヴはグラスに注いだカルバドスを煽った。
近衛騎士発足以来、史上初。
成人したての男子による、近衛騎士隊長。
十五の年で成人したガイザーヴは、夜勤時はディルハードの寝酒に付き合う。
王子が眠れば夜勤は終了、後は朝まで不寝番の役目という気楽な役目である。
制服の首元を緩めてリラックスした格好は、幼く見え『がち』な彼をはっきりと『幼く』見せていた。
「最初は、どうなる事かと思ったけれど」
二匙目を掬いながら、ガイザーヴが切り出す。
「けっこううまくいってるみたいじゃない」
「……そう見えるか?」
そう返したディルハードはカナッペを口に放り込み、シャンパンを流し込んだ。
二人が今夜の寝酒に欲するものをきちんと選び出すセリフィスの察しの良さは、正直異常なくらいだと思う。
「いちおうね」
もう一杯カルバドスを煽り、ガイザーヴは口許を拭った。
「……で?」
「?」
質問の意図が分からず、ディルハードは手ずから注ごうとしたシャンパンの瓶を傾けるのを止めた。
「何でセリフィスを襲ったの?」
ガイザーヴは、追及する。
「彼女はキスでごまかされたけど、俺はキスなんかされてないからごまかされないよ……いや、今キスされたいわけじゃないから」
王子が唇を突き出すのを見て、少年はぶんぶん首を振る。
全く、悪い冗談だ。
絶賛引きこもり中の父王は最近女性だけでは飽き足らず、美少年を閨に引き入れているとかいないとか。
過去、それなりに女性関係のあったディルハード。
ただそれは高級娼婦を枕頭に侍らせるばかりで、その傍らに寵姫や側室を迎え入れるまでには至らなかった。
それでも長年忠義を尽くしている身として、彼が女性しか好まないのは理解している。
そして、こんな男色をちらつかせる冗談を気負わず受け流せるほど心の傷が癒えた自分に驚いた。
彼の生母は民間上がりの儚げな人で、ガイザーヴを産んでからいくらも乳を含ませないうちに本当に儚くなってしまった。
父と正室はその母とは逆に子供を亡くしたばかりで乳の止まらない臣下の妻に自分を預け、育てさせたのだ。
端くれとはいえ、ガイザーヴも磨き抜かれた王家の血筋の一員である。
長じるにつれて美しく整っていく息子の容貌と、真意は分からないが裏切りを唆す正室。
そして父は……王を、国を、裏切った。
敵国将軍への手土産となった、自分の体。
将軍は、ガイザーヴを鎖で縛った。
じゃらりと余裕のある長さ。
鍵を見せ付けるようにズボンのポケットに入れ、彼を裸にひん剥いて気持ち悪いタラコ唇を押し付けてきた。
目の前に差し出された禿頭と、猪首。
致命傷を与えるには、分が悪すぎる。
この時、ガイザーヴはとても冷静だった。
養父母の教育は申し分なく、特に養父はそこそこの武官だったので彼に早くから色々と教えてくれていたのだ。
ガイザーヴは伏して耐え忍び、反撃のチャンスを窺った。
そして、その時は訪れる。
少年の肉体を一通り嬲り尽くして満足した将軍は、後始末をさせるべくガイザーヴの口をこじ開けた。
少年は目の前にある器官を……渾身の、力で。
食いちぎった。
想像を絶する痛みでのたうちまわる将軍の首に腕を戒める鎖をかけ、締め上げて窒息させた。
この将軍の不運は、ただ一つ。
性別を問わず子供をいたぶるのが好きで、最終的に殺される犠牲者達は日頃から人間とは思えない断末魔の悲鳴を上げていた事。
彼自身が発する音は全てガイザーヴのものだと哨戒に当たっている兵士に思い込まれ、絶命するまで気づかれなかったのだ。
そして将軍の死亡を確認したガイザーヴは鎖を外し、自由の身となる。
その後に彼がした事は、シンプルだった。
将軍が使っていた剣で彼の首を切り落とし、幕舎の裏手から外に出て信号弾を打ち上げたのだ。
我、敵将ヲ討テリ。
敵本陣ど真ん中からいきなり上がったそれは、両軍を混乱に陥れた。
そんな国軍の中で一番早く動いたのは、当時父王に随伴していたディルハードだった。
開戦以降、毒婦・妖婦と称される正妻共々姿の見えないガイザーヴの父。
彼が潜入任務をこなしているという話は王もディルハードも聞いておらず、王家に名を連ねる者でありながらもしや裏切りを働いたのかと騒ぎになりかけた所での信号弾だ。
真っ先に彼の脳裏に浮かんだのは、あまり幸福とは言えない境遇に置かれた幼い再従弟の事だった。
彼の父が裏切ったのなら、正妻にそそのかされて少年を子供好きで知られる下衆な将軍への手土産として差し出したのではないか。
ぞっとする予想はディルハードを駆り立て、単騎で敵本陣に突撃という通常ならありえない・やってはいけない事をしてしまう。
それでも敵の混乱に乗じて何とか本陣の将軍幕舎に乗り込めば、そこには局部を無様に食いちぎられた首のない死体が一つ。
傍らには、切り落とされた首を抱えた赤毛の幼子。
それを見て、ディルハードは全てを理解した。
間に合わなかった、済まないと何度も繰り返すディルハードの声を、ガイザーヴは今でも鮮明に覚えている。
「どうした、ガイザーヴ?」
不審げなディルハードの声に、ガイザーヴは己を取り戻す。
「……昔を思い出してた」
それを聞いて、王子の表情が曇る。
昔、どうしてもとせがまれてあの時の自分の動向を話したが……やはり話すべきではなかったか。
「大丈夫……もう何とも思わないからさ」
無邪気に笑ってみせると、ディルハードは眉を歪める。
「……責任感、強すぎるよ」
ガイザーヴは、やるせない気持ちとともに言葉を呟く。
あの時、夫妻の裏切りに気づかず間に合わなかった事をディルハードは今でも悔いている。
けれどそれは、彼が負うべき責任ではないとガイザーヴは思う。
負うべき人間は既に、断首台の露と消えている。
ガイザーヴにとって父母と呼べる人は、産みの母と引退して田舎に引っ込んだ武官夫妻だけだ。
あの男の血が自分に流れていると思うだけで、ぞっとする。
「……さて、寝るか」
呟いて立ち上がったディルハードに、ガイザーヴは視線を注いだ。
視線に気づいた王子は、ふっと微笑む。
「おいで」
彼は、ガイザーヴをベッドに招いた。
いつも、そうだ。
実父にまつわる不快な思い出を口にして気分が滅入る時、ディルハードは彼を甘やかしてくれる。
十六にもなって情けない話だしいい加減に卒業しないとと思うのだが、この落ち込んだ気分を理解して昇華させてくれるのはディルハードの添い寝しかない。
酒を飲む、美食を尽くす、趣味に没頭する。
いずれも試してみたが、どれもしっくりこない。
一番がディルハードの甘やかしなのは、あの時自分を抱き上げてくれた腕の感触を忘れられないからだろう。
養父母でも得られなかった、絶対的な安心感。
「えへへー」
上着を脱いだガイザーヴは、ベッドに潜り込んだ。
ディルハードは小さく笑って、彼の頭を撫で回す。
王子の傍で過ごすようになってから、一緒に寝る時の変わらない儀式。
「おやすみー」
「ああ、おやすみ」
眠りに落ちる直前、ガイザーヴは気づいた。
結局、質問に答えてもらっていない事に。