それから
茜が、宵闇に変わる頃。
「では、そのように……下がっていいぞ」
「はっ」
使いが部屋を出ていくと、ディルハードは肩を揉みながら首を左右に揺らした。
「お疲れ様です、殿下」
セリフィスは王子の前に、すぐ飲める適温に冷ましたお茶を出す。
「ああ、ありがとう」
添えられているキャラメルを一粒口に放り込み、ディルハードはお茶を口に含んだ。
口中で溶けるキャラメルの甘い風味とお茶のふくよかな香味が絡まり合い、溜まった疲労を癒してくれる。
あれから、三ヶ月。
上司と部下として、二人の仲はきわめてうまくいっていた。
セリフィスは物覚えがよく、ディルハードの好みはすぐに覚えた。
彼が快適に執務できるよう細々と取り計らうようになってからというもの、政はより円滑に進むようになったと非常に好評だ。
現王が後宮へますます引きこもるようになった事からも、ディルハードの執務に対する評価が窺える。
……いくら息子が優秀だとて、為政者としてはいかがなものかと重鎮達はこっそりため息をつくが。
「今日の所はこれで終いだ。ご苦労だったね」
ディルハードはセリフィスをねぎらうと、彼女を驚かせないようゆっくり立ち上がった。
セリフィスの顔に、わずかな緊張が走る。
王子は優しく微笑むと、侍女の髪に唇を落とした。
単に業務の苦労をねぎらってくれているのだろうと思っても、心臓がどきりと飛び跳ねる。
それが思慕を表すキスである事は、気づいていても嘘か冗談……もしくは自分をからかっているのだと、セリフィスは思っていた。
「……では、本日は下がらせていただきます」
優しい光を宿した蒼玉から目を逸らし、彼女は深々と礼をした。
「ああ」
ディルハードに見送られて執務室を出たセリフィスは、ため息をつく。
月とか氷とか冷たい表現がよく似合う外見の王子だが、身近に接すれば意外と気さくだし割にしゃべる。
あの整いすぎた外見故に、勝手に寡黙でストイックな人物なのだろうと思い込んでいたのだが。
それに初対面での暴行以来、彼が荒々しく触れてくる事は全くなかった。
「ため息なんかついて、どうしたの?」
「きゃっ」
不意に後ろから抱き着かれ、セリフィスは悲鳴を上げる。
「ガイザーヴ……」
悪戯っぽい弟に絡み付かれた気分で、彼女はガイザーヴの腕を優しく叩いた。
「今日のお勤めは、もう上がり?」
力を込めて抱きしめてから、少年は離れる。
「ええ。お腹空いちゃった!」
無邪気な様子に、ガイザーヴはくすくす笑う。
「俺はこれから夜勤なのー。殿下の寝酒に付き合うのー。ねえ慰めてー」
全くそう思ってはいない表情で、ガイザーヴはねだった。
「あらあら」
思わず微笑みながら、彼のクリムゾンブロンドに手を触れる。
艶やかでまっすぐで、重い髪だ。
「夜勤、頑張ってね」
「うん!」
顔をほころばせると、ガイザーヴは手を振って去っていった。
それを見送ってから、セリフィスは自室に帰る。
居間のテーブルには、一人分の食事が用意されていた。
今日はたまたま早く終わったが王子に付き合うと仕事が夜遅くなる事があり、食堂を利用しづらいとの理由から小間使いが準備してくれるようになったのだ。
その内容は、ディルハードが食する物と全く同じ。
味は文句なしだしやりようによっては毒味役にもなりうるし、セリフィスに文句はない。
「さて今日のメニューはっと……何だったっけ?」
勤めの間は結い上げている髪を揺すって解きながら、彼女は料理を覗き込んだ。
メインはレモンバターソースを添えた白身魚のムニエルに、付け合わせの温野菜。
後は具だくさんのスープと食事パンが二つ。
デザートにパンナコッタが付いた、ちょっと贅沢なメニューになっている。
仕事を上がってから腹の虫が疼き始めているため、セリフィスは生唾を飲み込んだ。
大急ぎで寝室にしつらえたドレッサーまで行き、化粧を落とす。
仕事着を普段着に着替えると居間へ舞い戻り、冷めないうちに夕食をいただいた。
もぐもぐとおいしく食事をいただきながら、こんなに厚遇されていいのかなぁと思う。
仕事自体は来客の取り次ぎなどの調整はともかくとして休憩時のお茶出しや日に二度摂る食事のメニューや就寝前にたしなむお酒とつまみの決定など、ディルハードの好みさえ把握すれば容易な仕事ばかりだ。
こうして食事の支度や部屋の掃除・洗濯など、王子のついでにセリフィスの世話もしてくれる小間使い達は『その好みを把握するのが難しいんです!』と口を揃えるが、セリフィスにはそれが不思議で仕方ない。
どうやら彼女達はディルハードの表情が読めないようだと気づくまで、セリフィスは結構な時間を必要とした。
硬質な美貌に紛れてしまい、わずかな変化を見逃してしまうのだ。
仕事の合間の休憩時、お茶を飲んで一息ついている時の和やかな顔。
連日のように行われる重鎮達との会議で見せる、凛々しくも雄々しい王者の顔。
ガイザーヴと冗談を言い合っている時の、心底楽しそうな顔。
いずれも、セリフィスなら見分けられた。
しかし、小間使い達は見分けられない。
彼女らにはディルハードがまるで氷でできた彫像のように、冷たく無表情に見える。
ディルハード自身も冷たく見える事を生かしてあれこれやっているので、冷たく見えようが優しく見えようがどうでもいいらしい。
「綺麗な事に変わりはないものねぇ」
呟いて、セリフィスは食事を平らげるのだった……。