『夢』
「はあ、はあ、はあ。どうなってるんだよ……」
暗い廃墟の立ち並ぶ一角で、壁に背中を貼り付け、吸っても吸っても酸素が足りないと主張する胸を服の上から押さえつけた。
鳶色の瞳に鳶色の髪。線の細いその身体は中性的だがその声は変声期を迎えた少年の声をしている。
「なんで僕がこんな目に……」
ブツブツ言っても仕方がない。そうとわかっていても言ってしまうというのが人の性か。
少し呼吸が落ち着きを取り戻したのを感じてから少年はその壁の角から向こうを覗きこんだ。
「まだいるよ……」
そうぼやく少年の視線の先にいた、息を荒げている原因であるものは奇妙としか言えないものだった。
それは通常の人よりも大きな魚だった。
だがその異常さはそれだけではない。
「なんで浮いているんだよ……」
そう、その魚は少年の言う通り宙を泳いでいるのだ。
もう耐えられない。そう感じた少年はそれを見続けたまま後ずさりを始めた。
一歩、また一歩と相手に気付かれないようにそっと、慎重に後ろに下がっていく。
「僕は普通に部屋に寝ていたはずなのに、なんでこんなところにいるんだよ。」
ブツブツと目の前のことから逃避するように呟く少年は気付いていなかった。
そのすぐ後ろにもう一匹、大きく口を開いていたことに。
鋭い歯がびっしりと並んだそれは鋸と表現するのが妥当だろう。
そんな近距離でも少年は気付かない。
後一歩、そこまで来たときその魚が動いた。
真横に。
ドサッと土が抉れる音に少年はやっと振り返り、そして言葉を失った。
それは、巨大な魚がその大きな目を見開いたまま絶命しているから、ではなく、その魚の傍らに一人の青年がいたからだ。
「大丈夫か?」
茫然としていた少年はハッとして青年に頷いた。
「あの……」
「すまないが話は後だ。私について来てくれ。」
「はあ。」
あいまいな返事を聞いていたのかどうかは確かではないが、青年は少年についてくるよう促した。促された方も当てがない今、ついていくしか選択肢がなかった。
彼らは立ち並ぶ廃墟の影を上手く利用しながら少しずつ進んでゆく。
少年は青年の後ろに付きながらその手に握られているものを興味深げに見た。
汚れや傷一つない、無骨なだが精巧な作りをしている両手剣。それが青年の手の中に納まっていた。
先ほどの魚を殺したのもこの剣なのだろう。容易く命を刈り取れる武器に見とれているといつの間にか止まっていた青年の背中にぶつかっていた。
「っ!? おいおい。前ぐらい気を付けてくれよ。」
怒られるのか、と首をすくめていた少年は意外にも叱責がないことに内心驚きながら視線を上げた。
ニヤリと笑って見せる青年がいるその向こうで、少年はこれまでとは明らかに性質の違う建物が見えた。
これまではコンクリートなどでできていた五階ほどの建物が多かった。だがそれは、見たことのない金属で建てられた十階は優にある小奇麗なデパートのように縦にも横にも広い建物だった。
口をぽかんと開けて見上げる少年をおかしげに笑いながら青年は少年に手を差し出した。
「ようこそ。ニホンコクへ。」
中は外と変わらず金属板で覆われ、どこかの研究所のような無機質な内装だった。だがそれ以上に無機質なものにさせているものは別にある。
この建物に入ってから十分ほど、何度か角を折れながら二人は歩いているが、不自然なほどに誰にも合わないのだ。
いや、それ以上に人の気配が全くないのだ。
「ここだ。」
なおも青年の後ろについて歩いていた少年は通された部屋に恐る恐るといった感じに踏み込んだ。
中は会議室のように机と椅子が幾重にも並んでいるだけで他にこれといったもののない普通の部屋だった。
「適当なところに座ってくれ。」
「……」
少年はどこか居心地の悪さを感じながらすぐそばの椅子に腰かけると、その向かいに青年が机にもたれかかった。
「君が訊きたいことは分かっている。ここがどこか、だろ?」
「え?」
少年は意外そうな顔をした。それもそうだろう。普通に自分の部屋で寝ていたらいつの間にか人食い魚の目の前にいたなどという話をして簡単に信じてもらえると思っていなかったのだ。しかも、少年自身この話を彼にはしていない。にも関わらず彼は少年の疑問を言い当てた。ここから予想されるのは一つだけ。
「何を知っているんですか?」
「そうだな。何から話そうか。」
「まず、ここはどこですか? これは夢なんですか?」
「その問いは少し語弊があるな。」
「語弊?」
「そう。君はここを夢と言い、ここではない方を現実という。それはなんでだ?」
「は?」
なんで? そこを訊かれると思っていた少年は黙り込むしかなかった。
「君の思う夢が現実で現実が夢かもしれない。」
「……そんな哲学的な答えは求めていないんですが?」
「この考えが重要なんだよ。この世界を伝えるにはな。」
ニヤリと笑って見せる青年は手元のリモコンのボタンをその部屋の壁に向けて押した。
すると何もなかったはずの壁にどこからともなく映像が投射された。
「ここは、君の言う『現実』から五十年後の世界だ。」
「へ?」
いきなり告げられた内容に頭がついていかず、少年は頭を抱えた。
「ここは確かに君にとっては夢でしかない。だけど、俺にとっては現実でしかない。」
青年から与えられる情報を整理し、脳をフル回転させた少年はその結論を口にした。
「えっと、つまり僕は夢の中でタイムスリップしたと?」
「簡単に言えばそういうことだ。」
満足げに頷く青年の前で少年の顔色は優れなかった。
「じゃ、じゃあ、どうやって僕は現実にもどればいいんですか?」
「……」
急に黙り込む青年の顔を少年は覗き込むが背けられ、仕方なく背もたれに身を預けた。
「すまないな、俺が呼んだばかりに……」
「いえ、もういい……呼んだ?」
ぼそりと告げられた謝罪にそう反射的に答えようとした少年は口を閉じた。
「あ、」
「呼んだって、まさかあなたが俺を連れてきたんですか?」
「う、いや、」
「どうなんですか?」
じりじり詰め寄ってくる少年に冷や汗を垂れ流していた青年は覚悟を決めたのか淡々と語りだした。
「ここに来るまで誰にも会わなかったのは気付いているか?」
その問いに無言でうなずく。
「それは偶然じゃない。この建物には俺しかいないんだ。」
ある意味予想通りの言葉に少年は何も反応せずただ無言で先を促した。
「いや、この建物だけじゃない。もうこの国には、世界には、もう俺しかいないんだ。」
重い沈黙が部屋を、世界を覆っていく。
二人の心境は複雑だった。
青年は過去に起こった悲しい現実に思いをはせ、少年はこの悲しい『未来』という現実を受け止めきれないでいる。
「なら、」
そんな沈黙を破ったのは少年の方だった。
「なら、僕を呼んだのは一人がさびしいから?」
「いや違う。」
即座に否定した青年はまたリモコンを操作した。
そこで画面に表示されたのは少年にとって見慣れた地球の姿があった。
「君に、この『未来の』現状を知ってほしかった。それだけだ。」
そう告げながら青年はさらにリモコンを操作していく。
「君がいた年、二〇一一年から十五年後、第三次世界大戦と呼ばれる史上最大の戦争が起こった。各国は核による攻撃を当然のように使い、そして電磁砲と呼ばれる新兵器までも導入した。」
「そんなすぐに……」
「この戦争が収まるのはその十年後。もうその時には人口は二十億を切っていた。だが、この惨劇はここで終わらなかった。」
「どういう……」
「君も見ただろ? あの魚を。」
「ええ。あのピラニアみた……」
「あれはピラニアだ。」
みたいと言っていたものがまさか本物だとは少年は予測していなかった。
「核による戦争と人間の過度ともいえるエネルギー依存が世界規模の突然変異を巻き起こした。人間に飼育されていたような動物たちは巨大化し、逆に人間を狩りだした。」
「そんな……」
「それで俺一人だけになったのが先月だ。最後の一人が巨大化した犬にかみ殺された。」
その悲しいような悔しいような表情からその最後の一人との関係が少年にも分かった。
「恋人だったんだ。」
「ああ。」
恋人を目の前で殺されるという苦痛は少年にとって計り知れないものだった。
また先ほどよりも重い沈黙が満ちていく。
「……だけどなんで僕を呼んだんですか?」
だがこれではきりがない。そう思い勇気を出して少年は口を開いた。それは当然ともいえる疑問だった。少年ははた目から見て十五、六といった具合だろう。そんな少年に語る
には確かに重すぎる話である。
だが青年はゆっくり、そうじゃないんだ、と首を横に振った。
「君じゃなければならない。」
「なんで……」
「君が……君が引き起こしたからだ、第三次世界大戦を。」
「えっ!?」
今度ばかりは本当に少年は驚いた。
「君が発明した、いや将来開発する衛星からの超電磁砲による攻撃。これが戦争の皮きりになったんだ。」
「そんな……」
そこまで言われてにわかに信じられなかったが、確かに少年の夢は宇宙関係の技術開発の職に就くことだった。つまりあながちウソだとも言い切れないのだ。
「だから、だから俺は、っ!?」
ドゴン
地震とは違う、何かが爆発したような振動が建物を揺らした。
「くそっ。ついに来たか。」
口惜しげにつぶやく青年の向こうでバキバキと床や壁が突き破られる音が徐々に近づいてきている。
「俺が君を呼んだ理由、分かってくれたか?」
「う、うん。だけど、どうすれば……」
「そんなものは自分で考えろ!!」
青年の初めての怒鳴り声は崩れ落ちた壁の向こうへと跳びだした。
その崩れる壁を睨みつけながらも青年は少年に何かを投げた。
崩れた壁の向こうから現れたのは、見たこともない、見上げるほどの巨大な犬。その全てが大きな身体の内大きな目が壁の割れ目から彼らを見つめていた。
それにくぎ付けになりそうになりながらも少年は投げられたものに視線を落とした。
それは青い星だった。
「それがお前がここからお前の現実に変える道具だ。」
「どうやって使うんですか?」
「強く握りこんで戻りたいと願え。それで終わりだ。」
少年は言われた通りその星を握りこむが目もとじず、迷いの色を宿したまま青年を見た。
「何してる!? 早く行け!!」
「……だけど!?」
「お前にはしなくてはならないことがあるだろ!!」
青年は叫びながら腰に差した剣を抜いた。
「頼む!! この現実をお前の言う夢に変えてくれ!!」
バゴン
壁を貫いて迫ってくる鋭い牙をその剣で受け止めた。派手な火花が周囲の鉄板に反射されながら飛び散っていく。
じりじりと押されながらも鍔迫り合いを繰り広げる青年。だが、その顔には獰猛な笑みが浮んでいた。
「またお前と会えるなんてな!!」
明らかに自分より重量のあるそれを弾き返し、青年は駆けだした。
大きく仰け反る巨大犬の前足をスパっと音が聞こえそうなほどきれいに切り落とし、後ろへ跳んだ青年は、未だ固まり続ける少年を後押しするように大声を出した。
「この幻想を終わらせてくれ!!『じいちゃん』!!」
その言葉を、そのたった一言を聞いた瞬間、少年は自然に星を強く握り締めていた。
そこからのことを少年はよく覚えていない。
気付いたら自分の部屋のベッドの上に寝転がっていたのだ。
「ふう。」
茜色に染まる空を見上げ、少年はため息をついた。
あれは現実だったのか、夢だったのか。それを確かめる手段はない。
だが、最後に意識が失われる直前、彼が笑っているのを少年は見ていた。
「ああ。やってやるよ。」
何をどうすればいいのかはまだ分からない。だが、少年の中で何かが変わっていた。
未来を必死に生きる『彼』のために、少年は大きな一歩を踏み出した。