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「君のためを思って言っている」――そんな婚約者が、とにかくやかましいのです

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/09/27

 クラリッサ・エヴァンスがヴィンセント・ハーグレイヴと婚約したのは、十五歳の春だった。伯爵家の令嬢と侯爵家の嫡男という家格の釣り合いに加え、二人は幼い頃から同じ茶会で何度か顔を合わせていたため、互いをまったく知らない状態から始まった婚約ではなかった。クラリッサにとってヴィンセントは、話しかければ丁寧に答えてくれる少し真面目な少年という印象で、将来の夫になると知らされたときにも強い抵抗は覚えなかった。


 ヴィンセントは整った顔立ちをした青年で、学問にも剣術にも熱心だった。侯爵家の跡を継ぐ者として幼い頃から厳しい教育を受けてきたためか、決められた時間や礼儀を守ることを好み、自分の生活についても細かなところまできちんとしていた。社交の場で無礼を働くこともなく、酒に溺れることもなければ、女性関係で妙な噂を立てられたこともない。十五歳だったクラリッサには、むしろ安心して結婚できる相手に見えていた。


 婚約して最初の数か月は良い流れで過ぎていった。二人で茶会へ出ればヴィンセントはクラリッサのために椅子を引き、夜会では最初の一曲を必ず彼女に申し込んだ。クラリッサが読書を好むと知った翌年の誕生日には、以前から欲しがっていた本を探して贈ってくれたこともある。そうした振る舞いに触れるたび、クラリッサも彼なりに自分を大切にしてくれているのだろうと思っていた。


 少し妙だと思い始めたのは、婚約して半年ほど経った頃だった。ある午後、二人で招かれた茶会でクラリッサが紅茶へ二杯目の砂糖を入れようとしたところ、それまで向かい側で静かにしていたヴィンセントが匙を持つ彼女の手元へ目を向けた。


「クラリッサ。砂糖を二杯も入れるのか?一杯で十分じゃないか」


 最初に言われたとき、クラリッサは大して気にも留めなかった。ヴィンセント自身は砂糖を入れずに紅茶を飲むため、甘いものを好む自分が珍しく見えたのだろうと考え、その日は一杯だけにしておいた。婚約者からの何気ない一言を巡って言い争うほどのことでもなく、クラリッサ自身も、この程度なら相手に合わせても構わないと思っていた。


 ところが、次の茶会でも同じことを言われた。その次には菓子を二つ取ったところを見られ、夕食前なのだから一つにした方がいいと注意された。別の日には紅茶へミルクを多めに注いだだけで、それでは茶葉の味が分からなくなるのではないかと言われた。どれも怒るほど重大な内容ではないため、クラリッサは小さな違和感を覚えながらも受け流していた。


 やがてヴィンセントが気にする範囲は、食事以外にも広がっていった。髪飾りを新調すれば少し派手ではないかと言われ、青いドレスを続けて着れば他の色にした方がいいと勧められる。背筋、歩く速さ、座る姿勢まで彼の目にはよく映るらしく、友人との会話が盛り上がって笑えば、もう少し静かに笑った方が令嬢らしいと注意されたこともあった。


 ヴィンセントは人の変化によく気づく男だった。クラリッサが新しい靴を履けばすぐに気づき、髪を少し切った日にも会って間もなく言い当てる。普段より食事を多く取ったことも、読んでいる本が変わったことも、夜会でいつもより多くの友人と話したことも覚えている。その観察力を喜んでいた時期もあったものの、ヴィンセントには気づいたことを自分の中へ留めておくという発想がほとんどなかった。


 十六歳になる頃には、クラリッサはヴィンセントと会う前に自分の格好を念入りに確認するようになっていた。髪飾りは大きすぎないか、ドレスの色は派手ではないか、靴の踵は高すぎないかと鏡の前で考え、茶会へ行けば以前と同じ菓子ばかり取っていないかまで気にする。それでも彼と半日も一緒にいれば、何か一つは新しい指摘があった。


 春には日傘の色について意見を言われ、夏には冷たい飲み物を取りすぎない方がいいと言われた。秋には読書ばかりしていると目が疲れると注意され、冬には室内でも肩の出たドレスでは身体を冷やすと心配された。最初の一年ほどは気遣いなのだと自分を納得させていたクラリッサも、二年目を迎える頃には、これは本当に自分のためなのだろうかと考えるようになっていた。


 体調を崩しそうなほど薄着をしていたなら、婚約者から心配されるのも理解できる。公の場にふさわしくない服装をしていれば、将来同じ家を支える相手から注意を受けることもあるだろう。クラリッサ自身、婚約している以上は互いに一定の配慮が必要だと思っていたし、ヴィンセントの振る舞いに問題があれば、自分から意見を伝えることもあると思っていた。


 それでも、紅茶に入れる砂糖の数まで婚約者に決めてもらう必要があるとは思えなかった。友人と楽しく話しているときの笑い方も、休日に読む本も、気に入って買った髪飾りも、将来侯爵家へ嫁ぐこととは関係のないところまでヴィンセントの意見が入り込んでくる。それを嫌だと思う自分の方が狭量なのかと考えた時期さえあり、クラリッサはなかなか不満を口にできなかった。


 何より困ったのは、ヴィンセント本人に悪意が見えないことだった。クラリッサを貶めて楽しんでいるわけではなく、他の女性と比べて嘲笑するようなこともない。彼女が重い荷物を持っていれば手を貸し、体調を崩せば見舞いの手紙を送り、約束した予定を忘れたこともなかった。自分は婚約者として当然の気遣いをしているのだと、本気で信じているように見えた。


 そうして二年が過ぎ、三年目を迎える頃には、ヴィンセントから何かを言われること自体がクラリッサの日常の一部になっていた。顔を合わせるたびに一つ、長く一緒にいれば二つ三つと増えていく。指摘される内容はどれも一つずつなら些細なものなのに、三年間積み重なるうち、クラリッサは彼と会う予定が入っているだけで少し気が重くなるようになっていた。


 十八歳になった春、王都では社交期の締めくくりとなる大きな夜会が開かれた。高い天井から幾つものシャンデリアが下がる大広間には多くの貴族が集まり、中央では楽団の演奏に合わせて男女が踊っている。壁際には飲み物や軽食が用意され、冬の間に何度も顔を合わせた者たちが、春からの予定や領地へ戻った後の話を楽しそうに交わしていた。


 クラリッサもその一角で、親しい令嬢たちと話していた。最近王都にできた菓子店の話になり、一人がそこで売られている焼き菓子を身振りまで交えて熱心に説明し始めたため、クラリッサは思わず声を上げて笑った。周囲にも同じように談笑している者は大勢いて、自分の笑い声が特別目立ったとは思わなかった。


「クラリッサ。もう少し静かに笑った方がいいんじゃないか?さっきから少し声が大きいよ」


 背後から聞こえた言葉に、クラリッサの笑みが止まった。振り返った先には予想通りヴィンセントが立っており、彼は怒っている様子もなく、何か役に立つことを教えたとでもいうような顔をしている。周囲にいた友人たちが困ったように視線を交わす様子を見て、クラリッサは自分以外の者にも、この光景が奇妙に映っているのだと初めて気づいた。


「そうですか?」

「それと、そのドレスだけど。少し肩が出すぎじゃないか?もう少し落ち着いたものの方が君には似合うと思う」


 今日クラリッサが選んだのは、淡い若草色のドレスだった。胸元から肩にかけて春の花を思わせる細かな刺繍が施されているものの、今夜の華やかな夜会では控えめな部類に入る。鏡の前で何度も確認して選んだ服だったため、クラリッサは自分の肩へ視線を落とすこともなかった。


 ヴィンセントは続けて、先ほど彼女が菓子を取っていたことにも触れた。夕食前なのだから一つにしておいた方がいい、甘いものが好きだから気をつけなければ食べすぎる、といつもの調子で話している。三年間なら聞き流せたはずの言葉が、その夜に限っては一つ一つ耳に残った。


「ヴィンセント様。少し、お時間をいただけますか」


 クラリッサは友人たちへ断りを入れ、人の少ない休憩室へ向かった。広間から離れるにつれて楽団の音が遠くなり、扉を閉めると先ほどまでの賑わいも随分小さくなる。壁際には長椅子と小さな卓が置かれていたが、腰を下ろす気にはならず、クラリッサは立ったままヴィンセントへ向き直った。


「一つ、お聞きしたいことがあります。ヴィンセント様は、どうしていつも私に注意なさるのですか?」

「注意というほど大げさなことじゃないだろう。気づいたことを言っているだけだよ」

「では、なぜ気づくたびに仰るのです?」


 ヴィンセントは質問の意図を測りかねているようだった。少し考えてから、自分たちは婚約者なのだから当然だろうと答える。いずれ夫婦として同じ家で暮らすのだから、互いに気づいたところを教え合った方がいい。彼にとっては、それが婚約者を大切にする方法の一つらしかった。


「私はあなたに、そうしてほしいとお願いしたことがありましたか?」

「え?」

「私の服を選んでくださいと頼みましたか。食べるものを決めてくださいと頼みましたか。友人との話し方も、歩く速さも、本を読む時間も、あなたに教えていただきたいとお願いしましたか?」

「頼まれたわけではない。けれど、君のためを思って――」

「それが、やかましいのです」


 ヴィンセントは目を見開き、そこでようやく口を閉じた。


「……やかましい?」

「ええ。とてもやかましいです。会えば服について言われ、食事について言われ、趣味について言われ、友人との過ごし方まで言われます。何をしていても、あなたが横から一言加えてくる。私は三年間、あなたと会うたびに今日は何を言われるのだろうと考えてきました」


 口に出してみると、自分でも驚くほど次々と言葉が出てきた。ヴィンセントと会う日の朝に服を何度も選び直したこと、彼の前では好きな菓子を二つ取れなかったこと、笑った直後に声が大きくなかったか気にする癖までついたこと。それらを一つずつ話していくうちに、クラリッサは自分が思っていた以上に疲れていたのだと気づいた。


「僕は君を大切にしてきたつもりだ」

「私も、ずっとそう思おうとしていました。あなたには悪意がありませんし、私が困れば助けてくださいました。だから私が我慢すればいいのだと思っていたのです」


 ヴィンセントの表情がわずかに変わった。クラリッサが自分の言葉を我慢していたとは考えたことがなかったのだろう。彼にとっては小さな助言でも、受け取る側にとって同じ重さとは限らない。そのことを今から理解してもらったところで、クラリッサの中に積み重なった三年間が消えるわけではなかった。


「私は、あなたと一緒にいると疲れます。何をしていても正されるのではないかと思ってしまうのです。そんな気持ちのまま結婚して、これから何十年も一緒に暮らしていけるとは思えません」

「……そんな理由で、婚約をやめたいのか?」


 クラリッサはその言葉を聞き、胸の中にわずかに残っていた迷いまで消えていくのを感じた。ヴィンセントにとっては今でも「そんな理由」なのだ。三年間積み重なった言葉が自分に何をもたらしたのか、すべて伝えた後でも、その認識はすぐには変わらないらしい。


「あなたにとっては小さな理由でも、私にとっては三年間積み重なった理由です。ヴィンセント様、婚約を解消しましょう」


 長く続いた婚約を終えるためには、その夜に二人が話しただけでは足りなかった。これまで互いの家を通して決めてきた予定を整理し、周囲にも婚約が解消されたことを知らせる必要がある。ヴィンセントから考え直してほしいという言葉も何度か届いたものの、クラリッサが返事を変えることはなく、二人の婚約は春の終わりを待たず正式に解消された。


 婚約者がいなくなってからの日々は、クラリッサが想像していた以上に穏やかだった。朝食でジャムをたっぷり塗ったパンを食べても誰にも量を指摘されず、午後の茶会で紅茶に砂糖を二杯入れても、一杯にした方がいいという言葉は飛んでこない。気に入った本を夕方まで読み続け、友人と話して大きく笑っても、後から自分の振る舞いを思い返して気にする必要がなかった。


 ある日、友人と買い物へ出かけたクラリッサは、店先で大きな花を模した髪飾りを見つけた。以前ならヴィンセントに派手だと言われるだろうと考えて棚へ戻していたかもしれない。鏡の前で髪につけてみると淡い色合いが自分の髪によく映え、クラリッサはしばらく眺めた後、そのまま買うことに決めた。


 数週間後、クラリッサはその髪飾りをつけて夜会へ出席した。婚約を解消してからヴィンセントと同じ場へ出るのは初めてだったものの、以前のように自分の格好を何度も確認することはなかった。淡い青色のドレスも髪飾りも自分が気に入って選んだものであり、それを誰かの好みに合わせて変える必要がないと思えるだけで、夜会へ向かう足取りまで軽く感じられた。


 会場では親しい令嬢たちと話し、最近読んだ本や次の休日の予定について笑い合った。誰かに見られているのではないかと考える癖も少しずつ薄れていたため、背後から久しぶりに名前を呼ばれたときにも、クラリッサは慌てず振り返ることができた。


「クラリッサ」

「ごきげんよう、ヴィンセント様」


 久しぶりに見る元婚約者は、以前より少し気まずそうに立っていた。短い挨拶を交わした後、ヴィンセントの視線がクラリッサの髪へ向かう。大きな花を模した飾りを見つめたまま一度口を閉じたので、クラリッサは彼が何を考えているのかすぐに察した。


「その髪飾り、少し大きすぎるんじゃないか? もう少し小さいものの方が君には似合うと思う」


 クラリッサは一瞬目を丸くした後、思わず笑ってしまった。婚約が終わって数週間が経っても、ヴィンセントはやはりヴィンセントらしい。彼はなぜ笑われたのか分からないらしく、自分は似合わないと言っているわけではないと説明を始めようとした。


「ヴィンセント様。私たち、もう婚約者ではありませんわ」


 その一言で、彼の口が閉じた。以前なら彼の意見を聞き、帰宅してから髪飾りを選び直したかもしれない。今のクラリッサにとっては、自分が気に入っているという理由で十分だった。


「ですから、私がどんな髪飾りを選ぶかは、私が決めます」

「……そうだな」


 ヴィンセントはそれ以上何も言わなかった。どこか居心地の悪そうな表情を残して離れていく彼の背中を見送りながら、クラリッサは胸の中に寂しさが生まれるか確かめてみたものの、戻ってきてほしいという気持ちは少しも浮かばなかった。


 入れ替わるように友人が戻ってきて、久しぶりに元婚約者と話して大丈夫だったのかと尋ねてきた。続けて、ヴィンセントとは婚約していた頃にどんな関係だったのかと聞かれ、クラリッサはすぐには答えず、近くを通った給仕から紅茶を一杯受け取った。


 クラリッサは紅茶へ砂糖を一杯入れ、少し考えてからもう一杯加えた。匙でゆっくりとかき混ぜて口をつけると、自分の好きな甘さになっている。誰からも多すぎると言われない一杯を味わいながら、クラリッサは三年間を一番よく表している言葉を選んだ。


「そうですわね。とにかく、やかましい婚約者でした」

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