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砂漠の王と氷姫

作者: 藤浪保

 バシャッ。


 突然顔に冷たい液体が掛かり、シヴェラは寝台から転げ落ちた。


「ぷっ」


 声のした方を見れば、侍女が嘲笑(あざわら)っていた。手にした(から)のタライの縁から、水が石畳に滴り落ちている。


「早く起きて支度をしな」

「支度って、何の……?」

「国王陛下がお呼びだ」

「陛下が?」

「伝えたからね!」


 侍女はそう言い放って部屋を出て行った。


 トヴァルカ王国の第一王女シヴェラにとって、国王とはすなわち父親だ。しかし、顔を合わせるのは実に一年ぶりだった。


「なんで急に……」 

 

 理由は不明だが、とにかく急がなければならない。昨夜も妹のアルカレアの婚礼衣装を縫っていてほとんど眠れていないが、そんなことは加味してもらえないだろう。


 シヴェラは濡れてしまった顔と髪を(ぬぐ)おうとして、髪がもう凍りはじめていることに気がついた。室内ではあるけれど、寝起きで暖炉の火を入れていない今は、外と同じくらい寒い。


 髪は後にすることにして、まずは火を起こした。


 部屋が暖まるまで待つ余裕はない。シヴェラは夜着を脱ぐと、一人で手早くドレスを身に着けていった。


 三年前に(あつら)えたこの服は、自分で手直しをして丈を伸ばしていたものの、姿見がなくとも足首まで見えているのは確実だった。去年はまだ平気だったのに、この一年で随分と背が伸び、体形も変わってしまった。胸も張って不自然な(しわ)が寄っている。


 こんな格好で出ていけばまたひどく非難されるだろうが、行かなければ罰を受けるだろう。


 氷の溶けた髪を(ぬぐ)って簡単に結い、ヴェールを被ったシヴェラは、同じく寸足らずのコートを羽織り、意を決して部屋を出た。


 薄暗い螺旋(らせん)階段を一番下まで降りた後、どっしりとした木の扉に手を当てて、ゆっくりを力を込めると、蝶番(ちょうつがい)(きし)んだ音を立てた。


 開いた――。


 普段は(かんぬき)が下ろされ、外からしか開けることのできない扉だ。


 シヴェラは扉を押した勢いのまま、外の世界へとまろび出た。


 (まぶ)しいっ。


 そこは一面の銀世界だった。


 降り積もった雪が太陽の光を反射して白く輝いている。


 目を細めながら、シヴェラはゆっくりと息を吸った。冷たい空気が肺を満たしていく。カビ臭くない、静謐(せいひつ)で澄んだ清らかな空気だ。


 背後を振り仰ぐと、澄み渡る青空を背景に、どっしりとした石造りの塔がそびえ立っていた。その最上階が、シヴェラの部屋だ。


「あ……」


 つつっと視線を落とし、たった今出てきたばかりの扉の両端に立つ衛兵を見て、シヴェラは小さく声を漏らした。


 彼らは警戒と嫌悪と憎悪が入り混じった表情でシヴェラを見ていた。


 シヴェラは思わずヴェールを押さえた。しっかりと被っていることを確認すると、衛兵から顔を隠すように身を縮こめ、小さすぎて閉まらないコートの前身ごろを何とか寄せて前方へと向き直った。


 降るがままにしてある雪原の中、人ひとりが通れるほどの細い道が雪を踏み固めて作られている。それは前方遠くにある城壁の一端へと続いていた。


 シヴェラは一歩、また一歩と雪を踏みしめていく。


 ブーツはとっくにサイズが合わなくなっていて、仕方なく夏の革靴を履いている。これだって随分窮屈だが、なんとかまだ履けていた。


 靴裏に滑り止めの毛皮は張っていないから、滑って転ばないように注意しなくてはいけないが、幸いにも、夜のうちに降った雪は氷になるほどには踏み固められておらず、シヴェラが歩くたびにギュッギュッと音が鳴った。


 露出した足元が寒い。ストッキングは履いているが、夏用の物だ。(くるぶし)までの靴ではガードしきれず、ドレスも寸足らずでは、雪がつくのも避けられない。ついた雪は体温で溶けていく。


 城壁へと到達した時には、足元は靴も含めてぐっしょりと濡れていた。靴の窮屈さに冷たさが相まって、つま先の感覚がなくなりそうだ。


「国王陛下に謁見の栄誉を(たまわ)り参上いたしました」


 シヴェラは目を伏せたまま、入口を塞いでいた門番に告げ、優雅にカーテシーをした。


 もちろん、王女が一介の門番に対してこのような礼儀を払う必要はない。たとえ相手が騎士団長だったとしても、当然王女の方が地位は上である。


 だが、シヴェラに関してはその常識は当てはまらなかった。第一王女という肩書は残されているものの、その実態は、侍女よりも下どころか、ともすれば下働きよりも下に見られるほどなのだ。


 門番はすっと槍を引いて道を開けた。シヴェラがここに来ることが事前に伝わっていたのだろう。でなければ拘束され、塔に連れ戻されているところだ。


 木戸を開けると、暖かい空気がもわっと流れてきた。一歩踏み入れば、春の日向(ひなた)のような暖かさに包まれる。


「魔女がっ」


 木戸を閉めようとした時、門番の片方がぼそりと呟いた。


 とっさに視線を向けたシヴェラと目が合う。憎しみの込められた目は、塔の前の見張りとそっくりだった。


 シヴェラは逃げるようにして足を進めた。


 今歩いているのは裏の通路だ。王族や王城に勤める貴族たちや訪問客が使う表の通路とは別にあり、使用人が彼らと出くわさずに王城の中を移動できるようになっている。階段の上り下りは多いが、国王の待つ謁見室のすぐそばまで行くこともできる。


 間違っても王族が通るような場所ではないが、その常識もシヴェラには適用されない。むしろ表の通路を通って誰かにその姿を目撃されようものなら、厳しい罰が下る。表の通路を歩いたことなど数えるくらいしかなく、逆に複雑な裏の通路の方が、シヴェラには馴染みがあった。


 すれ違う使用人たちは、シヴェラの姿を見るとぎくりと体を強張(こわば)らせ、そして道を開けた。シヴェラが通りやすいように、ではない。なるべくシヴェラから距離を取りたいのだ。


 ここでも何度かすれ違いざまに悪態をつかれた。「魔女」「堕神(だしん)の使い」「まだ生きてたのか」「役立たず」「今年も何人も死んだ」「疫病神(やくびょうがみ)」と。どれもこれも怨嗟(えんさ)に満ちている。


 シヴェラはそっとドレスの下、首元にある豪華なネックレスに手を添えた。


 みすぼらしい身なりとは不自然なそれは、魔力を抑えるための魔導具で、自分では外せないようになっている。これがある限り、シヴェラは己の魔力を使えない。だから、シヴェラに恨みを持つのは筋違いだ。どれもこれもシヴェラのせいではない。


 いくらそうシヴェラが言ったところで、彼らは聞く耳を持たないだろう。彼らにとってシヴェラは()むべき存在でしかないのだから。


 シヴェラはぐっと下唇を嚙みながら、黙して通路を進んでいった。


 やがて目当ての場所まで来たシヴェラは、表の通路へと出る扉をそっと開けた。


 衛兵以外誰もいないのを確認してから、静かに扉から滑り出る。ふかふかの絨毯に靴が埋もれる感触がした。


 すぐに衛兵の前へと進み出て、城壁の外の門番に告げたのと同じセリフを口にした。


 衛兵はシヴェラの頭の上から足の先まで視線を走らせると、謁見室の扉を小さく開け、中へとシヴェラの到着を告げた。表情を崩さないのは、さすが王城内で働いてるだけはあり、教育が行き届いている証だ。その目に滲む負の感情だけはやはり隠しようもないが。


 確認を取った後、衛兵は脇によけた。同時に、扉が中から大きく開かれていく。


 シヴェラは目を伏せたまま、ゆっくりと謁見室へと足を踏み入れる。

 

 国王の座る玉座の前まで進み出ると、先ほどまでよりも気を使ってカーテシーをした。


「シヴェラが王国の太陽であらせられる国王陛下に拝謁いたします」


 姓は名乗らない。シヴェラが王族の姓を名乗ることを国王が嫌っているから。


「久しぶりね、お姉さま(・・・・)


 視線を上げると、ヴェールの薄いレース越しに、椅子に座る二人の姿が見えた。左は父親である国王、右は妹のアルカレアだった。王妃が座するはずのその椅子は、しかし王妃不在の場合には、補佐として王女が座ることが認められている。そして本来であれば第一王女が座るはずなのだが、その常識もまたシヴェラには当てはまらなかった。


 それにしても、アルカレアに姉と呼ばれるのも三年ぶりだ。一体どうなっているのか。


「相変わらずひどい身なりだこと。王女の威厳もなにもあったものじゃないわね」


 シヴェラは再び目を伏せて身を縮こませた。


 格好がひどいのは、品位維持費が割り当てられていないからだ。シヴェラに入るはずの分はアルカレアに渡っている。シヴェラがやらねばならない公務を肩代わりしているのだから当然だ、という論理でもって。


 たとえ予算があったとしても、シヴェラに商人を呼ぶ権限はないのだが。


「聞いているの!?」


 何も返答しなかったのにイラついたのか、アルカレアが壇上から降りてきて、ヴェールごとシヴェラの髪を掴んで顔を上げさせた。


「はっ、何度見ても不吉な色の目だわ。その髪も!」


 シヴェラの灰色の目を覗き込んだアルカレアは、掴んだヴェールを床へと払った。途端、ほどけた銀色の髪がはらりと肩に落ちた。


 慌てて膝をついて床のヴェールに手を伸ばしたが、アルカレアはヴェールを踏みつけた。


「だけど、ようやく()み子のお姉さまが役立つ時が来たわ」

「どういうこと……?」


 シヴェラはアルカレアを見、そして玉座の国王を見た。だが国王は、忌々(いまいま)しいとばかりに目を逸らし、シヴェラを見ようとはしない。


「お姉さまはズハラの国王へ輿入(こしい)れをすることになったの」

「ズハラ? でもそれはアルカレアが――」


 ズハラの国王ザフラーンへはアルカレアが嫁ぐことになっていた。シヴェラはここ最近ずっとそのための婚礼衣装を縫っていたのだ。


 砂漠の大国ズハラはここ十年で勢力を北方へと伸ばし、その手はトヴァルカへをも届きそうになっていた。侵略される前にこちらから打診したのが、和平を目的とした王族同士の婚姻だ。


 シヴェラは、椅子に座り直したアルカレアの、燃えるような赤髪と赤眼を見た。その隣の国王の髪と瞳も赤だ。トヴァルカの王族は鮮やかさこそ異なるものの、みなこうして赤い髪と目を持って生まれてくる。


 それは女神アルカの末裔(まつえい)の証だ。そしてその血に炎の魔力を宿している。王城内部がこれほどまでに暖かいのは、国王とアルカレアの魔力のお陰で、傍系王族と共に国内の冬の寒さを和らげる役割をもまた担っていた。


 太陽神を信仰するズハラの国王は、太陽を思わせるその容貌(ようぼう)と炎の魔力に興味を持ち、アルカレアを(めと)ることを了承したのだ。なのに――。


「私の身代わりになれって言ってるの」

「でも私じゃ――」


 シヴェラは生まれつき銀髪だった。目の色も灰色だ。王族にはあり得ない色で、そして堕神(だしん)イヴェリスを思わせる不吉な色だった。


 シヴェラを産んだ今は亡き王妃は、女神アルカの化身のような姿形のアルカレアを産むまでは、国王や周囲からひどく責められた。


 当の本人であるシヴェラの待遇も悪く、幼い頃から表に出ることを禁じられた。裏の通路に詳しいのはこのためだ。そしてそれは、アルカレアが生まれてからはさらに悪くなった。


 それでもまだ魔力が発現するまではよかったのだ。多少の色味が違おうとも、炎の魔力さえ持っていれば王族として認められるのだから。


 なのに、年下のアルカレアよりも遅れてシヴェラが初めて発現したのは、雪を降らせる魔法だった。


 知らせを聞いた国王は激怒した。すぐさま北の塔へと連れて行かれ、以来三年間、シヴェラは幽閉された。魔力を封じる首輪をつけられて。


 それもそのはず。氷の魔力は堕神の力だ。かつて女神アルカと姉妹神だったイヴェリスは、人間と恋に落ちた妹神に嫉妬し、二人を引き裂こうとして返り討ちに遭い天から堕ちた。今もアルカと人間を恨み、厳しい冬をもたらして復讐を続けているとされている。


 だから冬の寒さで餓死者や凍死者まで出すようなこの国では、堕神イヴェリスは忌み嫌われており、その容貌のみならず魔力まで発現してしまったシヴェラは、忌み子以外の何者でもなかった。


 殺されなかったのが不思議ですらある。


 そんな、太陽神とは正反対の形質をもつシヴェラがザフラーンの元へと行けばどうなるか。和平の約束が果たされないどころか、攻め入る口実にしかならないだろう。


「私が嫌なの。あんな蛮族(ばんぞく)の所に嫁ぐなんて。裸も同然の服装で寝そべって暮らし、複数の妻を娶るのが当然の国なのよ。次は十四番目の妻だそうよ。そんな扱いは絶対に嫌。だからお姉さまが代わりに行ってきて」


 トヴァルカは一夫一妻制だ。不貞は法律でも社会的にも厳しく罰せられる。自分以外の妻がいる環境など、受け入れがたいのは当然だ。


 しかし、そんなことは分かっていて婚姻を打診したのではないのか。


「お姉さまには拒否権はないわ。せっかく王女の地位も剥奪(はくだつ)せずに生きながらえさせてあげたんだから、この国が攻められないように、せいぜい気に入られてちょうだいね。失敗して戦争になったらお姉さまのせいよ」

「そんな……」


 そんなの、無理に決まっている。



 * * * * *



 シヴェラに拒否権はなく、あっという間に出立の日はやってきた。


 持ち物は予定通りに完成させた婚礼衣装のみだ。故郷を離れるのだから気心の知れた侍女を連れてくるように、と気遣いがあったが、ついて来る侍女がいるはずもなく、シヴェラは一人で向かった。


 礼儀として最低限の身なりだけは整えるべきなのに、国王もアルカレアもシヴェラに金をかけるのを渋り、結局寸足らずのドレスのままだ。ただし毛皮のコートだけは丈のあった物を渡された。アルカレアのお下がりではあるけれど。


 トナカイの引くソリで国境を越え、雪のない地域に出ればその後は馬車で向かう。冬でも凍らない地面をシヴェラは初めて目にした。


 ズハラの国境には迎えが来ていた。申し訳程度につけられたトヴァルカ側の護衛たちは、せいせいしたとばかりにシヴェラを引き渡した。


 ズハラ側の護衛はシヴェラが侍女も連れずにいることに戸惑いを見せたが、身の回りのことは自分でできるとシヴェラが告げると、ほっとしたように馬車を進めた。


 拡大したズハラの国土は広大で、砂漠に着くまでに何日も馬車で移動した。護衛たちは長旅に恐縮していたが、宿で眠れるのだから文句はない。引き渡されるまでは野宿だった。


 やがて砂漠に出ると、ラクダの上に乗せられた輿(こし)に乗り換えた。


 目の前に広がる一面の砂の海に、シヴェラは言葉を失った。色の違う雪原のようでも、時を止めた海原のようにも見える。


 命の影がないところも雪原にそっくりだったが、気温が違いすぎた。コートはとっくに脱ぎ去り、ズハラが用意してくれた薄手のゆったりとした服装に着替えていた。ヴェールも取るよう言われたが、シヴェラは拒んだ。まだアルカレアでないとバレてはいけない。


 そこからの道のりも随分と長く、いくつかのオアシスを経由して、やっとシヴェラは王宮へと到着した。


 謁見の前に身なりを整えるようにと通された自室は、重厚な石壁に囲まれたトヴァルカとは違い、四方の壁がなく開放的な空間だった。部屋、と呼んでいいのかもわからない。


 砂漠の中にあるというのに、部屋の外には噴水のある庭園があり、厚みのある葉を持つ見慣れない植物が植えられていた。


 部屋の中の調度品のデザインはトヴァルカでは見ない物だが、質がいいのは見て取れた。飾りに宝石や金がふんだんに使われている。寝台は特に豪華で、天蓋(てんがい)からは細かく刺繍が刺された薄い(しゃ)が吊られていた。


 アルカレアはシヴェラは十四番目の妻だと言っていた。それなのにこの待遇だ。ズハラの国力が凄まじいことがうかがえる。トヴァルカのアルカレアの部屋よりもよほど豪華だった。


 侍女が三人あてがわれ、シヴェラは服を着替えた。これまでよりもさらに薄い生地で作られており、露出が多かった。羞恥(しゅうち)心はあったが、侍女たちも似たような服装だったので、豪に入れば郷に従えとばかりに受け入れた。


 髪とメイクも直したいと言われたが、シヴェラはヴェールを外すのを拒んだ。せめてズハラ風の目元から下を覆う物に変えさせて欲しいと言われたが、それも拒んだ。隠したいのは鼻と口ではなく、髪と目なのだ。ズハラの服装にトヴァルカのヴェールではチグハグにもほどがあったが、シヴェラもこれは譲れなかった。


「わかりました。では装飾品だけでも――」

「駄目っ」


 シヴェラの首から、するっとネックレスが外れた。思わず胸に押さえつける。この三年、一度も外したことのなかったそれは、他人の手であっけなく外れた。


 だというのに、シヴェラの体に変化はなかった。てっきり魔力が暴走すると思っていた。だが、ネックレスをつけさせられる前も、別に暴走したわけではないのだ。


「ズハラでは金の装飾をするのが一般的で、銀は太陽神の弟である夜神に通じ、仕える巫女にしか許されない装飾なのです。ですから、これをつけてザフラーン陛下の御前に出ることは叶いません」

「そう、なのね……」


 シヴェラはネックレスから手を離したが、やはりなんともなかった。


 髪の色が赤でないことのみならず、この分では銀であることも咎められそうだ、と静かにため息をつく。


 空いたデコルテに金の首飾りをつけ、耳飾りと腕輪、そして足輪もつけた。足輪には鈴がついており、シヴェラがサンダルの足を進めるたびにシャランと涼やかな音を立てる。


 王の呼び出しがあるまでお休みくださいと告げ、侍女たちは退出していった。床に敷き詰められているクッションに座る気にはなれず、寝台に腰を下ろす。


 開放的な空間ではあるが、だからこそと言うか、じっとしていても汗ばむほどの暑さだった。出立してから随分経つが、トヴァルカはまだ寒さが厳しいだろう。夏でもここまでの気温になることは滅多にない。一人でこんなにも贅沢に暑さを享受していいのだろうか。国民に申し訳ない気持ちになる。


 これから謁見するザフラーン王は、シヴェラがトヴァルカの血筋であることを信じてくれるだろうか。


 アルカレアは、ズハラとは王女と婚姻をとしか告げていないからシヴェラでも問題ない、と言っていたが、シヴェラの存在は国外には(おおやけ)にされていないし、トヴァルカの王族であるならば必然的に赤髪赤目の炎の魔力持ちだと思っているだろう。銀髪灰目のシヴェラが正真正銘の王族だと言い張ったところで、虚言を()していると断じられてもおかしくはない。


 だが、やるしかないのだ。


 身代わりが発覚し、その結果殺されることになろうとも、首を落とされる前に、トヴァルカを攻め滅ぼさないよう直訴だけはしなくては。


 シヴェラは緊張で震える手で、強張(こわば)った顔を覆った。


 と、その耳に、悲鳴が飛び込んできた。部屋の外からだ。複数の女性が何かを叫んでいる。


 シヴェラは思わずそちらの方へと走り寄った。速口すぎて何と言っているのかわからない。ズハラとトヴァルカは同じ大陸言語を使うが、互いに(なま)りがあり、ゆっくり話してもらわないと聞き取るのが難しかった。


 ただ、助けを求めているのだけはわかる。


 待機するよう言われているのだから部屋を出てよいわけはないのだが、シヴェラは吸い寄せられるように庭園へと降りていた。


 芝生の上に少年が倒れている。年の頃は七、八歳といったところか。その周りには侍女と思われる女性たちがいて、口々に何かを叫んでいた。だが、動転しているのか、少年を助け起こそうとも、誰かを呼びに行こうともしていない。


「何があったの!?」


 駆け寄ったシヴェラは、少年の脇へとひざまずいた。


 少年は真っ赤な顔をして、ぐったりとしている。体中から汗が噴き出していて、荒い息をしていた。


「熱っ」


 少年の額に手を乗せたシヴェラは、反射で手を引っ込めた。手の平を見るとうっすらと赤くなっている。火傷をしそうな程に熱かった。


 人がこんなに熱を持つことなんてあるの!?


「水を! 入れ物がないなら布を濡らすだけでもいいから! あと誰か対処できる人を呼んできて!」


 うろたえる侍女たちを叱咤すると、ぎこちないながらも彼女たちは動き始めた。できれば氷が欲しいところだが、砂漠の国ズハラでそれは望めまい。


 いっそ近くの噴水に少年を沈めたほうが早いのではないか、と思い至ったシヴェラは、少年の背中と膝下に腕を入れた。


「熱っ」


 ジュッと音がしそうなほどに熱い。少年が息をしているのが不思議なくらいだ。一刻を争うだろう。シヴェラは少年をぐっと持ち上げ、抱きかかえた。


 早く、冷やさないと。


 そう思った瞬間――。


 シヴェラの胸から細く青白い光の線が空に向かって打ち上がった。


「えっ!?」


 そして、見上げたシヴェラの上に、ドサッと白い物が落ちてきた。


「うぇっ、うっぷ、な、何、雪!?」


 肩口で顔をぬぐって、落ちてきたものの正体を知る。抱えていたはずの少年は、こんもりとした雪山に姿を変えていた。


「え、ちょっと、大丈夫!?」


 顔の雪をよけないと窒息してしまう。地面に下ろそうにも、雪で濡れていて(はばか)られた。――が、躊躇している場合ではない。


 シヴェラが仕方なく少年を地に横たえようとした時。


「何をしている!」


 腕の中の少年が奪われた。


 少年を奪ったのは、褐色の肌を持つ体格のよい男だった。ゆったりとしたズハラの服をさらに(くつろ)げていて、目のやり場に困る。黒いウェーブの髪は背に流されるままになっていて、それがまた男のだらしなさを助長していた。


「冷たい!? なんだこの粉は。溶けて……氷なのか……?」


 少年の上の雪をほろった男は驚愕(きょうがく)の声を上げていた。


 男――そう、男だ。シヴェラが通されたのは後宮のはず。子供である少年はともかく、成人男性であるこの男がここにいる意味。


 シヴェラはすぐさま片膝をついて顔を伏せた。ズハラ流の礼の取り方だ。べちゃりと足が濡れるが構ってはいられない。


「お前、トヴァルカの姫だな。この子に何をした」


 何を?


 シヴェラにも何が起こったのかわからない。突然空から雪の塊が降ってきたのだ。だが、自覚はないにせよ、シヴェラが降らせたのだろう。ならそう答えるしかない。


「ゆ、雪を降らせました」

「雪とはなんだ」

「空から降る氷の粉です。トヴァルカでは冬は雨の代わりに雪が降ります」

「なぜだ」


 なぜ?


 まさか雪が降る理由を聞いているわけではないだろう。なぜシヴェラがそんなことをしたのかを問うているのだ。


 これも正直に答えるしかない。


「冷やさなければ、と思ったからです。その子供の身体が燃えるように熱く、このままでは危険と判断しました」

「そうか」


 男は納得したかのように呟くと、そのまま去って行った。周囲にいた侍女たちも、男に続いて去ってしまう。


 え、それだけ?


 シヴェラはしばし呆然としていた。


 男は間違いなくこの国の王、ザフラーンだろう。そしてシヴェラがトヴァルカの姫だと見抜いていた。であるならば、炎の力ではなく氷の力を使ったことに疑問を持ったはずだ。なのに、何も聞かれなかった。


 いや、今すぐに追及しなくてもいいと判断しただけだろう。シヴェラに逃げ場はないのだから。


 許しを()うてから告げるつもりだったのに、先に偽物だとバレてしまった。もう一度ザフラーン王に目通りすることは叶うだろうか。もしかすると、王族を欺いた罪でそのまま――。


 シヴェラは両腕で自身を抱きしめるようにして、ぶるりと震えた。




 * * * * *




「本当に、あの時は肝が冷えたわ」


 床に敷き詰められたクッションの上、胡坐(あぐら)をかいたザフラーンの膝の上で後ろから抱きしめられたシヴェラは、右(ほほ)に手を当ててため息をついた。


「大げさだな」

「大げさなんかじゃないわよ。本気で殺されるかもしれないと思ってたんだから」

「ははは、まさか」


 すりっ、とザフラーンがシヴェラの銀色の髪に頬ずりをする。


「俺は救世主が現れたと思っていた」

「大げさね」

「大げさなものか。事実、君はこの国を救ってくれた。そして俺のことも」


 ザフラーンは、ぎゅっとシヴェラを抱きしめた後、熱っぽくシヴェラを見た。


 おっと。このままでは危ない。


「さて、そろそろ熱も(しず)まったわね。今日のところはこれでおしまい」


 身の危険を感じ、シヴェラはザフラーンの顔をぐいっと押しやった。


「まだ(くすぶ)っている」

「いいえ、大丈夫。続きはまた明日。私はこれから氷室(ひむろ)の様子を見に行かないといけないの」


 シヴェラは膝の上から降りる。


 立ち去ろうとしたシヴェラの手を、ザフラーンがつかんだ。


「そろそろ俺の気持ちに(こた)えてくれないか」

「いいえ」

「どうして」

「どうしても何も、私たちは契約結婚だもの。あなたは私に庇護(ひご)を与え、私はあなたの一族が患う熱病を鎮める。それ以上の関係は望まない約束でしょ」

「そんな契約をした奴を殴りたい」

「あなた自身よ。それとも私を殴る?」

「そんなことできるわけがないだろう」


 ザフラーンは、降参、とばかりに両手を上げた。


 この攻防はもうずっとザフラーンの負け越しだが、シヴェラは自身の牙城が崩れ始めているのを自覚していた。そう遠くないうちに陥落するだろう。ザフラーンの(たくま)しい腕に抱かれて、あんなにも胸が高鳴ってしまっていたのだから。


 だがそれを、今言うつもりはない。


「それじゃあ、また明日」


 名残惜しそうにするザフラーンの視線を遮るように、シヴェラは部屋の扉を閉めた。

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