第1話:月影の庭の光
王都ハルバータの夜は、まるで星屑を撒いたような輝きに満ちている。
ここは異世界ファンタジーの国、シルビア王国。
石畳の道を馬車が通り過ぎる音、遠くで響く衛兵の足音、そして下町から漂う市場の喧騒。
それらが混ざり合い、夜の空気を重たくする。
私はエリス・ルナリス、没落貴族の娘。18歳。
王宮の雑用係として、今日も朝から晩まで働いてきた。
埃っぽい書類の整理、銀食器の磨き上げ、貴族たちのわがままな注文。
疲れ果てた体を引きずりながら、王宮の裏庭を抜ける小道を歩いている。
「はぁ……今日も疲れた。もう足が棒みたい」
私は小さく呟き、肩をぐるりと回した。
ドレスの裾はほつれ、靴の底はすり減っている。
ルナリス家はかつては名門だったらしいけど、今はただの「没落貴族」。
両親は王都の小さな家で質素に暮らし、私はこの雑用係の仕事で家計を支えている。
誇りだけは高い両親のおかげで、こんなボロボロのドレスでも笑顔を崩さないのが私の務めだ。
でも、正直、笑顔も限界がある。
心のどこかで、別の人生の記憶がチラつく。
転生前の私——現代日本のフラワーアレンジャーだった頃の記憶だ。
花に囲まれ、色と香りに癒されながら、忙しくも笑顔で働いていたあの頃。
あの人生は忙しすぎて疲れたけど、花は私の心をいつも救ってくれた。
「花……ここにもあればいいのに」
私はふと立ち止まり、夜風に揺れる木々の影を見上げた。
王宮の裏庭は手入れが行き届いていて美しいけど、どこか冷たく感じる。
整然とした花壇には派手な薔薇や百合が並び、貴族たちの目を楽しませるためだけに存在しているみたいだ。
私みたいな雑用係には、ただの「仕事の場」でしかない。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと、普段通らない小道が目に入った。
苔むした石の階段が、闇の中に吸い込まれるように下っている。
誰もいない。
衛兵の巡回ルートからも外れているみたいだ。
「……なんだろう、この道。ちょっと不気味だけど……気になる」
好奇心がむくむくと湧いてくる。
疲れた体に鞭を打って、私は階段を下り始めた。
足音がコツコツと響き、夜の静けさが一層深まる。
階段の先には、古びた鉄の門があった。
錆びついた鎖が緩く巻かれ、隙間から涼しい風が流れ込んでくる。
「こんな場所、初めて見た。秘密の庭でも隠れてるのかな?」
私は少しドキドキしながら、鎖をそっと外した。
門がキィッと軋む音を立てて開く。
中に足を踏み入れると、そこはまるで別世界だった。
「うわ……! なに、これ……!」
目の前に広がるのは、月光に照らされた小さな庭だった。
雑草が生い茂り、荒れ果てた花壇が寂しげに佇んでいる。
でも、その中心に、ひっそりと白い花が咲いていた。
月見草だ。
柔らかな花びらが月光を浴びてキラキラと輝き、ほのかに甘い香りが漂ってくる。
私は思わず息をのんだ。
「月見草……こんなところに。なんて綺麗なの……!」
私は花のそばにしゃがみ込み、そっと指先で花びらに触れた。
その瞬間、指先がふわりと光った。
え、なに!?
驚いて手を引っ込めると、光は消えた。
でも、胸の奥がじんわりと温かくなる。
まるで、この花が私に話しかけてくるみたいだ。
「ねえ、ちょっと、なに今の? 私の指、光ったよね!?」
私は自分に突っ込みながら、もう一度花に触れてみた。
すると、また指先が淡く光り、今度は月見草自体がキラキラと輝き始めた。
花びらが一斉に開き、まるで小さな星が庭に降り注いだような光景が広がる。
私は目を丸くして立ち尽くした。
「うそ、魔法!? 私が……魔法使ったの!?」
心臓がドキドキと高鳴る。
転生してから、こんな不思議なことは初めてだ。
前の人生では花を愛でるだけで精一杯だったけど、この世界では……花と一緒に魔法を起こせるなんて!
「すごい……! この花、私の気持ちに応えてくれてるみたい!」
私は思わず笑顔になり、月見草の周りをぐるりと歩いた。
荒れた花壇も、雑草だらけの地面も、この月見草の光の前ではなんだか愛おしく思えてくる。
この庭、誰も知らないみたいだし……私の居場所にできるかもしれない。
「ここ、私の秘密の場所にしよう。この庭、絶対に復活させる!」
決意が胸に灯る。
転生前の私なら、忙しさに追われてこんな夢みたいなことは考えもしなかった。
でも、今の私は違う。
この月見草と一緒に、ゆっくり、でも確実に、何か素敵なことを始めたい。
その時、遠くから不思議な声が聞こえてきた。
少女の声。
キラキラと澄んだ、まるで月光そのもののような声だ。
「ねえ、そこのお姉さん! 私の月見草、勝手に触らないでよ!」
私はハッとして振り返った。
庭の中央、月見草の光の中に、キラキラ輝く少女が浮かんでいる。
小さな体にふわっとした白いドレス、銀色の髪が月光に揺れている。
まるで妖精……いや、精霊?
「え、誰!? あなた、なに!? って、浮いてる!?」
私は思わず叫んでしまった。
少女はフンと鼻を鳴らし、くるりと空中で一回転して私の前に降り立った。
「私はルナ、月見草の精霊。この『月影の庭』の守護者だよ! で、君は誰? こんな夜中に私の庭に入ってくるなんて、怪しい奴!」
「怪しくないよ! 私はエリス、ただの雑用係! ここ、偶然見つけただけ!」
私は慌てて手を振った。
ルナはジトっとした目で私を睨み、ふわっと月見草のそばに移動した。
「ふーん、エリス、ね。雑用係がこんな時間にうろつくなんて、よっぽど暇なの? それとも、月見草を盗みにきた泥棒?」
「泥棒じゃないって! ただ……この花、綺麗だなって思って……。それに、さっき私の指が光って、花がキラキラしたの! あれ、なに!?」
ルナは目を細め、ニヤリと笑った。
「ほほう、それは君が月見草の魔法に反応したってこと。ふっふー、なかなか面白い奴じゃん! でもさ、私の許可なく魔法使っちゃダメだからね」
「魔法!? やっぱり魔法だったの!? ねえ、ルナ、教えて! 私、もっとこの花のこと知りたい。この庭、復活させたいんだ」
私は興奮してルナに詰め寄った。
ルナはちょっと驚いた顔をして、すぐにキノコみたいな笑みを浮かべた。
「へえ、復活? 大胆なこと言うね! この庭、昔は王妃の癒しの場だったけど、今はこんなボロボロ。君みたいな雑用係にできると思う?」
「できるよ。絶対に! 私、転生前は花屋だったんだ。花のことなら任せて」
私は胸を張って言った。
ルナはキラキラした目を輝かせ、ふわっと私の周りを飛び回った。
「花屋!? ほんと!? なら話は別だ。よーし、エリス、君にこの庭の復活、ちょっと手伝ってあげてもいいよ。でも、昼は寝る主義だから、夜だけね」
「昼は寝るって……精霊なのにそんな適当でいいの!?」
私は思わずツッコんだ。
ルナはケラケラと笑い、月見草の光の中でくるくる回った。
「いいのいいの。夜の庭は私の舞台。ほら、エリス、もっと魔法試してみなよ! 月見草、君の気持ちに答えるよ」
「う、うん、わかった。えっと……どうやるんだっけ?」
私は改めて月見草に手を伸ばした。
指先が触れると、また淡い光が広がり、月見草が一斉に花開いた。
庭全体がキラキラと輝き、まるで月が地上に降りてきたみたいだ。
私は目を奪われ、胸が熱くなった。
「すごい……! ルナ、この庭、絶対に私の居場所にする。ここで、皆を癒せる場所を作るんだ」
「ふふ、いいね、その気合い。じゃあ、エリス、夜の姉貴として、私と一緒にこの庭をキラキラさせようぜ」
ルナが手を差し出し、私は笑ってその小さな手を握った。
彼女の手はひんやりしていて、でもどこか温かい。
月見草の香りがふわりと漂い、王都の喧騒が遠くに消えていく。
この庭は、私の新しい始まりだ。
転生前の忙しさも、没落貴族の重圧も、ここでは全部忘れられる。
「ルナ、約束だよ。絶対にこの庭、復活させるから!」
「ふっふー、姉貴のその目、気に入った。よし、月影の庭、キラキラ復活計画、スタート」
ルナの声が夜空に響き、月見草の光が私たちの決意を照らした。
王都の夜はまだ長い。
この庭で、私はきっと何か素晴らしいものを見つけられる。
月見草と、ルナと一緒に。