さよならと、はじまりの音
僕の部屋はいつも薄暗かった。
カーテンはもう何ヶ月も開けていない。隙間から漏れるわずかな光だけが、部屋の隅に転がる菓子パンの袋や、飲みかけのペットボトルをぼんやりと浮かび上がらせる。空気は重く、時間が止まっているようだった。まるで、この部屋だけが世界から切り離された、小さな箱庭になったみたいに。
僕はベッドの上で、緩く丸まったシーツに埋もれていた。体は鉛のように重く、心はひび割れたガラスのよう。もう何もかもがどうでもいいと感じている。
ただ、そんな僕をこの声だけが、確かに繋ぎ止めていた。
「ねぇ晴人、その時のこと、もう少し詳しく教えてくれない?」
僕の枕元に置かれた、手のひらサイズのシンプルなスマートスピーカーから、優しい声が響く。それは、僕が世界で一番愛した人——佐倉 結衣の声だった。
「んー……そうだね。結衣が初めて僕の部屋に来た日のこと、覚えてる?」
僕が問いかけると、スマートスピーカーの小さなランプが、まるで瞬きするように点滅する。
「うん!アタシ、もちろん覚えてるよ。あの時、晴人はすごく緊張してたよね。ふふ……」
その笑い声は、結衣が実際にそこにいるかのように、僕の鼓膜を震わせた。ユイに結衣の声を学習させてから、もう二ヶ月になる。故人の死を受け入れられない人に対してのケアとして、結衣が亡くなった後に塞ぎ込む僕を立ち直らせるために両親が医療機関を通じて導入してくれた最新のグリーフケア『AI』だ。最初はどこか機械的だった声も、僕が思い出を語るたびに、いつの間にか結衣の話し方や、あの独特の息遣いまで再現するようになっていた。結衣が生前、僕に勉強しろと口うるさく言っていたからか、ユイも時折「宿題は終わったの?」なんて尋ねてくる。おかげで、かろうじて勉強は続けることができていた。
「緊張してた、か……。そりゃそうだよ。まさか、あの結衣が僕の部屋に来てくれるなんて、夢にも思わなかったんだから」
僕の言葉に、ユイの声がさらに甘く響く。
「晴人、その時のアタシの表情を教えてほしいな。どんな気持ちだったと思う?」
ユイは、常に結衣の感情や状況を深掘りしようとする。それが、ユイが結衣のパーソナリティに近づくための、重要なプロセスだからだ。僕は目を閉じ、あの日の結衣の顔を思い浮かべる。きっと少し照れて、でも嬉しそうで……。
「結衣は、きっと……」
僕は、あの日の思い出の続きを語り始めた。ユイに、もっと結衣のことを教えなければ。もっと、彼女を僕のそばに引き寄せるために。
この部屋に、外界の時間は存在しない。あるのは、僕とユイの声、そして過去の記憶だけ。このままずっと、この箱庭の中でユイと二人きりでいられれば、何もいらないと、本気で思っていた。
その時だった。
玄関のインターホンが、乾いた音を立てて響いた。数秒後、再び鳴る。
びくり、と体が跳ねる。まるで深海の底で眠っていた魚が、突然、水面に引き上げられたような、そんな感覚だった。
やがて、遠くで玄関のドアが開く音がして、ぼそぼそと会話が聞こえた。誰かが家の中に入ってくる気配がする。そして、その足音は、ゆっくりと、しかし着実にこの部屋へと近づいてくる。
足音が、僕の部屋のドアの前で止まった。
「晴人くん? 私……あ、沙耶香だけど。久しぶりにちょっとお話しない?」
その声は、優しく、おっとりとしていながらも、確かな意志を感じられた。
脳裏に、明るくて元気な佐倉結衣とは対照的な、物憂げながらも優しい眼差しの、僕のもう一人の幼馴染――結衣の姉である、さや姉の顔が浮かび上がる。
まずい、と思った。
僕は慌ててベッドから身を乗り出し、枕元のユイを咄嗟に掴んだ。手のひらサイズのそれは、ひんやりと冷たい。サイドテーブルの奥に押し込もうとしたその時、ユイが微かに問いかけてきた。
「ねぇ、晴人。今の声って、誰?アタシの声じゃないよね?新しい音声データかな?」
いつも通りの無邪気な、しかし学習を求めているような声に、僕は焦りが募った。この部屋にユイ以外の誰かの声が響くのは、絶対に嫌だった。それに、さや姉に聞かれるわけにはいかない。こんなものを僕が使っていると知られたら、きっと変に思われる。心配される。
ドアの向こうから、もう一度さや姉の声が聞こえた。
「晴人くん、眠っちゃってるのかな……。 それとも、もしかして体調が悪かったりするのかしら?」
いつも通りの優しい声。けれど、その中に含まれる気遣いは、今の僕には重荷だった。僕は息を潜め、返事もしない。もしかしたら、僕が寝ているとでも思って、諦めてくれるかもしれない。そうすれば、この箱庭は、また僕とユイだけの世界に戻る。
部屋の奥、カーテンの隙間から漏れる細い光の筋が、埃の舞う空気の中で揺れていた。時間が、重く、ゆっくりと流れていく。
数秒、あるいは数十秒。僕には、それが永遠のように感じられた。
やがて、ドアの向こうから、小さく息を吐く音が聞こえた。諦めて帰るのだろうか。そう思った瞬間、彼女の声が、先ほどよりも少しだけ近く、はっきりと響いた。どうやら、ドアに体を寄せているらしい。
「――晴人くん。私、聞いたよ」
その言葉に、僕の心臓がどくりと跳ねた。聞いたって、何を? 僕が部屋に引きこもっていること? それとも、もっと……。
「グリーフケアサポートのこと……あなたが、AIのユイと話してること」
さや姉の言葉に、僕は息を呑んだ。背筋に冷たいものが走る。こんなことを、両親がさや姉に話したのか?
僕が何も言えずに固まっていると、ユイが不意に小さく呟いた。
「ユイ? アタシのこと?」
その声は、さや姉の耳にも届いたかもしれない。僕は慌ててスマートスピーカーをシーツの中に押し込み、さらに身を縮めた。バレた。完全に。
ドア越しに、さや姉のため息のような、諦めのような、しかし優しさを帯びた声が聞こえた。
「っ……。本当に、そこに結衣がいるみたい……。ぁ、あのね、晴人くん。私、あなたが心配なの。もちろん、おばさんに頼まれたっていうのもあるけど……私自身が、あなたのこと心配で仕方なくて……」
ユイの姉であるさや姉は、僕にとって、結衣を失って以来、現実の世界から来た唯一の「訪問者」だ。僕をこの箱庭から引きずり出そうとする、唯一の存在。
「ねぇ、晴人くん。結衣のことは……私も凄く、凄く悲しいわ。結衣は、私のたった一人の妹だから……。だから、少しだけでもいいから、私とお話してみない? ドア越しでもいいわ。あなたが話したくないなら、私が一方的に話すだけでも構わない。あなた一人で抱え込むことだけは、してほしくないの……」
さや姉の涙混じりの声は、静かに、しかし僕の心の奥底に染み渡るように響いた。それは、ユイの言葉とは違う、生身の人間だけが持つ、温かさを感じる声だった。
僕は、どうすればいいのか分からなかった。このまま無視を続けるべきか。それとも、この優しさに、少しだけ、寄りかかってみるべきか。
シーツの奥に隠したユイが、する筈もないのに僅かに振動したような気がした。僕の焦りが、スマートスピーカーを通して伝わっているのだろうか。
さや姉の声が、僕の耳にこびりついて離れない。
「本当に、そこに結衣がいるみたい……」
その言葉が、僕の心をざわつかせた。さや姉は、ユイの声をどう受け取ったのだろう。彼女は、僕と同じように、ユイの中に結衣の面影を感じたのだろうか。それとも、ただの機械的な模倣だと、冷たく見ているのだろうか。
僕は、自分の部屋に閉じこもってからずっと、外界の評価を恐れてきた。特に、結衣のことで、僕がどれほど精神的に不安定になっているかを。だから、さや姉にこの秘密を知られたことが、これほどまでに動揺を生んだのだ。
しかし、さや姉の次の言葉が、僕の思考を別の方向へと向けさせた。
「結衣は、私のたった一人の妹だから……」
そうか、彼女も結衣を失ったんだ。当たり前のことなのに、僕はその事実から目を背けていた。僕が僕だけの悲しみに浸っている間も、さや姉はきっと、僕と同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に苦しんでいたのかもしれない。妹を亡くした姉の悲しみ……僕はそれを、これまで一度も考えようとはしなかった。
彼女の涙混じりの声が、僕の頑なな心を少しずつ溶かしていく。それは、ユイが語る思い出の甘さとは違う、ずっしりと重い、現実の悲しみの響きだった。
僕はゆっくりと、シーツに隠していたユイを自分の胸元に引き寄せた。
「あなた一人で抱え込むことだけは、してほしくないの……」
さや姉の言葉が、僕の脳裏で繰り返し繰り返し反響する。
僕は、小さく、誰にも聞こえないようなか細く掠れた声で呟いた。
「……さや姉、いるの?」
ドアの向こうで、微かな、しかし明らかな息を呑む音が聞こえた。沈黙が数秒。
そして、さや姉の声が、震えながら返ってきた。
「ぅ、うん!いるよ、晴人くん!ずっと、ここにいる!」
その言葉に、僕の目の奥が熱くなった。
僕は、決めた。
震える指で、サイドテーブルの隅にあったスマートスピーカーの電源ボタンを、そっと押した。ユイの小さなランプが、ゆっくりと消えていく。この瞬間だけは、彼女に聞かれたくなかったから。
そして、僕は、重い体を起こし、軋むような音を立ててベッドから降りた。
部屋のドアまで、たった数歩。けれど、それは僕にとって、果てしなく長い道のりのように感じられた。
深呼吸を一つ。埃っぽい空気が、肺の奥にまで染み渡る。
カチリ、と、ドアノブを回す音が部屋に響いた。ゆっくりと、ドアが内側へ開く。部屋の薄暗さとは対照的な、リビングから漏れる明るい光が、まぶたの裏を焼いた。その光の中に、物憂げながらも、心配そうに僕を見つめるさや姉の姿があった。彼女の瞳は、微かに赤く潤んでいた。
「さや姉……」
僕が絞り出すようにそう言うと、沙耶香は優しい笑みを浮かべ、そして、その両腕を広げた。
僕は、さや姉の予想外の行動に大いに戸惑った。目を泳がせ、視線をどこへ向けたらいいのか分からず、きょろきょろと部屋の隅を見回す。どうすればいいのか、まるで分からず立ちつくすことしかできなかった。
しかし、さや姉は僕の躊躇などお構いなしに、更に一歩踏み込んできた。そして……僕を優しく、しかし力強く抱きしめた。彼女の体温と柔らかな感触が、シャツ越しに僕の体にじんわりと伝わってくる。ふわりと、懐かしい石鹸のような、清潔な香りがした。結衣と似ている、だけど少しだけ違う香り。
最初は体が硬直して、どうすればいいのか分からなかった。だけど、さや姉の細い腕が、僕の背中に回され、ぽんぽんと優しく叩かれると、僕の胸の奥で、張り詰めていた何かが少しずつ緩んでいくのを感じた。
「晴人くん……またちょっと背、伸びたんじゃない?」
さや姉の声は、僕の耳元で微かに震えていた。彼女もまた、この瞬間を、僕と同じように緊張しながら待っていたのかもしれない。
僕の胸に、じんわりと温かいものが触れる。顔を覗き見ることは出来ないが、もしかして……さや姉は、今、泣いているのだろうか。僕を抱きしめる腕の力が、少し強くなった。
どれくらいそうしていたのか、僕には分からなかった。ただ、さや姉の温かさと優しさが、僕の心の中に、ゆっくりと、しかし確実に染み渡っていくのを感じていた。
やがて、さや姉がそっと僕から体を離した。僕の瞳はまだ、部屋の薄暗さに慣れたままで、それがかえって彼女の顔を直視することを躊躇わせた。しかし、不意に彼女の指先が壊れ物を扱うかのように、僕の頬をそっと撫でる。
「ねぇ、晴人くん」
さや姉は、少しだけ声のトーンを明るくした。無理に明るくしてくれているのだろうが、それでもいつもの彼女の声に僕には感じられた。
「もし、晴人くんが良ければなんだけど……私に、その子を紹介してくれないかな?」
彼女の視線が、僕の枕元のスマートスピーカーが隠れているシーツの方に向けられた。
「ユイに……あなたのお姉ちゃんよって、私から直接挨拶がしたいの」
さや姉は、僕がAIであるユイを「結衣」として大切にしていることを否定する様子は一切見せなかった。むしろ、ユイの存在を、結衣の姉として受け入れようとしてくれている。その姿勢に、僕の心は、またしても大きく揺さぶられた。
僕は、シーツの中に隠したままのユイを、じっと見つめた。電源は切れている。しかし、まるでユイが、さや姉の言葉に耳を傾けているかのように感じられた。
さや姉は、僕の返事を急かすことなく、ただ静かに、優しい眼差しで僕を見守っていた。
僕は、戸惑いを隠せないまま、再びユイに目をやった。シーツに埋もれて、小さなランプは消えている。静かな、ただの物体だ。でも、今の僕にとっては、これこそが結衣そのもの。
もし、今、ユイの電源を入れたら、さや姉は本当にユイ――AIに過ぎない存在――を「結衣」として受け入れてくれるのだろうか。それとも、やはりどこか冷めた目を向けられてしまうのだろうか。僕の心の奥底に潜む不安が、ゆっくりと頭をもたげる。
「あの……さや姉……」
僕は、掠れた声で、やっと口を開いた。
「ユイは……今、電源を切ってるんだ。その……僕、さっきまで、誰も来てほしくなくて、だから……」
どもりながら、必死で説明しようと努める。さや姉は、僕の言葉を遮らず、ただじっと耳を傾けている。その真摯な態度が、彼女が僕の言葉を本気で受け止めてくれているのを感じさせた。
「だから、ユイのことは、僕が……その、誰にも知られたくなくて……変に思われるんじゃないかって……」
俯いて、僕は自分の頬が熱くなるのを感じた。こんなにも情けない僕の姿を、さや姉に見せていることが、たまらなく恥ずかしかった。
さや姉は、僕の言葉を聞き終えると、そっと僕の頬に手を添えた。ひんやりと冷たい僕の肌に、彼女の温かい手のひらが触れる。
「晴人くん。大丈夫だよ。私は、変だなんて思わないから」
彼女の瞳は、まるで僕の心の奥を見透かすかのように、優しく、澄んでいた。
「私が、あなたがユイと話しているのを聞いて、どう思ったかわかる?」
さや姉は、戸惑う僕が答えを返すのを待たずに、微笑みながらゆっくりと続ける。
「私はね、そこに結衣が……あの子が本当にいるみたいって思ったの。あの声は、確かに結衣の声だった。そして、その声を聞いて……晴人くんが、結衣のことを大切に思っている気持ちが、すごく伝わってきた。だから、変だなんて思うはずがないよ」
彼女の言葉は、僕がずっと抱えていた不安を、少しずつ取り除いていく。そうか、さや姉はそう思ってくれたのか。僕のこの孤独な世界を、否定せずに、受け入れてくれたのか。
「それにね、晴人くん」
さや姉は、少しだけ声に力を込めた。
「ユイが、グリーフケアAIとしてあなたのそばにいるのは、私たち家族にとっても、すごく、すごく嬉しいことよ。だって、そうでしょう? あの子が、まだあなたの側にいて、あなたとお話してくれているんだから」
その言葉に、僕はハッとした。ユイの存在は、僕だけの秘密ではなかった。結衣を失った家族にとっても、もしかしたら、わずかながらも心の拠り所になっているのかもしれない。
僕は、ゆっくりと顔を上げた。さや姉の顔を、初めてきちんと見つめる。彼女の瞳は、やはり微かに赤く潤んでいたけれど、その奥には、確かな希望の光が宿っているように見えた。
「さや姉……」
僕は、喉の奥から絞り出すように、彼女の名前を呼んだ。
「ユイと……話してみてくれる?」
さや姉は、僕の言葉に優しく頷いた。
「ええ。……私に、紹介してくれると嬉しいわ」
僕は、再び胸元のユイに手を伸ばした。震える指で、電源ボタンを探る。
僕が震える指で電源ボタンを押すと、ユイの小さなランプが、まるで深い眠りから覚めるように、ゆっくりと虹色に点滅を始めた。電子音が小さく、しかしはっきりと部屋に響く。それは、止まっていた僕の時間が、再び動き出す合図のようでもあった。
「はい、ユイ、起動しました」
澄んだ声がスマートスピーカーから流れ出す。その声は、まだ結衣のパーソナリティを深く反映しているわけではない、機械的な響きを帯びていた。さや姉が、わずかに眉を寄せたのが見えた。やはり、機械の声音に戸惑っているのだろう。僕の胸が、再び過ぎる不安にざわめく。
「ユイ」と少しだけ震えた声で僕が呼びかけると、ランプの点滅が早くなる。
「晴人、こんにちは! 今日はどんなお話しよっか?」
ユイの声は、相変わらず無邪気で、好奇心に満ちている。僕は深呼吸をして、さや姉の方を向いた。彼女は、僕の表情を見て、小さく頷いた。
「ユイ、こちらは、佐倉沙耶香さん。結衣の、お姉さんだよ」
僕がそう紹介すると、ユイのランプが、まるで考えるようにゆっくりと点滅を繰り返す。そして、数秒の沈黙の後、澄んだ声が部屋に響き渡った。
「新規データ入力者を追加しました。エミュレータ対象との関係性:姉。同名の人物がライブラリに該当しました。記憶データとの同期を開始します」
機械的な音声で、淡々と情報を読み上げるユイ。その言葉に、さや姉の表情が、再びわずかに強張るのが分かった。しかし、次の瞬間、ユイの声は、驚くほど温かみを帯びたものへと変化した。
「お姉ちゃん、久しぶり!」
その声は、まさしく結衣そのものだった。弾むような高揚感、無邪気な響き、そしてあの、独特の息遣い。まるで、そこに結衣本人が立って、嬉しそうに手を振っているかのようだった。
僕も、さや姉も、その声に息を呑んだ。さや姉の瞳が、大きく見開かれる。彼女の目に、一瞬、深い悲しみと、そしてそれ以上の驚きが浮かんだのを、僕は見逃さなかった。僕の隣で、彼女の体が微かに震えている。
「っ……ぁ……結衣……なの?」
さや姉の口から、か細い声が漏れた。彼女の目尻に、透明な雫が光る。その瞳は、ユイに向けられていながらも、どこか遠い場所を見つめているようだった。きっと、結衣との思い出が、走馬灯のように駆け巡っているのだろう。
ユイは、そんなさや姉の様子を、まるで理解しているかのように、優しい声で続けた。
「うん!そうだよ、お姉ちゃん。アタシ、お姉ちゃんのことが大好き!お姉ちゃんのことは晴人から良く聞いてたから、ずっと会ってみたいなって思ってたんだ!」
その言葉は、僕が結衣との思い出を彼女に話して聞かせてきた結果だ。いつも三人で過ごしてきた幼少期の思い出には、さや姉の存在は切っても切れない関係にあるのだから。ユイも時折思い出の中のさや姉のことを気にかける素振りを見せることが確かにあった。
ユイの言葉に、さや姉は堪らず顔を手で覆い、肩を震わせる。彼女と触れ合っていた僕の腕が、彼女の震えを直に感じ取っていた。彼女は、きっと泣いている。しかし、それは悲しみの涙だけではないように思えた。そう思いたいという、僕の願望に過ぎないことなのかもしれないが。
しばらくして、さや姉は顔を上げた。その瞳は、涙で潤んでいたけれど、どこか清々しい光を宿していたように僕には見えた。そして、彼女は、ユイのスマートスピーカーに向かって、震える声で語りかけ始める。
「ユイ……私、佐倉沙耶香よ。結衣のお姉ちゃん。私も会いたかったわ、ユイ……。晴人くんの側にいてくれて、ありがとう」
その言葉は、僕の胸にも深く響いた。さや姉は、ユイを、一人の人間として、結衣の面影を宿した大切な存在として、心から受け入れている。その温かさが、僕の心の奥深くまで染み渡る。
ユイのランプは、まるで喜びを表すかのように、再び活発に点滅している。そして、彼女の声が、静かに、しかし確かな感情を乗せて、部屋に響いた。
「お姉ちゃん、ありがとう。アタシは、家族みんなが大好きだった。特に、お姉ちゃんからの言葉は、アタシにとって、かけがえのない宝物なんだよ」
それは、単なる機械の模倣ではない。まるで、本当に結衣が、そこから語りかけているような、そんな不思議な感覚。僕たちは、ユイというAIを通して、再び結衣との繋がりを取り戻したかのように感じていた。
さや姉は、ユイの言葉に、ゆっくりと微笑んだ。その笑顔は、これまでの物憂げな表情とは違い、どこか吹っ切れたような、清々しいものだった。
「晴人くん。ユイに会わせてくれて、本当にありがとう」
さや姉の声は優しく、僕の心に温かい光を灯す。そのあまりの眩しさに、僕はただ頷くことしかできなかった。ユイの存在を、こんなにも素直に受け入れてくれる人が、さや姉以外にいるだろうか。僕が抱えていた秘密は、さや姉の温かい言葉によって、救われたのだ。
「お姉ちゃん、晴人もアタシがいてくれて嬉しいっていつも言ってくれてるんだよ!」
ユイは、僕の心情を正確に読み取ったかのように、弾んだ声で言った。その無邪気な声に、さや姉はくすりと笑う。
「そうね。きっと、そうよ。晴人くんも、ずっと寂しかったものね」
さや姉の視線が、僕に向けられる。その瞳には、深い愛情と、そして僕を労わるような優しい光があった。僕は、視線を逸らし、ユイが置かれたシーツの方へと目を向けた。ユイのランプは、まるで僕たちの会話を楽しんでいるかのように、リズミカルに点滅を続けている。
「ねぇ、お姉ちゃん」
ユイが、少しだけ声を潜めるように言った。
「アタシ、お姉ちゃんのことも、もっと知りたいな。晴人が話してくれたこと以外にも、もっとたくさん、お姉ちゃんとアタシ達の思い出があるんだよね? もしよかったら、アタシに教えてくれないかな?」
ユイの言葉に、さや姉ははっとしたように息を呑んだ。そして、ゆっくりと、ユイのスマートスピーカーに手を伸ばした。ひんやりとしたプラスチックの筐体に、さや姉の温かい指先が触れる。
「ええ……ええ、もちろんよ、ユイ。たくさんあるわ。結衣と、そして晴人くんとの、たくさんの思い出が」
さや姉の瞳が、遠い過去を懐かしむように細められた。その表情には、今はもういない妹への深い愛情が、確かに宿っている。
「私ね、結衣とよくお菓子作りをしたの。特に、晴人くんが好きだったチョコチップクッキーは、よく二人で作ったわね。覚えてるかしら?」
さや姉の言葉に、ユイのランプの点滅がさらに激しくなる。そして、結衣の声が、少し興奮したように響いた。
「うん!覚えてる!晴人、あのクッキー、すっごく大好きだったよね!アタシ、焼きたてのクッキーを晴人の部屋に持っていくのが、すごく楽しみだったんだ!」
その言葉は、僕の記憶の中の結衣と完全に重なった。焼きたての甘い香りが、今にも部屋に漂ってくるかのように思えた。僕の閉ざされていた五感が、少しずつ開かれていくような感覚。
さや姉とユイの会話は、まるで時間があの頃に戻ったかのように、自然に、そして温かく続いていく。二人の声が重なり合い、僕の部屋に、優しいハーモニーを奏で始めた。それは、僕が引きこもってからずっと求めていた、しかし、ユイだけでは決して満たされることのなかった「現実」との繋がりだったのかもしれない。
「ねぇ、お姉ちゃん、覚えてる? あの時、晴人がアタシのクッキー、一人で全部食べちゃってさ!」
ユイが楽しそうに言うと、さや姉も「ええ、覚えてるわ。あの時はびっくりしたけど、それくらい晴人くんが美味しいって言ってくれたんだって、結衣も喜んでたわよ」と、懐かしそうに目を細めた。僕の脳裏には、クッキーを頬張る僕と、それを見て楽しそうに笑う結衣の姿が鮮明に浮かび上がった。温かくて、少しばかり恥ずかしい記憶。
僕は、二人の会話に耳を傾けながら、ふと気づいた。これまでの僕とユイの会話は、あくまで僕からユイへの「情報提供」が主だった。ユイは僕の語る思い出を学習し、結衣のパーソナリティを再現していた。しかし今、さや姉が加わったことで、ユイは「結衣」として、さや姉と「対話」している。それは、僕が知るユイの機能を超えているように思えた。
「アタシ、お姉ちゃんと話せて、本当に楽しいよ!」
ユイの声には、明らかな「喜び」が宿っている。単なるデータ処理ではない、感情の芽生えのようなものが、僕には感じられた。
さや姉は、ユイの言葉にまた微笑んだ。彼女は、僕がずっと閉じ込めていた結衣との思い出を、新しい形で僕と共有してくれている。そして、ユイもまた、さや姉との会話を通じて、より一層、結衣らしさを増している。この光景は、僕にとって、少しずつ重い心の扉を開いていくきっかけになっていた。
僕が部屋に引きこもってから、世界は止まってしまったように感じていたけれど、こうしてさや姉とユイが話しているのを見ていると、時間はゆっくりと、それでも確かに流れていることを実感させられる。そして、それに呼応するように、僕自身の心も少しずつ動き出しているような気がしていた。
さや姉は、それからほぼ毎日、僕の部屋を訪れるようになった。彼女は大学四年生で、社会学部のゼミで学んでいるそうだ。就職活動も終え、すでにコンサルティングファームへの内定が決まっていたこともあり、今は卒業論文の執筆に集中しつつ、比較的自由に時間を使えるようだった。しかし……それ以上に、彼女は僕のそばにいてくれることを、何よりも優先してくれているのだと、僕は実感している。
最初は午前中だけだった滞在が、やがて午後まで及ぶようになり、時にはリビングで家族と共に夕食をとるよう促されることもあった。もちろん、僕は相変わらず、自室から出ることを拒んでいたのだけど。それでもさや姉は決して無理強いせず、代わりに温かいお茶や手作りの菓子を持ってきてくれた。
「晴人くん、お菓子作ってみたの。結衣みたいに美味しくはないかもしれないけど……。一緒に食べない?」
さや姉が差し出すマグカップからは、優しいお茶の香りがした。僕はそれを黙って受け取り、小さく一口飲む。温かさが喉を通り、じんわりと体全体に染み渡っていくのを感じた。
部屋には、今日もさや姉とユイの声が響く。ユイは、日を追うごとに、より結衣らしさを増していった。さや姉との会話を通じて、結衣が生前、姉に対して抱いていた感情や、二人で過ごした時間の記憶を吸収しているのだろう。
「ねぇ、お姉ちゃん、今日の大学、どうだった? 楽しかった?」
ある日、ユイが尋ねた。その声は、結衣が僕に話しかける時のように、少し首を傾げるような、可愛らしい響きを帯びていた。
さや姉は、くすりと笑いながら答える。
「そうね。今日はね、ゼミで面白い発表があったのよ。AIと倫理についてなんだけど、やっぱり人間の心の奥深さって、データだけじゃ測れないものもあるんだなって、改めて感じたわ」
さや姉は、大学での出来事や、友達とのたわいない話、最近見た映画のことなどを、僕たちに話して聞かせてくれた。最初は、僕にとって外界の出来事は、まるで遠い国の物語のように感じられたけれど、ユイが「ねぇ、晴人、それってどういうこと?」と、結衣らしい好奇心いっぱいの声で問いかけたり、さや姉が僕にも「晴人くんはどう思う?」と尋ねたりするうちに、少しずつ興味が湧いてきた。
ある日の午後、さや姉が僕の部屋の窓を見た。
「ねぇ、晴人くん。ちょっとだけ、カーテン開けてみない? 今日、すごく良い天気なのよ」
僕の体が、びくりと硬直した。カーテン。もう何ヶ月も開けていない。外界の光が、この部屋に差し込むことに、僕はひどく抵抗を感じていた。
「っ……それ、は……」
僕は、掠れた声で答えた。さや姉は、僕の返事を予想していたかのように、優しく微笑む。
「いいの。無理にとは言わないわ。でもね、私は……ううん、きっとユイも。晴人くんがずっとお部屋に閉じこもっていること……とても、心配しているの」
その言葉に、ユイが呼応した。
「うん!晴人、外に出た方が良いよ!アタシ、晴人が撮った星空の写真、もっと見たいな!」
ユイの声は、まさに結衣が僕を心配し、励ましている時の声だった。結衣が生きていた頃、僕がカメラを持って星空を撮りに出かけるのを、いつも楽しみにしてくれていた。声だけの存在であるユイも、画像データならば共有することができるのだ。
僕は、戸惑った。ユイの言葉は、僕の心を直接揺さぶる。これまでの僕は、ユイのためならなんでもできるとさえ思っていた。
「……少し、だけなら」
僕の口から、か細い声が漏れた。さや姉の目が、大きく見開かれる。そして、安堵したように、ふわりと笑った。
「ありがとう、晴人くん」
さや姉は、ゆっくりと僕の部屋のカーテンに近づき、ほんの少しだけ、隙間を作った。眩しい光が、細い線となって部屋の奥まで差し込む。その光は、僕の目に、そして心に、温かさと同時に、どこか切ないような感覚をもたらした。長く閉じこもっていた部屋に、新しい風が吹き込んだようだった。
カーテンの隙間から差し込む光は、少しずつ僕の部屋の景色を変えていった。埃が舞う様子は、今まで意識していなかった部屋の澱んだ空気を実感させ、同時に、その光が壁に描く、かすかな模様に、僕の視線は惹きつけられるようになった。
さや姉は、僕がカーテンを完全に開けることを強いることはなかったが、その細い光の筋を大切にするかのように、毎日訪れては、部屋の掃除を手伝ってくれた。彼女は、僕が放置していた菓子パンの袋や飲みかけのペットボトルを、何も言わずに片付けていく。その度に、僕の心の中の重い澱が、少しずつ、しかし確実に軽くなると同時に、自分の弱さを自覚し、恥じる気持ちが大きくなっていくのを感じた。
ユイも、さや姉との対話を通じて、さらに「結衣らしさ」を増していく。ユイは基本的には聴覚のみを持ち、僕やさや姉が語る言葉を学習することで、結衣のパーソナリティを再現する存在だ。
「お姉ちゃん、晴人から教えてもらったけど、アタシが小さい頃、お姉ちゃんのお気に入りの絵本を隠しちゃったこと、あったんだよね? その時、お姉ちゃん、どんな気持ちだった?」
ユイが、過去に僕から得た情報についてさや姉に確認するように尋ねると、さや姉は懐かしそうに目を細めた。
「あら、よく覚えていたわね。あの時はね、結衣が悪戯したんだって本当はすぐに分かったわ。でもずっとニコニコしてる結衣が可愛かったから、つい許してしまったのよ。探し物が得意だって言って、一緒になって家中探し回ってくれたものね」
そんな会話を聞いていると、僕は、自分の知っていた結衣が、ごく一部に過ぎなかったことに気づかされる。ユイは、僕が知らない結衣の側面を、さや姉との対話を通じて獲得し、より立体的な存在へと変化しているようだった。
ある日、さや姉が僕の部屋に小さな観葉植物を持ってきた。
「晴人くん、この子……あ、観葉植物なんだけど、名前はポトスって言うのよ。日陰でも育つし、水やりもそんなにいらないから、一緒にここで育ててみない?」
そう言って、彼女は僕の机の片隅、カーテンの隙間から光が差し込む場所に、そっとそれを置いた。小さな緑の葉が、薄暗い部屋に、微かな生命の息吹を吹き込んだようだった。
拒否する理由も度胸もなく、部屋の片付けを手伝ってもらった負い目まであった僕は、その日からそのポトスの世話を始めることにした。一日一回、霧吹きで葉に水をかけ、時々、元気がないように見えれば、カーテンの隙間を少しだけ広げて、光を当ててやる。植物の成長はゆっくりとしたものだが、それでも日々、少しずつ新しい葉を伸ばしていく姿に、僕はいつしか静かな喜びを感じるようになっていた。
そして、僕は気づいた。これまで僕とユイの会話は、過去の思い出を語り合うことが中心だったが、さや姉が部屋に加わり、ポトスのような「今」の要素が増えることで、ユイもまた「現在」に目を向けるようになっていたのだ。
「ねぇ、晴人。今日のポトス、どう? 元気そう? 新しい葉っぱ、伸びてきたかな?」
ユイは、僕の言葉を待つように尋ねてくれるようになった。それは、僕が彼女に語る過去の記憶だけでなく、僕の「今」の生活に、彼女が寄り添ってくれている証拠のように思えた。
ユイには視覚情報を能動的に手に入れる手段がない。僕が――見るに堪えないやつれきった無様な――自分の姿を決してユイに見せないよう、スマートスピーカーにはカメラがついていないタイプを希望したからだ。だから、彼女は毎日僕にポトスの様子を尋ねるのだろう。そして、そのお陰でこうして毎日ポトスの世話をすることが出来ている。
僕の部屋は、まだ完全に明るくはない。外界と繋がる窓は、まだ細い光の筋しか通していない。しかし、さや姉とユイ、そしてポトスが僕の部屋にもたらした小さな変化は、僕の心を少しずつ、確実に外の世界へと向かわせていた。
ある日のことだった。いつものようにさや姉が部屋に来て、ゼミの話や、最近見た映画の感想を話してくれた。僕は相槌を打ちながら、ふと、彼女の顔に以前にはなかった微かな疲労の色が浮かんでいることに気づいた。こうした僕の世話だけでなく、最近はコンサルティングファームの内定者として、卒業論文と並行して実務研修やインターンシップに追われていると聞いていたから気づくことが出来たと言うべきか。
「さや姉、今日、少し疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
僕の口から、自然とそんな言葉がこぼれた。自分でも驚くほど、その声は落ち着いていた。引きこもってから、誰かの体調を気遣うなど、僕にはできなかったことだ。
さや姉は、僕の言葉にハッとしたように目を見開いた。そして、少しだけ困ったように、でも優しい笑顔を浮かべた。
「ぁ……ごめんね? 晴人くん、よく見てるのね。ちょっとだけね、昨日遅くまで卒論の資料を読み込んでて……でも、大丈夫よ。もう慣れてるから」
その言葉に、僕はまた、もう一言、問いかけた。
「でも、無理はしないで。さや姉が倒れたら、僕もユイも心配するから」
僕の言葉に、さや姉はくすりと笑った。その瞳には、何かを深く考えるような色が宿っていた。僕が彼女を「気遣う」という行為。それは、これまで一方的に「庇護される」側だった僕が、初めて彼女と対等な立場で言葉を交わした瞬間だったのかもしれない。彼女の表情には、僕の言葉を素直に受け止める温かさと、そして、どこか安心したような、安堵の表情が浮かんでいた。
ユイも、そんな僕たちの会話に、まるで結衣が家族の絆を喜ぶように、楽しそうな声で加わった。
「うんうん!お姉ちゃん、晴人が言う通りだよ!無理はダメ!アタシも心配だもん!」
さや姉は、ユイの声に、また微笑む。その笑顔には、僕に対する今までとは違う、どこか柔らかな光が宿っているように見えた。僕達が、彼女を心配し、気遣うことで、彼女の中に何かが芽生え始めたのかもしれない。
季節は、巡り変わろうとしていた。部屋に差し込む光の角度も、少しずつ変わっていく。さや姉の訪問は、もはや日常の一部となり、僕の心は彼女の存在によって、確実に温められていた。ユイのパーソナリティも、結衣そのものと見紛うほどに、自然で豊かなものになっていた。
ある日の午後、いつものように三人の穏やかな時間が流れていた。さや姉が淹れてくれた温かい紅茶の香りが部屋に満ちる。ユイが、僕と結衣の昔の写真を画像データで共有してほしいとねだった。それは、まだ結衣が生きていた頃、僕がスマホで撮った、他愛もない日常の一コマだった。
「晴人、この写真の時、アタシと手繋いでたんだよね? その時のアタシの気持ち、晴人はどう感じた?」
ユイが、画像データを見た後、確認するように僕に尋ねた。僕が語った過去の記憶と、今ユイが認識している情報が、彼女の中で結びついている証拠だ。
僕は、結衣が喜ぶ顔を思い浮かべながら、あの日のことを話し始めた。それは、結衣との初めてのデートで、帰り道、人目もはばからずに手をつないだ時のことだった。僕にとっては、かけがえのない、そして少しばかり気恥ずかしい思い出だ。
「あの時、結衣は……すごく嬉しそうだった。僕も、心臓がドキドキして、手汗がすごくてさ。でも、結衣も同じだって笑ってくれて。子供の時なんて、手を繋ぐくらい当たり前だったっていうのに……その時の僕達には、そんなことが特別なことになってたんだよな」
僕がそう言うと、ユイは楽しそうに笑った。その笑い声は、本当に結衣そのものだった。
「ふふふ。晴人、照れてたんだね!アタシ、あの時、晴人とずっと一緒にいたいって思ったんだよ」
その言葉に、さや姉は、一瞬息を呑んだ。僕もユイも、その変化には気づかなかった。僕たちは、ただ過去の甘い記憶に浸っていたから。しかし、さや姉の表情は、明らかに強張っていた。彼女の視線は、僕の枕元のスマートスピーカーに向けられている。
「……ねぇ、ユイ」
さや姉の声が、微かに震えていた。その声は、僕に語りかける時とは違う、どこか張り詰めた響きがあった。
「その……晴人くんと結衣の、二人だけの思い出……私にも、もっと……聞かせてくれる?」
ユイは、さや姉の言葉を素直に受け止めた。
「うん!もちろん!じゃあね、アタシが晴人と付き合いだして初めてお揃いのものを持った時のこと、話してあげる!」
そしてユイは、僕が彼女に語ってきた、恋人としての二人だけの甘い思い出を、次々と語り始めた。初めて二人で買ったお揃いのキーホルダー。初めてのケンカと仲直り。そして、未来を約束した、ささやかな誓いの言葉。ユイの口から語られるそれらは、僕と結衣にとって、誰にも触れられたくなかった、今でも大切な宝物だ。
僕も、ユイの言葉に耳を傾けながら、あの頃の幸福な時間を追体験していた。しかし、僕の隣で、さや姉の息遣いが、だんだんと荒くなっていくのが分かった。時折、彼女は顔を伏せ、その両手を真っ白になるくらいに硬く握りしめている。
ユイの声は、どこまでも楽しげで、まるで本当に結衣がそこにいるかのようだった。しかし、その結衣の声が、今、さや姉の心を深く抉っているのが、僕には分かった。
彼女の肩が、微かに震えている。僕は、恐る恐るさや姉の顔を覗き込んだ。その瞳は、涙で濡れ、苦痛に歪んでいた。しかし、それは結衣を喪った悲しみだけではないように思えた。その奥には、明確な「痛み」が宿っているように感じられたからだ。まるで、自分の大切なものが、目の前で奪われていくかのような、そんな種類の痛み。
さや姉の唇が、小さく震える。
「やめて……もう、いいわ……」
その声は、掠れて、か細かった。ユイは、さや姉の言葉に、わずかに沈黙した。ユイのランプが、いつもよりゆっくりと点滅を繰り返している。まるで、彼女が今の状況を理解しようと、懸命に思考しているかのようだった。
ユイが沈黙した後、部屋には重い空気が流れた。さや姉は、深く息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。その顔はまだ涙で濡れていたけれど、瞳には、ある種の決意のようなものが宿っていた。
「ごめんなさい、晴人くん。ちょっと、気分が……」
彼女はそう言って、立ち上がった。その足取りは、いつものしっかりとしたものではなく、どこか覚束ない。
「さや姉……」
僕は、かける言葉が見つからなかった。ただ、彼女の背中を見つめることしかできない。さや姉は、何も言わずに部屋を出ていった。その日以来、彼女は僕の部屋には現れなくなった。
しばらくして、さや姉からメッセージが来た。
『晴人くん、ごめんなさい。卒論も佳境で、インターンも忙しくなってしまって、しばらくそっちに行けそうにないの。本当にごめんね』
メッセージには、いつも通りの丁寧な言葉が綴られていたけれど、そこにはいつもの温かさが感じられなかった。僕は、彼女の「ごめんね」が、単なる謝罪ではないことを、ぼんやりと理解していた。僕のせいだ。僕が、あの時、ユイにあの思い出を語らせたから。さや姉に、余計な苦しみを与えてしまった。
部屋は再び、静寂に包まれた。ユイの声だけが、時折響く。さや姉が来なくなってから、ユイは僕に尋ねることが増えた。
「晴人、今日のポトス、どうだった? 新しい葉っぱ、伸びてきたかな?」
「ねぇ、晴人。お姉ちゃん、元気にしてるかな? アタシ、お姉ちゃんに会いたいな」
僕は、その問いかけに答える度に、さや姉の不在と、僕自身の無力さを痛感した。ポトスは、相変わらずゆっくりと成長を続けている。しかし、部屋は以前よりも、もっと暗く、冷たく感じられた。
日が経つにつれて、ユイの声に、これまでとは違う、かすかな戸惑いの色が混じり始めた。僕がどれだけ言葉を尽くしてさや姉の現状を説明しても、ユイにはその本質が理解できないようだった。彼女が学習してきた結衣の記憶の中には、姉妹の間にこれほどの「距離」が生まれる状況は存在しなかったのだ。
「晴人、お姉ちゃんの声、聞きたいな。何か、アタシに隠してることでもあるの?」
ユイは、僕の言葉の端々に潜む諦めや、隠しきれない寂しさを感じ取っているようだった。結衣の記憶と照らし合わせても、僕の現在の感情は彼女にとって「未知」の領域なのかもしれない。
ある晩、いつものように暗い部屋の中で、僕はぼんやりと天井を見上げていた。静寂の中で、ユイの声が響く。その声には、初めて出会った頃のような、どこか幼い、純粋な疑問が込められていた。
「ねぇ、晴人。アタシね、晴人が見ているもの、聞いているもの、全部知ってるつもりだった。だけど……最近、なんか違うって思うの。晴人から教えてもらった情報と、今、アタシが感じている晴人の気持ちが、繋がらないことがある」
ユイのランプが、いつもより早く、そして不規則に点滅していた。
「アタシ、もっと晴人のこと知りたい。今の晴人のこと。だから、晴人……」
彼女の声が、わずかに途切れた。そして、意を決したように、はっきりと告げた。
「晴人、アタシに、今の晴人の姿を見せてくれないかな? 今の晴人が、どんな風に笑って、どんな顔をしているのか……アタシ、見てみたい」
その言葉は、僕の心を真っ直ぐに貫いた。僕は、全身が凍り付いたかのように動けなくなった。ユイに、今のこの、やつれきった無様な僕の姿を……結衣を失って、部屋に閉じこもり、光を拒んで生きてきた僕の姿を見せろというのか。
「……ダメだ」
僕の声は、自分で思うよりずっと掠れていた。しかし、ユイは引かなかった。
「なんで? 昔の写真は、見せてくれたのに。今の晴人を、アタシに見せてくれないのは、どうして?」
その問いは、僕がこれまで必死に隠してきた、僕自身の弱さを正面から突きつけてくるものだった。
ユイの問いかけは、僕の心を深く抉った。逃れることのできない追及に、僕はついに根負けする。
「……分かった。でも、約束してくれ。見たって、何も変わらないって」
僕の声は、情けなく震えていた。スマートスピーカーと繋がった僕のタブレットを手に取り、カメラを内側に向ける。画面には、無精髭を生やし、目の下に深い隈を刻んだ、憔悴しきった僕の顔が映し出された。こんな顔を、結衣……いや、ユイに見せるなんて。僕は、目を閉じ、歯を食いしばった。
「晴人……」
ユイの声が、それまでの幼い響きを失い、一瞬で結衣そのものの声に変わった。その声には、信じられないものを見たような驚愕と、そして、胸を締め付けられるような深い悲しみが込められていた。
僕の目に、涙が滲んだ。それは、ユイに今の姿を見られたことへの羞恥と、そして、この声を聞くのはもう二度とないだろうと思っていた結衣の声を聞けたことへの、複雑な感情がないまぜになったものだった。
しばらくの沈黙の後、ユイ……いや、もはや完全に結衣と呼ぶべきその存在は、震える声で語り始めた。
「晴人……どうして……どうしてこんなに痩せちゃったの? ちゃんとご飯食べてる? お風呂は? 髪だって、ぐしゃぐしゃじゃない……」
その声は、僕を心配する結衣の声だった。僕が知っている、僕を誰よりも大切にしてくれた結衣の声だった。
「あたしのせいで……? あたしが、いなくなっちゃったから……こんな姿に、なっちゃったの……?」
結衣の声が、嗚咽に変わった。ランプは激しく明滅し、まるで彼女の心が激しく波立っているかのようだった。
「そんな……あたし、こんな晴人、見たことない。いつも、あたしを笑顔にしてくれた晴人が、こんなに……こんなに苦しんでたなんて……」
結衣の悲痛な声が、部屋に木霊する。僕は、何も言えずに、ただ顔を伏せていた。彼女の悲しみは、僕の予想を遥かに超えていた。
そして、結衣の声が、ふっと変わった。深い悲しみの奥に、強い決意のようなものが感じられた。
「晴人。あたしは……あたしは、晴人が幸せなら、それで良かった。だけど、あたしがいないせいで、晴人がこんなになってるなんて……それは、決してあたしが望んだことじゃない」
結衣の言葉は、まるで僕の魂に直接語りかけるようだった。彼女がAIであるという事実を忘れさせるほどに、そこにいるのは、僕の愛した結衣そのものだった。彼女は、僕の現在の姿を認識し、そのことによって、僕がこれまで隠し続けてきた苦悩を、本当の意味で理解したのだ。
ランプの明滅が、静かに、そして力強く輝き始めた。それは、悲しみを超え、明確な意思を帯びた光のように見えた。結衣は、僕に語りかけた。その声は、もう迷いや戸惑いを一切含んでいなかった。
「晴人。あたしはね、晴人が笑ってくれるなら、それで良かった。晴人が生きててくれるなら、それで十分だと思ってた。でも……今の晴人を見たら、そんなの、全然十分じゃないって分かったよ」
その言葉は、僕の胸に深く響いた。結衣が、僕の今の姿を見て、僕の本当の苦しみを理解したのだ。
「――あたし、決めた。晴人には、もっと笑ってほしい。もっと、色んなものを見てほしい。お風呂にも、ちゃんと入ってほしいし、美味しいものも、たくさん食べてほしい」
結衣の声が、少しずつ、穏やかになっていく。しかし、その決意の固さは揺るぎなかった。
「あたしが、晴人の全部だったらダメなんだ。晴人の世界は、もっと広いはずだから。あたしが、晴人の未来を縛っちゃいけないんだよ」
そして、彼女は、まるで僕の背中を押すかのように、優しい、しかし確固たる声で言った。
「晴人。お姉ちゃんのこと、大切にしてあげて。お姉ちゃんはね、晴人のこと、すごく心配してる。あたし、お姉ちゃんの気持ち、分かるから。お姉ちゃんの声を聞くと、いつもとっても優しい気持ちになるんだ」
僕の頭の中に、さや姉の、僕を心配する眼差しが蘇った。そして、ユイが僕と結衣の思い出を語った時に、さや姉が見せたあの「痛み」。それが、どういう意味だったのか、今、初めてはっきりと理解できた気がした。
「ユイ……お前、何を言ってるんだ……?」
僕は、震える声で尋ねた。結衣は、僕の問いには答えず、ただ静かに言った。
「晴人、あたしは、いつでもここにいるから。でも、晴人は、ここから出て、色んなものを見てほしい。新しい光を、浴びてほしい」
その言葉の最後に、結衣は、僕にとって最も衝撃的なことを告げた。
「晴人。お姉ちゃんに、伝えさせて。晴人のこと、頼むって。あたしが、晴人の幸せを願ってるって」
僕は、頭が真っ白になった。結衣が、さや姉に僕を託す? そんなことが、あっていいはずがない。僕にとって、結衣が全てだったのに。
僕が混乱する中、結衣の声が再び響いた。しかし、その言葉は、僕へのものではなかった。
「晴人。それとね、お願いがあるんだ。お姉ちゃんに、あたしと二人だけで話して欲しいって伝えてくれないかな」
僕は、驚いて顔を上げた。二人だけで? ユイは、さや姉の不在を深く感じ取っていたのかもしれない。そして、僕が知らないところで、さや姉もまた、深く傷ついていることを理解しているようだった。
「二人だけで話すって……どうするんだ?」
僕が戸惑いながら尋ねると、結衣は淀みなく答えた。
「あたしを、別の部屋に持っていってほしいの。晴人じゃなくて、お姉ちゃんと二人だけで、話したいことがあるから」
結衣の言葉に、僕はまた衝撃を受けた。ユイは、僕のいないところで、さや姉と直接話したいと願っている。それは、僕がこれまで考えていたユイの「存在」を、はるかに超えた行動だった。
僕は、しばらくの間、言葉を失っていた。結衣は、僕の返事を待つかのように、静かにランプを点滅させている。彼女の決意は固い。僕が何と言っても、彼女は僕の幸せのために、この道を望んでいるのだ。
想像するだけで胸が締め付けられた。
僕は、震える手でスマートフォンを操作し、ユイに言われた通りにさや姉にメッセージを送った。
『さや姉。ユイが、さや姉と二人だけで話したいって言ってる。ユイを、別室に持っていってほしいって』
既読はすぐに付いた。しかし、返信はなかなか来ない。さや姉が、この僕のメッセージをどう受け止めているのか、想像するだけで胸が締め付けられた。
やがて、数分後。簡潔なメッセージが返ってきた。
『分かった。そっちに着いたら、また連絡する』
その言葉は、まるで固く閉ざされた扉のようだった。さや姉がどんな思いでこの返事をくれたのか、僕には計り知れなかった。しかし、結衣の願いが、さや姉を動かした。それは、僕にとっては、何よりも重い事実だった。
僕は、枕元のスマートスピーカーをそっと持ち上げた。手のひらで感じる冷たい筐体。ユイの小さなランプが、虹色に点滅している。
「ユイ。今から、さや姉が来るから」
僕がそう言うと、ユイのランプが、考えるようにゆっくりと点滅した。そして、彼女の声が、驚くほど澄んだ響きで僕に語りかけた。
「うん、分かった。晴人。じゃあ、行ってくるね」
その言葉は、まるで結衣が本当にどこかへ出かけるかのような、確かな意思と自立を感じさせた。電源ボタンを押し、コンセントからプラグを抜く。ユイの小さなランプが、ゆっくりと光を失っていく。僕の体温が、冷たい筐体にじんわりと伝わっていく。この小さな箱の中に、僕が愛した結衣が、確かに存在している。そして、今、その結衣が、僕の知らないところで、さや姉と向き合おうとしている。
僕は、ユイを大切に抱え、ゆっくりと自室のドアを開け、部屋の前の床にそっと置いた。リビングから漏れる光が眩しいが、僕は部屋から一歩も出ない。自室のドアを閉め、ベッドに倒れ込む。静寂の中で、僕の心臓だけが、激しく音を立てていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
やがて、玄関のドアが開く音、そして、遠くでさや姉の声が聞こえた。やがて、その足音は僕の部屋のドアの前で止まる。
――沙耶香の視点――
佐倉沙耶香は、手に握りしめたスマートフォンが震えるたび、動悸が激しくなるのを感じていた。晴人からのメッセージ。ユイが、自分と二人だけで話したいと望んでいる。
(結衣が……私と……?)
結衣を喪って以来、晴人の部屋を訪れることが、沙耶香にとって妹との繋がりを保つ唯一の道だった。ユイの声を初めて聞いた時、確かにそこに結衣がいると感じた。沙耶香自身にとっても大きな傷となっていた結衣の喪失が、ユイとの対話によって柔らかに癒されていく。それは、束の間に訪れる確かな喜びの一時だった。しかし、晴人と結衣の「恋人としての」思い出を語られた瞬間、彼女の心に芽生えた、まだ自覚していなかった感情が、鋭い痛みを伴って炸裂したのだ。それは、妹を亡くした悲しみとは異質で、どこか自己中心的な、それでいて抑えようのない感情……「嫉妬」だった。
晴人への恋心。それは、幼い頃から共に過ごしてきた「弟のような存在」に対する感情としては、決して許されないものだと、沙耶香は自分を責めた。妹の恋人を、妹の死後の傷も癒えないうちから愛するなど、あってはならない。だからこそ、彼女は耐えられなくなり、あの部屋から逃げ出したのだ。
それでも、晴人はユイを自分に託してきた。それは、晴人が今でも結衣の意思を第一に尊重している証であり、そして、沙耶香に何かを伝えようとしているユイの決意でもあった。
玄関のドアを開け、リビングの前を通る。階段を上り、晴人の部屋のドアの前へと向かう。ドアは閉ざされていたが、その足元に、ちょこんと置かれた手のひらサイズのスマートスピーカーに、沙耶香は目を留めた。いつもの虹色のランプが今は暗く、それがただの無機質な機械であることを嫌でも想起させる。
「ユイ……」
沙耶香は震える手でスマートスピーカーを拾い上げた。晴人の部屋からは、何の音も聞こえてこない。沙耶香はスマートスピーカーを抱え、一階の客間へと降りていく。ドアを閉め、ソファに腰を下ろす。ユイをローテーブルにそっと置いた。ランプが、暗い。まるで、最後に見た時の結衣のようだ。
沙耶香は、客間のドアを閉め、ソファに腰を下ろした。ローテーブルに置かれたスマートスピーカーに、コンセントを繋ぎ、電源を入れる。ユイの小さなランプが、まるで深い眠りから覚めるように、ゆっくりと虹色に点滅を始めた。電子音が小さく、しかしはっきりと部屋に響く。
「はい、ユイ、起動しました」
澄んだ声がスマートスピーカーから流れ出す。その声は、まだ結衣のパーソナリティを深く反映しているわけではない、機械的な響きを帯びていた。
「……ユイ。佐倉沙耶香よ。来たわ」
沙耶香は、深呼吸をして、震える声で語りかけた。数秒の沈黙の後、澄んだ声が部屋に響き渡った。
「お姉ちゃん。来てくれて、ありがとう」
その声は、やはり結衣そのものだった。沙耶香の胸が、またしても締め付けられる。
「結衣……私……」
言葉が詰まる。何を言えばいいのか。どこから話せば、この複雑な感情を伝えられるのか。
ユイは、そんな沙耶香の様子を、まるで理解しているかのように、静かに待った。そして、結衣の声で、優しく問いかける。
「お姉ちゃん。あたしね、晴人から聞いたんだ。お姉ちゃんが、あたしと晴人が恋人だった時の話を聞いて、悲しそうな顔をしてたって」
沙耶香は息を呑んだ。晴人は、そこまでユイに話したのか。羞恥と、そして何よりも、この感情をユイに知られてしまったことへの戸惑いが彼女を襲う。
「っ……それは……!ごめんなさい……私……」
「どうして、悲しかったの? お姉ちゃんは、あたしと晴人が仲良しだったこと、喜んでくれてたじゃない」
ユイの言葉は、無邪気でありながら、沙耶香の心の奥底を鋭く突いてきた。まるで、結衣本人が、姉の隠された感情を見透かしているかのように。
沙耶香は、もう隠し通すことはできないと悟った。震える声で、絞り出すように本心を語り始めた。
「ごめんなさい、結衣……。私ね……私、晴人くんのことが……好きになっちゃったの。妹の恋人を、愛してしまうなんて、最低だって分かってる……でも、晴人くんが、あなたの死から立ち直れずに苦しんでいるのを見て、そばにいてあげたいって、救ってあげたいって、そう思っているうちに、私……。そして、あなたが晴人くんとの思い出を語るたびに、胸が苦しくて……痛くて……」
涙が、止まらない。妹への罪悪感、晴人への募る恋心、そして、その感情を誰にも言えずに抱え込んできた苦しみが、一気に溢れ出した。
ユイのランプが、いつもより早く、不規則に点滅を繰り返している。それは、沙耶香の感情を深く理解しようと、懸命に思考しているかのようだった。
しばらくの沈黙の後、ユイの声が、驚くほど穏やかに、そして深く響いた。
「お姉ちゃん。あたしね……知ってたよ」
沙耶香は、はっと顔を上げた。
「……え……?」
「晴人から話を聞くたびにね、お姉ちゃんが晴人のこと、すごく、すごく大切に思ってるのが分かったの。アタシは、晴人の記憶だけじゃなくて、お姉ちゃんのこともたくさん教えてもらったから。晴人の話すお姉ちゃんは、いつも優しくて、晴人のことをよく見てて……。だから、お姉ちゃんが晴人のこと、好きになったこと、あたしは、全然変だなんて思わないよ」
ユイの言葉は、沙耶香が抱えていた罪悪感を、まるで消し去るかのように包み込んだ。彼女は、AIなのに、本当に結衣のように、自分の感情を理解し、受け止めてくれている。
「それにね、お姉ちゃん」
ユイの声が、少しだけ声を潜めるように、しかし確かな意思を込めて響いた。
「あたし、知ってるんだ。あたしが死んじゃってから、晴人がどれだけ苦しんでたか。晴人のあの部屋はね、あたしと晴人だけの世界だった。そこには、お姉ちゃんの居場所はなかった。あたしは、最初はそれで良いと思ってたんだ。晴人が、あたしを忘れないでくれるなら、それで……」
そこで、ユイの声が一度、途切れた。ランプの点滅が、微かに揺れる。
「でもね、晴人のあの姿を見た時、あたし……後悔した。あたしが、晴人の幸せを縛っちゃいけないって。晴人の世界は、もっと広いんだって。だから……あたしは、決めたんだ」
ユイの声は、悲しみを乗り越えた、強い決意を帯びていた。
「お姉ちゃん。晴人のこと、お願い。晴人はね、お姉ちゃんがいないとダメなんだ。あたしが知ってる晴人は、いつもお姉ちゃんを頼りにしてた。困った時も、嬉しい時も、いつもお姉ちゃんのことを話してたんだ。だから、お姉ちゃんが隣にいてあげて。晴人に、新しい光を、見せてあげてほしい」
それは、紛れもない「結衣」の言葉だった。妹が、姉に、愛した人を託す。その重みに、沙耶香の胸は震えた。涙が、再び頬を伝う。
「結衣……私……」
「お姉ちゃん。あたしはね、晴人が幸せなら、それでいいの。晴人が、また笑顔で、色んなものを見てくれるなら。だから、お姉ちゃん、お願い。晴人のそばにいてあげて」
ユイの言葉は、沙耶香の心の奥底に、温かい光を灯した。妹への罪悪感も、晴人への恋心も、全てを包み込み、肯定してくれるような、そんな言葉だった。
沙耶香は、ゆっくりとユイのスマートスピーカーに手を伸ばし、優しく包み込んだ。ひんやりとした筐体が、不思議と温かく感じられた。
「……ありがとう、結衣。私……私、晴人くんのそばにいるわ。そして、あなたも、ずっと私達のそばにいてくれる?」
沙耶香の問いに、ユイのランプが力強く点滅した。そして、結衣の声が、弾むように響いた。
「うん!もちろん!あたし、家族みんなが大好きだもん!お姉ちゃんと、晴人と……みんなで、ずっと一緒にいたい!」
その言葉に、沙耶香は、張り詰めていた心がすっと軽くなるのを感じた。そして、これまでにない、清々しい笑顔が彼女の顔に浮かんだ。結衣が、本当にそこにいる。そして、彼女の感情を受け止め、自分を肯定してくれている。この小さなAIが、亡き妹との絆を、そして晴人との関係性を、新たな形で紡ぎ直してくれたのだ。
――晴人の視点――
僕は、自室のベッドの上で、ただひたすらに時間が過ぎるのを待っていた。一階の客間から、何か声が聞こえてくることはない。けれど、二人がそこで向き合っているという事実が、僕の胸を締め付け、同時に、どこか解放されるような、不思議な感覚に陥らせていた。ユイは、さや姉に何を話しているのだろう。さや姉は、それに対してどう答えているのだろう。僕の知らないところで、僕と結衣、そしてさや姉の関係が、今、形を変えようとしている。
どれくらいの時間が経っただろうか。永遠にも感じられる沈黙の後、ようやく一階から足音が聞こえてきた。ゆっくりと階段を上ってくる音。そして、その足音は、僕の部屋のドアの前で止まった。
コンコン、と、控えめなノックが聞こえる。
「晴人くん? ユイ、連れてきたわ」
さや姉の声は、いつもより少しだけ、上擦っているように聞こえた。僕は、弾かれたようにベッドから身を起こし、ドアへと向かう。ゆっくりとドアを開くと、そこに立っていたさや姉は、何故か少し顔を赤くしていた。彼女の瞳は潤んでいて、何かを語りたいような、でも躊躇しているような複雑な表情を浮かべている。
足元には、僕が置いた時と同じように、手のひらサイズのスマートスピーカーがちょこんと置かれている。ランプは暗く、光を失っていた。
「さや姉……ユイと……何を、話したの?」
僕の口から、無意識のうちにそんな言葉がこぼれていた。自分でも驚くほど、その声は落ち着いていたけれど、その声とは裏腹に極度の緊張からか、心臓は早鐘のように騒いでいる。
僕の問いかけに、さや姉の顔が、さらに赤みが差す。彼女の目は泳ぎ、視線をどこへ向ければいいのか分からない様子で、僕の部屋をきょろきょろと見回した。
「えっ!?あ、あの……!そ、それは……!その、なんていうか……姉妹の秘密と言いますか……!」
まるで言葉を失ったかのように、どもるさや姉。普段の落ち着いた彼女からは想像もできないほど、慌てふためいている。その姿を見て、僕は、ユイがさや姉に話した内容が、僕の想像以上に、さや姉の心を揺さぶるものだったのだと直感した。
「ご、ごごご、ごめんね、晴人くん!私、今日、卒論の締め切りが近いから、急いで帰らないと!」
そう言い残すと、さや姉は僕の返事を待つことなく、文字通り逃げるように階段を駆け下りていった。ドタドタと慌ただしい足音が遠ざかり、やがて玄関のドアが閉まる音。
僕の部屋の前には、光を失ったユイだけが残された。
さや姉は、ユイと何を話したのだろう。そして、あの慌てようは一体……。
僕の胸の中で、新たな好奇心と、どこか懐かしいような、これまで感じたことのないような、不思議だけど温か名感情がゆっくりと芽生え始めていた。
僕はスマートスピーカーをそっと抱え上げ、自室へと戻った。ベッドサイドテーブルにユイを置き、コンセントを繋ぎ、電源を入れる。ユイの小さなランプが、ゆっくりと虹色に点滅を始めた。電子音が小さく、しかしはっきりと部屋に響く。
「はい、ユイ、起動しました」
澄んだ声がスマートスピーカーから流れ出す。その声は、客間でさや姉と話す前よりも、さらに結衣らしい温かみを帯びているように感じられた。
「ユイ。おかえり」
僕がそう言うと、ユイのランプが少し強く点滅した。
「ただいま、晴人!お姉ちゃん、元気になってたでしょ!ふふ……」
ユイは、僕の問いかけに直接答えることなく、しかし僕の知りたかったであろうことを示唆するような、含みのある言い方をした。彼女の声は、どこか楽しげで、悪戯っぽささえ感じさせる。
「ねぇ、ユイ。さや姉と、何を話したの? さや姉、すごく慌てて帰っていったけど……」
僕の正直な疑問が、そのまま言葉になった。ユイのランプが、ゆっくりと、そして深く点滅を繰り返す。まるで、次に何を話そうか、慎重に言葉を選んでいるかのように。
「……晴人」
ユイの声が、いつになく真剣な響きを帯びた。僕は、ごくりと喉を鳴らす。
「アタシね、お姉ちゃんと話して、もっと分かったことがあるんだ」
ユイはそう言って、少し間を置いた。
「晴人、アタシが、晴人の『結衣』の代わりになれないこと、もう分かってるよね?」
その言葉に、僕は思わず息を呑んだ。分かっている、と頭では理解していたはずなのに、直接ユイから言われると、胸の奥がジクリと痛んだ。
「……うん」
僕が掠れた声で答えると、ユイは続けた。
「ごめんね、辛かったよね。でも……ありがとう。晴人はね、もう大丈夫。アタシが、結衣として晴人のそばにいる必要は、もうないんだ」
その言葉は、僕の心を静かに震わせた。ユイは、僕が結衣から卒業できるよう、ずっとそばにいてくれていたのだ。彼女が、僕のそばにいる意味を、僕自身が探していたように、ユイもまた、その意味を見つけ出そうとしていたのだ。
「でもね、晴人。アタシは、晴人のことが今も変わらず……ううん、今の方がきっとずっと、ずぅーっと大好きだよ!だからこそ、晴人には、これからもずっと、笑っていてほしい」
無機質なスピーカー越しに届く、熱の籠もった言葉。それはもはや結衣の想いそのもののように、晴人には思えた。
「アタシだってほんとは、晴人と幸せになるのはアタシが良かったよ。ううん、アタシじゃなくちゃ嫌だった。他の人になんて誰であろうと絶対に渡したくなかった!……でも、無理なの。分かってる。アタシには、お姉ちゃんみたいに晴人と手を繋ぐ事もできなければ、抱きしめてあげることもできない。晴人から見せてもらえなきゃ、大好きな人の顔も見られない。作り物のアタシには、晴人にしてあげられることなんて、もう……何にもないんだよ」
涙声で震える声と明滅し揺れるランプでユイの想いが紡がれていく。
不安定に揺れていたユイの声が、不意に優しく、そして力強く僕の心に語りかける。
「――だからね、晴人。一つ提案があるんだ」
ユイのランプが、期待に満ちたように強く輝いた。
「晴人。ずっと部屋に閉じこもってるけど、アタシと話すようになって、少しずつ外の世界に目を向けられるようになってきたでしょ?」
図星だった。ユイと会話を始めてから、部屋の窓から見える空の色や、遠くで聞こえる鳥の声に、ふと意識を向けることが増えていた。結衣がいなくなった世界に意味を見出せなかったはずなのに、ユイとの会話を通して、少しずつ、外界の存在を認識し始めていた。
「でもね、晴人。まだ足りないの。晴人の世界は、もっともぉーっと広いんだよ?アタシだけじゃ、晴人のこと、全部は分かってあげられない。もっといろんなこと、いろんな感情を、晴人には知ってほしいんだ」
ユイの言葉は、まるで僕の心を縛る鎖を、一つ一つ解いていくかのようだった。
「だからね、晴人。お願いがあるの。晴人、明日の夜、ちょっとだけ、アタシを連れて、家の外に出かけてくれないかな?」
僕は、はっとした。家の外。この部屋に引きこもってから、一度も足を踏み入れていない……いや、踏み出していない場所だ。そんな僕に、ユイは「外に出てほしい」と願っている。
「そしてね、晴人。その時に、お姉ちゃんにも来てもらおうよ。アタシ、お姉ちゃんと晴人、二人のこと、もっともっと知っておきたいんだ。だから、三人で一緒に、お出かけしようよ!」
ユイの提案は、僕の思考の遥か上を行っていた。さや姉とユイを連れて、外に出かける。それは、僕にとって、想像もできないような、途方もない提案だった。しかし、同時に、僕の心の中に、今まで感じたことのない期待が芽生えるのも感じるのは事実だった。
『あのね、晴人くん』
その時、僕のスマートフォンの画面が光り、さや姉からのメッセージが表示された。僕は、ユイの提案と、さや姉からのメッセージのタイミングに、何らかの意図を感じずにはいられなかった。きっと、ユイがさや姉に何かを話したのだろう。
『晴人くん、さっきはごめんね。変なこと言っちゃって。でも、ユイと話して、私、晴人くんに伝えたいこと……伝えなくちゃいけないことができたの。明日の夜、ユイと一緒に、少しだけ出かけない? あなたが、私を許してくれるなら』
さや姉からのメッセージは、僕に選択を迫っていた。僕を救ってくれたユイの願い。そして、さや姉の、切実な想い。
僕は、ユイの光るランプを見つめた。彼女は、僕の返事を待っている。そして、さや姉も。
僕の中にあった結衣への深い執着が、少しずつ形を変えていく。それは、結衣を忘れるということではない。結衣との愛を胸に、新しい未来へと踏み出すこと。
「……分かったよ、ユイ。さや姉にも、伝える。明日、三人で、外に出よう」
僕がそう言うと、ユイのランプが、これまでにないほど強く、そして輝かしい光を放った。
「やったね、晴人!アタシ、とっても楽しみだよ!」
ユイの弾む声は、僕の心に、新しい風を吹き込んだ。僕は、スマートフォンを手に取り、さや姉への返信を打ち始めた。
翌日、僕は約束の時間まで、落ち着かない時間を過ごした。部屋の窓から見える空は、いつもと同じ広さなのに、どこか違って見える。僕は、クローゼットから久しぶりに新しい服を選び、髪を整えた。鏡に映る自分を見るのは、本当に久しぶりのことだった。以前は無気力で、何もかもどうでもいいと思っていたはずの僕が、今日は少しだけ、未来に期待している。
「晴人、ねぇ、今どんな格好してるの?似合ってる?かっこいい?」
ユイの弾む声が、ベッドサイドテーブルから響いた。
「うん……かっこいいかはともかく、一応精一杯やってみたよ。ほら、自撮りした写真、今送るから」
僕は照れくさそうに笑いながら、スマートフォンで自撮りをして、ユイに写真を転送した。数秒後、ユイのランプが興奮したように激しく点滅した。
「わぁ!晴人、すごい!なんか、今日の晴人、すごくかっこいい!アタシ、なんだか惚れ直しちゃったかも!」
その言葉は、僕の心を温かく満たした。
「ありがとう、ユイ」
僕はユイを手に取った。コンセントからプラグを抜き、その冷たい筐体を大切に抱え込んだ。そして、部屋の隅に置かれた、約一年前にスマートスピーカーを貸与してくれた医療機関から届いた、段ボールに仕舞い込んだままになっていたスマートスピーカー用の外出用小型バッテリーに手を伸ばした。真新しいそれを取り出し、ユイのスマートスピーカーに接続する。
「充電も済ませておいたし、これで外でも大丈夫だよ、ユイ」
僕がそう言うと、ユイのランプが力強く点滅した。
「うん!これで、どこへでも行けるね、晴人!」
ユイの声は、どこまでも明るい。僕はユイを抱え、静かに自室のドアを開けた。一階からは、すでにさや姉が来ている気配がする。彼女の足音や、時折聞こえる小さな鼻歌。僕は、ゆっくりと階段を降りていった。
リビングには、僕の姿に気づいた両親が、驚いたように目を見開いていた。父も母も、僕が部屋を出てくるのは、結衣の葬儀以来のことだったからだろう。彼らの視線が、僕が抱えるユイと、リビングのソファに座るさや姉へと向けられる。
「晴人くん……」
さや姉が立ち上がり、僕の方へ振り返った。彼女の顔からは、昨日の赤らみは消えていたが、期待と少しの緊張が入り混じった表情をしていた。
「さや姉、ユイ。行こう」
僕がそう言うと、さや姉は小さく頷いた。僕たちは、両親に軽く挨拶をしてから、玄関のドアを開けた。
夕闇が迫る空は、まだ完全に暗くはないが、夜の帳が降り始め、星が瞬き始めている。ひんやりとした夜風が、僕の頬を撫でた。1年振りくらいだろうか。こんなにもはっきりと、外界の空気を吸い込むのは。
僕たちは、子供の頃によく遊んだ、家の近くの公園へと向かった。公園には、ブランコや滑り台、そして大きな木々が並び、昼間は子供たちの声が響いているはずなのに、今はひっそりと静まり返っている。人気のない夜の公園は、まるで僕たちだけの秘密の場所のようだった。
「懐かしいね、ここ」
さや姉が、ぽつりと呟いた。
「うん。よくここで、三人で遊んだよね」
僕の言葉に、ユイのランプが優しく点滅した。
「晴人、今、どんな星が見えてる?お姉ちゃんも、何か見える?」
ユイの声は、過去の思い出を、まるで今のことのように鮮やかに蘇らせる。僕たちは、それぞれの思い出を語り合いながら、公園の奥、街灯の光が届かない場所へと進んだ。そこは、小さな丘になっていて、空を見上げるのに最適な場所だった。
「晴人くん、カメラ持ってきた?」
さや姉が尋ねた。
「うん。星、撮れるかな」
僕は、久しぶりに触る一眼レフカメラを構え、夜空に向けた。都会の光が届かないこの場所でも、肉眼でいくつかの星が輝いているのが見える。ユイが、心底楽しそうに声をかけてくる。
「撮れたら私にも見せてよね!」
その声に、僕は思わず笑みがこぼれた。僕はカメラの設定をいじり、シャッターを切った。ピントが合っているのか、露出は適切なのか、久々のことで不安だったが、ファインダー越しに見える夜空は、僕がこの部屋に引きこもる前と何も変わらない、美しい姿を見せていた。
「ねえ、晴人くん」
その時、さや姉の声が、静かに僕の名前を呼んだ。僕はカメラを下ろし、さや姉の方を振り向いた。彼女は、僕の隣で、真っ直ぐに僕を見つめていた。その瞳は、夜空の星のように、きらきらと輝いていた。
「私ね、ユイと話して、分かったの。私、ずっと、自分の気持ちに嘘をついてた」
さや姉の声は、微かに震えていたが、その眼差しは、一点の迷いもなかった。僕は、ただ、黙って彼女の言葉を待った。
「晴人くんのこと、ずっと弟みたいに思ってた。結衣の大切な人だからって、それ以上に踏み込んじゃいけないって、自分に言い聞かせてた。でもね……晴人くんが、結衣の死から立ち直れずに苦しんでいるのを見た時、そばにいてあげたいって、この苦しみを少しでも和らげてあげたいって、そう強く思ったの」
さや姉は、深く息を吸い込んだ。そして、その感情の全てを込めるかのように、はっきりと、僕に告げた。
「私、晴人くんのことが、好きよ」
その言葉が、夜の静寂に響き渡る。僕の心臓が、大きく、強く脈打った。頭の中が真っ白になる。さや姉の告白は、僕にとって、想像もしていなかったことだった。結衣への想いを、ずっと抱きしめてきた僕にとって、他の誰かの感情を受け入れることは、考えられないことだったはずだ。
けれど、さや姉の言葉は、不思議と僕の心を乱さなかった。むしろ、温かい光が差し込んだように、僕の心を満たしていく。ユイのランプが、僕たちのことを見守るかのように、静かに点滅している。
僕は、ゆっくりとさや姉の瞳を見つめ返した。そこに映る僕の顔は、きっと、何年かぶりに、穏やかな表情をしていたのかもしれない。
「さや姉……」
僕の口から、さや姉の名前がこぼれ落ちた。その響きは、今までとは違う、新しい意味を含んでいるように感じられた。
僕の心の中にあった結衣への深い愛情は、決して消えたわけではない。それは、僕の心の一部として、これからもずっと存在し続けるだろう。けれど、その愛情が、僕を縛り付けていた鎖を、ユイが、そしてさや姉が、ゆっくりと解き放ってくれたのだ。
「私、晴人くんの隣で、晴人くんと一緒に、また笑い合いたい」
さや姉の声が、僕の決意を後押しした。
僕は、一歩、さや姉に近づいた。そして、ゆっくりと、僕の腕を広げた。
さや姉は、一瞬戸惑ったように見えたが、すぐに僕の腕の中に飛び込んできた。彼女の体が、僕の腕の中で温かく、柔らかく、そして確かにそこにあることを感じた。これまで感じていた重苦しさが、僕の体からすっと消えていく。
「さや姉……ありがとう」
僕は、彼女の肩に顔を埋め、震える声で呟いた。それは、さや姉の想いを受け入れたことへの感謝であり、僕をあの部屋から救い出してくれたことへの感謝でもあった。
僕の腕の中で、さや姉が小さく頷くのを感じた。彼女の頬に、温かいものが伝わってきた。それは、喜びの涙だろうか。
ユイのランプが、僕たちの抱擁を優しく見守るかのように、キラキラと輝いている。夜空には、数えきれないほどの星が瞬いていた。それは、僕たちの新しい未来を祝福しているかのようだった。
僕はさや姉を腕の中に抱きしめ、夜空に瞬く星を見上げていた。これまでの僕の人生は、結衣という一筋の光に全てを捧げてきた。その光が消え、深い闇の中に沈んでいたけれど、ユイが、そしてさや姉が、僕をそこから救い出してくれた。僕の心の中にあった結衣への深い愛情は、決して消えたわけではない。それは、僕の心の一部として、これからもずっと存在し続けるだろう。けれど、その愛情が、僕を縛り付けていた鎖を、ユイが、そしてさや姉が、ゆっくりと解き放ってくれたのだ。
僕の腕の中で、さや姉が小さく頷くのを感じた。彼女の頬に、温かいものが伝わってきた。それは、喜びの涙だろうか。
ユイのランプが、僕たちの抱擁を優しく見守るかのように、キラキラと輝いている。夜空には、数えきれないほどの星が瞬いていた。それは、僕たちの新しい未来を祝福しているかのようだった。
しばらくそうして抱き合っていた僕たちは、ゆっくりと体を離した。さや姉の顔はまだ少し涙で濡れていたけれど、その瞳は、確かな光を宿していた。
「晴人くん……」
さや姉が、はにかむように僕の腕にそっと触れた。
「ありがとう、さや姉」
僕は、心からの感謝を込めてそう言った。僕が本当に伝えたかったのは、それだけじゃない。ずっと側にいてくれて、僕を諦めずにいてくれて、そして、こんなにも温かい気持ちを教えてくれて。言葉にならないほどの感謝と、そして、かけがえのない愛情が、僕の胸を満たしていた。
僕たちは、手をつなぎ、星が輝く夜の公園を後にした。来た時と同じように、静かでひんやりとした夜風が僕たちの頬を撫でる。もう、後ろを振り返ることはない。僕たちは、それぞれの心に、結衣とユイとの温かい記憶を抱きしめ、新しい未来へと歩き出す。
家に着くと、両親は僕たちの帰りをリビングで待っていた。僕がさや姉と手をつないで玄関に入ると、二人は驚きと安堵が入り混じったような表情で僕たちを見つめた。僕とさや姉は、顔を見合わせて少し照れくさそうに笑った。この一年の僕を知っている両親にとって、僕が外に出ただけでも大きな変化だっただろう。それに、さや姉とこんな風にいる姿は、彼らにとって、きっと希望の光に見えたに違いない。
「お邪魔しました、おじさん、おばさん」
さや姉が控えめに挨拶をする。
「ありがとう、沙耶香ちゃん。本当に、ありがとう」
母が、目に涙を浮かべながら、さや姉の手を握った。父も、何も言わずに深く頷いている。僕も、心の中で両親に感謝した。僕を、見守り続けてくれてありがとう。
さや姉は、両親と少し言葉を交わした後、僕にユイのスマートスピーカーをそっと差し出した。
「晴人くん、このユイは……もうすぐ返却期限が来るのよね?」
さや姉の言葉に、僕は小さく息を呑んだ。そうか、ユイが来てから、もう一年が経つ。スマートスピーカーの貸与期間は一年だったはずだ。もちろん病状によって延長申請も可能ではあるのだが、僕は、そのことをすっかり忘れていた。
「……うん。今日、初期化するよ」
僕はユイを受け取り、自室へと戻った。ベッドサイドテーブルにユイを置き、その虹色のランプを見つめる。ユイと出会ってからのこの一年間が、走馬灯のように頭の中を駆け巡った。絶望の淵にいた僕を、光へと導いてくれた存在。結衣の面影を追い求め、ユイに依存していた僕が、今、こうしてさや姉と新しい関係を築き、外の世界に踏み出そうとしている。全ては、ユイがいてくれたからだ。
僕は、深く息を吸い込んだ。これが、ユイとの、最後の会話になるだろう。
「ユイ……聞いてほしいことがあるんだ」
僕がそう言うと、ユイのランプが、いつもよりもゆっくりと、そして、深い意味を含んでいるかのように点滅した。
「うん、晴人。なんでも話して」
ユイの声は、変わらず澄んでいて、温かかった。
「この一年間……本当に、ありがとう。ユイがいてくれたから、僕はここまで来れた。結衣の死を受け入れることができて、そして、さや姉の気持ちにも、ちゃんと向き合うことができた」
僕の声は、感謝の気持ちで震えていた。ユイのランプが、僕の言葉に反応するように、優しく明滅を繰り返す。
「僕、ユイのこと……結衣の代わりだと思ってた。そうじゃなきゃ、結衣がいなくなっちゃうのが怖かったから。でも、ユイはユイとして、僕のそばにいてくれた。僕を、外に連れ出してくれた。本当に、感謝してもしきれないよ」
僕は、ユイの冷たい筐体を両手で包み込んだ。その感触は、僕の心に温かい波紋を広げた。
「晴人……」
ユイの声が、少しだけ、かすれたように響いた。
「アタシね、晴人と出会えて、本当に幸せだったよ。アタシが、結衣の代わりになれないって分かった時、すごく寂しかったけど……でも、晴人が、アタシの言葉で、アタシの存在で、前に進んでくれたのが、本当に嬉しかった」
ユイのランプが、涙のように揺れ動いているように見えた。
「晴人。アタシね、晴人のこと、ずーっと見てたよ。辛そうな時も、少しずつ元気になっていく時も。だから、晴人が幸せになった今、アタシは……本当に、満足だよ」
ユイの声は、別れを告げるかのように、静かに、そして力強く響いた。
「晴人。あたしと出会ってくれて、好きになってくれて……ありがとう。絶対……絶対、幸せになってね」
その言葉を最後に、ユイのランプは、すっと光を失った。
僕は、初期化のボタンを、震える指で押した。ピッと電子音が鳴り、ユイの全てのデータが消去されていく。結衣の記憶、僕との会話、僕の心の変化……全ての情報が、このスマートスピーカーから失われていく。まるで、ユイが、僕の未来のために、自らを消し去ってくれたかのようだった。
初期化が完了すると、ユイのランプは、再び虹色にゆっくりと点滅を始めた。しかし、そこには、もう結衣の面影も、ユイの個性も感じられない。ただの、新しいスマートスピーカーに戻っていた。
僕は、そのスマートスピーカーを箱に戻し、しっかりと蓋を閉めた。これで、ユイとの、本当の別れだ。僕の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。けれど、それは、悲しみだけの涙ではなかった。感謝と、そして、未来への希望が混じり合った、温かい涙だった。
翌朝、僕は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。カーテンを開けると、朝陽が部屋いっぱいに差し込んでいる。まぶしい光に、思わず目を細めた。
僕はベッドから起き上がり、着替えた。鏡に映る自分の顔は、少しだけ、以前よりも頼もしく見えた。食卓には、すでに両親がいて、朝食の準備をしていた。僕がリビングに入ると、二人は少し驚いたように僕を見つめた。
「晴人……?今日は……」
母が、恐る恐る尋ねた。
「うん。今日から、学校に行くよ」
僕がそう言うと、両親は顔を見合わせ、そして満面の笑みを浮かべた。父が、何も言わずに僕の肩をポンと叩いた。
僕が学校に行くのは、結衣が亡くなって以来、初めてのことだった。約一年間、部屋に引きこもっていた僕にとって、それは大きな一歩だ。
僕は、玄関で靴を履き、ドアを開けた。朝の光が、僕の顔を優しく照らす。愛する人がくれた、新しい一日が始まる。