#7「それでも、生きたいとねがうから。」
「……寒いな」
夜更けに風が強くなった。傷だらけの生肌を冷たい空気に晒しながら、ニアは呟いた。
どのくらい逃げただろうか。町から遠く離れた草原で、風の音と月の光だけが、彼に寄り添っていた。
『たいへん、夜になっちゃうよ!』
懐かしい声が、心の中でこだました。
『夜になったら、森の中から悪いけものがやってくるよ! 早くおうちに帰らなきゃ!』
ああそうだ、夜には危険な獣がのさばる。だから人はみんな、家に帰って眠る。アーニャに昔、教わったことがあった。
絵本の中の子供達になりきって、いつか彼女がそう読み聞かせてくれた。本の題名は何だったか。名前がごちゃごちゃになって忘れてしまうほど、たくさんの物語を彼女に聞かせて貰った。
「ごめん。アーニャはあんなに、俺のために頑張ってくれたのに」
彼女が溢れるほどの慈愛を注いでいた相手は、生きていてはいけない人間だった。大人たちが自分を傷つけてきたのも、それが正しいからだったのだろう。
それなら。
「もう、ここで消えてしまおう」
きっと、それが良いんだ。ニアは心からそう思っていた。
ああ、なのにどうして──涙が溢れて止まらない。腹の奥と胸の奥が痛んで、吐きそうだ。
「みーっけ。ここに居たか」
鬱陶しい──と、一瞬ニアは思ってしまった。一人にさせてくれ、と。
「風邪ひくぞ、ほら」
だけど、駆けつけたジャックがコートを羽織らせてくれた瞬間。胸の内からふっと身が温まった気がして、そんなマイナスの感情は溶けて消えてしまった。
「……これは、おれのじゃない」
「おう、アレより厚手の上着をくすねてきた。あんなに好き勝手言われたんだ、こんくらい仕返ししてもバチは当たんねえよ」
ジャックは笑いながら、立ち尽くすニアの隣に座り込んだ。
「なあ、教えてくれよ。お前が何者なのか。今何を考えてんのか。お前、ホントは悪人なんかじゃねえんだろ?」
「…………分からない、おれにも。でも、おれはきっと、悪い奴なんだ」
「んだよそれ。分からねえなら、そうとは言い切れねえだろうが」
「分かるよ。おれはみんなに嫌われていた。みんなの役に立てなかった。おれは、あそこにいちゃいけなかったんだ」
「だぁクソ! "いちゃいけない"って何だよ!」
痺れを切らしたように、ジャックは立ち上がる。
「わっ……」
おっ、死んだ表情筋がちょっとは動きやがった──自分からニアに掴みかかって脅かしておいて、ジャックは呑気にそんなことを思った。
「……俺はお前が、何をしたいのかを聞きてえんだよ! 何かして良いとか良くないとか、そんなつまんねえことじゃねえ! お前自身の気持ちだ!」
「おれの、気持ち……?」
ニア自身にも、それは分からない。
アーニャに教わったことこそが素晴らしくて、物語の主人公のように行動することこそが正しい。
そうして生きてきたから、そこに自己主張は無かった。アーニャと物語に心を依存させて生きてきたニアに、本当の意味での自我など無かった。
「分からない……何も分からないんだ!!」
「ああそうだろうな!」
怒号のようでも悲鳴のようでもある、ニアの空っぽな叫び。それに、ジャックは魂を込めた声で応えた。
「お前は変人で世間知らずで、その上口を開けばアーニャって女ばっか!! アーニャに依存しねえと生きていけねえ、脳無しの馬鹿野郎だ!!」
「ああそうだよ! おれは……」
「でもな!! そんなお前だって、胸の奥の奥には抱えてるはずだろ、何かを!!」
「ッ!?」
「吐き出せよ、それをッ!!」
「……無理だッ!!」
無抵抗だったニアが、ようやく動いた。ジャックの手をほどいて、逆に彼を突き飛ばした。だけどそれは反撃というよりも、拒絶、あるいは逃避と形容するべきものだった。
「本当の気持ちを言ったら、きっと、ジャックもおれを……」
「……拒絶するってか」
倒れたジャックが、呟きながら立ち上がった。
手を広げながら、ニアに数歩近づいた。
「……ッ」
知っている。あれは、殴ろうとしている。反撃すれば勝てるのに、それが出来ないニアは、ただ怯えたように目を瞑った。
「……え?」
だけど、暴力は襲って来なかった。
身を包んだのは、抱擁──ニアが今まで知らなかった、父親のような抱擁。心に安らぎを与えるコミュニケーションだった。
「馬鹿野郎。んなことでお前を嫌ったりするかよ。お前は変な奴だし、手間のかかる奴だが……ダチになりてえって、思わせてくれる奴だからな」
「じゃっ、く…………?」
体を離し、瞳を震わせるニアを見てクスッと笑いながら、ジャックは首元のネクタイを整えた。
「俺はな、生きる上で二つのモットーを掲げてる! 『偏見でものを語らない』! そして『真実を聞き出し、真実を語る』! なんたって俺は、真実を解き明かすジャーナリストなんでな!」
だから──ジャックは、そう言葉を続けた。
「お前の本当の思いを、自分自身に問いかけろ。絶対に、お前自身の気持ちが胸の底にある。本当の心だけは、誰にも奪えねえんだよ」
「おれ、は…………おれは……」
そう言って微笑むジャックに応えたくて、ニアは必死に言葉を探した。
まだ感情なんて、自分自身の思いなんてはっきりと分からない。
だけど、さっきの自分の叫びが。自分の涙が、それなのだとしたら。今この胸で煮えたぎる何かが、それなのだとしたら。アーニャの言葉とも物語の言葉とも違う何かが、自分の中にあるのだとしたら。
それを吐き出すことを、彼が許してくれるというのなら。
「……嫌だ!! 全部嫌だった!! 痛いのも、閉じ込められるのも全部!! おれは、何も悪いことなんてしてないのに……!!」
いやだ、と最初に言った。皮切りに、言葉が次々に溢れてきた。ずっと堪えてきた──いや、吐き出す術を知らなかった言葉達。吐き出して良いとすら、知らなかった言葉達。
それをひたすらに泣き叫んだ。辛くて泣いているはずなのに、何故か心が軽くなっていくような気がして、不思議だった。
「おれは……どうして、おれだけがこうなんだ!! 何でおれだけ、普通に生きられないんだ!! 教えろ、ジャック!!」
「ああそうかい! 理由なんか知らねえよ、バーカ!!」
「なっ……!?」
意地悪く言いながら、ジャックはニアを突き飛ばした。
「……ジャック」
だけど、なんだかそれが嬉しかった。今なら分かる。今のは、自分を貶すために言ったわけじゃないと。言葉の裏に、何か真意があると。
「理由なんか誰も知らねえ。ワケもねえのに、お前は大変な思いをしてきたワケだ。どうだ、ムカつくだろ?」
「……ああ! 絶対許せない!」
「ハハッ、やっと言いやがったな! そうだろ。だったらよ」
ククッ、と、ジャックは上機嫌に笑い続けた。そして満月の下、少年に手を差し伸べて。
「だったら全部壊しちまえ。お前を縛るもの、苦しめるもの、全部ぶっ壊せ。そして、本当のお前の願いを叶えに行くぞ。世界に目にもん見せてやれよ」
「おれの、本当の願い……」
まだ、はっきりとは分からないけれど。自分の心を一番突き動かしてくれるものなら、はっきりと分かる。
「……おれは、アーニャに会いに行きたい」
「はいはい。結局それなんだな」
「ちゃんと考えた! 自分の心で、ちゃんと考えて……でも、本当にこれなんだ! おれは、いつだってアーニャが大好きだ! だから、ジャックにだってこの夢は笑わせない! 心は誰にも奪えないんだろ!?」
何度も息継ぎを繰り返して、必死になって、ヤケクソになって紡ぐ言葉。だけど、だからこそ、それが本当の思いなのだと、ジャックにも分かった。
「誰が笑うかよ……じゃ、よろしくな。相棒」
頷いて、涙を拭いて、そっとその手を握った。
「……うん」
傷だらけのニアの手は、月に照らされて不思議と美しく見えた。