#3「知らないかげに、追われながらも。」
岸を離れて、草原を歩き、森を抜ける。そうすれば、夕方には最寄りの町に着ける算段だった。
だったのだが。
「うぐっ」
「お前、またかよ……」
「すまない。坂を歩くのは難しいんだな。新しい発見だ」
もう何十回目か分からない。つまずく石も無い道で繰り返し転倒し、そのくせ怪我は全くしない。そして。
「あっ……見てくれ、ジャック! これはてんとう虫ってヤツだよな!? 初めて見たぞ!」
「うっせえな、いちいち」
何かを見るたびにこの反応。空にも鳥にも木の実にも、その辺の草にすら感動して、『初めて見た』だなどと言う。呑気にそうしているせいで、全く予定したペースを守れていないのだ。
ジャーナリストのジャック。正直、同行したのを後悔する気持ちが3割ほど湧いてきている。
「ったく……ペース上げんぞ。遅れたらもう置いてくからな」
「そ、それは困る……そうだ!」
ニアはすたすたと駆け寄ると、ジャックの手袋をした手に自分のか細い指を重ねた。
「手を繋いで引いてくれ、ジャック。それなら足を止めずに済む」
「お前……もう14だろ……」
「?」
呆れながらも、まあいいか、とジャックは歩き出した。草をかき分けるふたつの足音と、春風の吹く音を聞きながら進む。
「あっ」
ジャックが肩にかけたかばんを見て、ふと声を漏らしたのはニアだった。
「ジャックのかばん、本がたくさん入ってるんだな。ジャックも物語が好きなのか?」
「これか? 物語の本じゃねえよ。自分が書いたノートと取材の資料だ。新聞書いてる身なんでな」
「新聞、知ってる! みんなに色んな出来事を知らせる紙だ! 見て良いか?」
「ダメ。見てたら絶対転ぶだろうが」
「むむう……」
ニアは不満げな声を漏らしたが、それ以上は何も言わなかった。実際さっき転んだので反論のしようがないのだろう。
「本、好きなんだな」
「ああ。おれが前いた場所では、それしか出来ることがなかったから、たくさん読んでたんだ」
(マジでギャングに軟禁されてたのか……?)
しかし、なるほど。やけに丁寧な口調は、本の主人公の真似なんだろう──ジャックの中で、謎だったニアの正体がほんの少し、掴めた気がした。
「ん? ジャック、あれは何だ?」
「またかよ……へいへい、今度は何だ」
何度目かも分からない呼びかけにやれやれと応えて、ジャックはニアが指差した方に目を向けた。
案の定、その先にいたのはただの動物。黒い毛の丸々とした、小さめのマンモスのような動物が、のそのそと遠くを歩いているだけだった。
「……おい。ありゃ何だよ」
だが、今度はジャックも目を見開いた。
黒い毛、で済ませて良い生き物ではない。漆黒──というより、暗黒そのもの。色素を吸収されたかのように、周りの草木まで色褪せて見えてしまう。
暗黒の獣はゆったりと歩みを進める。その歩みはやがて軌道を曲げていき、こちらに向いた。
『シネ』
「ッ!?」
ジャックは、腰に携えた拳銃を素早く構えた。そうしないと、何か身を守る術が無いと殺される。そんな気がした。
動物は言葉を発さない。故に、今聞いた言葉はジャックの幻聴でしかないはずだ。それなのにその言霊は、人間が実行する勇気も無いのに言い放つそれとは全く違った。喉元が掻っ切られたように錯覚する、そんな本気の殺意。
「こっちに来る。道を開けた方が良いんだろうか」
「……お前、ビビらねえのかよ」
「? ちゃんと注意はしてる。でも、怖くはないな」
「そうかよ。大したもんだ」
駄弁りながらも、獣から目は離さない。
「……なっ!?」
目を離さなかったのに、反応が遅れた。
獣はこちらを向く──まあ、目が体毛に隠れて見えないが──と、突如凄まじいスピードで駆け寄ってきたのだ。丸々とした体型からはとても考えられない、チーターのようなスプリント。その予測不能ぶりが、ジャックの判断を鈍らせた。
だが、敗北につながるほどの隙は晒さない。世界中を飛び回って、それなりに命の危機も何度も迎えてきた。
「くたばれッ!!」
それらを経て学んだこと──結局、こういう科学的暴力がこの世で一番強いということ。
木の持ち手と金属の銃身で構成されたリボルバーから、四発の銀の弾が放たれた。
肉を切り裂いて貫く音と共に、獣の頭から黒い血が勢いよく溢れ出した。その足は急速に止まり、あらゆる能力と生命活動を奪われた肉塊は、どすりとその場に崩れ落ちた。
「ジャック、大丈夫か?」
「っぶねー……ん?」
気のせいか、と思った。
というより、気のせいであって欲しかった。
「なあ、ジャック。生き物って死んだ後も動くのか?」
不思議がって数歩近寄ったニアが、ジャックに尋ねた。
「んなわけねえだろ!」
ただ、実際に目の前で動いている。頭を何度も撃ち抜かれたはずの肉塊が。
「何でまた立ってんだよ、ボケがッ!!」
混乱しながらも、ジャックはすぐに残り二発の弾丸を再び放った。
命中。驚異的な射撃力も虚しく、その攻撃も時間稼ぎにしかならなかった。また死体になって、そしてまたすぐ蘇る。熱心な宗教家が見たら泡を吹いて倒れそうな、命の冒涜じみた光景は、ジャック達にとっても脅威そのものだった。
「────!!」
やかましい叫びにも、静寂にも聞こえる不気味な鳴き声と共に、獣は再び突進してきた。
「ニア!!」
だがその殺意の矛先は、攻撃を仕掛けたジャックではなく。
「くっ……!?」
何故か、ニアに向けられている。
「ぐああっ!?」
直撃だ。避ける間もなく、ニアの腹目がけて獣の巨体のの突進が。質量による暴力が、ねじ込まれた。
即死しなかったのは奇跡か、それとも彼がタフなのか。確かな事実は、ニアがその直撃を受け、大きく後ろへ吹き飛ばされたことだ。
「ニア! クソッ、どうする……!?」
すでに獣は、ニアに二度目の突進をかけるべく体制を整えつつある。
銃は効かない。かといって、肉弾戦でも勝ち目は薄い。あのスピードで追ってくるのなら、逃走も難しい。絶望的な状況の中、それでもジャックは思考を回し続けた。
一方のニアは、くらくらした頭の片隅で、ある物語を思い出していた。
『ウサカメ競走』。アーニャが読み聞かせてくれた本の一つだ。カメがウサギと勝ち目のない競走をするが、カメを大きく引き離したウサギは勝利を確信し、つい居眠りしてしまう。その隙にカメが勤勉に少しずつ追いつき、追い越して勝ってしまう話。
この状況は、ちょっと似ていないか──ニアは思っていた。奴がウサギで、自分がカメ。
こちらは転倒し、相手は次の攻撃を仕掛けてくる所。あの獣は思っていることだろう。ニアは手負いで、自分が圧倒的に有利だ、と。
ただ一つ誤算がある。
「実は、ピンピンしてるぞ。おれは」
「!!」
危険を感じたのか、獣は一瞬身を震わせた。だが猛スピードで駆け出してしまった以上、すぐには停止できない。
対峙するニアは、素早く上半身を起こした。最短で。最速で。右の拳を構えて、前に突き放つ。
「はあああああっ!!」
刹那、ジャックは見逃さなかった。
彼の右手に、邪悪とも言える黒い炎が宿っていたのを。
その拳が、敵の獣の暗黒すら凌駕する、呪いじみた何かを纏っていたのを。
永遠のようでも一瞬のようでもある、そんな命のやり取りの後。
「……やりすぎた、すまない。でも、先に襲ってきたのはそっちだぞ」
立っていたのは、ニアだった。