#26「憎しみをもう、終わらせたいから。」
「……ダメ、だ」
「?」
カルナは目を見開いた。
口付けを、ニアが拒んだのだ。全身焼き尽くされて、もう動けるはずもない彼が。
「おれ、は、戻る。アーニャ、の、そばに。まだ、戦って、る、はずだ」
「へえ……じゃあ、続けようか」
「がっ」
呆れたようなカルナの声。そして、火柱は再びニアを裁いた。
「これから仲間になるから、言わないでおこうと思ってたんだけど……あなたも本当は憎いよ。私達みんな、自分の望みなんて叶えられなかったのに……あなたは叶えた。外の世界へ行けた。見たいものを見られた。祝い子ちゃんにもまた会えた。羨ましいよ。羨ましくて……憎い」
炎が高く燃え上がり、闇の世界で煌めく。それでも、その暗い瞳に火が灯ることはない。
「でも、許してあげるって言ってるの。ね、一緒になろう? そうしたら、その痛みからも解放される。楽しいことが待ってるの。だから──」
「だ、め、だ…………そこ、に、あ、にゃ、は、い、ない」
「まだ言うのかッ!!」
カルナの怒号に呼応するように、獄炎は激しく火の粉を舞い踊らせた。
「戻ったところで、あなたじゃリーンカースには勝てない!! 苦しんで死ぬよりも、ここで力と憎しみに身を任せて復讐した方が、ずっと気持ちいいの!! なんでそんな単純なことが、分からないのよ!!」
「…………分かっていないのは、あなたの方だッ!!」
「!?」
世界中の怨嗟すらも食い尽くす勢いだった巨大な炎は、ニアの叫びと共に一瞬で消え去った。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「どう、して……無理よ!! あそこまでされたら、普通は心が折れてリーンカースに吸収される……抗えるわけないのに……私は、抗えなかったのに……」
処刑台から解き放たれたように着地すると、ニアは声を荒げながらも、カルナとまっすぐ向き合った。
「痛くて怖かった。何度も死にたくなったし、死にそうになった。だけど、走馬灯にアーニャの笑顔が浮かんできて仕方ないんだ。それじゃ、死んでも死に切れない」
胸に手を当てながら、ニアはそう言った。それは彼女からの呪縛か、それとも祈祷か。確かなのは、どの道それは心地良いものだということだ。
「もう一度言うけれど……簡単なことを分かっていないのは、あなたの方だ」
皮膚もこぼれ落ちるような、ぼろぼろの右手。
だけどそれは確かに、ニア自身の意志で、カルナを指差した。
「人を憎んだって……その先には、何も生まれないじゃないか」
「ッ…………黙れェ!!」
その怒号自体は、怖くなかった。だけど、カルナのそばに立つ幼い少女が怯えたのを見て、ニアは少しだけ悲しくなった。
「それはお前の理屈だ!! 人生に選択肢があった、お前だから言えることだ!! 私達は死ぬ以外、道が無かった!! だから好きで憎んでるわけじゃない!! 他に何も……何も出来ないの!! そうさせたのは、この世界でしょ!?」
泣きながら暴れる子供のように、カルナは拳の暴力をニアに振るった。ニアにはもう、抵抗する気力は無かった。頬への衝撃とともに倒れ込み、カルナに掴みかかられてまた立ち上がる。
「じゃあ何!? 憎むことすら許してくれないの!? そういう運命だから黙って消えろって、そう言いたいの!?」
「…………そうだ」
罵声のようにぶつけられた問いかけに、ニアはただ、そう答えた。
「おれは……何もしてやれない。あなた達を、救ってあげられない。こうして、頼むことしかできないんだ……世界を許してくれ。憎まないでくれ」
「ぐっ……!!」
再び、拳が叩き込まれた。今度はニアが倒れてからも、何度も、何度も。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなッ……!!」
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
「……すまない……」
「ふざ、けるなぁ……!!」
その拳を数えることすら出来なくなった頃、カルナの手が止まった。
「ふざけないで……一生懸命、謝ったりしないで……そんなことされたらもう……憎むことすら、出来なくなるじゃない……!!」
そう言って、カルナは泣き崩れた。ニアの体の激痛は引いていた。感覚が麻痺してしまったのか、それとも。
「そっか……そうだよね。私達の命は、無価値だってはじめから決まってた。それを認めたくなくて、私達、世界を恨んじゃった。生まれてきた意味も無いくせにね」
「カルナ、それは──」
「違うッ!!」
ニアの声を遮ったその声は、精神世界の内側で響いた声ではない。
「…………ケセラ?」
深き闇の遥か向こう。外の世界と、この世界が繋がった。
ほぼ同刻、外の世界では。
「っ……はぁ……はぁ……」
未だ軽傷のリーンカース。一方で、膝をつく者。出血でもう動けない者。気を失いかけている者。
「なかなか愉快であった。私の足を一本切り落としたこと、それだけは褒めてやろう」
いくら奮い立とうと、途方もない力の差は埋まらない。再び、戦局は絶望へと向かっていた。
「"廻帰"……」
ふらつきながらも、アーニャは全員に治癒の力を与えた。本来なら異能の力に回数制限は無く、"廻帰"を使い続ければ、いつまでも戦闘を継続できる。
だが現状はジリ貧だった。いくら治癒しようと、それは穴の開いた器に水を注ぐようなものだ。どうしても、水がこぼれていく速度のほうが早い。無限回治癒できることと、全ての傷を完治できることは同義ではない。
「いい加減、くたばるが良い」
「お嬢さんッ!!」
リーンカースの足がアーニャを襲う瞬間、そんな声と突き飛ばされたような衝撃が、彼女に届いた。
「ぐあああああっ……ぐっ」
ジャックの体は大木のような足に薙ぎ払われ、血を吐き出しながら砂を転がった。
激痛が訴えかけてくる。自分の理性が叫んでいる。馬鹿馬鹿しいと。たかが一人の子供のために、何をしているのだと。
「ジャックさん、ダメ!! もう立たないで……!!」
「…………うる、せえ」
そんなことは分かっている──自分の感情が、そう答えている。ただ、奴が定めた未来が気に入らないのだと。ただ、あの少年とずっと、友でありたいのだと。
「ええい、弱くてしぶとい輩が一番煩わしいのだ! 死ねェ!!」
ああ、来る。避けきれない。受け止める? 馬鹿かよ。これで終わる──ジャックは目を閉じた。
「うおおおおおおおおおお!!」
終わらない。鉄の剣が、とどめの一撃を防いだ。
「ケセラ!? なんで、そこまで……」
「お前と同じだ。大切な者のために……負けるわけには、いかない……」
凛として言いながらも、呼吸は荒い。ダメージは完治できていない。
「無駄だ。鉄屑を振るうしか能のない貴様に、何が出来る」
「あるさ……出来ることなら!」
ケセラは自らの左胸に、右手を当てた。
彼は考えていた。祝い子の異能の本質とは、何なのか。
そして、アーニャの姿を見て気がついた。異能は祝い子の心からの願いに呼応して、真の力を呼び覚ますのだと。
救いたいと願うアーニャだから、治癒と加護の力を手に入れたのだ。ならば、彼の願いは。
「はあああああああああああああッ!!」
自分の力で、打ち破り、守り抜くこと。なんてことはない、初めからずっとそうだった。
「がはっ、くっ……」
心臓を裂かれるような激痛を感じて。血反吐を吐いて。
「うああああああああああ!!」
それでも、彼女の笑顔は今も、脳裏に鮮明に浮かぶから。
もう一人の祝い子は、その胸の剣を引き抜いた。
「あいつ……心臓から、剣……?」
愛が燃え盛るように、真っ赤に煌めく聖剣。アーニャの白い光とも、ニアの黒いオーラとも違う色の輝き。他ならぬ彼の、魂のうつし身。
今、真の力が覚醒した。
「ほう……クク。そうか、"錬成"か。貴様の真の力は」
「ケセラ!!」
尋常ではないその状況に、アーニャは思わずその名を叫んだ。
「あなたまさか、命を──」
「食らえ、リーンカース……これがお前の知らない力だ……!」
「小賢しいッ!!」
ケセラが駆け出すと同時に、リーンカースは残る三本の足を一斉にケセラに向けた。鞭のようにしなって、首を跳ね飛ばそうと迫る。
「邪魔だああああッ!!」
「な……何、だと……!?」
無力なのは、リーンカースの方であった。容易く切り裂かれた三本の足が、空中に飛び上がって一瞬で燃え尽きる。
その隙を逃さず、ケセラは渾身の力で跳躍した。
「嘲笑以外の感情を持たないお前には、永遠に理解できない力……これが、人の願いだあああああああッ!!!」
曇天を裂くように燃え上がる、願いの炎。
それはリーンカースの胸元に届き、赤い刃がその身に突き立てられたのだった。