#23「それをおれは、拭おうとした。」
「殺してやるッ!!」
「ふっ……ふはははは!! そうか、私を殺すか!! 神に愛されただけの人如きが!!」
「人並みの心すら持ってない奴が、何を……!!」
アーニャは一歩、前へ歩み出た。拳が震える。白から黒へ──自分の胸中の愛が、反転して憎悪に変わっていくのを感じる。
だけど。
「…………ダメだ。アーニャ」
振り向いた先で、アーニャの腕を掴んでいたのは。
彼女の漆黒に光を差したのは、奇しくも暗黒の化身として生まれた少年だった。
「怒りのまま、暴れたりしちゃダメだ。おれみたいに、取り返しのつかないことになってしまう」
呼吸を荒げるアーニャを見て、ニアはつい微笑んでしまった。自分のために、彼女はここまで──と。
「多分、アイツは強い。おれは多分、アイツに心を操られてた。そのくらい、何でもできてしまうんだろう。アーニャでも勝てないと思う」
「でも、ここで倒さなきゃ……!」
「分かってる。アーニャじゃ、勝てないけれど」
ニアは彼女より更に前へと躍り出た。そのやさしい影に、彼女を隠すように。
正直、ニアの中で整理はついていない。忌み子であった自分が、本当は人間ですらなかった。なら自分は何なのか──迷い、問わずにいられない。
「"おれたち"なら、勝てる」
それでも、その愛だけは真実だと確信していた。
「おい、戦う前に聞かせてくれ。お前は何のために復活したんだ? ただ、生きたいだけなのか?」
「ただ生きるだけ……? クク、なぜ私がそんな謙虚な生き方をせねばならない」
リーンカースは、はるか上空から一つ目で3人を見下ろす。
「支配だよ!! 貴様に恐怖を与え、災いを与え、奪い、殺す!! 人間どもは何もできない!! そういう絶対的な支配、それ以上の快楽などこの世にあるものか……どうだ、分かるか息子よ!!」
「ああ。よく分かったよ」
ニアはうんうんと頷くと、右の拳を強く握りしめた。
「お前は、やっつけて良い奴なんだって」
臨戦。荒波が立ち、雷が黒い空に轟く。
「おい、ニア」
その寸前、引き止める呼び声があった。
「勝てんのか?」
「分からない……多分、これが最後の戦いで、最大の戦いになると思う。だから、ジャックは安全なところまで下がってくれ」
「そうか…………すまねえ。俺は結局無力だ。いい歳こいた大人のくせして、お前らを守ってやる力すら無え」
愛故に立ち上がるものもいれば、愛故に無力を悟り悔やむものもいる。
「そんなことはない。あなたがいないと、おれはここまで来られなかった。全部、あなたのおかげだ」
それでも、どちらも同じ愛だから。
「ありがとう、兄さん。見ていてくれ」
ただ笑顔で、それだけを告げた。
「……けっ。粋なこと言うようになりやがって」
「あなたに似たんだろ?」
男からすれば、予想より随分と長く苦しい道のりになったけれど。
そこで得た思わぬ拾い物は、一生の宝物になると確信できるものだった。
「……意外だ。ちゃんと待ってくれたんだな」
親友の後退を見送ると、ニアは再びリーンカースと向かい合った。
「美しい友情だったからな……そういう固い絆こそ、壊し嘲笑うに値するというものよ」
「なら残念だったな。おれ達の絆は、お前なんかじゃ断ち切れない」
数十メートルはあるであろう巨体に臆すことなく、ニアはそう言い放った。
「アーニャ」
「うん、もう大丈夫だよ」
ニアの拳に、黒いオーラが集まる。そこへ、アーニャの慈愛のこもった手のひらが重なった。
「全部終わったら、何しよっか」
「そうだな……あっ、お祭りに行きたい! ジャックと行って、すごく楽しかったんだ」
「お祭りかぁ……北の街でもうすぐ、大きいのが始まるはずだよ。一緒に行けたら良いね」
緊張をほぐしたかったのかもしれないし、ただお喋りがしたかったのかもしれない。お互いの胸中は、お互い完全には分からない。
「……ああ。いつか、一緒に」
だけど、見ている未来だけは一緒だと、二人は信じているから。
「…………"付加"!!」
「はあああああああああッ!!」
この先の未来に手が届くと、信じているから。
ニアは駆け出した。
(きっと、力では負けている……最初の一撃を先に撃って、防御なんかさせない。それに全部賭けるんだ……!!)
そのためには、物理的な実体のある拳では駄目だ。アーニャに強化されたこの黒いオーラを、何らかの形で具現化させて放つ。
真っ先に思いついたのは、物語の主人公がみんな手に握っていた、あれだった。
「……剣よッ!!」
「小賢しいッ!!」
リーンカースの両足がニアに迫る。ぬめっていて、硬く尖っていて、切り裂く刃物のようで、貫く槍のよう。歪でグロテスクなその攻撃に、しかしニアは怯まない。負ける気がしなかった。
「食らえ……"希望ノ呪剣"ッ!!!」
「なっ……馬鹿な、馬鹿なぁ……!?」
超常的なオーラの塊。にも関わらず、その圧倒的な質量。煌めく光が、悪しき怪物の心臓を穿つべく輝く。ケセラ戦での一撃など比ではない、世界を救う一撃。
ニアが作り出した黒い剣が、リーンカースの両足に今、届く。その闇を今、少年の願いが切り裂く。
「行けーーーッ!! ニアーーーッ!!!」
「よせ息子よ!! やめっ、やめろおおおおおおおっ!!」
「うおおおおおおおおおッ!!!」
両者が今、ぶつかった。
「…………え?」
そして、剣は枝のように容易く折れた。
「ぶっ!?」
「ニア!!」
「がはっ……」
直後、圧倒的な質量がニアを襲った。わけもわからず吹き飛ばされた彼は、砂に叩きつけられると同時に血反吐を吐いた。
頭がふらつく。身体中の肉と骨が痛い。
「馬鹿な……本ッッッ当に、馬鹿なガキどもよ!! あの程度の力で私を討てると、よもや本気で思ったわけではあるまいな!! だからやめろと言ったではないか、クハハハハッ!!」
そんな中でリーンカースの言葉を聞き、ニアは思ってしまった。
無理だ。勝ち負けじゃない、戦おうとするのが間違いだ。次元が違う。
「ニア! くっ……"廻帰"!!」
アーニャは駆け寄ると、絶望を掻き消すように、大袈裟な詠唱をした。どこを怪我したか分からないから、ヒールを出鱈目に、体全体にかける。本来、その手法は急激に彼女を疲弊させるが、そんなことはどうでも良かった。
「く、そ……」
「ダメ!! このままじゃ勝てないよ!!」
アーニャも今この瞬間、ニアと同じ結論に至っていた。
それを知りながら尚、ニアは制止を振り払って立ち上がり、前へ進んだ。絶対に勝てない、逃げないと殺される。そう分かっているからこそ、逃げるわけにはいかなかった。
「ッ……うあああああああああッ!!」
なけなしのオーラ全てを拳に込めて、ニアは駆け出した。せめて時間を稼いで、二人だけでも──。
「がはっ」
「……あ……あああああ……!!」
そんな願いすら、運命は聞き入れなかった。
動きが緩慢になっていたニアの左胸を、リーンカースの真っ黒な右前脚が貫いた。
「ニア!! 嘘だろ、おいっ!!」
「いや……嫌ああああああああああ!!!」
「ハーッハッハッハ!! その声が聞きたかった!! さあて」
絶望する二人をよそに、リーンカースはニヤつくように目を細め、動かなくなった我が子を凝視した。
「今までご苦労だった、息子よ。我が深き闇の中で、永遠に眠るが良い」
水面から海へ飛び込んで、深く潜っていくように。
「ア、ニャ……ジャ……、ご、め」
リーンカースの巨体の中へ、ニアは溶けて消えた。