#21「つみあげたものが、壊れる音がした。」
小さな手を伸ばして、指で湯気の立つ水面に触れた。熱くて驚いたが、別段触っていられない温度ではない。それを知ると、少年は一糸纏わぬその身を小さな船に投じた。
「っ…………はあぁ〜〜〜」
ニア、生まれて初めての入浴である。
「ピリピリする……でも、気持ちが良い。なんだか、寝てしまいそうだ」
言っている間にもぼーっとしてきて、ニアは首を横に傾けた。石の壁に取り付けられた鏡の中の自分と、目が合った。確かさっき、ジャックが驚いていたか。こんな風に自宅に浴室があることは滅多になくて、それは相当な金持ちの証なのだと。
「こら。寝ちゃったら危ないからね」
「あっ、アーニャ」
木の二重扉の向こうから聞こえた声に、ニアは一言だけ反応した。
「困ったこととか無い? 大丈夫?」
「平気だ。ちゃんと体も頭も洗えたぞ」
「……そうじゃなくて」
扉のそばに座り込んで、アーニャはいたわるような声でそう呟く。
「さっきの、怖かったでしょ? ごめんね」
アーニャには分かっている。ああやって敵意を向けられ、傷つけられることは、十数年間ずっとそうされてきたニアにとって、相当なトラウマだ。
「ううん……別に怖くはない。でもムカついた。殴りたくなった」
だから彼女にとって、その返答は少し意外だった。
「でも、我慢した。アーニャは優しい人だから、きっと怒りんぼな奴は嫌いだろうと思って」
「そんなことないよ。私はどんなニアも好き」
彼女はよく思うのだ。ニアは自分を神聖視し過ぎだと。自分だって、祝い子といっても完璧超人ではない。同じように、自分も人に対して完璧であることなど求めない。
「怒りたいことは怒っても良いし、苛々する時があっても良いの。人間ならそれが当たり前だから、我慢しないでね」
それじゃ──その言葉とともに、扉の向こうの足音がフェードアウトしていく。
「……やっぱり、大好きだ」
沈黙が訪れたのを認めると、ニアは一息ついてそう呟いた。
浴槽を出て、体を拭いて、服を着直す。そうしている間もずっと、心臓がジンジンとしていた。だけどそれは、痛みでも悲しみでもない。ただ、嬉しさと感動で心が満たされている。何より尊い痛みだ。
まだ、全ての問題が解決したわけではない。それでも今、自分はアーニャと触れ合える。言葉を交わせる。いくつもの困難を乗り越えて、今ようやく、こういう当たり前に幸福な時間を手に入れている。
「早く。早く!」
ああ、こうして廊下を走る時間すら勿体無い。速く彼女にまた会いたい。ただその一心で、ニアは屋敷の煌びやかな廊下を駆けた。
もう少し。あの角を曲がれば、きっと彼女が──
「ニアッ!! 駄目!!」
「……?」
その刹那、そんな声が聞こえてきた。
そして、音が聞こえた。何かが割れる甲高い音。
ふと右を見ると、花びらのように飛び散ったのはガラスで。
「ぐっ!?」
直後、失神するような衝撃がニアの頭を襲った。外から飛び込んできた何者かに、頭を掴まれる感覚と共に。
「よし、囲え! 押さえ込め!」
「はっ!!」
二つだけ分かる。
「……っ、どけッ!!」
「ぐおっ!?」「なっ……!?」
襲われた。そして、こいつらは敵だ。なら、ふらつく頭にも出血の痛みにもあ構っていられない。ニアは低い姿勢から回し蹴りを放って、周囲を取り囲む鉄の槍を蹴り払った。
「お前達は……!?」
そこでようやく、彼らの容姿を視認した。そして驚愕した。
衛兵。本来、この村を守るべき男達だ。
「いや……アーニャ!」
だが、迷う時間も考える暇も無い。怯む衛兵達を押しのけると、ニアは廊下を駆け抜けて、飛び込むように正面をドアを押し開けた。
一瞬で開かれた、壁の向こうの景色。
「アーニャ!!」
「ニア……!」
それは、信じられない光景であった。
「お前……何やってるんだ、サウ!」
「よしてくれ、呪い子如きが名を呼ぶな。呪いが伝染ってしまう」
嘲けながらそう言うサウは──祝い子の守り手の筆頭であるはずの彼は、その手の槍をアーニャの顔に向けていた。
「サウ……どうしてですか」
「あなた様のお父上の意向ですが……同時に私自身の判断でもあります。祝い子が呪い子を助けるなど間違っている、伝承に反している……と」
「パパが……? 何を言って……とにかくやめて!」
「では抵抗すればどうです? いくらあなたでも、私には敵わんでしょうが」
「ふざけないで! 私は民を救う祝い子……民と戦う気などありません!」
「サウ!! アーニャを巻き込むな!! おれが気に入らないなら、おれと一対一で戦えば良いだろ!!」
「黙れ!! 貴様のせいだ……貴様のせいで、祝い子様は狂ってしまわれた!! 貴様に幻惑されたせいで!!」
「違います、サウ! 話を聞いて! ニアはあなたの思うような人じゃない! ケセラに襲われた時だって、ニアがいないと私は死んでたの!」
向けられた刃物に怯む様子もなく、アーニャは強くそう言い放った。
「アーニャ、危な──がっ!?」
「おやおや、いけないな。力は強いが視野が狭いと見える」
サウがそう嘲笑った時にはもう、ニアは後ろから迫って来た衛兵3人によって、地面に伏せられていた。硬く縛り付けられたかのように、跪いたまま動けない。
「もうすぐです、祝い子様。すぐにあの呪い子を処刑し、あなたを洗脳の術より解放いたします。それが、衛兵筆頭たる私の使命」
「何を言ってるの! 逃げて、ニア!」
「くそっ……」
吹き飛ばすでも何でも良い。周囲の彼らを力で押しのけなければ。
「……おい、お前やれよ」
「いや、でもさ……」
拳を握ろうとした刹那、彼らのそんな会話が耳に入った。
顔は見えないけれど、その声色は、躊躇するように微かに震えていた。
「あなた、達は……」
彼らも一枚岩ではない。こうして、呪い子の風習に疑念を感じ、躊躇いながらも、上に立つ者の命令に逆らえずにいる者もいるのだ。
それを今、初めて知って。
「……ふざけるな」
責任と罪から逃げるその姿に、ニアのはらわたが煮え繰り返った。
「何をしておるか!! ええい、どけっ!! 処刑せねばならんのだ、そ奴は!!」
「きゃっ……」
かたやアーニャを乱暴に蹴り倒すと、サウは銀の槍を輝かせながらニアへと歩き始めた。その目に光は無い。信念もない。あるのは、偏見と盲信の眼差し。
「どいてくれ!」
「ぐあっ……」
ニアは両腕に黒いオーラを纏わせ、常識外の腕力で衛兵達を吹き飛ばした。
「もう遅い!」
「ぐっ……がつ!?」
だが回避よりも、足を狙うサウの槍の方が速かった。途端に迫り来る、鋭く深い痛み。とても立ってなどいられない。
「死ねえ!!」
槍が迫ってくる。なのに痛覚とダメージが邪魔をして、思考も逃走もままならない。ああ駄目だ、こうしている間にも僅かな時間が無くなっていく、来る──
「……!!」
「大丈夫。守るって、約束したもの」
ニアの脳天を貫こうと、神の雷のようにまっすぐ突き立てられた一撃。
「……バカ、な」
「ああ……アーニャ!!」
その槍の一撃は、ニアの目前に現れたアーニャの腹を貫いていた。
「大丈夫。大丈夫……だから、ね……」
その瞼が閉じる。華奢な体がこちらへ倒れてくる。美しいドレスが赤に染まる。彼女には似合わない、悲しい色に。
それが、最後のキッカケになった。
「…………うああああああああああッ!!!」
「なっ……何だ!? がはっ!?」
「があああっ!!!」
邪魔をしやがって。どいつもこいつも。おれたちは何もしていない。ただ、愛し合っただけだ。それを邪魔したのはお前達だ。
もう、分かった。それならおれも、お前達の生を邪魔してやる。壊してやる。
「やめ、やめ……ぎゃあああああああ!!!」
ああ、これは気持ちがいい。人の腕って、こんなに簡単に千切れるのか。
「こ……殺せ!! 奴は化け物だ、殺せェ!!」
その言葉の意味は、もはや分からない。彼らが攻撃してくる理由も分からない、
だからただ、ニアは暴力を振るった。自らを覆い尽くす怒りと憎しみに任せて。それは、世界そのものへ向けたドス黒い憎悪だ。
そうして、数分も持たずに衛兵達は倒れた。鎧のおかげで全員命までは取られていないものの、それでも戦闘不能なのは確か。ここからは戦いではなく、処理だ。
「教えてやる。おれが14年間、どんな気持ちだったか」
微かに声が聞こえてくる。なんだか懐かしい、聞き慣れた気のする女の声。だけど知ったことではない。ニアは一番憎い衛兵筆頭の男を殺すべく、真っ黒に染まった拳を彼に向けて。
「……がっ!? ぐっ、あっ、あああああああああっ……!!!」
そこで、意識が途切れた。