#17「誰がなんと言おうと、その手を握る。」
「何故だ……何故耐えられる……何故、平然と立っている」
「もっと辛いことを経験してきたんだ。ただ痛いだけなんて、今更どうってことない」
「っ……どうってことなくねえよ俺は!!」
爽やかに言い放ったニアの後ろで、一般人の悲鳴が上がった。
「ジャック、大丈夫か? できる限り庇ったけど」
「なんとかな……悪い」
「なら良かった」
そう言うと、ニアはケセラと向き合った。
「だ……だか良いさ。どうせお前は手負いだ……このまま戦っても、僕の勝ちは揺るがない」
「そうだな。だからよ、戦わねーことにするわ」
ジャックは腕を滴る血を拭い去ると、その腕で上着のポケットから何かを取り出した。
「?」
「そらっ!」
白い玉。それをジャックは、叩き割るように地面に強く投げつけた。
割れた卵のように、中からばっと飛び出して溢れたのは。
「なっ……煙!? 今更小細工を!」
白い煙がみるみる広がっていく。別行動した際に調達してきたものだが、ジャックの予想以上の阻害能力だ。視界がままならない中、ニアは背中を誰かに押される感覚を覚えた。
「ジャック!」
「時間を稼ぐ! ケガ治して体勢を立て直せ! それに、伝えたいこともあんだろ」
「でも……」
「何だ心配か? 今更俺のこと信頼できねえなんて言わせねえぞ、相棒」
声が震えてるじゃないか──そう言うのは野暮で、かっこよくない。目の前にいるかっこいい男なら、きっとわざわざ指摘したりしないだろう。
「……分かった。行こう、アーニャ」
そう思うから、ニアはただ頷いて踵を返した。
「えっ……えぇ!?」
今度はアーニャが意表を突かれた。急に足が宙に浮いて、ニアの腕に体がすっぽりと収まり。
「あ、こういう物語も聞かせてもらったことがあるな。何だっけ?」
「えーっと、確か怪盗なんとか……じゃないってば!!」
抗議も抵抗も間に合わぬまま、星降る夜の中、姫君がさらわれていく。住宅地の高い屋根を軽々飛び越えて、2人の姿はその向こうへ消えていった。
「くそ……貴様も何だ! 国民ですらないくせに邪魔を──」
「うるっせえな、今良いとこだろうが。大人が再春を邪魔してんじゃねえよ」
苛立つケセラに、ジャックはベルトから引き抜いた拳銃を向ける。
「親友だ。他に理由はいらねえさ」
「はぁ、はぁ……ここで良いな」
ニアはそっとアーニャを下ろすと、自身も店主がいなくなった露店の壁にもたれかかった。複雑な地形で建物の背も高いこの区画なら、しばらく隠れられるだろう。
「ニア、大丈夫……?」
「……大丈夫だ……頭痛くて、ふらふらして、吐きそうなだけだ」
「駄目じゃん!! ひ、"廻帰"……!!」
アーニャが傷口に手をかざすと、身体中に空いた穴がみるみる塞がっていった。失血による体調不良も、まるで最初から無かったかのように、回復していく。
「ありがとう。すごく楽になった」
「うん……ごめんね」
「アーニャのせいじゃない。攻撃してきたのはケセラだ」
「そうじゃなくて。私のせいで、ニアはずっと──」
「それだ」
遮るように、指差しながらニアが言った。
「おれはちょっと怒ってるぞ。恨んでないって何度も言ってるのに、アーニャが聞いてくれないから」
「……いいよ、嘘付かなくて」
「嘘じゃないって……あっ、分かったぞ! アーニャ、さっきからおれの気持ちを勝手に決めてるだろ!」
珍しくむすっとした表情で、ニアは重く沈んだアーニャの顔を見つめた。
「確かにおれも、昔はアーニャの言葉と物語のセリフだけを正しいって思い込んでた。でも、おれにも心があって、ちゃんとそれをさらけ出さないと、幸せになれないって分かったんだ」
自分の生が誰にも望まれなくても、自分が望むままに生きる。そう決めたから、ニアはここまで来た。
「アーニャがもし、本当におれともう会いたくないのなら……おれは、ちゃんと出ていく。でも、そうじゃないんだろ」
アーニャと自分では、きっと考えていることが違う。自分はアーニャほど賢くもない。
それでも伝わるものがあると信じて、その手を握った。
あの日と同じ、ぬくもりがあった。
「自分の心に閉じこもらないでくれ。おれの本当の声を、ちゃんと聞いてくれ。アーニャの本当の声を、ちゃんとおれに聞かせてくれ」
そこで何故か、ニアは言葉が詰まってしまった。
言いたいことは決まっているのに、喉から声が出ない。気持ちが伝わると信じてはいる。でも、伝わったこの気持ちが、アーニャにとって迷惑なものだったら──そう思うと、最後の一歩が踏み出せない。
彼なら、どうするだろう。ここで立ち止まるだろうか。
否。きっと、後悔の残る方へは進まない。自分の心に正直になれと言ったのは、他でもない彼で、他でもない自分じゃないか。
「…………おれは、あれからずっと、アーニャのことを考えてた。何があっても、アーニャに会いたいって気持ちが、一番強かった」
ニアにとって、一番大切な物語。
その続きを、見に行くと決めた。
「誰が何と言おうと、君自身が何と言おうと、おれは君が大好きだ。一生、おれのそばにいてほしい」
着飾る必要は無い。それだけ言えば十分だと思った。
「…………だめ……そんなこと、言われたら」
涙を含んで震えた声。
その一言で一瞬、心臓が凍りついた気がした。繋ごうとした糸が、断ち切られた気がした。
「……だめ、なのに……許されちゃいけないのに……私、諦めきれなくなる……ニアと、ずっと一緒にいたいよ……!!」
くしゃくしゃになった顔で、子供みたいに訴える。彼女のそんな表情は初めて見た。
良かった──この糸はちゃんと、繋がっている。
「おれが許すよ。どれだけ多くの人が許さないと言っても、君が君を許せなくても、おれがずっと、アーニャの味方だ。アーニャもそうやって、ずっとおれの側にいてくれたから」
感謝を伝えたかった。全ての愛を返したかった。
2人の体温が近づく。自然とそうなっていた。
鉄格子に阻まれていた頃は出来なかったこと──抱きしめ合うのは初めてで、すごく暖かくて、すごく幸せだと思った。
「今までありがとう。これからも、よろしく」
「……ニアぁ……!!」
抱きしめる力はあまりにも強くて、正直ちょっと痛い。だけどニアには、それすら心地よく感じられた。
「私も、大好き……素直なとこも、優しいとこも、ちょっと子供っぽいのも……まっすぐなニアの、全部が、大好きだよ……ずっと、私が守るから……!!」
苦しい時も、楽しい時もあった。
だけど今この心は、今までのどんな時よりも満たされている。本末転倒だけれど、今ここで死んだって悔いはない。
「……おれは幸せ者だ。生まれて初めて出会えたのが、こんなに素敵な人だった」
だって、これ以上の幸福なんて、世界のどこを探してもあるわけないのだから。
死んだって、悔いはないのだけれど。
「……休憩しすぎたな。来てしまった」
その前に一つだけ、やらなければならないことがある。
「感動の再会なところ悪いが……ようやく見つけた。今度こそ、2人仲良く死んでもらおうか」
ケセラ1人だ。ジャックははぐれたのか、逃げ切ったのか、あるいは──いや、最後の可能性はあり得ない。
ともかく確かなのは、ケセラが石の剣を再び召喚し、ニアに向けて発射しようとしていること。
「アーニャの前に立つか、呪い子……だが貴様は素手だろう! この剣をどうする気だ!? ハハハハハッ!!」
陽気な高笑いと共に、ケセラは攻撃を仕掛けた。回避する暇などない。ニアには絶対に避けられない。
「ハハハ……あっ?」
「何って、こうするんだ」
まあ、避ける必要すら無いのだが。
「は……弾、かれた……素手で……ど、同時に5本だぞ……?」
右手一つだった。例の不可解な黒いオーラを纏った拳を振るった瞬間、高速で飛ぶ5本の剣は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられて粉々になった。
「お前、やっぱり馬鹿だな。追いかけてこないで、逃げれば良かったのに」
何だか不思議と、気分がハイになっている。
「おれとアーニャは、ひとつになれたんだ」
高鳴った気持ちのまま、ニアはらしくない嘲笑を浮かべて言った。
「今更お前なんかが、勝てるわけないだろ?」