亡き100歳祖母の医療事故の最期。
令和三年四月十一日午前八時過ぎにて
ほのぼのとした時間の流れ。いつ振りだろうか。カンキツは、シフトの組み合わせの関係で、日曜日の朝から、八王子の警備現場にいた。まだ、朝の八時前だ。その晩の夜勤と悩んだが、営業の中松と話しているうちに、昼勤務のほうが日曜日はひとがいないからということで、電話を府中のホームで受けたカンキツも、これからもうひとつの職場ということもあり、そこまで態々、考える時間もなく、その中松の要求に抵抗するタイミングもなく、そのまま、従ってしまったからゆえに、こんな顛末になっていた。目の前には、青い空。というより、スカイブルーに近い。そこに浮かぶ、ひとつの雲。
ある映像がフラッシュバックした。故郷の桐生の祖母の家からみた、裏山の上にひろがった、今、目の前で見ているような、パノラマの青空。祖母は一昨年の五月、百歳を迎えた一週間後に、熱中症で人生初の入院をし、翌朝、お粥を喉に詰まらせて死んだ。あっけない死だった。呆気なさすぎた。その晩の夜勤現場でちょうど零時が回った頃、実家に住む妹から送られてきたメールで知った。
「桐生のおばあちゃんが亡くなったよ。今朝だって。朝食は元気に食べてたんだけど、急変したんだって・・・。」
すぐさま、近くにいた、齢六十過ぎの同僚、矢口さんに了解をとって、妹にその場で電話をかけると電話越しに完全に泣き崩れていた。なにをいっているかわからなかった。母親の状態を聞くと配達の仕事があるようでそれどころではないと言われたらしい。そうやって気丈に振舞っているのだとおもった。
その一週間前、カンキツは、母親と些細な喧嘩で、祖母の誕生日にも関わらず、帰ってくるなと言われていた。あのとき、臍を曲げて帰っていなかったら、百歳の誕生日も祝わずに、亡くなっていたという可能性もある。それを考えれば、強引に帰って祝ったカンキツの判断は正解だった。百歳までなんだかんだ生きたのに、その記念すべき日を、祖母の目の前で、なにもなく過ぎていくのを想像しただけで、どうにも耐えられなかった。ぶち切れながらの帰郷だった。
平成饅頭という東京駅で買った、怪しい土産をばあちゃんにあげ、赤いちゃんちゃんこを着せ、半ば、強引にツーショットの記念写真を撮り。しっかり、ピースもさせて。頭脳は冴えたばあちゃんだったから。「百歳におもうことを書いてよ」というと、緑内障で完全に見えない目にも関わらず、笑いながら、「まだ、耳は聞えるから、ヘレンケラーよりはマシだね、あはははは、天下泰平!」と言い、握らせたボールペンで書かれた、力強い字は、生きぬく力。
物凄い力強い字だった。
そんなことがその八王子の青い空でフラッシュバックされた。東京もさらに都心のほうに住んでいるとこういったパノラマな空は、ここ、数年、いや、ひょっとすると十年近く、みていなかった。それに去年はもう、一年近く実家に帰っていなかったから、本当に、こんな空をみるのは久しぶりだった。こんな言葉では片づけられないくらい。ただ、この空をみたことによって、今、こうやって、故郷の桐生をおもいだし、百歳で亡くなった、本当は、看護師等に殺されたばあちゃんのことを偶然にもおもいだせたことは事実だった。
この日曜日を昼勤務か夜勤にしようか迷っていたけれど、夜勤であれば、この記憶を抽斗から出すことは確実にできなかった。これは、昼勤務でよかったんだなとおもうことにした。来週の日曜はどうなるかわからない。
勿論、来週もこれと同じ、青い空に、雲ひとつがみれたとしても、それは今みている空とは、まったく違う気がすると思った。(1200字くらい)