呪いの森の白雪の魔女 巫女と少年4
ドアに何かがぶつかるような音がして、ヒサキは目を覚ました。本来なら4人収容の客室にはヒサキ一人。広すぎる部屋は、がらんとしていて気温以上に寒々しく感じた。昨夜とはうってかわって静かな夜だった。
もう一度、同じ音がした。
ベッドから出るのは嫌だったが、一度気になってしまうと無視して眠ることもできない。上着を着て起き上がる。暖炉の残り火のおかげで、部屋は、ほんのりと暖かい。そっとドアを開けると冷たい夜の空気が部屋に流れ込んできた。
誰もいない。
明かりで照らしても、暗い廊下の先へは届かない。吐いた息が白い。
やっぱり、気のせいだったか。欠伸をして、戻ろうとしたとき、足下から声がした。
「人間よ」
明かりを下ろすと、真っ白い毛玉がふんわりと照らし出された。こちらの名前を覚える気は毛頭も無いらしい。
「……ウサギか。スーリンは大丈夫?」
ウサギの姿をしているが、ウサギとは思えないこの存在は、未だに正体を名乗ろうとしない。
スーリンと一緒に彼女の部屋にいたはずだ。
神殿に帰ってきてから、なんだか表情が暗くなり、元気がなくなってしまった。町での明るい様子が嘘のようだった。あれから結局、夕食にも来なかった。きっと体調を崩してしまったのだ。長旅で疲れていただろうに、たかが雪遊びになど、付き合わせなければ良かった。
「スーリンがいなくなった」
「はい?」
「たぶん、一人で行く気なのだと思う」
「行く……って、陽都へ?」
「おそらく」
「調子悪いのに、何をバカなことを……」
昼間は楽しそうに笑っていたのに。あの笑顔の下で思い詰めていたのだろうか。
ソラリスへの道のりはまだ長い。あのスノーゴーレムの操者も見つかっていない。またあいつらに襲われる可能性もある。
「探しに行こう」
「あまり遠くへは行っていないと思う。まだ、ベッドが暖かかったから」
ヒサキは光る石のランプを持って部屋を出た。ウサギは、周りの匂いをかぎながら、少年の前を跳ねた。宿泊棟は、すっかり寝静まって、すべてが凍り付いたように、しんとしていた。
「探索精霊を飛ばしてみようか」
「やってみた。何者かに妨害されている」
ウサギが返した。当然のようにさらっと言う。ウサギのくせに、どれだけ高度な魔法を使えるんだ。
「なあ、お前いったい何なの?」
「見ての通りだが?」
「あ、そう……」
ウサギに答える気はなさそうだった。どれだけしつこく尋ねたところで手応えがない。ウサギがしゃべるのはヒサキと2人きりのときだけだ。スーリンの前でも、他の人間たちの前でも黙ってただのウサギのふりをしている。
「じゃ、スーリンとは、どういう関係なの?」
「……えさ……かな」
ウサギはうーんと酷く困ったように唸ってから、そう答えた。
食べるんだろうか?食べられるんだろうか?
聞いたところではぐらかされるのだろうが。
ヒサキとウサギは、なるべく足音を立てないように慎重に歩いて、階段を下りた。1階の宿直室から、黄色い明かりが漏れていた。各建物の出入り口と神殿の門には、衛士が常駐している。その目をくぐって、スーリンが外へ出られるとは思えない。まだ、棟内をうろうろしているのだろう。あきらめて、戻ってくれればいいのだが。
「……何か、変だ」
ウサギが突然立ち止まった。
「また、雪の化け物?」
「違う。もっと強い、熱いヤツだ」
鼻をひくひくさせながら、ウサギはあたりを警戒するように見渡した。
「スーリンを狙っているのかな」
「おそらく」
その次の瞬間。
急激に気温が上がった。何が起こったのか考える間もなく、地響きのような轟音と共に熱波が廊下を駆け抜ける。ヒサキはとっさに体を伏せ、廊下の端に縮こまった。不思議とそれほど熱さは感じない。ウサギが防御壁を張っている。顔を上げると燃えさかる赤炎の向こうに同じ色の鳥の翼をもった生き物が顔を覗かせた。
「何だ、あれ……?」
「ドラゴン」
ウサギが答えた。
ウサギの姿を認めると、赤鳥竜は大きく口を開いた。瞬刻の後には灼熱の烈火が迸る。
再び氷の防御壁が、火炎ブレスを食い止めた。氷が溶け、更に水が一瞬で水蒸気に変わる。高温の白い湯気がもうもうと立ちこめた。火竜の姿は見えなくなった。
「無事か?!」
ウサギが辺りを見回して叫んだ。
「な…何とか」
「行くぞ!ここは危ない」
ウサギは炎を飛び越え、熱で割れた窓ガラスを破って、外へ向かって飛び出した。ヒサキも必死に後を追った。手を少し切ってしまったが、たいしたことはない。それより、スーリンや宿直の衛士さんは大丈夫だろうか。
上空から翼のはためく音はする。目をこらしても、竜の姿は見えない。
「どうするんだ、あんなでかいの……!」
「撃ち落とす」
当然のようにウサギが言う。
「だから、お前、何なんだ!」
「ウサギだ」
即答。
いや、絶対違うだろ。
「あはっ!なんだ、あんた、うさちゃんになっちゃったの。かっわいいー!」
予想外に嘲り笑うような少女の声が頭上から降ってきた。それと一緒に、赤い翼を広げた鳥によく似た竜が、猛スピードで急降下してくる。炎混じりの突風が吹き下ろし、風を切る音が悲鳴のように響く。
「うるさい、黙れ!下級種め」
ウサギが上空に向かって怒鳴る。
ヒサキは雷の精霊を呼び出し、魔法を起動。ドラゴンに会ったことはある。でも、みんな、祖父ちゃんの味方だった。戦うのは初めてだ。自分が使う魔法なんて効くんだろうか。
轟音とともに落雷が竜に襲いかかった。
しかし、雷撃は光る金糸のように羽毛の表面を伝うだけで、竜は何事もなかったかのように悠々と夜空を旋回した。
「ざんねーん。安全装置の付いた魔法なんて効くわけないじゃない」
予想はしていた、とはいえ、跳ねっ返りな口調がいちいちむかつく。
火竜は、羽ばたきながら焼けこげた神殿の庭に視線を巡らせていた。さっきの炎撃で発生した大量の水蒸気が凝固し、氷混じりの雨になって落ちてきた。
騒ぎを聞きつけ、衛士たちたちが集まってきた。竜はその集団に火のブレスを吹きかけ、羽毛に覆われた長い尻尾を軽くしならせる。その一撃で、燃える建物の上の方が派手な音をたてて崩れ落ちた。
「ねえねえ、巫女ちゃんはどこ?おとなしく巫女ちゃんとウサちゃんがこっちに来れば、君には、なんにもしないよ」
瓦礫の上に着地した竜は、首を伸ばして鳥に似た顔を近づけた。ちぐはぐな声音と姿。周囲で燃える炎に照らされて、大きな目がぎらぎらと光る。間近で見ると逃げ出したくなるような迫力。冷や汗が背を伝う。
「知らん」
ヒサキの頭によじ登ったウサギがぞんざいに答えた。
「知らんわきゃないでしょーが」
「ここまで来るのに見なかったか?」
「えー……?」
「見つけたら、こっちに引き渡せ」
「いやですー。ふわふわウサちゃんの命令なんて聞きませんー」
赤いドラゴンは、小憎たらしく首を傾げて、ウサギに毒突く。そのまま、ウサギに言い返す間を与えることなく、ばさりと1つ羽ばたいて、一気に夜の空に舞い上がった。それをめがけて、地上から凄まじい数の氷弾が襲いかかる。
ウサギの魔法。
積もった雪を氷の弾丸に変えた。竜も広範囲に炎を吐いて抗戦するが、高速で無尽蔵に打ち出される氷片は、竜の翼を打ち抜き、長躯に突き刺さった。バランスを崩した巨体が、上階の崩れた建物に突っ込む。埃と羽毛が赤い光に照らされて舞い踊った。
「ばかめ」
ウサギが呟いた。
「よくもやったな」
大きな音を立てて建物を壊しながら、竜がゆっくりと起き上がる。
「ふむ。さすがにしぶといな」
ぴょんと頭から飛び降りたウサギの姿を見て、ヒサキは息を呑んだ。
薄い。
体が透けて、煤で汚れた雪や散らばった瓦礫が見えている。
おそらく、ウサギの体は魔法でできている。魔法を使えば使うほど、体を構成する幻素が減っていく。森でのスーリンを助けながらの戦いに、強烈な竜の炎を防ぐ壁に、さっきの弾幕で尽きかけているのだ。
「そういうわけだ。すまん。あとは任せた」
ヒサキが気付いたのを察したのか、ウサギは謝罪の言葉を残し、徐々に透明になって消えていこうとしていた。
「さて、君1人でどうするの?人間くん」
くすくすと、巨大な竜が笑った。
ドラゴンの方も無傷ではない。ヒサキの魔法では倒すことはできない。こいつの狙いはスーリンだ。きっとあのスノーゴーレムの仲間だろう。何とかしないと、スーリンの身が危ない。神殿もめちゃくちゃにされてしまう。
「硬いのは羽毛だ。口の中か傷口に魔法をぶち込め。急げ。すぐ再生するぞ」
耳元でウサギの声。はっとして周囲を見渡したが、すでに姿はない。最後の助言という訳か。スーリンになんて言えばいいんだろう。
ウサギの言った通り、翼に空いた穴は塞がり始めている。氷弾に貫かれた所は、表皮が抉れた無残な傷跡を晒していた。そこへ魔法を突っ込めということだ。自分にだけ見える標的精霊を飛ばし、竜の傷が目立つ赤色に光るように印を付けた。後はそこを狙って、魔法を誘導する。
「小細工とかマジ生意気ー!」
マーキングに気づかれた。精霊が全部散ってしまうが、もう自分の感覚で追える。細い金の光の線が、精密に竜を貫く。赤い竜は、巨大な生き物に相応しい猛々しい咆吼を上げた。血の代わりに真っ赤な羽毛が飛び散り、炎を上げて舞い落ちた。
激高したドラゴンの爪が目の前に迫る。一撃目は、這々の体ながらも何とか避けた。目の前で鈍器のような鉤爪が、建材の石の破片を粉々に打ち砕いた。まともに食らったら、回収が面倒な死体になりそうだ。闇雲に振り回された二撃目が肩口を抉り、しなった尻尾の強烈な打撃に跳ね飛ばされた。乱暴に瓦礫に叩き付けられて、息が詰まる。
「もう許さない。踏みつぶしてやる」
ぼろぼろになった赤い羽毛の竜は、鈍重な足音を響かせて、倒れた少年に近づいた。舞い踊る羽は真紅の雪のようだった。
さすがにこれはまずい。
逃げようにも体が思うように動かない。苦労の末に、どうにか負傷してない方の腕を支えにして上体を起こす。どこから流れているのか分からない血がぼたぼたと地面に落ちた。
もう一度、魔法を放つ。
かなりの深手を追っているはずなのに、纏わり付く雷光をはね除けて、赤い竜は執拗に少年に迫った。人間とは明らかに違う並外れた頑強さに舌を巻くしかなかった。
空からは、炎のかけらとともに降りてくるものがあった。赤い竜に負けない巨体。溶けた雪の上に降り立ったのは、もう1体、青いドラゴンだった。
最悪だ。
2体目なんて、どうしろって言うんだ。
ヒサキは力尽きて、雪が溶けて水浸しになった地面に突っ伏した。体がどんどん熱を失っていくのが分かった。
「破壊行為は禁じられています」
竜の声とは違う女の子の声がした。もっと幼い感じなのに、やけに事務的に聞こえる。
「邪魔するな、人形」
今度は赤い竜。
あれ?この2体、敵同士だ。
かといって、もう1体の竜がヒサキの味方とも限らない。
息を詰めて見守っていると、青い竜の背から、金髪の少女が飛び降りた。そのまま、倒れているヒサキの方へ歩いてくる。
「神殿の方々は皆さん避難されました。巫女様も無事です」
ヒサキの傍らに立った金髪の少女は、原稿を読み上げるかのような口調で淡々と告げた。
「そ…そう……」
あまりの平坦さに呆気にとられ、反応に詰まった。
「すぐに降伏してください。警告に従わないのなら攻撃します。どうしますか?」
少女は、くるりと赤い竜の方へ向き直った。竜は何かを探すかのように、虚空の夜空へ視線を巡らせた。暫時の間があって、やつは赤い翼をバサリと広げた。
「まあいいや。今は引いてあげる。次は、街ごと、ぜーんぶ燃しちゃうからね。あはっ」
魔竜は口腔内に魔法力を集め、火炎ブレスを精製した。あかんべーでもするかのように、真っ赤な火炎を一吐きして、赤い竜は夜空の向こうへと飛び去っていった。
「何なんだ、あいつ……」
「この世の秩序の埒外にいる者たちです」
金髪の少女が静かに言った。その肩に鮮やかな青色の小さな竜が舞い降りた。
「君は……?」
「はい。幻獣監視局から参りました」
「何それ」
少女の説明をぼんやりと聞いている間に、意識が薄れていく。抵抗してもダメだった。
「お前、やるな」
消えてしまったはずのウサギの声まで聞こえてきた。