呪いの森の白雪の魔女 巫女と少年2
目が覚めると柔らかいベッドの上だった。風も感じないし雪も降らない。化け物も猛獣もいない。屋根と壁に守られた静かで暖かい部屋の中だった。
スーリンは、しばらくの間、ぽかんと口を開けて、あたりを見回すしかなかった。
「私……」
「森で倒れてたんだよ」
ベッドの傍らには、初めて会う少年と質素な神官衣の優しげな女性の姿があった。
「ここは、どこなのですか?」
「クリスティア市水晶神殿ですよ」
女性は、水晶神殿の神官長だと言った。スーリンの祖母くらいの年齢だろうか。優しげな色白の顔には深いしわが何本も刻まれ、結い上げた薄茶色の髪は半分くらい白くなっている。それでも、とても綺麗な人だった。
「太陽神殿領なのですね?」
「ええ」
2人が一緒に頷くのを見て、スーリンは大きく息をついた。目的地ではないにしろ、1つの難所は越えた。安全な場所にいるのだ。
魔女に襲われた左手の傷には治癒魔法が掛けられ、清潔な包帯が巻かれていた。動かすと違和感はあったが、痛みはほとんど感じない。
「事情があるようですね」
神官長に、じっと目を見つめられて、スーリンはうつむいて黙り込んだ。重ねられた手が温かくて、涙が出そうだった。話せば、手を貸してもらえるかもしれない。あんな辛い思いをしなくてもいいかもしれない。
いや、信じてもらえるわけがない。
裏切られるのはもう嫌だ。
「オレは、席を外します。夕ご飯もらいます」
何か察したのか、少年はすっと席を立った。
「はい、どうぞ」
少年と入れ替わりに給仕の女性が、白いカップとお菓子が載った盆を持って入ってきた。ベッド脇のテーブルに盆を置くと、彼女も一礼だけしてすぐに出て行った。窓の外からは、風の音が聞こえる。しんと静まりかえった部屋で、スーリンは黙りこくって、毛布の端をもてあそんだ。いろんな思いが、頭の中でぐるぐるし過ぎて、言葉を発する糸口をすっかり失ってしまっていた。
「あらあら、まだ、お名前も聞いていませんでしたね。ごめんなさい。私は、ここの神官長ミルフェ・ゴールと申します」
そう言いながら、ミルフェが、湯気の立つミルクをすすめてくれた。
「いえ、私こそ……。私、スーリン・ミリアと言います。あの……」
スーリンは、口を半ば開いたまま、固まった。迷っている場合ではない。世界の危機がすぐそこに差し迫っているのに、自分のことばっかり考えてどうするのだ。意を決して、口を閉じ直して息を吸った。
「ソラリスへ行きたいのです。勇者様にお会いしたいのです。かつて森の邪悪を払った偉大な神官様に」
その人に、聖剣を渡せば、世界は救われる。そう告げられて、スーリンは旅に出た。
スーリンの言葉を聞いて、クリスティア水晶神殿神官長ミルフェは青い眼をそっと伏せた。
「そうですか……。でも、お会いすることはできません」
「どういうことですか……?」
スーリンは、どきどきが早くなるのを感じながら、老女を見た。
「あの方は、お亡くなりになりました」
「そんな……」
胸がきゅんと苦しくなった。
足下が、崩れ落ちるような気がした。
辛い思いをしてここまでやって来たのに、全部無駄だった?この世界は、どうなってしまうの?
まさか、そんなはずはない。亡くなったなんて、そんなこと、あってはならない。
「それでも、私は行かなければならないのです。私、ソラリスに行きます。すぐに出発します」
スーリンはベッドからすっくと立ち上がった。心臓の音が早く大きく、体中を揺らすように響く。いても立ってもいられなかった。
「外は酷い吹雪ですよ。凍え死んでしまうわ」
「大丈夫です。今までだってずっと歩いてきました。聖剣に導かれて、ここまで来たのです。私、私……」
「いいえ。行かせるわけには行きません。あなたが死んでしまったらそれこそ何の意味もありません。今日はゆっくり休んで吹雪が止むのをお待ちなさい」
神官長ミルフェは、部屋の外へ飛び出そうとするスーリンの腕を捕まえ、優しいが断固とした口調で言った。
でも、スーリンの方も譲る気はない。
雪交じりの風が窓を叩き、風笛が甲高い声でひゅーひゅー鳴っている。
「行かせて下さい!」
スーリンは、ミルフェの手を強引に振りほどいた。弾みで、サイドテーブルから皿が落ち大きな音を立てた。割れた陶器の欠片と菓子が床に散らばった。
「ご……ごめんなさい……」
慌てて、拾おうと屈んだ少女に、神官長はそっと手を差しのべて立ち上がらせた。
「お座りなさい。あの方も、あなたがこれ以上辛い目に会うことは望まれないわ」
幼い子供に語りかけるようなゆっくりした口調で、ミルフェが諭すように言った。
ツ……とほほを何かが流れ落ちていく。胸の苦しさが増し、顔がカッとほてった。泣くつもりなんかないのに、涙はどんなにぬぐっても止まらない。スーリンは崩れるように、ソファに座った。
「冷めないうちにお上がりなさい」
ミルフェが、白いハンカチとテーブルに残ったカップをスーリンの方に押しやった。中身はまだ湯気を立てている。そういえば、せっかく入れてもらったホットミルクに全く手を付けていなかった。
「大丈夫。神様はきっと我々をお守り下さいます。あなたが生きて、ここまでたどり着いたのですから、神様は我々をお見捨てになってはいませんよ」
スーリンは涙でぐしゃぐしゃになった顔でうなずいた。
ミルクの甘さと暖かさが体と心に染みた。
「もし、食べられそうなら、御夕飯はいかが?辛いようなら持って来させますよ」
やっと泣きやんだスーリンにミルフェが声をかけた。
「大丈夫です。食堂、どこですか?」
涙を拭いて、明るく笑って少女は答えた。
暖かいベッドで眠って、思いっきり泣いたら、お腹が空いてきた。我ながら、図太いものだと思う。
教えられた通り、食堂は1階の一番奥まったところにあった。寒々とした廊下と違い、暖炉に火が入って暖かい。もう遅い時間のせいか、人は多くない。ぐるりと見回すと、窓際の席にさっきの少年がいた。
「あの……、あなたが助けてくれたんですよね。本当に、ありがとうございました」
「あー……、まぁ、そういうことかな……」
スーリンが礼を言うと、彼はなんだか口ごもったような言い方をしながら、頭をかいた。
変わった少年だと思った。年齢は多分一緒くらい。このあたりでは金髪は珍しくないが、彼はもっと薄い、白に近い色だった。
「私、スーリン・ミリアと言います。北の大地神殿領エルデ市から来ました」
「エルデ……って、やっぱり、森を越えてきたの?」
「そうですよ」
「冬って、森の道は封鎖されてるんじゃなかったっけ」
「そうなんですけど、何とか抜けて来られました。神様のおかげですね」
ちょっとは迷ったけど、細々とした食料を手に入れることもできたし、洞穴のような場所で眠ることもできた。神様と聖剣のご加護があってこそだ。
「そうかー……。オレは、ヒサキ。君とは逆、南のデルフィ市から来た」
夕食のメニューは、イモのスープと卵をはさんだパン。生野菜とハムのサラダと冬の時期にしては、すごい御馳走だった。ちゃんと調理されたものを食べるのは久しぶり。目の前に、人がいるのも忘れて、スーリンは夢中で食事をほおばった。スパイスのきいた熱いスープは、ほくほくのイモにしっかり味が染みこんでいていたし、柔らかいパンに包まれた卵は、とろとろの半熟で、とろけるように甘かった。塩味の無い生の野菜なんて何ヶ月ぶりだろう。本当に美味しくて幸せだった。
「南から隊商が来たのですね」
「うん。一緒に連れてきてもらったんだ」
そう言って、ヒサキはしなびたキャベツの葉っぱを足下に落とした。そこには、真っ白なウサギが、もりもりと口を動かしていた。
「まあ、かわいい」
ウサギは、口と鼻をせわしなく動かしながら、スーリンを見つめていた。相手が動物であっても、あまりじっと見られると、いたたまれないような気持ちになるものだ。
「スーリンは、こんな季節にまたどうして?」
「大事なお届け物があるんです。最後の目的地はソラリスです」
「遠いなぁ……」
確かに遠い。でも、ここからは馬車が使える。南へ行くほど、雪は少なくなる。旅は楽になるはずだ。
勇者様はもういない。
でも、ソラリスは、中大陸有数の大都市で太陽神殿領の首都だ。そこまで行けば、何とかなるかもしれない。北へ帰るよりはましだろう。立派な人も強い人も大勢いるだろうし。
お腹がいっぱいになると、何となく明るい方向に考えられるようになった。
「ヒサキさんこそ、どうして、わざわざ寒いところに?」
「オレも、届け物。あと、雪が見てみたかったんだ。積もったやつ」
「南では降らないのですか?」
「降らないよ。たまーにちらちらするくらい。こんなに積もったのを見たのは生まれて初めて」
「じゃ、雪合戦も雪だるま作りもそり遊びもしたことないんですね」
「ないない。本で読んだことはあるけど」
「それじゃ、一緒にやりませんか?明日、お天気が良ければ」
「でも、君、休んだ方がいいんじゃないか?」
「大丈夫です。元気なんですよ、私」
テーブルの下から2人を見上げていたウサギが、一跳びして足下に近づいた。美しい純白の毛並みを撫でてやろうと手を伸ばすと、小動物はぷいっと顔を背けて逃げてしまう。興味と警戒が半々といった感じのようだ。
「そいつ、森から付いて来ちゃったんだ」
「どうして……?」
「さあ。オレにもさっぱり」
スーリンにも心当たりはない。
森で出会った生き物といえば、大きなオオカミたち、毛むくじゃらのサルの魔物に白雪の魔女。思い出すだけで体が震えた。味方なんかいなかった。あんな状況で、よくここまで生きてたどり着けたものだ。10日もかかるなんて話も、スーリンを行かせないための嘘だったんだろう。
そういえば、一度だけウサギを捕まえてやろうとしたことがあったのを思い出した。上手くいけば、当面の食料になると踏んだ。でも、全然うまくいかなかった。野の小動物相手に手も足も出ず、あっさり逃げられてしまった。恨まれる覚えはあっても、懐かれる覚えはない。
「不思議ですね。森へ、返してあげなければ。連れて行くことはできませんから」
手の届かないところで野菜を|食べているウサギを眺めながら、スーリンは呟いた。
「おとなしく森へ帰るかな、そいつ」
「でも、捕まったら食べられちゃいますよ。ねえ、ウサギさん」
愛らしい獣であると同時に、ウサギは、美味しい御馳走だ。事情はともあれ、ついてきた動物が誰かに食べられてしまうのは、なんだか気分が良くないものだ。
「それじゃ、明日」
そう言って、少年は食事の終わったトレーを持って、立ち上がった。