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豊臣秀矩(勝家)偏  作者: エラワン
8/16

イスラムとキリスト教徒

 床に付いても眠れない夜を過ごした安兵衛だった。翌朝はラウラを送り出し、すぐ宮廷に向かった。この話は一刻も早くムラト四世の耳に入れなくてはならない。

 だが、宮廷に着くと、スルタンはまだいらしてないと言う。部屋の前で待たせてもらう事にした。


 辛抱強く待っていた安兵衛の前に、やがてムラト四世が歩いて来た。

 安兵衛は両手を前で組み、お辞儀をする。


「ヤスべ!」


 ムラト四世は笑って安兵衛の肩に手を乗せると、部屋の中を指さした。

 機嫌が良いようだ。

 部屋に入るとムラト四世はすぐ宝石を取り出し始めた。絵図を描いたりして構図を決め、指輪などの装飾品を自ら作るという趣味を持っているのだ。

 だが、安兵衛が下を向いていると、

 

「どうしたヤスべ、何か悩み事でもあるのか?」

「はい、実は……」


 昨夜の出来事を包み隠さず、順を追って全てを話した。キリスト教徒と会っていた事で、どのようなお咎めがあるのか分からないが、既に腹をくくっていた。

 ムラト四世はじっと安兵衛を見つめていたが、


「誰かおるか!」


 小姓がやって来る。


「海軍大臣を呼べ」

「はい」


 最初の「誰かおるか」の声には、さすがに安兵衛も動揺した。だが、次に「海軍大臣を呼べ」と言った。

 首を切るのだったら、海軍大臣を呼ぶ事は無いだろう。だがムラト四世はそのまま椅子に座って、何も言わず宝石を見始める。

 安兵衛はそこに立ったまま、長い時間を待たなければならなかった。

 やがてムラト四世が声を出した。

 宝石から目を離さず、


「ヤスべ」

「はい」

「キリスト教徒どもとは二度と関わるな」

「…………」


 今度は顔を上げ、


「これが最後だ。次は許さないからな」

「分かりました」


 ムラト四世は必ずしもキリスト教徒を嫌っているわけではない。逆らおうとしないのなら、どんな宗教も習慣にも寛容だった。ただ公けの場では、キリスト教徒はあくまで敵国の異教徒なのだ。甘い顔は見せられない。

 ところがハレムなどでは関係なくなる。敵国人だろうと異教徒だろうと、取り込んでしまう。改宗さえ迫ろうとはしない。だから歴代の皇帝は皇后の出自にあまりこだわっていない。ギリシャ系やブルガリア系などのキリスト教徒出身者で、さらにはイタリア系、フランス系の者もいる。それが同じ土地に執着しない遊牧民族の流れをくむオスマンの特徴でもある。


 海軍大臣がやって来ると、事件の真相を調べて報告するようにと指示が出された。

 再び二人だけになると、ムラト四世は安兵衛をテラスに誘った。


「ヤスべ」

「はい」

「今日そなたは正直に話してくれた。これを他の者から聞いていたのなら、そなたを助ける事は難しかっただろう」

「…………」

「男と女の問題ならキリスト教徒でもかまわないがな。私はそなたを失脚などさせたくないのだ。用心せよ」

「ご配慮に感謝いたします」


 安兵衛のような異教徒を、身近に置く事に反対する者が居る事は、ムラト四世自身も十分承知しているのだ。


「そなたの国にはイスラムもキリスト教徒も居ないと聞いているが本当か?」

「イスラムは存じませんが、キリスト教徒は少しおるようです」


 宣教師が入って来て、布教を始めている日本の現状を話した。


「キリスト教徒どもめ」

「…………」


 

 バルバリアと呼ばれる海賊の略奪行為は地中海全体に及び、主目的はイスラム市場に送るキリスト教徒の奴隷を捕まえることだった。しかもヨーロッパ人から恐れられていたバルバリアは海賊でありながら、オスマン帝国から軍司令官を任命されていたのだ。

 不思議なのだが、オスマン帝国では、皇帝の妻がキリスト教徒である事は少なくなかった。ヨーロッパから連れて来られた女性がハレムに入り、皇帝に気に入られれば栄耀栄華の日々が待っている。

 だから必ずしも、皇帝がキリスト教徒を嫌っているという訳ではなかった。改宗も自由だったし、イエニチェリなどのケースを除けば本人次第だった。

 調査の結果、ラウラの弟はそのバルバリアの海賊船に捕らえられていることが分かった。

 やがてムラト四世にはヴェネツィアの商人から、安兵衛にはラウラから、無事弟が解放されたと礼状が届けられる事になった。もちろん身代金との引き換えであったのだが、ムラト四世には宝石も送られて来た。




「ヤスべ殿」


 宮廷の外を歩いている時に、突然呼び止められた。

 振り返ると、ムラト四世の弟バヤズィトと、その副官や仲間達が安兵衛を取り囲むようにして来る。

 バヤズィトは地方の軍政官に任命されていたのだが、何かと理由を付けてコンスタンチノープルを離れようとはしなかった。


「これはバヤズィト様」

「ヤスべ殿、どうです、これから一緒に飲みに行きませんか?」


 この頃のオスマン帝国で酒は禁止されていなかった。ムラト四世自身も好んで飲んでいた。だが安兵衛は下戸だからと断ると、


「なんだ、サムライは酒も飲めんのか。なら無理にでも飲ませるか」

「よせよせ、こいつは異教徒だ、相手にするな」

「玉座の横に居るからと、いい気になるなよ」


 調子に乗って軽口をたたき始めた家臣達を、バヤズィトがたしなめる。


「よさないか!」


 バヤズィトは安兵衛に謝った。


「ヤスべ殿、この者達の無礼をお許し下さい」

「バヤズィト様、せっかくのお誘いなのですが、お付き合い出来ず申し訳ありません」


 安兵衛は丁寧に頭を下げると、その場を後にした。


「あの野郎、今に見てろ」

「やめろ、軽率な事を口走るでないぞ」


 バヤズィトは家臣をきつくたしなめた。



 オスマン帝国では十五世紀に入り、後継者争いによる帝国分割の危機を避けるため、兄弟殺しの慣行が生まれる。スルタンの死後息子たちの間で帝国が分割され内紛が起こったからだ。

 次第に兄弟殺しが帝国維持のため、やむをえない行為と見なされるようになり始める。スレイマン一世が、後継者争いに敗れた息子に反乱を起こされるなどの悲劇を生んだ。スルタンにとって兄弟は非常に危険な存在だったのだ。



 館に帰った安兵衛は、ミネリマーフや使用人たちを退け、一人絨毯の上に座ると刀を前に置く。太刀の刃を上にして左手で握る。右手で柄を持って軽く鯉口を切り、ゆっくりと抜いてゆく。

 秀矩様より頂いた刀だ。

 名刀を賛美して、「天下五剣」と呼ぶ言葉がある。数ある日本刀の中でも最高傑作と言うにふさわしい五振のことだが、この刀はそれに勝るとも劣らない名刀だろう。

 平安時代の刀工大原安綱の作刀した物だ。恐るべきその切れ味は、もし戦で使用されたら、どれだけの殺傷力を発揮しただろうかと噂されていた。

 この刀には言い伝えが有った。安綱の名声を聞いて、ある刀工が勝負を挑んできた。どちらが優れた刀を造る事が出来るか、腕比べをしようではないかと。

 二人が腕比べをするという噂はあっという間に広まり、引き下がる事が出来なくなってしまう。現代ならSNSやツイッターの噂話は、遠く都にまで伝わる。なんと帝までもが、興味を持っているという事態になってしまう。

 だが安綱はなかなか工房に入る事が出来ないでいた。相手の工房からは、早くも玉鋼を鍛錬する音が聞こえると囁かれているのに。

 安綱は凍てつく夜が明けぬうちに起き、川で冷水を浴びると竜神に祈った。「我に力を授けたまえ」と。翌日も、さらにその翌日も……

 そしてついに出来上がった二振りの刀を比べる日になった。鈴なりの見物人である。相手は自分の刀の切れ味を見せようと、川の浅瀬に刃を川上向けて刺した。

 そして上流から紙を流すと、刀まで流れてきて、すっと切れて二枚になった。見物人がどよめく。

 今度は安綱の番だ。同じようにして紙を流すと、刀まで来て止まってしまう。


「ははっ、おれの勝ちだな」


 相手は笑って自分の勝ちだと宣言した。

 だが安綱は刀の側に歩み寄ると柄を握り、「えい」と気合を入れた。

 紙は静かに切れて二枚に分かれたのだった。

 この話は都にまで伝わるのだが、帝が言われたという。


「刀は人の意思が有って、初めて切れるものでなくてはならない。刀が勝手に切ってしまったのでは、妖刀ではないか」と。


 手入れをした刀は抜く時と同様に左手で鞘を、右手で柄を持つ。刃を上にして刀の切先を鯉口のところに静かに乗せ、左右に刀身が揺れないようにして鞘に納める、そして鯉口のところで固く納めた。

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