雨白島の医者姉妹
雨白島に帰港した商人から病気の流行の話を聞き、処置に追われるアリアとシャトル。2人の働きの一コマの話。
コプコプコプ
お湯を注いだあと、遅れてフィルターの下へお湯が落ちていく音がする。ゆっくり漂う香りを嗅ぐとそれだけで少し目が冴えた。出来上がったコーヒーを二つのカップに分けていれ、左手に持って部屋に戻る。
扉を開けると姉さんが机に突っ伏していた。仮眠は大事だが、今回の報告書は急ぎだ。今夜完成するか否かで私たちが休めるかどうかがかかっている。今夜完成しなければ報告書の送付は明日には間に合わないし、次の便は早くて三日後だ。そうなれば依頼している薬草の到着が遅れ、私たちの休める時間も遠くなる。休んでもらいたいのは山々だが姉さんを揺すり起こした。
「姉さん、起きて姉さん」
「う、うーん……」
姉さんはゆっくり体を起こすと目を擦る。私の姿を確認するとあくびをこぼした。
「ごめんシャトル、私寝ちゃったんだね」
「大丈夫。ほら、コーヒー入れてきたから」
「ありがと……」
姉さんはカップを受けとるとずず、ず、と啜るように口に含む。苦みに眉間にシワを寄せたあと、うえっと舌を出した。
「にがいー、ミルクは?」
「こっちの方が目が覚めると思って」
「ミルクぐらいで効果は変わらないと思うけど、まあちょっと覚めたからいいや」
姉さんは伸びをして机に向き直った。コーヒーを机の奥に置いてもう一度目を擦ると万年筆を片手にカリカリと筆を走らせる。私が離れたときより二行程書き進んでいたが、まだ必要分には及ばない。私も隣の机に座って万年筆を手に取った。
雨白島は西国と東国の人が行き交う国内でも珍しい島だ。それ故か情報の速さは国内随一だが、同時に危険とも隣り合わせである。情報の流行りとともに病気の流行りも国のどこより早くやってくる。往診をした際に聞いた西国で風邪が流行りだしたときいた日にはできるだけ早く帰って薬草の在庫を確認したし、同じく早く帰ってきた姉さんは同じ時期に流行った病を日記から探し漁った。商人達には薬草や医療器具をあるだけ仕入れて持ってくることと、咳や熱など不調が出たものは仕事をすべて止めて診療所へ来るように伝えた。伝染病は広げる前に止めて対策を練るしかない。医者が私たち姉妹しかいないこの島ではできるだけ早く感染を止めるのが命綱だ。
軍の支部にも医療に通ずる者はいるが、軍の制約とやらで島民にできることは限られている。馬鹿馬鹿しいと思うがあちらにはあちらの都合がある以上、文句を付けても話は進まない。幸いと言うべきか、理解ある者が理由をこじつけて人手を回してくれるだけ良しとしなければ精神が摩耗していく。
そうして対策に追われて一週間、私たちの診療所にはありったけの薬草と器具が届き、西への流通を担当していた商人達が二十余人と、その近親者も診療所へやってきた。姉さんが探した症例の中から近しいものを取り上げていくつかの薬を試し、必要なものを選別していく。三日もすれば傾向が現れてきて必要な薬草を島外へ依頼することになった。火急ではあるが状況がわからない本土の民間が無条件で貴重な薬草を大量に送ることを納得するはずが無く、せめて同業者を説得して融通してもらう必要があった。その手段としてこうして報告書を作っている訳だが、どうしても前線で対応する私たちには疲労が貯まる。
「シャトル、こっち症例のまとめ終わったよ」
「ありがとう、薬の効能についてももうすぐ終わるわ」
「うんうん、じゃああとは、感染者のリストかな」
「調合と処置内容についてはこのまま私が書くね」
「うん、よろしく」
夕方から取り掛かって間もなく日付が変わろうとしている。報告書の終わりも見えてきたところで私も伸びをした。書き終わった報告書を紐で綴り封筒へ入れていく。次の文面に移ろうとしたところで眠気がピークを迎えた。
「シャトル、ねえシャトル起きて。おーきーてー!」
姉さんの声が聞こえてゆっくり目を開く。窓から朝日の光が届いて勢いよく起きあがった。寝てしまった! まだ終わってなかったのに!
「ごめんなさい、私……!」
慌てる私をよそに姉さんは分厚い封筒を差し出した。
「終わったよ、間に合って良かったー」
間延びした声で、目の下に隈を作りながら姉さんは笑った。私は呆気に取られながら姉さんから封筒を受けとる。
「港まで届けるの任せていい? ちょっとだけ寝たいんだー」
「……うん、もちろん」
私の返答に姉さんはニッコリ笑うとあくびをしてベッドに横になった。
「じゃあ、1時間くらいしたら起こしてねー、おやすみー」
そういうとすぐに寝息が聞こえてきて、悔しさで唇を噛み締めた。上着を羽織って家を飛び出すと報告書と薬草の依頼書をもって港へ走った。港で魚谷に報告書を渡すと何か言いたそうな顔をしながら「確かに預かった」と言って舟に乗り込んだ。
太陽の眩しさに目を細めながら診療所まで歩いて帰る。道中で朝食にサンドウィッチを買うと、サラダとスコーンが付いてきた。店の奥さんから「頑張ってくれてありがとね。手伝えることがあれば言ってちょうだい」と励ましの言葉をいただいた。朝食分とは別にサンドウィッチ二個分のお代を払い、昼食を診療所まで持ってきてほしいと頼んで店を離れる。ようやく診療所まで戻ると見知った顔が並んでいた。「手伝うので少し寝てください」という申し出に少し悩んで「君達が倒れたら洒落にならないから」という言葉を受けて任せることにした。新しい患者が来た時と何かあった時は呼ぶことを約束して、朝の経過観察だけつける。姉さんはまだ寝ているだろうからこのまま寝ていてもらおう。経過観察と処置方法を伝えるのに一時間ほどかかり、二階に上がると姉さんの寝ているベッドに潜り込む。深く眠っているらしく、私が少し身じろいだくらいじゃ反応はなかった。
「……こんな時ばっかり頼もしくて、ずるい」
姉さんの背中に手を回して体を寄せると暖かさですぐに眠気が来た。意識が落ちる少し前、頭上から姉さんの声が聞こえる。
「だって、私はシャトルのお姉さんだもん」
得意げな声に何か反論しようとしたが、強い眠気と頭を撫でられる心地よさに私の意識は落ちていった。
窓の外から鳥の声が聞こえて来る。ゆっくり瞼をあげて窓の外を見ると、町は夕日に照らされている。私はまたしても勢いよく起きることになり、隣にいた姉さんの姿はなかった。机にパンと水差しが置かれていて小さな紙に「ゆっくり食べてから来てね」と書かれている。頭を抱えながら大きなため息を吐いて、おとなしく椅子に座ってパンを食べた。食べ終わって一階に下りると、すっかり顔色の良くなった姉さんが診察室を行き来していた。朝に来てくれた助っ人達も良く動いてくれている。私に気づいた姉さんがにこっと笑った。口元に布を当てていても目元だけでその様子がわかる。
「おはよう、顔色良くなったね」
「……うん、姉さんもね」
不満そうな顔をしていると姉さんが私の頬をつついてきた。その顔はとても楽しそうだ。
「シャトルのおかげで報告書も間に合ったんだよー。ありがとう」
「……起こしてくれたら良かったのに」
「いやいや、今朝に間に合ったのはシャトルの観察が正確だったおかげだから。頑張ってくれた分寝ててほしかったんだよ」
姉さんは私を抱き込むと頭をぽんぽんと撫でてくれる。うれしいような、気恥ずかしいような、複雑な気持ちを抱えながら姉さんの肩に額を乗せた。
「次は起こしてくれないと許さないから」
「え? 次なんて言わないで! こんな大変な処置はもうなくていいから!」
姉さんの言い分にそれはそうだと思いながらも、どうしたってこういうことは起こりうるからやっぱり次はもっとがんばろうと心に決める。
「……うん、そうだね。ありがとう」
私の声色に何を思ったのか姉さんは嬉しそうに笑った。
「それはそうと、伝報来たらしいよ。明日の昼には薬草届くって。これでようやく一息つけそうね」
「そっか、良かった。じゃあもう一頑張りだね」
私も姉さんに倣って口元に布を当てる。診察はおおむね終わっているようだったので、器具の洗浄や調合を始めることにした。移動しようとした私の手を姉さんが掴む。
「どうしたの?」
私が振り返りると姉さんは口元の布を下げて私に耳打ちをした。
「ね、落ち着いたらさ、またコーヒー入れてね。今度はゆっくり飲もう」
姉さんの楽しそうな表情に私もうれしくなって笑みがこぼれた。
「もちろん、今度はミルクたっぷり入れるね」
「ふふ、楽しみ」
布を元の位置に戻した姉さんは奥の診療室へ向かって行った。もう少しすれば姉さんとゆっくりできる。そう思えば頑張る気力が湧いてきた。