英雄殿の邂逅
「見てごらん」
そう言って、父上が馬車の窓から見える白い城を指し示す。十三年前、俺は父上と兄上と共に初めてシルベーヌを訪問していた。
「あの城がシルベーヌ国王の居城。シルベーヌ城だ」
「あれが…」
窓から見えるシルベーヌ城を俺と兄上は食い入るように見つめた。
城壁は真っ白で、幾つも尖塔が建っているのがわかる。まだ距離がある為、細部はわからないがかなり巨大な城である事はわかった。
馬車でシルベーヌ城に近付くと遠目ではわからなかった細部まではっきりと見えるようになった。
馬車で通過した城門は一見すると蔦のような植物に覆われているように見えたが、よく見てみるとそれは蔦のように加工してある金属だった。取っ手の金具も蔦が絡んで丸い輪になるように金属を加工してあった。加工した金属を使って城門を装飾しているのは初めて見た。
馬車を降りて、城内に入っても驚きの連続だった。
白亜の城は城内の柱一本一本に細かい彫刻が施されていて、まるで柱自体が芸術作品のようで、うっかり触って壊してしまわないかと心配になる。
自分達の居城であるセレスト城は石造りの堅牢な城で、こう言った装飾の類は一切ない、質実剛健な城である。あまりに違い過ぎるので、俺も兄上も初めての場所に対する好奇心より城全体が一級の芸術作品のような城に身の置き所のない居心地の悪さを感じていた。
父上、兄上、俺。それぞれに部屋が用意されていたけれど、初めての場所で心細さを感じた俺は、その夜は兄上のベッドにお邪魔した。
次の日は式典が執り行われた。式典が終わると、今度は大広間でのパーティーになった。何の式典なのか、何のパーティーなのかわからないまま俺は父上と兄上の後ろをついて回る。
人でごった返す大広間の隅で一息ついていると、ふと窓ガラス越しに明るい太陽に照らされた庭が目に入った。
父上や兄上はいろんな人達と話しをしていて忙しそうだし、大人同士の難しい会話の内容は俺には半分も理解する事ができない。
だから、退屈で仕方ないんだ。
俺はバルコニーへと続く大きな窓ガラスをそっと押し開けた。
バルコニーに出て、窓を閉めると大広間の喧噪は遠く、自分だけ別の世界にいるような気分になった。
バルコニーの端に庭へ降りる階段を見付けると、その階段をそろりと下る。
庭に足がつくと、この城に来て初めて心が高揚するのを感じた。まだ続きそうな退屈なパーティーにうんざりとしていた俺は少しだけのつもりで庭を探検する事にした。
庭は美しく整えられていて、ちょっとずつ植えられている花の種類が違う。庭を散策する人を飽きさせない庭師の工夫なのか、俺はどんどん足を進めてしまう。
大広間には沢山の人がいるのに、庭には誰もいなくて、一人で庭を独り占めしているみたいで、なんだか楽しくなっていく。
すると、どこからか何か聞こえてきた。仔猫の鳴き声、のような…
「猫、なのか?」
一度聞こえてしまったら、聞こえなかったフリをするのは難しい。俺は微かに聞こえてくる声を頼りに猫を探してみる事にした。もしかしたら怪我をしてるとか、親猫とはぐれたとかかもしれない。
声が聞こえる方向へ歩いていくと、目の前に高い薔薇の生け垣が現れた。鳴き声はこの生け垣の向こうから聞こえてくる。
薔薇でできた生け垣は刺だらけで、無理矢理突破するのは無理そうだったので、俺はどこか入り口がないかと生け垣の周りをぐるりと歩いてみた。幸いな事に入り口はあっさりと見つかった。
入り口から中を覗いてみると、そこは無数にある高い薔薇の生け垣に囲まれた薔薇の迷路だった。
一瞬、足を踏み入れる事を躊躇うが細く微かに聞こえる鳴き声に、俺は意を決してその迷路へ入る。
声を頼りに迷路の中を歩くけれど、行き止まりに行く手を阻まれてしまい、なかなか目的の場所にたどり着く事ができない。もう諦めようかと思った矢先、唐突に開けた場所にたどり着いた。薔薇に囲まれた行き止まりではあったけれど、そこには東屋があった。そしてその東屋には人がいた。
自分より小さな女の子。声はその子から聞こえる。
親猫とはぐれた怪我をした仔猫ではなかった事に安堵はしたが、俺は別の意味で困ってしまった。まさか女の子だったとは…
見なかったフリをするには、その子の泣き声は聞いている俺も悲しくなってしまうくらいの声をしていた。悩んだ末に、俺は声をかけてみる事にする。
「どう、したの?」
その子を驚かさないように、俺は東屋の外から声をかけた。
膝に顔を埋めて、小さく丸くなるように泣いていた女の子はびくりと肩を震わせる。ゆるゆると上げた顔は警戒心を剥き出しにしていた。
「俺はセレストの第二王子でヴィンセント・ヴィクトリアス・セレスト。招待されてここにいるんだ。君は?」
通常、自分から知らない人間に『自分は王族です』と名乗る事はないけれど、今回は例外だ。こんな小さな子が悪い人間とは思えないし、何より城にいるのなら、この子も親と一緒に式典に参加している貴族かもしれない。着ているドレスも絹で作られているし。小さいからどこか部屋で待たされていて、退屈になって俺みたいにフラフラと庭に出て来て迷子になったんじゃないかと思う。
「迷子になったの?」
俺が名乗った事で少しは警戒心を緩めてくれたのか、泣いている理由を尋ねると、ふるふると首を横に振った。
「…んが、…う…いって…」
泣いているのと、離れているのとで、女の子の言葉は不明瞭だ。
「ここだと君の声がよく聞こえないんだ。そっちに座ってもいい?」
その子は首を縦に振って、許可してくれた。俺は「ありがとう」と礼を言ってからゆっくりと女の子と同じベンチに座る。但し、俺と女の子の間には一人分の空間を空けておいた。
「それで、どうしたの?」
俺は改めて、女の子に泣いている理由を尋ねてみた。
「みんなが、わたしはお母様みたいに美しくないって言うの。お母様はとても綺麗な金色の髪をしているのに、わたしは髪は赤毛だから…」
その子の髪は確かに赤毛だ。夕焼けのような色をしている。
「赤毛は駄目なの?」
「シルベーヌでは輝く金色の髪と深い青い瞳を持つ女性が美人なの。だからわたしは美人じゃないの。こんな髪、大っ嫌い」
国によって綺麗の基準が違う事に俺はびっくりした。
「俺は君の髪は綺麗だと思うよ」
偽りでも慰める為でもないこの言葉は俺の本心だ。
俺は女の子の髪を一房、手に取る。
「夕焼けみたいに綺麗な色だ」
他国の人間の俺に言われても嬉しいかどうかはわからないが、金色の髪と青い瞳だけが美人の条件ではないと知って欲しい。
「綺麗?」
初めてその言葉を聞いたと言うように、女の子は俺の台詞を繰り返す。
「うん、綺麗だ」
嘘じゃないと、俺はその子の言葉を肯定する。すると、その子は嬉しそうに…本当に嬉しそうに笑ってくれた。
※ ※
目を開けると、最近ようやく見慣れてきた天幕が視界いっぱいに写る。
まだ部屋の中は暗く、夜明けが遠い事がわかる。
さっきまで見ていた夢はあの庭であった俺の記憶。
あの事を夢に見たのはきっとあの庭に触発されたからに違いない。
昼間、女王陛下に言った退屈だから式典を抜け出して庭を探索していた事に嘘はない。ただ、言わなかった事があるだけだ。
言わなかった事。
それが、あの庭で出会った赤毛の女の子の事。
あの当時、五歳か六歳くらいだったなら、今は十八、九歳。陛下と大体同じくらいだろう。
あの子はもう、泣いてはいないだろうか?