英雄殿の頼み事
腰を下ろしたソファーは適度な柔らかさで、とても座り心地がよかった。
「こちらでお待ち下さい」と案内された部屋は謁見の間ではなく小さい応接間のようだった。
小さいとは言っても多分この城で小さいだけであって、広さは充分あるし、庭に面した硝子窓は曇り一つ見付けられない程ピカピカに磨き上げられ、太陽の光が惜しみなく部屋降り注いでいる。
この部屋にさり気なく置かれている調度品の数々も、目が飛び出そうなくらい値の張る品物だと言う事は想像に難くない。多分、この部屋で一番安いのは俺の着ている服かもしれない。一応、手持ちで一番良い服を持参して、宿で汚れを落として着替えてからこちらに来たのだが…
俺は気持ちを落ち着ける為に女官が淹れてくれた、お茶に口をつけた。
自国では、望む事のできない一級品のお茶に舌鼓を打っていると、部屋のドアがノックされた。
「陛下がいらっしゃいました」
女官の先触れに、俺は手にしていた茶器をテーブルに戻すと、その場に立ち上がった。
女官が開けたドアから現れたのはストロベリー・ブロンドに琥珀色の瞳をした若い女性。
御年十八歳のシルベーヌの麗しき女王陛下、アンジェリーゼ・マリアンナ・シルベーン。その人だった。
「お久しぶりですね。セレストの英雄殿」
鈴を転がすような美しい声だが、美しいだけではなく、他を平伏させる事ができる声だ。今はまだ父親である前国王の喪中故、未婚であるが、彼女が花婿探しを始めたら立候補者が引きも切らない事態になるだろう。
「お久しぶりでございます、女王陛下。今回は急な訪問にも関わらず、お目通り下さいました事、感謝申し上げます」
直立不動の姿勢で挨拶をすると、女王陛下は鷹揚に頷き、手にした扇で俺に座るように促す。
女王陛下がソファーに腰を下ろしたのを確認して、一拍おいてから自分も再び腰を下ろした。
女王陛下は女官が目の前に置いたお茶を一口飲んでから口を開いた。
「それで、今回セレストの英雄殿は如何なる理由でわたくしに面会を求めたのでしょう?」
可憐で嫋やかな見た目を裏切り、女王陛下の中身は質実剛健。実際即位したのは一年前なのに、もう長年シルベーヌに君臨しているような風格さえ漂わせている。
「…今回、我が国をお助け下さり、本当にありがとうございます。女王陛下にはいくら感謝してもしきれません」
ズバリと本題に入ろうとする女王陛下だが、俺は借金の申し込みを口にする事ができず、とりあえず援助に関して先に感謝を述べておく。
「我が国と貴国は同盟国です。助け合うのは当然の事ですわ」
今だ。今しかない。
俺は呼吸を整えると「女王陛下にお願いがございます」と口を開いた。
「なんでしょう?」
さして驚いた様子も見せない女王陛下はもしかしたら、俺が突然訪問した理由がわかっているのかもしれない。
「食糧を援助して頂きながら、厚かましくもお願い申し上げます」
ここで、一度言葉を区切った俺は意を決して言葉を続けた。
「どうか、同盟国である我がセレストをもう一度お助け下さい」
「具体的にはどのような援助をお望みなのでしょう?」
「資金の援助を頂きたく…」
膝に手をつき、頭を下げる。歯を食いしばって頭を下げ続けている俺の耳に女王陛下が茶器を取り上げ、お茶を飲む音が聞こえた。
そして再び、茶器をテーブルに戻す音。
「それで、貴国が差し出せる物はなんですか?」
「差し、出す?」
予想外の要求に顔を上げた俺は彼女の言葉をオウム返ししてしまった。
「二年前はグランハルと国境を接したくないと言う理由がありました。食糧は代金を支払って頂いたので、お出ししました。今回の資金援助は我が国に利益はありません」
「しかし、同盟国は助け合うものだと先程…」
「同盟とはお互いに利益があってこそ成り立つものでしょう」
悔しいがその通りだ。女王陛下の方が俺なんかよりよっぽど政治のなんたるかを知り尽くしている。
セレストに差し出せる物は何もない。すいません、父上、兄上。
絶望的な気持ちになったが、だからと言って俺はここで引き下がる訳にはいかなかった。
「今、セレストが差し出せる物は何もありません。ですが、いつになるかわかりませんが、借金は必ず全額お返しいたします」
「返すとおっしゃいますが、具体的には何年以内に?稼ぐあてはありますの?」
「それは…」
鋭く切り返されて、ぐうの音も出ない。
「英雄殿の御言葉を偽りとは思っていませんが、実行力のない御言葉を安易に信用する事はできません」
ばっさりと切り捨てられる。さすがにこれ以上言葉を重ねる事ができなくて、口を噤むしかなかった。次に彼女が口を開いたら、やんわりと帰国を促されるだろう。
「もし、わたくしが資金援助の対価に英雄殿がお持ちのものを欲しいと言ったら、差し出せまして?」
「え…」
てっきり帰国するよう言われると思っていた俺は反応が遅れた。じわじわと頭に質問の意味が浸透すると、交渉に失敗したとばかり思っていた俺は迷わず頷く。
「自分に差し出せる物ならば」
「誓って?」
「神の御名と我が剣に誓って。して、女王陛下が御所望の我が持ち物とはなんでございましょう?」
花が咲くようなと言う表現がしっくりくる笑顔で女王陛下は宣う。
「貴方ですわ」
「は?今なんと…」
自分の耳がおかしくなってしまったのだろうか?
なんと言われたのか、よくわからなくて思わず聞き返してしまった。
「わたくしが所望するのはヴィンセント・ヴィクトリアス・セレスト。貴方ですわ。英雄殿」
けして小さくはない部屋に女王陛下の声が大きく反響した。