恋と食餌と人の町
何が起こったのかわからない。何故、私は迷っているのか。
叢。遠くには木々が密集しているのが見える。周りは草が生い茂り、石が転がっている。
目の前には獲物がいる。とても美味しそうな雄がいる。なのに私は、動けなかった。
雄も、私の様子がおかしいことに気が付いたようで、逃げるべきか悩んでいるようだ。
「…逃げて」
私は、彼にそう言った。彼は驚いていた。
「何故?お前は何をしているんだ?俺は死ぬことを覚悟しているし、それが自然というものだから喰われても仕方ないと思っている。なのに、何故お前は動かない?何故、俺を喰おうとしない?…お前は、何者なんだ?」
「…わからない。ただ、何匹もの兄妹と一緒に生まれた。貴方と同じ生き物なのは確か。でも、変なの。何故か、あなたを食べる気にはなれない。食べたら後悔する気がするの」
私は、後退りした
「脳が侵されたか?あの細い奴に憑りつかれたのか?」
「多分、それはないわ。確かに、自分自身で考えて行動してる。なのに…」
彼は、後ろを向いて歩き出した。
「…まあいい。俺はとりあえず逃げる。でも、後ろからお前に襲われてもいい。もしただ単にふざけているだけなら、お前は大事な餌を失ったことになるぞ」
彼は振り向いた。
「雌は雄を喰らう。雄は喰われながらも子孫を残す……それが俺達、カマキリという生き物のはずだ」
そう言って彼は去って行った。
「…わかってる。わかってるけど…」
餌を逃してお腹は空いてるのに、何かが満たされた気がした。
「変わってるわね。私に謝るなんて」
雄のカマキリと出会った次の日。目の前の獲物――白い小さな雌の蝶が言った。
「自分でもわからないわ。なんで私、あなたに謝ったのかしら?」
蝶のはらわたは既に無い。私が食べたからだ。
「あなた、実は人間だったりしてね」
「人間?あの、蜘蛛ですら逃げるっていう超生物?」
「ええ。人間はよく謝るそうよ。知り合いから聞いたの。あなたも聞いてみたら?」
蝶は、この先の森の奥にある、大きな木にいる、と言って息絶えた。
「人間…そう言えば、まだ見たことないわ」
話には聞いたことがある。餌はみんな言う。「人間に捕まるよりはマシだ」と。人間に捕まると、水攻めにされたり、羽をもぎ取られたり、全身を針で貫かれたりするらしい。私達カマキリや蜘蛛に食べられるよりも酷い拷問だそうだ。
「人間…どんな生物なのかしら」
森の大きな木。そこに行けば、人間について知ることができるらしい。
「行ってみようかしら」
森までは少し距離がある。蝶が言った木に行くには数日かかりそうだった。
「森には、ちゃんと餌いるかしら…蜘蛛ばっかりは嫌だわ」
蜘蛛には逆に食べられてしまう。蟻だらけも嫌だ。蟻はどんな虫でも喰らうからだ。
「でも、森ならいろいろいるわよね…?」
森に向かって歩き始めた。
今は夏という季節だと、木にいたアブラゼミが教えてくれた。人間は一番暑い季節と言っていたらしいが、それ以外のことは何も知らなかった。
「やっぱり、森の奥にいる奴に聞くしかないようね」
取り損ねた蝉の代わりに捕まえた青虫を食べてから、また森の奥に進む。周りには自分よりも背の高い草が大量に生えている。そしてその草よりも高いのが木。疲れるからあまり登りたくない。大きな木がいくつも生えている森の中で、草すらも生えていない場所が細長く続いている。人間はこの草が生えていない場所を好んで進むらしい。
「つまり、この道に入らなければ得体のしれない人間とは出会わないってことね」
どんな生物なのかを知る前に出会うのは避けたい。どうやって撃退すればいいのかわからないから。森では、地面にいると蟻とよく出会う。こっちが傷ついていないからか、自分一匹しかいないからなのか、蟻は襲ってこない。
「忙しそうなところ悪いんだけど、ちょっといいかしら?」
道の近くにいる蟻なら、人間のことを知っているかもしれない。若い蟻に話しかけてみた。
「ん?なに?」
「あなた、人間って知ってる?」
「人間?」
蟻は斜め上を見て、記憶を辿っている。
「私は見たことないけど…女王様は何度か見たことあるって言ってたわね」
「女王様には会えないの?」
「あなたが餌になるなら会えるわよ?」
「…遠慮するわ」
「いい判断だと思うわ……聞いた話、人間には何種類もいるんですって。大きいのから小さいの、太いのから細いのまで。体の模様も同じものは殆どないとか」
「模様が違う?同じ種族なのに?」
「服、というものを身に着けているそうよ。人間はそうやって体に纏う物を変えて、厚さや寒さから守るんですって」
「賢いのね、人間って」
「でも、絶対に近付くなと言われているわ。女王様は溺れているところを小さい人間に救われたことがあるらしいけど、別の場所では私達蟻の頭を
「…そろそろかしら」
結構歩いた。人間の道も殆ど草に覆われた状態になっていて、周りは背の高い草が生い茂り、多くの木々が生えている。
「ここには人間もあまり来ないのかしら?」
木の根元には赤い、変わった形の植物が生えている。
「私の餌ではなさそうね」
餌は虫だけ。生まれた時から何となくそう感じている。見るからに毒を持ってそうだが、人間はあれを食べるのだろうか。
「…食べてみようかしら」
その赤い植物に近寄る。少し眼が痛い。
「ちょっと!何やってんの!」
少し近付くと、上から声と羽音がした。上を見ると、黄色と黒の縞模様を持った虫がいた。
(蜂…しかも特にでかい奴だ…)
蜂は蜘蛛やカマキリと同等の捕食者。時には他の蜂も食べる。
「そのきのこは近付かないほうがいいわよ」
「茸?この赤い奴?」
蜂は危険を教えてくれたらしい。
「そいつは植物というよりも菌よ。人間も近付かない猛毒」
「…人間を知ってるの?」
「?ええ。蜜を集める時に良く見かけるわ」
蝉が言っていたのは、この蜂かもしれない。
「私、人間を見たことがないの。それで、蝉にこの森の奥に人間を知っている昆虫がいるって聞いて来たの」
「なるほどね…多分、女王様のことね。女王様は一度、人間に救われたって言ってたわ」
「私、女王様に会える?」
「それは聞いてみないと…とりあえず巣に来る?」
お互いに襲わないことを約束して、蜂に付いていく。
「ねえ、ここには人間は来ないの?」
「ここまで奥に来ることは滅多にないわ。私達蜂のことも怖がってるし」
蜂は毒を持っている。しかもこの蜂は特に強力な種類の毒だ。
「それに、この森には蛇とか、他にも人間から見た危険生物が結構いるのよ」
大木の前に着いた。周りの木よりも大きい。少し高いところに、巨大な蜂の巣があった。
「この巣に女王様はいるわ。ちょっと待っててね」
そう言って蜂は巣に入って行った。巣の周りには他にも蜂がいて、警戒している。
「当然よね。自然界で信頼できるものなんてそうそうないわ」
しばらくしてからさっきの蜂が出てきた。周りの蜂に何かを知らせると、蜂達が一斉に辺りを飛び出した。さっきの蜂が戻ってくる。
「もうすぐ女王様が来るわ。いつもは何があっても出てこないんだけど、貴方に興味があるみたい」
「それで皆、慌ただしくなったのね。女王様を守るために」
「ええ。ここら辺は安全だから問題ないと思うわ」
直ぐに巣から数匹の蜂が出てきてその後に続いて大きい蜂が出てきた。
「あの方が女王様よ」
「…こんにちは、貴方が人間について知りたがっているカマキリね?」
女王様が問う。
「ええ。知っていることは全て教えてほしいわ」
「…私も人間ではないから、人間の全てを知っているわけではないけど、人間には数種類いるわ。大きい者もいれば、小さい者もいる」
何かを思い出すように、女王様は語る。
「昔、私を救ってくれたのは小さい雄だったわ…小さいとは言っても、私達の何倍もあるけどね。人間は成長して、身体が数倍になるようよ」
「数倍…」
「ええ、大きい人間だと、背の低い木なら簡単に飛び越えるわ。この巣がある大木ほど大きい人間は見たことないけど」
「人間にも大きさの限度があるようね」
「ええ。でも人間はどうやら万能的に進化した動物のようね。そこそこ木に登れて、そこそこの力があって、そこそこ泳ぎが得意みたい。中途半端とも言えるけど」
「万能的な進化…」
「そう言えば、どうして貴方は人間のことを知りたいの?」
「実は、蝶に言われたのよ。私が人間に似てるって。蝶を食べる時に、蝶に謝ったんだけど…」
「…成程ね。確かに、貴方は普通のカマキリと少し違うみたい。食料に感謝するのは人間がよく行う儀式よ。食す前に前脚を合わせて呪文を唱えるのよ。どんな効果があるのかは知らないけど」
「何それ、怖いわ」
「人間は不思議な生き物よ。機会があれば少し観察してみてもいいかもね」
女王様が巣に帰ろうとする。
「あ、待って!最後にもう一つ、聞きたいことがあるの」
「何?」
「私、一度だけ雄のカマキリを食べることができなかったのよ。なんか彼を見ると、胸部が熱くなるの。寄生虫でもいるのかしら?」
「…貴方、それは恋よ」
女王様が驚いたように言った。
「…恋?」
「ええ。人間を含めた様々な生き物が発症する病気よ。死ぬことはないけど、苦しいわ…私も以前、恋になったことがあってね。それが女王蜂になる条件のようなものだったわ。」
「恋は、繁殖の前兆なのかしら?」
「生き物にもよると思うわ。人間には結構重要みたいだけど、流石にこれ以上はわからないわ」
「十分よ、ありがとう。危険な巣の外に出しちゃってごめんなさい」
「そうやって謝るところも人間っぽいわね…外が危険でなければ、また話を聞かせてあげるわ。人間は町というものを作って住んでるわ。見に行くなら気を付けてね」
女王蜂は今度こそ巣の中に戻って行った。
「あなたもありがとう。人間のこと、少しだけどわかったわ」
「いいのよ。またね」
働き蜂も巣に戻って行った。
「…さて、これからどうしよう」
この森には餌は腐るほどいる。ただ蜂、蟻、蜘蛛と敵も多い。
「とりあえず歩いて考えよう」
じっと一カ所に留まっていると敵に襲われる。
森は餌が多い分、敵も多い。森の外も見て見たいし、人間がどんなところに住んでいるのかも気になる。ちょっとだけ行ってみたい。
「町、か…ちょっと見に行ってみようかな」
どのくらい危険なのかわからない。だけどどうしても行きたかった。
「自ら危険に飛び込んでいくとか、これも人間らしい行動なのかしら」
とりあえず森に来る前にいた叢に向かう。あそこなら餌もいるし、慣れた場所だから森よりは安全なはずだ。
森を抜けて、背の低い草が生えている、水が流れている場所に来た。この場所は叢から森に向かうときにも通った。
「ダンゴ虫くらいならいるけど、餌は少ないのよね…」
水の方には行っていない。何がいるかわからないからだ。
「…ちょっと、行ってみようかしら」
多分、餌になる虫はいない。でも水に落ちなければ大丈夫だろう。坂を下って水の方へ進む。
「石が多いわね…やっぱり虫はいなさそう」
水の音が近付いて来た。そろそろ気を付けないと水に落ちてしまう。
「やっぱり、特に面白いものはないわね…」
元の場所に引き返そうと水を背にすると、背後から気配がした。
「…?」
振り向く。そこには、巨大な奴がいた。
「…何、こいつ」
そいつは全身が真っ赤で、巨大な身体をしていた。脚は虫のように数本あるが。一番前の両足の先には巨大な鋏。身体は堅そうな甲殻で覆われていて、頭には長い触角が二本生えている。
「虫、ではないわね…私の後ろは水だけだったはず…」
人間とはまた別の、未知の生物。
「Who are you?」
そいつは、知らない言葉を話している。
「虫じゃないから通じないのかしら…貴方は誰なの?」
「I`m hungry」
「…?」
「Are you good?」
そいつは、鋏を動かした。言葉は通じないが、何を考えているのかは分かった。
「こいつ、私を食べるき⁉」
「If it`s bad.I should vomit」
何を言っているのかはさっぱりだが、自分が危険に陥っていることだけは野生の勘で理解できる。こいつに敵わないことも。
「逃げなきゃ…!」
すぐに踵を返して逃げる。しかし、相手は身体が大きく動きも早い。
「水から出てきたんだから、水から離れれば逃げ切れるはず!」
滅多に使わない羽を使って飛ぶ。あまり高くは飛べないが、逃げるには十分だった。
後ろの気配が無くなる。十分な距離を取れたらしい。
「…なんなの、あいつ…」
近くにあった草の陰に隠れて、さっきのやつを見る。そいつは飛んだあたりの場所で止まっている。
「本当に真赤…あんな奴見たことないわ」
あの鋏に挟まれたら、硬い甲殻を持っていないカマキリは一撃で潰されてしまうだろう。もっと観察しようとすると、巨大な影が現れた。
「!何…さっきの奴に夢中で気付かなかった…」
草のおかげで保護色となり、見つかってはいないらしい。ただし、さっきの奴は見つかっている。巨大な影はそいつに向かって行った。
「もしかして…」
巨大な影に気付いた赤い奴が、鋏を上げて威嚇する。
「あの巨大な奴…」
離れて全体が見えるようになった巨大な影の持ち主は、赤い奴の威嚇をものともせずに赤い奴を前脚で掴んで持ち上げた。
「あれが、人間…?」
巨大な奴―――人間は、赤い奴をまじまじと見つめる。
「…ザリガニ、しかもこんなにでかい奴がいるなんて…ラッキー♪」
身体に下げていた箱に赤い奴を入れて、その場を立ち去った。
「…ザリガニ?あの赤い奴、ザリガニって言うんだ…」
それよりも。
「人間。初めて見たわ。本当に巨大なのね」
女王様から聞いた話では、もっとでかいのもいるらしい。さっきのは子どもだろうか。
「子どもですらザリガニに勝つなんて…」
人間にとって、毒を持っていない生物は敵ではないらしい。
「まだ人間には他の種類がいるようね…十分に気を付けないと」
それでも好奇心を抑えることはできなかった。
「またさっきの人間が来ると私も捕まるかもしれない…」
やはり立ち止まることはできない。
「叢に戻ったらどうしよう?どこに行けば人間を見れるのかしら?」
「なんだお前?人間が見たいのか?」
いきなり声をかけられた。声の方を見る。
「…あなた、虫なの?」
目の前には、自分と同じくらいの大きさの生物。身体は赤黒くて細長く、いくつも足が生えている。
「人間なんて見ても何も面白くないぞ。やめておけ」
「あなたは見たことあるの?」
「何度もある。人間の中には俺のことをムカデと呼んでいた。人間は俺やお前のような虫を見ると毒ガスをまき散らしてくる奴もいるし、さっきのように襲って串刺しにしたり、喰ったり、他の獣に喰わせたりする奴もいる。人間なんていいもんじゃない」
「随分詳しいわね」
「俺は前は人間の家に住みついてたからな」
「家?」
「人間の巣だ。人間は一つの巣に一匹で住むときもあれば、十匹を超える大群で住むこともある。獣がいればそいつも危険だ。俺はなんとか逃げてここに移り住んだんだ」
「人間十匹から逃げてきたの?」
「俺の場合は、住んでいた3匹と仲間が5匹、合計8匹だった。俺が逃げた後にこっそり戻ってみたら、あいつら巣をでかい怪物で壊してたんだ」
「せっかくの巣を壊すの?理解できないわね」
「人間はそうゆう生き物だ、俺達には理解できないことばかり行っている」
百足が坂の上を見上げた。
「見ろ、人間だ。ここに人間が来るのは珍しいな」
坂の上には人間がいた。遠いから詳しくはわからないが、さっきの人間よりも大きい。
「あいつはただ走っているだけで、俺達を見ても無関心だ。むしろ逃げる奴もいる」
「人間の個体によって違うのね」
「ああ。だがそれを見た目で判断するのは不可能だ。見つからないのが一番いい」
気をつけろよ、と言って百足は去って行った。
「人間の巣、家か…流石に危険ね」
しかし好奇心は収まらない。
「少しだけなら大丈夫かしら?百足が住んでたってことは入り込む隙間があるはずだし、逆にそこから逃げることもできるはず」
人間の家がどこにあるかはわからない。しかし、さっき走ってきた人間が来た方向に進めば家はあるはず。
「すごく遠そうだけど、行ってみたいわ」
本能に従順なのは生物の特徴。行きたい場所には行く。
「人間に見つからないように隠れながら行かないといけないわね」
人間が住む町に、昆虫が隠れることのできる自然はどのくらいあるのかわからない。餌になる昆虫がいるのかもわからない。
「でも、昆虫ならいそう。空を飛べる虫なら人間から逃げながら生きることもできそうだし」
元の道に戻る。人間の町がどこにあるかは知らないけど、百足がここまで逃げて来れるなら、そう遠くはないはずだ。人間の町を見るために死ぬわけにもいかないから、餌が多く、人間から隠れる場所、日の光を遮る場所が多い場所を選んで町に行くしかない。
「…大丈夫かしら?」
不安要素しかない。それでも好奇心は相変わらず身体を動かす。
「まぁ、死んだら死んだときに考えることにすればいっか。どうせ虫は長く生きられないんだし、やりたいことやって死ぬならそれでいいわ」
しかし、日は既に落ちかけている。今日は移動せずに休むことにした。基本的に寝ることはないが、夜は寒いからあまり動かない。
「カマキリによっては夜でも元気な奴がいるけど、私には無理だわ」
道の近くに立っている木の根元、大きめの草の陰に隠れる。
「ここならばれにくいし、見晴らしもいいわ」
カマキリは緑色の個体と茶色の個体があり、今は緑色の草に隠れて草に紛れている。動物が身に着けた自然界で生き残る技の一つ、保護色だ。
「明日、一日中歩けば町に行けるかしら?」
そもそも、町の入り口はどんな風になっているのだろうか。森の入り口も正確にはわからなかった。なんとなく木が増えて、森に着いたんだと感じた。
「人間や家が多くなったら町と考えていいのかしら?」
目の前を青虫を担いだ蟻が歩いていく。もうすっかり暗くなって、活動している虫は殆どいなくなった。
「…そういえば、あの雄のカマキリ、今頃どうなってるのかしら?」
もしかしたら他の雌や蜘蛛に食べられているかもしれない。
「…なんか、嫌な気分だわ」
雄のカマキリが食べられるところを想像すると、胸部が痛くなる。これが恋という病気なのだろうか?傷もないのに痛いのは、どんな原理なのか。
「…意味わかんない」
何も考えないようにして、休む。
「…ここは、町、なのかしら?」
百足と出会って数日。灰色の多い場所にたどり着いた。
周りの物は色とりどりだが、全体的に灰色。今まで見たこともない、真っ直ぐに聳え立つ灰色の岩。猛スピードで走り去る白や黒、時々青や赤もある謎の物体。すぐ目の前の道を歩く数えきれない人間。
今は町の中の、人間も通れないような細い道の陰から人間を観察している。元々は緑の多い場所にいたが、人間に踏まれないような場所を求めた結果、ここに着いてしまった。
「思ったよりも木や叢は多いようね…人間のせいで木や叢に近付けないけど」
着いたばかりで虫には今のところ出会っていない。
「とりあえず餌を探さなくちゃ」
草のある場所に行くには、人間達を横切らないといけない。しかし、横切れば見つかって捕まるか気付かれずに踏みつぶされるかのどちらかだろう。今行けるのは、何とか辿りついたこの暗い細道だけ。
「虫はどこにでもいるわ。探せば餌の一匹くらい…」
暗い細道の奥に進む。太陽はまだ高いが灰色の岩に阻まれて細道は薄暗い。
「…何かいるわね」
道の端にある小さくて四角い物の陰に隠れる。頭上の細い足場を鼠が走っていく。
「敵も多いわね。油断できないわ」
カマキリが虫を食べるように、他の動物もカマキリや虫を食べる。それはある意味人間よりも危険な敵だった。人間と違い、ほぼ確実に命を狙ってくる。
「保護色が使えない場所が町には沢山ありそうね…十分気を付けないと」
音を立てないように、ゆっくりと奥に進む。奥に進むと、ダンゴムシや蜘蛛、百足がいた。
「見ない顔だな。最近この町に来たのか?」
百足が話しかけてきた。
「ええ。前にいたところで、百足から人間の町のことを聞いて、興味があったから来てみたの」
「物好きだな。昨日もお前みたいなことを言うカマキリが来たらしいぞ?探せば話が合うんじゃないか?」
人間と動物に気を付けろ、と言って百足は灰色の壁にある小さなヒビに入っていった。
「私みたいなカマキリが、他にもいるのね…」
そのカマキリには、興味が湧かなかった。
「もう少し進んでみようかしら。この先に草があるかもしれないし」
さらに奥を目指す。すると、遠くが明るくなっていた。
「さっきみたいな大きい道に出るのかしら?だったら暗くなるまでこの細道にいるしかなさそうだけど…」
道の先は、小さな花畑だった。入れ物に少しずつ花が植えられている、人間が作ったらしい花畑。透明で巨大なものもあるが、その中にも透けて花が見える。
「ここなら虫がいそうね」
花に近付くと嫌な臭いがした。嫌な気分になる。
「!なにこれ…」
直ぐに花から離れる。
「それにはあまり近付かない方がいいよ」
声をかけられて後ろを振り向く。
「貴方…」
「見ない個体ね…他の場所から来たの?」
茶色い、雌のカマキリがいた。私よりも一回り小さい。
「あなた、ずっとここに住んでるの?」
「うん。見たところ、わたしよりも早く生まれた個体みたい。町の外から来たの?」
「ええ。ついさっき着いたのよ…ねえ、あの変な臭いはなんなの?」
「あれは除虫薬っていう、人間が作り出した虫を殺す薬なの。あそこにある花は人間が観賞用に育てていて、わたし達虫からの被害を無くそうとしてるの」
「人間ってすごいのね」
「あの花の下にあるのが鉢っていう入れ物。ここにある花の中で、鉢じゃなくて地面から生えている植物は安全だから、餌はそこで探した方がいいよ」
「詳しいのね。ずっとここにいるの?」
「うん。ここにも人間は来るけど、そんなに大人数じゃないし、虫を見つけても花に近寄らなければ何もしてこないから、安全なの」
「人間は誰でも虫を殺すわけじゃないのね」
「わたし達が餌以外で虫を殺さないように、人間も無駄なことはしないの」
「うまく共生してるのね」
「相手にされないようにおとなしくしてるだけだよ」
「私達を見ても何もしない人間もいるのね…私は、人間がどんな生き物なのか知りたくてこの町に来たのよ」
「人間を知るために?変わってるね」
雌カマキリは少し考えてから言った。
「とりあえず、しばらくはここで餌を捕るといいよ。暇になったらそこら辺から町の様子を除けば、人間に捕まる可能性も少ないと思う」
雌かまきりはここ、花屋から他の場所への抜け道をいくつか教えてくれた。
「ここでは人間よりも鼠とか猫の方が危険だから注意してね。人間よりも好戦的で、人間よりも素早いから」
「鼠はここに来る途中に見たわ。猫はまだ見たことがないわ」
「猫がいても、ここに逃げ込めば助かるよ。ここには猫を遠ざける薬もあるから、近寄れないの」
「ありがとう。少しずつでも観察していくわ」
鉢から離れた場所にある、野生の花の元に向かう。
「わたし、いまから餌取るんだ。ここには虫が沢山来るから、餌には困らないよ」
「そうみたいね。蝶が飛んでるわ」
「蜘蛛とかもいるんだけどね。人間の町には蜂は殆どいないよ。人間にとっても蜂の毒は脅威だから、蜂の巣があると人間は直ぐに退治しちゃうの」
「殺られる前に殺るってことね」
餌である蝶を食べながら、雌カマキリにこのあたりのことを教えてもらった。ここには時々、私達昆虫を集めに来る人間の子どもが来るらしい。
「子どもは大人よりも虫を怖がらないから、威嚇が聞かないこともあるの。気を付けてね」
「えぇ。ありがとう」
それからは別行動。元々カマキリは集団行動はしない。
「さて、人間の様子でも見ようかしら」
雌カマキリに教えられた草を登り、草から倒れた木に移る。そこから木の上を通って、巨大な石の上に出る。
「聞いた通り、ここから町が見えるわ」
人間の町を上から見渡せる。ただし周りに草や木がないので長居はできない。
「家が沢山…自然もいっぱいあるわね」
今見ている自然に辿り着くのは不可能だろう。自然までの道のりには人間が沢山いるし、他の動物も沢山いる。
「…と、あまり長くはいられないわね」
直ぐに石の上から移動する。今回は敵には見つからなかった。
「さて、どうしようかしら…」
餌はさっき食べた。だからお腹は空いていない。
「ちょっとだけ人間の近くに行ってみようかしら」
地面に降りて、ここに来たときの道から人間が行き交う道を覗きに行く。今回は鼠も百足もいない。
「さっきよりも時間が経ってるし、人間の数が減ってたらいいんだけど…」
細い道に入った角から町を覗く。人間は減るどころか増えていた。さっきは人間の中でも大きな個体が多かったが、今は小さい個体が多い。
「人間は小さい個体…子どもの方が虫に危害を加えるんだっけ…」
この様子では町の中には出られない。見つかれば逃げる前に捕まるかもしれない。
「花屋に戻ろうかな…」
人間は暗くなると数が減るらしい。町の中にある自然に行くならその時がいいだろう。
「とりあえず、暗くなる前にあと二匹か三匹餌を食べておこうかしら」
花屋に戻る。鼠や蜘蛛もいない。
「…?何かしら…」
花屋の近くまで来て、突然寒気がした。動物の野性的本能なのか、咄嗟に身構えて周囲を見回す。
「…ここには何もないわね」
ゆっくりと花屋に向かう。さっきと変わらず、花の香りがする。
「!」
ただ違ったのは、雌カマキリがいなくなっていた。
「…安全な場所はないのね」
雌カマキリは、一応まだいる。だが、もういない。
「あれが猫かしら?」
雌カマキリは、猫に喰われていた。猫は鼠やザリガニよりも大きく、人間よりも小さい。全身真っ白で、毛に覆われている。物陰に隠れて観察する。
「あの雌カマキリには親切にしてもらったけど、自然界で優しすぎると死しか待ってないわ」
結局は、弱い物を蹴落とす者、弱い物を利用する者が生き残る。自然界はそうゆう世界。
「…猫が動くわね」
食事を終えた猫が動いた。腹が膨れたらしく、他の獲物を狩ることなく塀に飛び乗り、花屋を後にする。雌カマキリは肉片一つ残されていない。
「綺麗に食べるのね」
隠れていた他の虫たちが出てくる。私も花屋の庭に入る。
「あらあら、猫が来るなんて珍しいわね」
突然の上からの声。急いで近くの鉢の陰に隠れる。臭いがきついが、身を守るために耐えるしかない。
「さてと、今日売る花は…と、虫が多いわねぇ」
逃げ遅れた虫を踏まないようにしながら人間は鉢を持って近くの家に入り、また鉢を持っていく。その作業を数回繰り返すと、庭に出て来なくなった。
「あの人間は、虫を殺さない個体なのね」
ここは他の場所と比べて安全らしい。
「でもまたあの猫が来たら逃げ切れる自信はないわね…」
暗くなったら、ここを出ることにした。
草の陰に隠れて、暗くなるのを待った。他の虫はどこかで休んでいるのか、明るいうちにここを出たのか、周りにはいない。
「私は、もっといろんなところを見て、人間のことをもっと詳しく知りたい」
餌は明るいうちに食べた。明るくなるまでは何も食べなくても動ける。
「さて…明るいときに見た自然を目指してみようかしら」
細い道を進む。なにか音が聞こえるたびに止まり、慎重に、敵に見つからないように進む。道が一段と長く感じた。
しばらくして、大きな道に出た。人間はいない。大きな高速で動くものも、停止しているものがいくつかあるだけで走っているものはない。明るいときに危険だと思ったこの道を渡るなら、今しかない。
「急がなくちゃ」
急いで道を渡る。人間が歩いていた道を横切って、高速の物体が走っていた道を渡りはじめる。道を半分ほど進むと、地響きが聞こえてきた。
「…何?」
地響きは左から。地響きとともにものすごい音も聞こえてきた。明るいときにも聞いた。高速の物体の音。
「嘘でしょ…」
左から、高速の物体が走ってくる。横から見た時には気付かなかったが、あの物体は地面に接している部分を高速回転させて走っているらしく、地面に接している部分は、物体の両端にあり、物体の中央部分は高くなっている。
「あの隙間に入れば安全だわ」
急いで高速物質の隙間に合わせて移動する。高速物質は少し左右に揺れているが、ほぼ真っ直ぐに突撃してくる。
「もうちょっと…」
ぎりぎりで高速物質の隙間に入る。左右に揺れていたため足が当たりそうになった。当たっていたら確実に潰れていただろう。
「やっぱり人間の町は危険ね…人間が殺すつもりでないもので私が死にそうになってるのにも腹が立つわ」
高速物質は他にいない。何とか無事に高速物質の道を渡りきれた。その先にも人間の道があるが、人間はいないので高速物質の道よりも安全。自然はその先の人間の家に鱗屑している広い場所だった。
「なんとか着いたわね…人間が少しいるけど、暗いし私は見えにくくなっているはず」
ここにいる人間は雌雄一匹ずつで組んで行動しているらしい。行っている行動は理解不能
「…暗すぎるわね」
光はあるが、光の下には人間がいる。光に近付けば殺されるかもしれない。さらに光が届いていない叢の中にも数匹の人間がいる。
「下手に移動すると潰されそうね…」
空腹だが、少し明るくなるまで待ってから餌を探すことにした。明るくなれば、叢でも人間に見つかることなく虫を探せるだろう。
「ここまで来るのに疲れたし、餌を捕るのにも力を使うし、休まないと」
暗い叢の中、大木の根元でじっと動かずに明るくなるのを待つ。
この時間、時々考え事をする。私は何をやっているんだろう、と。じっと待つのは私にとって当たり前で疑問を感じることはないはずなのに、何故こんなことをやっているのかと馬鹿馬鹿しくなることがある。この考えが頭に浮かぶことが他のカマキリとは違うことなのかもしれない。人間を見れば何かわかるかと思ったが、結局わからなかった。
「…明るくなってきたわね」
考え事をすると、時間が早く進む。明るくなりすぎると人間が活発になるため、薄暗い時に行動をすることにした。叢の中にいた人間もいなくなっている。
「もう空腹で限界…早く何か食べないと…」
背の低い草の上に上る。そこには、蝶を食べている雄カマキリがいた。
(そこそこ成長してるし、一匹で満足できそうね)
後ろから静かに近寄り、一気に襲い掛かる。雄カマキリは飛んで逃げようしたが、腕の鎌でしっかり押さえて、胸部から喰らい付く。我慢していたからか、いつもよりもおいしい。
「…あら?」
胸部の大部分を食べてから気付く。
「この雄、私が逃がした雄じゃない…?」
そう言えば、百足が少し前に人間について知ろうとするカマキリがいたと言っていた。この雄カマキリは、私に人間のようだと言った後、何かを確かめようと人間の町に来たのかもしれない。
「まぁいっか。おいしいし」
恋とか人間とかは、食欲の前ではなんの意味もなかった。結局私は、カマキリだった。
後ろに近付く人間……虫かごと虫取り網を持って、昆虫採集に来た子どもに、私は気付かなかった。他のカマキリと同様に。針に刺されて標本にされるか、そのまま飼われて死ぬまで水槽の中で生きるか。それはまだわからない。
虫は人間の言葉を話しません。