エドガー 2
黒くて暗い影のようなものだと、そう思った。
そして比喩抜きで体中から煙のような邪気を纏わせていたそれはこちらに差し向ってくる。
隠しようもないほどの悪意と、憎悪を体中から滲ませて……
現れたのは古めかしい一対の甲冑だった。
靄のようなものが体全体を包み込む、内には僅かなに銀色の輝きを残した中世の甲冑。
人が入っているにしては、随分とぎこちない挙動だがその歩調は何かしらの意図を持っているようにも思える。
その証拠に、手にはおよそ甲冑には似つかわしくない古代中国の曲刀が握られていた。
ブンッ
そんな光景に見入てると、何かが顔のすぐ横をよぎった。
そしてすぐ後に風を斬る鋭い風が頬を割いて、僕はようやく正気に戻る。
気がつくと、僕のすぐ左側の床には細い線のような亀裂。まるで大型のカッターで切り裂かれたような傷が地面に出来ていた。
およそ人間技には見えない、大きな大きな裂傷。
あまりに一瞬の出来事で、今視界に映る光景があまりに現実的に思えなかった。
だがその主たる根源は歩調を緩めることがない。
「……ッ⁉」
不意に視線が合ったような気がした。
その瞬間に、ようやく僕の体が言う事を聞くようになった。
すぐに立ち上がって後方に退く。
それを見た甲冑は、ガタガタと振動しながら剣を持ち上げてそして、振り切る。
今度はハッキリと目に見えた。黒くて、尖った、波のような飛来物。
それが床を削りながらこちらに飛来してきたのだ。
避けよう……と思う前に体が反応した。
なんだか自分の体と違うような感覚。視界の横を剣線が向けて、先ほどまで自分が居た場所を容赦なく切り刻む。僕はそんな光景に身震いをする間もなく、すぐ走り出した。
「はあ……はあ、はあ……」
そのまま何も考えることなく、ひたすら足を進める。
「はあ、はあ、かっ、はッ……」
どれくらい走っていただろうか。気がつけば、僕は博物館の廊下で一人立っていた。
高鳴る鼓動は未だになり止まない。
「はあ、はあ……」
気を落ち着かせると、今度はドッと汗が噴き出した。
「なんだ、これ……」
グッと息を飲み下す。
思わずこぼれた本音には事態の理不尽さが滲み出ていた。
しかし、それでも事態は収まらない。
ガシャン、ガシャン、ガシャン
前から再び甲冑の足音。その音がしたかと思うと、すぐにまた斬撃が飛んできた。
ブンッ
風切り音と同時に咄嗟に避けるも、今度は完全には振りきれず肩に僅かに喰らってしまった。
「ッつう」
燃えるような痛みが肩を刺激し、そこから赤いどろっとした液体がこぼれる。
そのあまりに現実味のない痛感に、もはや恐怖すらも生まれてこない。
ただ思考の方は定まらず完全にパニック状態だ。
(どうしよう……、次はどこから、なんで誰も……)
異常なまでの事態の連続で、もうどこから夢なのかも分からない。
足が震え、肩は揺れ動く。
それでも手には、先ほどまでの剣がまだ握られていた。
グッと力を込めるとその武骨で、重量感のある柄が僕の意識が最低の次元に陥れるのを抑えていた。
何か温かいものに包まれるかのような不思議な感覚。
ただ剣を握っているだけなのに、気持ちが少し安らいだ。
武器を持っているというのはこれ程までに、人を落ち着かせるものなのか。
「すっーー、はあーーー」
大きく息を吐いて、気を落ち着かせる。
そして肩口の痛みをグッとこらえながら傷を押さえつけていると、今度は背後から別の気配を感じた。
ズッ、ズッ、ズッ
足音……⁉
聞こえた先に、目を向けると長い廊下の先から先ほどの甲冑が帯びていた気配を纏った別の存在。
折れ曲がった角の付いた兜に、細かくて小さな板金で固められた脛当と篭手。
そして重々しい胴と袴は見ているだけ身動きが取りづらそうだが、
現れたそれからはそんな気配は微塵も感じられない。
ただ毅然とこちらに歩いてくる。
朱色の鎧兜だった。
紅鎧が右手に日本刀を携えながら歩み寄ってきた。
(二体目ッ⁉)
甲冑の次は日本の鎧兜が来たっていうのか。
それも先ほど同様に、明らかにこちらに敵意を滲ませている。
どうも、こっちに味方をしてあの甲冑と戦うという訳にはいかないらしい。
どうしよもなく絶望的な展開だが、この剣を握っていると不思議と後ろ向きにはなれない。
というよりも、他に別の事を考えている暇がない。
今をどうするべきかそれだけが頭の中を駆け巡っていた。
とりあえずはこの場を離れようと足を引きずりかけるが、動くに動けない。
さっきの二撃ははまぐれで避けることが出来たが次はもう分からない。今度は本当に動けない程の致命傷を受けるかもしれない。
頭を回転させているとさらに背後からは聞き慣れた甲冑の足音が近づいてくる。
前からは甲冑、後ろからは鎧兜。
細い廊下に前後からこの謎の刺客たちに挟まれた状態だ。
(どうする……)
これ以上、逃げ場はない。
かと言って、この剣であの二体を相手するなんて事もできそうにない。
(片方を陽動してその隙に逃げるか、いや僕じゃその陽動でやられる。なら、完全に捨て身で廊下の脇をすり抜ける、これでも駄目だ。僕の足じゃ抜けきれてもあの飛ぶ斬撃でやられる。だったら、剣を投げつけて……問題外だ。)
思考は回るが、それを実行するための身体能力が僕にはない。
これが映画だったら、僕もヒーローみたくもっと活躍できるのだろうが……
そんな感慨にふける間を鎧たちは与えない。互いに剣を振り上げて再びあの斬撃の構え。
(まずいッ)
同時にあれが来られたら、流石に避けきれない。
ブンッ
考える間も無く飛んできた甲冑の騎士の斬撃に対して、僕は避けることはなく持っていた剣で弾き返した。
カンッ
甲高い音が廊下に鳴り響く。
「ぐっ‼」
力の限りを剣に込めて、全力で押し返す。
飛んできた斬撃は軌道をずらされて、廊下の壁に傷を刻みつける。
何とか、一本目の太刀は弾き返せたが背後の二本目は……
兎に角、致命傷だけは避けるべく体を剣線上からずらした。
鎧武者の太刀筋、それは先ほどまでとは違って薄くて細い線のようなもので避けるのは容易そうだが、しかし
「ッ⁉」
細かった線は幾重にも別れ、小さな斬撃に分離した。
そのうちの一つが僕のふくらはぎに突き刺さった。
「いっ⁉」
痛いっ、深く食い込んだ剣の端きれが肉をえぐり、血を滾らせる。
「ッうぁ……」
声にならない声が漏れ、その場に倒れ込む。痛みに揺れる視界の中で、僕は目の前の光景に息を呑んだ。二十メートル程先の廊下から、鎧武者が次の一撃を振りかぶっている。
(もう無理か……)
足を斬られ身動きを取れない今のこの状態では斬撃はもう避けられない。
「終わり、かな……」
自分にしてはよくやったと褒めるべきか。
この奇天烈な環境の中で僕みたいな人間がまだ、息をしているのはもしかしたらすごいことなのかも知れない。
今のこの誰の姿のない環境もこの世界でどこにも馴染めなかった僕にとってはお似合いの場所なのかもしれない。
(このまま、僕は死ぬのか……)
と諦観を覚え始めた僕の手には、それでもなお例の宝剣が強く握られていた。
間も無く、背後と前方からの同時の斬撃が飛んでくる。
無機質で容赦のない殺意の籠った斬撃。
せめて苦しんで死ぬことがないようにと、最後に僕は右手の剣を強く強く握り締めた。