バルザック 2
ここノンタムには四つの区画がある。
まず街の貴族を始め比較的裕福な層が生活する北区。
次に庶民やそれにまつわる商店が並ぶ東区。
街の入り口であり、役所や宿屋の存在する西区。
そして最後に貧困層やスラムのある南区。
バルザックが勤めている闘技場はちょうど東区と南区の境目にあり、当然その層の客が多い。
賭けに来る客の印象や身なりがさして良いものでないのもそれが理由だ。
またこの辺りは区間の境界も曖昧で様々な人間が足を踏み入れやすい。
つまりは、闘技場にはどちらの区間からも入れるようになっているのだ。
そんな場所に大して土地勘の者が何も考えずにらふらふと足を動かしていると
知らない間に治安の悪い南区に迷いこむ……なんていうのもざらにある。
そして、今もそういう境遇に陥った少女が一人いた。
闘技場から出て所まではまだ良かったのだが、生憎その時になってちょうどその日の賭場が終了したこともあって慌ただしい人の波に呑まれ気がつけば、知らない場所に立っていた。
なによりずっと頼りにしていた少年から、拒絶されたのだ。それだけ彼女の心は粉々に打ちひしがれたいたために、碌に周囲の状況など見ていない。
「ぐすッ」
ずっと泣かないでいようと我慢していたが、ついにそれも限界を迎えようとしていた。
しかし、それを今はなんとか堪えて、とりあえず次の行動に移るとする。
だが、
(ここは……)
不安な気持ちになりながら、辺りを見回す。
ひび割れた地面。閉ざされたままの窓や扉。
地面には腐った食べ物や汚物が落ちていて、たまに黒々とした血溜まりのような物すらある。
そんな中を少女はフードも被らずに歩き回っていた。
その危険性にようやく気づいてフードを被り直すも時すでに遅し。
周囲からは嗜虐と醜い欲望をあからさまに表面に出した瞳に見つめられ、少女はそんな視線から逃げるように足を速める。
しかし、溜まった疲れと道が分からない不安感。
さらに少年との離別がその気概を削ぎ、上手く足を動かせない。
そんな中で、よろよろと宛てもなく歩みを進めていると、いつも間にかさらに暗い細道に迷い込んでいた。
路地裏は日中だというのに極端に明かりが差し込まず、ただただ陰鬱な雰囲気で満たされていた
崩れた家の壁や、剥き出しの梁や柱がまた哀愁を誘う。
とりあえず、人の姿は見えない。
それ以上は踏み入ってはいけないのは分かっていたが、しかし、後に戻っても再び下卑た視線をあびるだろうと瞬間的にそう判断し、今は前に進むことにした。
人一人がギリギリで歩けるほどの狭い道幅に威圧するかのような重い空気。
数十歩先にはまだ光の差し込む通りが目に見えているが、今はその距離が長く感じる。
そこをゆっくりと出来るだけ歩幅を乱さないように慎重に進む。
すると、その途中で道の端に何かが転がっているのが見えた。
(あれは……?)
少し目を凝らして見るも、ただの毛玉の様にしか見えない。
しかし、距離を縮める毎にその姿はハッキリとする。
「ッ⁉」
それは無残に殺された猫の死骸だった。
歩いてきた方角からは見えなかったが、腹からは内臓をはみ出させ目は虚空を捉えていた。
そして腹に刺さったままの大型のナイフがその死因を如実に表している。
(誰が、こんな酷いことを……)
人の手による残虐なその仕打ちに目を伏せたくもなるが、どうしても逸らせなった。
そして不意に合ってしまう目と目。
濁り切った灰色の瞳孔が自分に何かを語りかけてくる。
そのとたん背筋を凍らすような恐怖と、言いしれぬ寒気が体を襲い少女はすぐさま足を動かす。
早くこの場から離れたい……そんな衝動が体を突き動かしたのだ。
そのまま猫の亡骸を横目にさらに足を進めると不意に何かに躓いて地面に転んだ。
「あぅ……」
転んだ際に擦りむいた膝を抱えながら、顔を上げるとそこには複数の男の姿があった。
「なんだよ、やっぱり女か」
「へへへ、良い拾いもんだな。とっとと奴隷商に売り渡そうぜ」
「ちょうどさっきの獣戦で負けたんだ、こいつはちょうどいいぜ」
「あ、あの……」
そういう男たちの顔は明らかにまともといえるものではない。
ボロボロの格好と、お世辞にも清潔とは言えない風貌は男達の立場と自分の今後の未来を表わしているようであった。
(逃げなきゃ……)
しかし危機を感じた少女のそんな意思とは無関係に話は進む。
「それで分け前は仲良く三等分か」
「バカ言え、俺が猫をぶっ殺して注意を引いたんだ。俺に半分だろ」
「なんでもいいけど~、この娘、少し味見してもいいよな~、いいだろ~?。」
三者三様、口々に下劣な事を吐きながら少女の身の振りを勝手に決めていく。
そんな光景に身の凍るような恐怖を覚えたメリルはすぐにその場から立ち去ろうとする。
が、そう思えば思う程に体の自由は効かなくなった。
恐怖で膝がガクガクと震え、足が鉛の様に重い。そして目元を涙がこみ上げてくるのだ。
「ハハハ、まぁなんにせよ。金が入るんだ、今夜は遊び明かそうぜ」
「そいつはいい」
結論が出たのか、そのまま少女の肩に男の一人が手をかけようとする。
薄汚れて武骨なその右手。それをただ振り払うことすらできずに、茫然と立ち尽くしてしまった。
そんな時……
ボキッ
「あぁ?」
男の手首は、まるで地面に平伏す様にプランと力なさげに地を向いている。
その事実に男が驚愕する前に、今度は声を出すための喉が潰れていた。
「ガッ……アッ…」
喉元に深い痛みと息苦しさと覚えながら、そのまま地に伏した。
「ふう……」
右手の貫手をそのまま下げてとりあえず、俺は少女の肩を持ち上げる。
「やっぱりここだったか。やっと、見つけたぜ」
「な、なんで?」
「いや、なんでって言われても……まあ、あんたの話をもうちょっと真面目に聞こうかと思っただけだが、おっと」
その時、背後から小ぶりのナイフが振り抜かれ、咄嗟に上体を抱え込む。
「ちょっと、待ってろ。すぐに片付ける」
そう言って背後の男達と相対する。目の前には小柄のすばしっこそうな奴と、大柄の男。
そしてその右手にはそれぞれ、適当な刃渡りのナイフが握られていた。
「おい、クソガキィ。てめえ、何したか分かってんのか?」
まず大柄の男の方が声を掛ける。
「あっ? ごみ掃除だろ?」
面倒くさそうにそう言う俺に、男も不機嫌そうに応じる。
「言っておくが先に手を出したのはてめえだ。このまま憲兵にてめえを差し出してもいいんだぜ」
「年頃の女を前に誘拐をほのめかしていたような奴が何を言うんだ?」
呆れかえる俺に、男は暴力で返した。
「フッ」
「っと」
会話の最中で急激にナイフを振りかざし、俺はそれを紙一重で避け切る。
「っち、あぶねえな」
ビュンビュン
刃こぼれした血なまぐさい刃先が鈍く風を切り、俺を襲う。
その刃筋は、剣技や体術と言った類の精錬さはなく、ただ無造作に振り抜かれているだけだ。
俺は二歩三歩右に後ろに少しずつ引き、剣筋の癖をしばし窺う。粗野っぽくて乱れたチンピラの刃筋。だからこそ俺にとっては好都合だった。
「おせえよ」
そう助言をこぼして、男の振り向かれた肩先からそのまま勢いを利用して地面に投げ飛ばした。男が口から重い息を吐いて、瞠目するのを見送るよりも早く俺はうつ伏せの右の肘に足をかけ、そしてつま先でその場所を強く蹴りつける。
ベキッ
太い木の枝をへし折るような音。
「~~グあぁぁ~~~~ッ」
そのとたんに声にならない叫び声がその場を支配する。
ありえない角度に曲がる右手。出来の悪い木の枝のようなその腕を抱える男の頭上を飛び越え、今度はもう一人の小柄の男へ。
「そこの奴、尻尾を巻いて逃げても良いんだぜ。正直、今は先を急ぎたいんだがって、おい!」
先ほどの大振りだった男の振りとは違い、小手先の素早い剣戟が続く。
二人共、人の話など聞く素振りを見せずに一方的に攻め手を打つ。
一方のこちらはナイフも持っていない丸腰の状態で、そして背後には戦力どころか一人で逃げることもできない少女。
となると、後ろ手で彼女の手を引きながら逃げるとなると至難の業になる。
ならば……
「よっと」
軽く地面を蹴り上げて、あるものを手にする。カランっと手に入ったそれは、ガラスで出来た一本のビンだった。それを微妙に距離置く相手に向けて投げつける。
ブン
と投げるも流石に当たることは無い。ただ、足を止めることは出来た。
「っふ」
その隙に一瞬でその距離を詰めて、混乱に陥るその顎に一発見舞う。振り上げた拳は声を上げる間もなく相手の意識を刈り取ることに成功し、この何の益もないいざこざに終止符を打った。
「はあ……」
軽く息を吐いて、体の力を抜く。後ろの少女に怪我はない……はずだ。
「あ、あの……」
未だに何が起こったのか理解できてない少女に俺は、できるだけ落ち着いた口調で声をかけた。
「怪我はないか?」
「は、はい」
「そっか、なら良い」
とりあえずは当初の目的を達成し、俺は軽く安堵する。
「さっきは悪かったな、その……俺も記憶力はあまり良くないからな」
そう言って、さっき拾った彼女の落とし物を手渡す。
「あぁっ!」
それを心底大事そうに、両手で受け取って胸に抱える。
丸いペンダントのような中には一枚の小さな文字が描かれていた。
その絵の中には幼少の頃、自分のが数少ない同性代の友人に与えた大切な宝物だったのだ。
「ったく、大事なもんなんだろ、簡単に落とすなよな」
「は、はい。ごめんなさい」
とはいえ、本当に謝るべきは知り合いだと気づけなかった俺なんだろうが……
ただ……やはり気がかりだ。
「あ、あの……」
「そもそもだな。なんで、すぐに自分の事を言わなかったん……」
そこまで言いかけて邪魔が入った。
「おい、貴様ら!」
やれやれと振り返るとそこには未だに腰が抜けた様に地面に這いつくばるメリルのさらにその後ろから、清潔な衣服を纏ったえらく自尊心の強そうな連中がこちらに向かってきた。
「ノンタム憲兵団、マルクス・ヨハン兵長だ。これは、一体どういうことか⁉」
若い男の盛りのついた犬のような、叫び声。聞いていてそれはもううんざりする声音だ。
「見ての通りだよ」
俺のいつもながらの悪態に、兵長様は苛立ちを隠せない。
「また貴様の悪行か。バルザック!」
「おいおい、どこ見たらそうなるんだよ」
「少なくとも今、この場で立っているのはお前だけだ」
確かにそう言われれば……
「とにかく、貴様は暴行罪で連行する。縄に掛けろ。そこで伸びている連中も同じだ」
ヨハンの飛ばす指示に他の憲兵たちは機敏に従い、俺も後ろ手で縄をかけられる。
その様子にメリルも声を上げた。
「ま、待ってください! この人は……」
「お~~大丈夫でしたか? お嬢さん、怖い目に合いましたでしょうが、もうご安心を。
我々が責任を持ってこんな薄汚い場所からお返し致しましょう」
優雅な仕草でそうメリルの手を取り、俺とは別の方向に連れていかれる。
「あ、あのちょっと……」
「大丈夫だ。どうせ二、三日で出られる。だから闘技場にいっとけ。メリル」
「黙って歩け!」
俺は軽口を叩きながら、茫然とするメリルに見送られる。
まあ、憲兵団のことは気に食わないがあいつらと居ればメリルも安全なことも確かだ。
だから俺も今は大人しくこいつらの指示に従って、屯所まで赴くことにした。
気になること、話したいことはまだあるが今は少し時間を置いておこう。
明日にはどうせ話を聞ける。
一方のメリルはというと、初めて自分の名前を呼ばれたことに目を大きくして驚きを露わにしていた。