エドガー 1
顔を洗って、鏡で自分の顔をじっと見つめる。
生まれてからの癖っ毛のどこか虚ろ気な顔と目が合って、それからすぐにまた逸らしてしまった。
「はあ……」
相も変わらない自分の顔。生気を無くしたようなその顔は、何とも味気ない。
だからこそ息が漏れてしまった。
深いため息は、瞬く間にテレビのニュースの声にかき消され僕はいつものように出掛けの準備に戻った。
何時もよりやや早い時間での登校。慣れない朝はどこかいつもと空気が違って思えた。
美術館見学……なんて中二になった今ではただの面倒事に過ぎない。
学校の外に出て歩き回るのも億劫だし、なにより一緒に回る相手が居ないのもその要因であった。
自分は人とは何かが違う。
そう思い始めてから、僕の交友関係はみるみる縮小していった。
別に特異な才能でもきらめく知性なんかもない。
ただ、何とも言えない心の靄が僕をそんな感覚に陥らせていた。
その最たるものが最近よく見る夢にあった。
暗闇の中で一人浮いている自分。
見渡す限りどこを見渡しても、目に映るのは漆黒の闇だけ。
黒くて、暗くて、重くて。
視覚だけではない、神経に直接訴えかけるような感傷が僕の胸に恐怖を植え付けていた。
どこまでも冷たい悲しみのような……
そんな夢を一年前くらいからずっと見ていた。
ただならぬ、その気持ちをクラスでも割と中の良い男子に打ち明けたことがあった。
一人で抱えきれないその恐怖と胸のざわつき、それとどことない疎外感。
それを詳らかに話したのだ。
彼がそれを受け入れてくれる……とそう信じて。
しかし、思いとは裏腹に帰って来た答えは何とも素っ気ない簡素なものであった。
『気のせいだよ、気のせい』
『ただの夢だって、考えすぎだよ』
『みんな一度はそんなこと考えるものだよ』
そうじゃない。僕が聞きたかったのはそういうことじゃない。
しかし、そう喚くのはきっと僕の我が儘なのだろう。
彼の言ったことの方が本当の事であって、事実は僕の考えすぎだったのかもしれない。
実際にあの質問の最適な質問を僕自身でも分かっていないのだ。
だとしたら彼に答えを求めた僕の方が間違っていたのだろう。
僕は慰めなんてものを求めてはいけない。
それが正しいんだ。
ただ、そうだとしても一つだけ許せないことがある。
僕がこの自分の孤立を悟る大きなきっかけ。
それは胸に秘めた僕の話を彼はクラスのみんなに口走ってしまったのだ。
そして噂というものが得てして尾ひれが付くのと同様に、僕のその話も様々な憶測や主観と共に流布されていった。
故意ではないにしても、それが僕の自尊心を大いに傷つける結果になったのも確かだった。
それ以来、僕は人と接するということにどうも及び腰になってしまったのだ。
誰と話すのにも遠慮がちになり、それに伴って周りの人たちも次第に僕との距離を随分と置くようになってしまった。
誰にも受け入れられない僕という存在。
まるで自分一人がこの世界から孤立してしまったかのように、世界が僕抜きで完結していた。
『今から1,000年前の世界へようこそ』
時間通りに博物館に着くとそんな見出しのパンフレットを回された。
正直に言うと僕に歴史を顧みる趣味はない。
ただ今から1000年前といえば、日本では平安時代頃だろうか。
日本で貴族達が優雅に歌を詠んでいる間に、世界では大きな戦争や対立があったという。
そんな事実を思うと、なんだか少しだけ歴史に親近感を覚えるようで気が休まるようだった。
そう考えながら広い館内に陳列される世界各国の様々な出土品に目を配る。
東ローマ帝国時代の繁栄を表わす装飾品
十字軍が使用したという武具
中国高麗時代の農具や生活用品など
とにかく時代や国はバラバラで、1000年という区切りにその当時の世界の出土品を一色くたに集めたという感じか。
とはいえ、それで僕自身の興味が示されるわけでもないのだが……
そのまま、大して興味もない数ある美術品を一人で流し見をしながら、歩いていく。
国境と時代を大凡取り払ったような館内。
中世ヨーロッパに実際に騎士が着用していたというフルメートの甲冑について、案内役の女性がなにやら熱心に紹介をしている。そんな中で僕はふとある展示物に目を引かれた。
『古代フランスの大聖堂の地下より出土された刀剣。千年経った今でも剣身には錆や刃こぼれの類は一切見られず、現在も調査中である』
何だか、自分と適当な解説の後ろに展示物はあった。
剣だ。
それも日本刀のような物ではない西洋の物。
抜き身の刃は、思っていたよりも鈍色を誇っていて切れ味はあまりなさそうだ。
しかし、それとは対照的に剣を包む鞘の方は鮮やかすぎるほど目を引いていた。
まるでない物かのように周囲の人間は特に足を止めることもないが、僕にはその剣がとても興味深く思えた。不思議と目を引いていた。
そんな一風変わった展示品に妙な好奇心をそそられ前の方に進もうとする。一歩一歩近づくごとに、剣は大きく目に映りそれに伴って胸の高まりが大きくなる。
剣呑で、厳かで、どこか懐かしい。
まるで幼い頃見た、ヒーローモノの映画のような昂揚感も胸にあった。
そんな感情がにじみ出た時、背後の方から声がかかった。
「あの剣にご興味が?」
不意に声を掛けられ、僕はすぐに振り返った。
「あ、あの……」
そこに居たのは一人の小柄な女性だった。スーツを纏った、長い髪の若い女性。
化粧気の薄い顔とどこか穏やかな声はそれだけ少し、僕を安心させた。
「あら、ごめんなさい。一人でふらっと来たんですけど、やっぱり人恋しくなって。」
そう言いながら、ニコッと笑ってみせる女性に不思議と嫌悪感はない。
「それにしても、すごいですよね、1000年も経ってるていうのに未だにあんなに綺麗だなんて」
彼女も剣の感想を口にする。
「そう、ですね。綺麗だと思います。ただ、少し変というか……」
「変……とは?」
「刃物にしては、なんて言うか怖くないっていうか、なんだか違和感があるというか……」
「それは、具体的には?」
「えっと、ごめんなさい。上手くは口では言えないんですけど」
「あっ、こちらこそすいません。でもよろしければ詳しくお話を聞きたくて」
半場人間嫌いの僕にしては、割と流暢に話を出来たことに我ながらに驚いてしまう。
だけどこの人には内気な僕でも気軽に話が出来てしまった。
それもこの人の人柄のおかげなのだろうか。僕も出来るだけそれに答えようと努める。
「は、はい。えっと、そのどこかで見たことあるような、あっ、でも実際には見たことないんですけど、でも今は不思議と親近感が湧くっていうのか」
自分でも言っていて支離滅裂にも思えるが、でも目の前の女性の方は驚いたように聞き入っている。
「だから変と……?」
「はい。なんだか剣が呼んでいる気がして」
恐る恐る結論を述べると不意に妙な感覚を覚えた。何だか、本当に声が聞こえてくる。鼓膜を叩く様な剣の声。やや遠くに見える刀剣が、僕の脳裏に微かな刺激を与える。
記憶というか、意識に訴えかけていく。
「あっ、ごめんなさい。なんだか変な事を言ってしまって……ははは、おかしいですよね」
ふと我に返り周囲を見ると、柄にもない事を考えていた僕の横顔をじっと見つめる女性。その人が何とも言えない顔で、黙ってじっとしていた。
「ヤット、ミツケタ……」
そんな聞き慣れない言語が不意に頭に響く。ハッと顔を向けるとそこに先ほどまでいた女性の姿はなかった。ただ耳に馴染まない言葉を不思議とその意味を理解できてしまったことに、言い難い不信感とどこか期待にも似た感覚が生じた。
その時、
ガシャンッ‼
背後の方からけたたましい轟音。
音につられ振り返るとそこには人だかりと、床には先ほど見た甲冑が床に横たわる。
(何が……)
展示品が横転したのだろうか。学生の騒ぎ過ぎが原因だろうか……
なんにせよ、それほど騒ぐべき状況でないにも関わらずに僕の動悸は、一層高鳴る。
先ほどの妙な感覚から、一転して今度は明らかな恐怖と悪意。
それが背後から、徐々に迫りくるようなそんな感覚。
それはどこか、あの夢を見た後を感じに似ていた。
思えば、今日この美術館に来てから変な感情に見舞われることが多い。
(僕はどうしてしまったんだ……)
抱えるように後頭部をさすりながら、逃げるようにその場から立ち去ろうとする。
そして次に混乱した。
(どうしてっ、これが⁉)
視線を下げた僕の手には先ほどまで厚いガラスの中に収められていた例の刀剣。咄嗟に冷や汗が湧いた。疑問と混乱を一緒くたに抱く間もなく、さらに次の変化が起きる。
ゴゴゴゴゴゴッ
大きな地鳴りと、がたつく周囲の光景。
「地震⁉」
大きい。
周囲からは悲鳴と、物が倒壊するような音。
そのあまりに強い衝撃に僕は地面に膝を付け、その場に倒れ込む。
(早く、どこかに)
と幼い頃の、防災訓練の記憶を頼りに身の安全を確保しようとする。
そして、間髪入れずに再度大きな地鳴り。
地面に伏しながらでも、感じるその大きな揺れに僕は体の安定を保てずに、首をもたげてしまった。
「なんなんだ、今日は」
自分の運の悪さを苦苦と共に噛みしめながら、顔を上げると今度はこの場の異様な雰囲気に慄く(おののく)。
「これは……」
先ほどまで会場内にごった返していた人の群れが誰一人として姿を消していたのだ。残ったのは取り残された展示品の数々と、そして異様に色あせて見える館内の様相。それはまるで、古めかしい絵画の中に居るような不思議な感じだった。
さらに先ほどまでの揺れも急に鳴りを潜め、無人であることもあってか不気味な静けさがその場を支配していた。僕はその場で首を回し、人の気配を探る。
「おーーい、誰か~~。」
滅多に出さない大声で声帯を震わせるも、帰ってくる答えは当然のようにない。
どうしたものか、と半分途方に暮れながら状況判断をしていると、手に馴染まない
重みがかかっていることに気がつく。
先ほど、知らぬ間に舞い込んできた刀剣が未だに握られていた。
「なんなんだよ、これ」
ガラスの向こうにある時はえらく神々しく見えたそれも、こうして手に取るとなんとも味気ない。あれほど彩のあるように見えた柄や鞘も、間近で見れば実に簡素な造りだし思っていたほどに手に重みも感じないものだ。
まるで、長らく握りしめてきたのように体に馴染む。
ただ、どうしたものか……
そんな立ち呆ける僕の背後から、妙な音が鳴り響いた。
ガシャン、ガシャン、ガシャン、ガシャン
なんだ……?
金物と金物とがぶつかり合う、鈍い衝突音。
その歩みを進めるような音が一歩一歩こちらに近づいてくる。
頬を冷たい汗が流れ落ち、嫌な予感が同時によぎった。あの廊下の向こうから、何か良くない物がやってくる。
それが何かまではハッキリとは分からないが、今までの一連の出来事とは明らかに異なるおどろおどろしい気配。
逃げなきゃ……
感情ではなく、本能がそう叫ぶ中でしかして足や手が思うままに動くことは無い。
ガシャン、ガシャン
それでも足音は止まることなく、迷わずこちらに向かってくる。
不気味で暗くて、そして実態の捉えられない……
……ガシャン
目の前の長い廊下の先からそいつは姿を現した。