3. ビタミンX
「ところでパリでの仕事ですが、まず概要をざっくり話しますので、
それを聞いてから拓海君が行くか行かないか決断してください。
そうですねぇ」
清造はここで一度拓海を見た。
「派手な言葉は使いたくないけれど、
拓海君がいわば我々の最後の切り札なので・・・・。
私としては是非行ってもらいたいと思っています。
仕事内容はやりようによってはそんなに難しいことではありません」
『最後の切り札』と言われて気分が悪いはずはない。
雪化粧のパリを歩く、人類の未来を賭けた最後の切り札、杉浦拓海。
それが僕・・・
「問題の製品は、8年前に遡るのですが・・・・」
清造は静かな声で本題に入った。
「8年前、そうですね、君達が結婚する少し前です。
私は友人のフランス人と共同でビタミンXを開発しました。
彼の名前はジャン=フィリップ・ミシェルと言います」
ジャン、フィリップ、ミシェル、どれが苗字でどれが下の名前なんだ?
顔をしかめた拓海を見た清造はすぐに続けた。
「ビタミンX、拓海君は聞いたことはないと思います。
実際には商品化されなかったので名称もエックスのままなんですよ。
開発は日本で行いました。そして治験はフランスと日本の両方でやりました。
私もジャン=フィリップに同行して渡仏したんですよ。
結局治験といっても商品化をクリアするほどの母数はなかったのですが」
ジャン・レノ、フィリップ・マーロウ、ミシェル・ヨー。
どれも下の名前だよな。しかもミシェル・ヨーは女性だしアジア人だ。
あ、でもそれをいうならフィリップ・マーロウもフランス人じゃないな。
「このビタミン、栄養補給サプリメントとしては完璧な働きをしました。
カプセル型複合ビタミンで、一つ飲めば30分くらいあとに
体が少し熱くなります。そしてその後の一日はとてもよい状態で過ごせますね。
疲れ気味の時、風邪をひいた時など、まさによくあるサプリ商品の広告のように
バイタリティを得ることができるんですよ。
でもこっちは嘘でも誇大表現でもない。データに裏付けられた科学的事実です。
とてもいいもので久しぶりに我々のヒット商品になるかと思ったくらいです。
そうだ、ビタミンX・プロジェクトのレポートを用意しておいたんだ」
清造は後方の本棚の引き出しを開け『VITAMIN X』とラベルのついた
書類ケースを取り出した。そして一番上の綴じられた書類を拓海に手渡す。
表紙には清造の名前と、共同開発者ジャン=フィリップの名前が
アルファベットで書かれていた。ジャンとフィリップの間に
イコールマークがあり、フィリップとミシェルの間に空白がある。
多分ジャン=フィリップが下の名前でミシェルが苗字なのだ、
と拓海は推測した。
わかってよかった。
拓海は表紙をめくり、続けて目次、総合評価のページをパラパラとめくった。
一見した限り、それは清造の言うとおり申し分のない
栄養補助剤のようであった。だが拓海は後半の黄色い中表紙と、
そのうしろの、これまた黄色い紙に印刷された部分に気付いた。
小須田製薬では、この黄色い色を副作用のレポートに使っているのだ。
「とっても出来上がりがいい物だったのですが、出てしまったんですよ。
イエローが。ただ明らかに人間を蝕む副作用ではないんです。
むしろこれを利用すればもっと人類の健康が豊かになるかもしれないような・・・・」
拓海は中表紙を開き、黄色いページの一枚目を読み始めた。
トリ・・・・虫歯審査対象外(歯がないから)、夜間視力回復
ネコ・・・・虫歯完治、夜間視力審査対象外(ネコはもともと夜行性である)
40代男性(日本人)・・・・虫歯完全予防、夜間視力回復なし
50代男性(仏人) ・・・・虫歯治療効果なし、
夜間視力は、老眼の進行のため審査不能
・・ ・・ ・・ ・・ ・・ ・・ ・・
・・ ・・ ・・ ・・ ・・ ・・ ・・
なんだ? こりゃ。
「この副作用、いつもどおり始めたネズミの実験では
わからなかったんですがね。次のトリの実験で異変に気付いたんです。
おそらく服用後30分くらいして体が熱くなる時に、
体内でなにかが起こっているのでしょう。
このトリは実験の後、夜でもうまく飛べるようになりました」
「トリ目が治ったということですね」
「そうです。そしてその次に、ネコがビタミンXをつまみ食いしてから、
そのネコの虫歯が治ったことが確認されたんです。」
「ネコ舌は治らなかったんですか」
「残念ながらダメでした。熱いミルクを飲ませて舌に火傷を
させてしまいましたよ。軽い火傷だったんですがね。
かわいそうなことをした」
ほんとにやったんだ。ネコも災難だ・・・。
この時初めて拓海はネコに降りかかる災難を想ったのだが、
これはこの話の本筋に関係ない。
「ジャン=フィリップはえらく怒りましたよ。
それは彼のネコだったんです。ま、彼の飼いネコだったおかげで
虫歯が治ったことがわかったんですがね」
「とすると、この男性2名、日本人とフランス人、というのは・・・・」
「ええ。私とジャン=フィリップです」
つまりリストにある50 代日本人男性とは清造である。
「お義父さん、虫歯予防が完全とは」
「私は、もともと虫歯がなかったんです。なのでしばらく
歯を磨くのを止めてみたんですよ。でも虫歯は一つもできなかった。
いくら歯を磨かなくてもね」
「しばらくとは?」
「うん、歯磨きをしなくても虫歯ができないのはいいけれど、
やっぱり歯を磨かないと気持ち悪いんですよ。口の中が。
臭い感じもして、人と話すのにも良くないし。
で、結局現在も食後には磨いています。すっきりしますね。歯磨きをすると」
なるほど。
そう思いながら拓海は、もう一度イエローファイルに視点を戻した。
「あ、でもジャン=フィリップさんの虫歯は治らなかったんですね」
「そうなんですよ。その辺がよくわからない。ビタミンXは、
できてしまった虫歯は治さないのか。いや、でもネコの虫歯は治している。
では人間の虫歯がダメなのか。そしてトリ目の点もまだわからないことが多い」
「虫歯、トリ目のほかに何かあらわれた症状はあったんですか」
「う~ん。実は耀子にも飲んでもらったのだけどね、
耀子も私と同じように虫歯は予防型の結果でした。
目は変わらず。そしてあの娘はビタミンXを飲んでから・・・・」
「飲んでから?」
「少し性格が良くなったような気がする」
つぶやき気味にそう言った清造は、再び外の雪を見た。
どうやら2センチくらい積もったようだ。
拓海の同僚達が中庭に出て雪遊びを始めている。
その中に耀子の姿はない。
「では、このファイルはお借りして、もう少し詳しく
読ませていただくとして、今回のパリ行きの具体的な目的を
話していただけますか」
清造は窓の外を見続けている。
同僚の一人がわずかな雪で雪球を作りもう一人の同僚に向かって投げた。
「フランスでは野球は人気がないですね。やっぱりサッカーです。
サッカーと自転車とストライキがフランスの3大国民的スポーツと
言われているようです・・・・。さて、パリのミッションですが、
このとおりビタミンXにはまだまだわからないことが多すぎます。
でもこのまま放っておくのもうまくない。それなので、
拓海君にはパリでの治験者のその後を調査していただきたいのですよ」
一呼吸おいて喋った清造は振り返って拓海をまっすぐ見た。
拓海は、この義父がこのようにして正面から自分をまっすぐに見るたび、
なんと上品でかつ伊達な顔立ちをしているのだろう、
とかねがね思っていた。今も同じである。
「パリでビタミンXをテストした女性は10人前後います。
テストは女性だけでした。というのも、私がパリに居た時に
懇意にさせていただいた女性に飲んでもらったのです。
『懇意に』というより『お付き合いさせていただいた』とか
『彼女だった』というべきですね。どの女性も大変魅力的で、
男として惹かれずにはいられない方々でした。
どのかたも素晴らしかった・・・・」
思い出せば拓海は耀子から『清造はパリに1年ちょっと行っていて不在だ』と、
付き合っていた頃に聞いたことがあった。
「でも、誰とも永遠には続きませんでした・・・・。」
静かに目を伏せた清造を見て拓海は言った。
「そうですか。残念でしたね。しかし、女性が10人とは・・・・」
拓海は目を伏せたままの清造をちらっと伺った。だがまだ顔は上げない。
拓海の反応を伺っているのだ。
「母数としては少ないですね」
拓海は我ながら良い切り返しだと思った。案の定清造は面をあげた。
「そうなんですよ。実はね、滞在期間の一年数ヶ月のあいだに、
彼女はもっとできたんですよ。でも、ビタミンXを飲んでもらえたのは
10人くらいなんです。ただ、そのうちの1人は、私が付き合った方の
妹さんなんですがね。で、その飲んでもらった女性たちのうち、
既に数人はもうフランスにいないことがわかりました。
その方たちの追跡調査はこちら側で別に依頼しています。
結局パリでの調査は残る5人前後ということになります」
その後、清造は簡単にパリ・ミッションの概要を説明した。
もし拓海がこの申し出を承諾するならば出発は余裕をもって
今から半年後くらい。つまり5月か6月だ。会社が用意する
アパートメント・ホテルに滞在しながらそれらの女性を見つけ出し、
8年前に飲んだビタミンXの作用で体に変異が起きているかどうかを探っていく。
共同開発者のジャン=フィリップ・ミシェルは、現在ノルマンディに
半隠居状態で暮らしているらしいので、フランスに着いたら連絡をして
助けを求めてもいいとのこと。ただし、8年前にこのビタミンXの件で、
清造とジャン=フィリップの間に意見の相違が生じ、いわば仲たがい状態になり、
現在はあまり連絡を取り合っていないそうだ。
どうやら清造が付き合う彼女達に薬のテストを頼んでいたのが原因らしい。
こういうやり方はジャン=フィリップの考えにそぐわなかったと
清造は言った。
フランス語に関しては、渡仏までの間、近所のフランス語学校で
個人レッスンを受けてもよい。或いは、家庭教師を雇っても構わない
ということだった。なるほど、ここ神楽坂・飯田橋地区はフランス人も多く、
誰かを見つけるのは難しくない。
拓海がビタミンX・プロジェクトファイルを持って清造の部屋を出たのは
午後1時を大幅に過ぎていた。雪は3、4センチくらい積もっていた。
昼休みも雪の庭に出ていた同僚達は既に自分の研究室に戻っている。
あ。みんな行っちゃったのか。惜しかったな。
拓海は片手で雪をすくい、手のひらで握って球を作った。
そしてそれを中庭に向かって投げた。
パリにも雪が降るって言ってたな・・・。
耀子にこの話をしないといけない。今夜は戻るだろうか。
拓海は帰りがけに耀子の研究室のドアを叩いてみることにした。
一方、本社棟の渡り廊下では、拓海の後に部屋を出た清造も
満足した表情で雪球を投げていた。
雪球は進入禁止の標識に命中。
うん、今夜は『あずさ』で熱燗だな。
清造はニヤリとした。