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パリのミュータント  作者: いろは ポレ
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2. 神楽坂の雪

約10ヵ月前、東京、神楽坂。


拓海は総菜屋が並ぶ小道の奥にある小須田製薬の門を入った。

大正時代にここ神楽坂でつつましく始められた家業の薬屋は、

徐々に繁盛し敷地も広がった。

現在では本社・営業業務を行う三階建ての棟と、

その後ろに、研究所と倉庫が併設された建物のの二棟がある。

そしてその二棟の間に少々の芝生の庭があり、

東京山手線内でありながら一息つける静かなオアシスとなっている。


拓海は本社棟を通り過ぎ、その後ろの研究棟に入ると、

廊下を進んで耀子の研究室の前まで来た。

昨晩も耀子は帰らなかった。

拓海は扉をノックし「おはよう」を言おうとしたが、

彼女がまだ眠っていることを思い、その手を止めた。


体だけは大切にしてほしい・・・。


廊下の窓の外を見ると、そのうち雪でも降ってきそうな

深いネズミ色の空がある。


いっそ雪でも積もった方が面白いのに・・・。


拓海は自分の研究室に入ると、コートを脱いで白衣を羽織り

パソコンを立ち上げた。


― 拓海君、急で悪いのですが今日の午前中時間がありますか。

あったら私の部屋まで来てください。提案があります―


拓海がメールボックスを開いて目にしたのは、

朝一番に送られた清造からのメッセージであった。

清造がこうしてメールを送ってくるのは珍しい。

いや入社して初めてではないだろうか。

従来、業務関係のことは常に総務や営業が連絡してくるし、

家族のプライベートな用件は、耀子が取りつぐか、

自宅に電話がかかってくるのが常であった。


何の用だろうか。お義父さんと話をする時間もないほど、

耀子の研究は佳境を迎えているのだろうか・・・。


いずれにせよ、現在拓海には差し迫った仕事もない。

― では10時半に伺いたいのですがよろしいですか ―

拓海は簡単に返信した。

そして、それを送信して三分と経たないうちに

― では10時半に待っています ―

との返事を受けた。

これも初めてのことである。


案の定、窓の外にはちらほらと雪が舞い始めた。


これは積もるかもしれない。


東京の大通りに積もる雪は、時間が経てば泥と都会のゴミにまみれ、

見るも無残にただ汚いだけである。

しかしここ神楽坂の小さな路地や、研究所の敷地の中では交通も廃棄物もなく、

少しの雪でも積もればうっすらとした雪化粧になり大変美しい。

雪がめったに降らない南伊豆の海沿いで育った拓海には、

その景色は珍しいと同時にとても情緒深く感じられるのである。


雪はいい!


そして、目を閉じれば雪の中をはしゃぐ耀子と自分の姿が浮かぶ。

そんな耀子は必ず大きな口をいっぱいに広げて笑っていた。


すごくいい!


10時半。

拓海はかなり強くなってきた雪の中を、隣の本社棟へと向かった。


「急な呼び出しで、しかもこちらまで出向いてもらって申し訳ないです。どうですか、最近は」

清造は、低めの柔らか味のある声で、丁寧に尋ねた。

この声と口調は彼の特長である。

清造という古臭い名前の割に顔立ちは現代風で、

身につけるものも常にどこか洒落た感じのあかぬけたスーツを身につけていた。

決して派手ではない。

「たいした変わりはないですね。そんなに忙しくもなく、かといって一日中暇なわけでもなく」

「耀子は相変わらず研究室ですか」

「はい。昨日も泊まりのようでした」

「むーん」


今耀子が取組んでいる研究は、清造ら会社側が要請したものではない。

というのも、小須田製薬では、開発研究員にはかなり研究の自由が与えられていて、

その結果いい物ができたら商品として採用する、

というシステムが採られているのだ。

耀子は自分で自分のプロジェクトの計画を立て、それに沿って研究を続けているので、

清造自体も仕事に没頭する耀子に責任があるわけではなかった。


呼び出しは耀子のことか?


一瞬拓海はそう思ったが、次の清造の言葉を聞いて、

それは全くの誤解であることを知った。


「拓海君、しばらくパリに行ってもらえないでしょうか。

今誰かをパリに送りたいのだが適当な人が拓海君しか見当たらなくて。

だいたい一年くらいの予定です。

でもこれは様子によって短くもできますし延長もできます」

「え、パリですか」

「そうです。フランスのパリです。任務は直接ラボで行う開発研究ではありません。

でも、まあこれも我々の薬に関わることだし、

もっと言えば、人類の未来に関わることかもしれない」

清造は言い切って窓の外の雪を見た。

「パリにも雪は降りますよ。年に数えるほどかな。東京と同じです」


あ、パリの雪も神楽坂に劣らず悪くなさそうだ。


拓海は一瞬、雪に煙るパリの街を散策する自分の姿を描いた。 

「拓海君。雪、好きでしょ」

義父は何でも知っている。いや推察力が鋭いのか。

「えっ、まあ、はい。今日もこれから積もるんじゃないかと、

実はちょっと期待しているんですよ」

「そうねぇ。だんだん強くなってきたから積もりそうですね。

こんな日は裏の『あずさ』で雪見酒がいいねぇ」


『あずさ』とは会社の近くの小料理屋である。

神楽坂に数ある料亭や小料理屋の中でも清造が最も気に入っている店だ。

単に近いからであろうか。

拓海も何度も足を運んだことがある。

確かに落ち着いていて、過ごしやすい小粋な飲み屋であった。

おまけにママも美しく、また感じもいい。


パリか・・・。

卒業旅行で数日観光しただけだけど、

今の燿子との日々を思えば、少し出かけてもいいかもしれない。


窓の外の景色は白んできた。


耀子は太陽の微笑みをする女性だ、と拓海は思っていた。


彼女が笑うと卵型の顔に黒い瞳と大きめの口がくっきりと浮かびあがる。

この太陽の微笑みには湿気たところが一塵もなく、

後で気付いたことだが、それはいわば五月のパリの陽気のようであった。

陽がさせば眩しいくらいだが、それでいて灼ける熱さはない。

この陽のもとで明るいテラスにテーブルを出し、

一日中ビールやワインを飲んでいたい気分になるのだ。


事実、僕たちは結婚後数年、そうやって暮らしてきたのだ・・・。


二人は耀子の父清造の小さな製薬会社で開発研究員として働いていた。

仕事はそれほど忙しくなく、家で過ごす時間の余裕も十分あった。

彼らは天気のよい休日にはテラスへ出てグラスを傾け、

幸せな話題を語り合っていた。

時折清造の訪問を受けたが、そんな時は三人で

他愛のない話をしながら穏やかに過ごした。

耀子の母親、つまり清造の妻は耀子が幼い頃に病死していたので、

残された清造と耀子の父娘はお互い近い関係で暮らしてきたのだろう。


いや?「残された」っていうのはニュアンスが変だぞ。


拓海は思いめぐらせた自分の言葉にひっかかった。


清造にも耀子にも「残された」という言葉がにおわす悲壮感は全くない。


それにお義父さん、仲良くしている女性も何人かいるって自分でも言ってるし・・・。


拓海は耀子と婿養子に近い形で結婚したが、

かといって恐縮も敬遠もすることなく、

この義父との自然な関係でつき合っていた。

清造の自然な人懐っこさのせいであろうか。

三人でも窮屈ではなかった。


しかし、数年前のある日から状況は一転した。

耀子は研究室に籠もりきりになったのだ。

つい前日には拓海と二人仲むつまじく、

もうすぐ迎える正月のおせちのメニューなどを語り合っていたというのに。

いや、最初は籠もりきりではなかった。

朝出勤し、夜は十時前後に帰宅という

少々忙しいサラリーマンくらいのペースであった。

だが、研究が波に乗ってきたのか、あるいは大きな壁にぶつかっているのか、

次第に帰宅時間は遅くなり、最後には会社の研究室に泊まり込むようになった。

以前のようなテラスでの休息は全く無くなり、

拓海の太陽の微笑みはどこか遠くへ去ってしまったようだった。


それ以降、拓海は寂しさを感じながらも万遍ない日常を繰り返していた。


太陽を失くした僕の心は徐々に疲れてきてたんだ・・・。


東京の空はいつも曇っているように見えたし、

ことに冬はひどく寒さを感じるようになった。

世の中と拓海の間には半透明の幕が張られ、

拓海は鮮明な外の景色を見ることもなく

月日ばかりが過ぎていくように感じていたのである。


そんな時分のパリ行きの話。


雪はいいかもしれない・・・


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