第一話 ドーム型スタジアム
野球……
驚くべき事実、その世界、その未来において、その、遠いかつての、押しも押されぬ人気スポーツがプレーされることは一切無かった。
ばかりか、その世界上にあるすべてのスポーツのなかで、おそらく幾世紀かの厖大な年月を根こそぎ、更なることにその緻密な…余りに緻密な、組み合わされた日々の集積や集積があって、それが余りにも特異な在り方をし過ぎていたが為の結末として、まるで、恐竜などの過去世界の地上の支配者たちが地層深くに化石を遺しているのと同等のシンボルを、いま、野球は…示していた……
もっとわかりやすく説明するならば、かつて確固としてこの世界に存在していた筈の野球、という、人気競技は、その地層より掘り出される野球の化石によってしか、未来たる今、現在の人類において、その歴史の在りかを知る手立てを持ち得てはいないのである。
この惑星の中央付近。
惑星の臍、と呼ばれている地帯がある。
惑星は、地表:海洋=4:6で形成されている謂わば海の惑星であるが、その惑星の臍の位置には、惑星で最も大海域とされる連なり拡がった海の茫洋があり、そこへポツンとひとつの大陸がある。
そして大陸のうちその中央地帯を人類は惑星の臍と呼ぶ。
惑星の臍はまるで整地されたかのように美しくなだらかに広がる天然の平野である。
そして、その平野に聳え立つカタチで、それはあった。
鋼鉄のおおらかでなだらかなフレームの天空へと向かったそれは、巨大で異質なドーム型スタジアムであった。
見上げればあまりの迫力に恍惚と惹き込まれてしまい時の経過を忘れてしまうほど。
その高さ、厖大さは、離れれば離れるほど益々空と溶け合い、空間を無限に引き裂いて離れることはない……
やっとその全貌が周囲の景観へと収まるとき、それらすべての景色は点と看做される。
のっぺりとしたおおいなる風貌……
しかしその全体は、余りに無数の繊細で独創的な装飾が壁面や柱の一一に施され、それは幾層にも複雑に組み合わされたメタリックでマニアックな、そしてラビリンスなパズルとて、在った。
それが大胆にもその全体へと淀みなく連なっているさまは、物質でありながら波動を思わせるものであり、いかにも巨大な美術品と呼ぶに相応しいものであった。
そこはかつて我らの祖先がプロ野球を行っていた唯一の聖地とされていた場所であったが、その、全世界より消えてしまったひとつの競技に関するこれまた唯一の手立てとするより他にない、という状況が我らに遺された唯一のものだった。
ここが、我らの力の及ぶ限りである。
スタジアム内にはその中央やや入口寄り、巨大なフェンスに区切られてかつてのグラウンドの面影がある。
フェンスには、グラウンドを取り囲んで区切ってしまう、という以外の理由はなく、かつてや今存在している数多くのスタジアム-この場合には当時まだ滅びてはいなかった学生野球、アマチュア野球を指す-にあってしかるべきものが、無い。
このスタジアムには観客のためのスペースが無かった。
現在、現存する他の競技のためのスタジアムにはもちろんフェンスの外側には観客席があつらえられているのが当然で、それらスタジアムにはそれぞれに、参考資料としての価値が付与されてあるもの、といって誤謬はない筈である。
というのも、プロ野球の終焉とともに、少年野球から草野球に至るまでの、野球に関するすべての文化が文明よりごっそり消えてしまって、風化するまでそう時間を待たなかったからである。
つまり、現存する他の競技のスタジアムはすなわちかつての、野球スタジアムの光景を眼前に透かして見るためのただひとつの方法、というわけである……
では…この巨大な歴史的建造物にとって、フェンスより外側は、何があるのであろうか。
フェンスより外側には、眺めるも恐ろしい深淵が…地底へ向かって沈みゆくばかりである。
観客のいないプロ野球……
グラウンドの、かつてピッチャーマウンドのあったとされるポジションに、巨大な球体が浮かんでいる……
青白く閃光の群れがうようよと蠕動して止めどない直径20メートル程にもなる巨大な球体が凝集しており、地上50センチ辺りに浮かんでいて、閲覧に訪れた客が数時間待ちの幾筋もの行列をつくって、球体を放射状に囲んで、連日連夜それは終わりの来ない祭りのように……
行列の先頭に立った客は待ちわびた様子で、決まって興奮を抑えきれない。
巨大な球体の蠕動に…その手を差し伸ばし……
30分のイメージを自らの肉体へと感電させることにより各自は共鳴を覚えていく。
滅びて久しいプロ野球に関する記憶と記録の媒体、その体験は、禁忌を犯した歓びに相当するだろう。
なぜなら、かつて観客にすらゆるされず、試合結果や練習に関するすべて、すべてが語ってはならず、すべてが忘却のボイドへとすっぽり呑み込まれて掻き消されてしまったのであり、当時、世の中には憶測のみが渦巻いてたのだ。
かつて惑星の中心とされるフェンスの奥の深淵が、その記憶の総量を、のみならず世の中に囁かれ続けた憶測や世論の総量を、その深淵は呑みほした。
そして、すべてが滅びたのちのある日、それは突然決壊してピッチャーマウンド頭上へと湧き上がったのである。
よって、当時の人々たちが絶対に知ることのなかった事実の秘密の濃密が、この球体には君臨しそして谺していた。
…そんな、生命活動形式でマグマしている、亡霊たちとの対話を、かれは心より享受していくことで、かれという人生の空白を満たし歩むのだった。
これより以下の叙述は、かれの亡霊とともに歩んだ人生の末路、かれの遺した結晶である。