逃げるひよこ
高原とはいえ、やはり夏は暑い。
一日中まったくやることがないという今の状況では、暑さに耐え臭い汗を垂らしながら、遥か遠くに見える日本アルプスの偉容を、ぼんやりと眺める他、俺にはやる事がなかった。
拳には、今でも彼奴を殴った感覚が残っているようだった。幼い女の子を誘拐し、自宅に監禁し、筆舌に尽くし難い暴行を数ヶ月にわたって行った男を、俺は半殺しになるまで殴ってしまったのだ。
捜査陣の一員だった俺は、その男の取り調べが担当だった。
俺は、穏やかな性格で、感情を表に出さない男だった。だから、難しい事件の際、事情聴取に当たることが多く、相手を落とすことも巧かった。
特に、尋問にテクニックというものはない。
相手のことを聞くこと。
それが出来れば、勝手に相手は 『ウタう』 。
俺は、ふんふんと、いかにも感心した様子で、ゲス野郎の話を聞いてやるのだ。
ストレスは、澱のように静かに、確実に、俺に降り積んでいたのだろう。
同じ年頃の、自分の娘を、交通事故で亡くしていたのも、感情の爆発の一因だったかもしれない。
俺は、得意になって、いかにしてその女の子を凌辱したのかをウタう彼奴に飛びかかっていた。
一体、この俺の何処に、そんな暴力衝動があったのかと思えるほど、俺は殴りに殴った。
殴り始めたら止まらなかった。
俺を羽交い締めにして、彼奴から引き剥がそうとした若い巡査は、俺に投げ飛ばされて、頚椎捻挫となった。
後から聞いた話だと、女の子を拉致監禁した男は、もう一生お粥しか食べられないらしい。顎が粉砕骨折し、顎関節の靭帯を切断してしまったのだから。
俺は、懲戒委員会に召喚される。
そして、懲戒免職というかたちで警察を去ることになるだろう。
今、俺は自宅謹慎の状態だ。
頂きに万年雪をかぶる日本アルプスを見ている。
不思議なことに、後悔の念はなかった。
俺は、ただ静かにN県警からの召喚状をまっていた。
その日、N県警の本部長名義で、封筒がきた。
ついに、俺の警察官としての人生も終わったらしい。慙愧の念より、サバサバした感情の方が強いのが意外だ。
一人娘が、交通事故で死んでから、妻との仲は冷え切ったものになった。
ある日、離婚届の用紙が、リビングのテーブルの上にあり、それきり、妻は出て行ってしまっている。
俺は、離婚届にサインをして、役所に届けた。
残ったのは、二人で探したアパート。
妻と娘を育てた思い出。
だが、それも、日々の営みのなかで、薄れつつあった。
俺は、抜け殻だ。守るべき人を亡くし、今、守るべき生活すら失おうとしている。
封筒の中に入っていたのは、自宅謹慎を解く辞令と、N県警への出頭の要請書だった。
十日ぶりに風呂に入る。伸び放題だったひげを剃った。鏡の中から見返す俺の顔は、やつれて幽鬼のように見えた。
一番マシな背広を探す。
最後くらい、きちんとしておこう。
そう、思ったのだった。
N県警本部長室には、俺の他に二名の刑事がいた。
一人は、生活安全課の若い刑事。
街のギャング気取りの若造を特殊警棒でめった打ちにして病院に送り込んだ、フダ付きの男で、
たしか、土屋とかいう名前だったか?
俺はよく知らないが、人気のアイドルグループの一人に似ているらしく、女性警察官には人気があるという。
もう一人は、組織犯罪対策課……昔でいうところのマル暴の刑事だ。
指定暴力団との癒着が噂される、限りなく黒に近い灰色の刑事である。
こいつは、警察学校で同期なので、良く知っている。
名前は諸角という。モロズミと読む。
ヤクザの間では「鬼諸さん」と呼ばれているらしい。
外見が怖いという比喩表現であり、百九十センチ近い身長と筋肉質の肉体と鬼瓦のような面貌を示している。
とんがったチンピラも避けて通るというN県警の名物デカだ。
そして、三人目は、問題を起こした俺。
N県警の鼻つまみ者が三人、勢揃いってわけだ。
土屋は、N県警本部長の前であるにもかかわらず、くちゃくちゃとガムを噛み、貧乏ゆすりをしていた。
諸角は、塑像と化したかのように、無表情で直立している。
俺は、N県警本部長の背後に飾ってある、N県警の旗と、日章旗を眺めていた。
N県警本部長 武田晴久 は、典型的なキャリア官僚だ。
最高学府の法学部を卒業後、警察庁に奉職、各地の県警を渡り、着実に階段を上ってきた人物。
同じ警察官だが、地べたを這いずるようにして事件を追う俺たちのようなデカとは、まるで別種の生き物だ。
武田本部長の脇に、従僕よろしく寄り添っているのは、山本総務部長。
これもまた、ゴマスリ専門のノン・キャリの典型的な男だ。犯人を追う「猟犬」である俺たちとは別種の生き物である。
山本総務部長は、態度の悪い土屋をにらみつけたり、武田本部長が気を悪くしていないか、顔色を伺ったり、実に忙しそうだ。
武田本部長は、キャリア官僚らしい他人を小馬鹿にしきったような表情で、机の上の書類に目を落とす。そこには、俺たちの略歴が書かれた身上書があるのだろう。
窓から差す朝日に、武田本部長の眼鏡のレンズがギラリと反射していた。
何の感情も示さない眼で、三人を順繰りに見たあと、おもむろに武田本部長は口を開いた。
「現在、当県警本部では、重大案件が進行中だ」
そういえば、県警本部全体が騒がしい。
報道陣も詰めかけているようだった。
「警察庁を含む、霞ヶ関全体のスキャンダルに係わる重要な証人が、我々の管轄地域で確保されたのだ。」
機密費に係わる裏金づくりのスキャンダルだ。警視庁に端を発し、警察庁、政治家まで巻き込んだ大事件になっている。
よりによって、別件逮捕でそいつはここN県で逮捕されたらしい。新聞もTVも、その話題でもちきりだった。各県警でも、ボロボロと問題が表出し、O府警やY県警などもとから問題が多い大きな県警本部では、対応に大わらわだそうだ。
N県警は、比較的小さい騒ぎで済んだが、それはN県警が清廉潔白というわけではなく、眼の前の武田本部長が隠蔽工作に巧みだったというだけにすぎない……と、俺は思っている。
「証言で、政治生命を断たれる可能性がある政治家だが……」
武田本部長の口から出た政治家の名前は、俺ですら知っているような、政治家の名前だった。
指定暴力団とのつながりなど、黒い噂が付きまとう人物としても有名だ。
彼を探るジャーナリストは、何故か不慮の事故に遭ったり、行方不明になったりすると、まことしやかに囁かれている。
「未確認情報だが、彼の意向を受けた指定暴力団が、証人を排除する動きがあるらしい」
俺が、ふき出す前に、土屋がふき出した。
「そんな、映画みてぇな話、しんじられないっすよ」
山本総務部長は、あまりにも無礼な土屋の態度に赤くなったり青くなったりしていたが、武田本部長は無表情を崩さない。
「無論、全てを信じるわけではないが、証人移送には実戦経験豊かな人物を選びたい」
つまり、荒事に慣れた人物が欲しいというわけか。ヤクザに精通する諸角は、適任だろう。相手をぶちのめすのを躊躇わない土屋も。
だが、俺は? 俺は、そこで、消耗品でも見るような、武田本部長の視線で、得心がいった。
「もう一つ、条件がつくということか」
つまり『いなくなっても惜しくない人物』だ。
ならば、案外『ヒットマン』は、リアルな情報なのかもしれない。
留置所に向かう。
重要な証人とはいえ、司法取引が成立するまでは、対象者は、容疑者の一人にすぎない。
警視庁での容疑は殺人。N県警内では、窃盗の現行犯。
東京都内で発生した重要案件なので、警視庁に移送することになる。
「くせぇな。」
諸角がつぶやく。
俺も同感だ。
今回は異例なことが多い。多すぎる。
まず、謹慎中の刑事を重要な任務にあてること。
警視庁から移送担当者が来ないこと。
それより、もっと大きいのは……
「本社(警察庁のこと)も巻き込む醜聞だろうがよ」
という、諸角の言葉で、彼も俺と同じことを考えているのが判る。
警察のキャリア官僚の考えている事は一つ、『保身』だ。司法取引に応じてウタう(自白すること)様な人物ならば、人知れず、「消えてもらう」ことだってやりかねない。
それを、なぜ報道陣まで嗅ぎつけるまで情報統制をしなかったのか?
「電話、してくる。」
諸角が、我々から離れた。
マル暴一筋の男だ。独特の嗅覚がある。
特に、危険を察知する鼻が昔から利く男だった。
今回は、奴の琴線に触れる何かがあるのだろう。
留置所にいる移送対象者は女だった。
若づくりだが、三十代後半か四十前半というところだろう。
体のメンテナンスは行っているのか、体型の崩れはない。
ただ、一日の留置所暮らしで化粧が崩れ、年齢以上の「疲れ」のようなものが、見てとれる。
勤務明けの売れっ子街娼といった風情だ。
「移送担当の真田です。」
俺は、事務的に自己紹介をした。
移送の命令書には、女の名前が記されている。
「甲斐 美姫」
まるで、キャバ嬢の源氏名のようではないか。
見た目も、トウが立ったキャバ嬢のようだ。
引き取りのサインを終えた土屋が、手錠を出して留置所の警務官が、鍵を開けるのをまっている。
「あらぁ いい男じゃない?」
酒でしわがれた声で、甲斐がシナをつくる。年季の入った媚態だ。
土屋の眉間に、深い皺が刻まれた。本人は気がついてないようだが、土屋の不機嫌な顔は、苦み走ったいい男になる。玄人の女好みの顔だ。ちゃらいホストなど、逆立ちしても敵うまい。
「坊や、こういうプレイが好きなの?」
土屋が、手順に従って手錠をかけると、甲斐が土屋をからかう。青筋が、土屋のこめかみに浮いた。
ガシャンと鳴ったのは、留置所の柵。イラついた土屋が、それを蹴ったのだ。
「うるせぇぞ、くそばばぁ」
歯の間から絞り出すような声で言った土屋の言葉は、甲斐のプライドを傷つけたようだ。
それきり、土屋をからかうのをやめる。
やれやれ・・・だ。
廊下では、諸角が待っていた。こちらも、不機嫌な顔だ。土屋と違って、諸角が不機嫌な顔になると、とても警察官には見えない。まるっきり、ヤクザそのものになる。
「ひっ・・・」
甲斐が、諸角を見て小さく悲鳴を上げたのは、怖かったからだろう。
気持ちは、わからないでもない。
「俺たちが移送するスケ、本気でハジク気だぞ」
諸角は、マル暴に異例なほど長くいるだけあって、そっち方面の情報は的確だ。
こいつがそう言うのなら、そうなのだろう。
諸角が、ガセをつかむことは、ほとんどない。
「弱ったな。保険、かけとくか」
俺は、報道陣が集まっている正面玄関に、移送用の覆パトを廻すよう、内線電話をかけた。
その上で、土屋に裏口に一台確保して待機するよう指示を出す。
「小細工だな。」
巨体を壁に寄りかからせて、爪楊枝で爪の垢をほじりながら諸角が言う。
「いつ、俺たちがここを出たか、教えてやる必要はない」
報道の中継で、車種や出発時間が特定される。それは、待ち伏せのリスクが高くなることを示している。
「職務放棄しちまえ。あんたにゃ、向いてねぇよ」
俺の顔を見ずに、諸角が言う。
「野良犬の俺とちがって、あんたは優秀な猟犬だろ? あ?」
無言のままの俺に向かって、諸角が言葉を重ねる。
極端に無口な彼奴にしては、珍しい。
「獲物を喰い殺しちまったら、もう猟犬じゃあねぇよ」
という、俺の答えに諸角は、舌打ちをしただけだった。
意味あり気に、県警本部正面玄関に停められた覆面パトカーに、報道陣が喰いついている間に、俺たちは土屋が運転する別の覆面パトカーで、裏口から出た。
そのまま、新幹線停車駅であるN駅に向かう。
助手席には俺。
後部座席には、移送対象者である甲斐と、諸角が座っていた。
「N駅についたら、止まらずに一度駅周辺を廻れ」
諸角が、土屋に指示を出す。
用心深いのは、諸角の習慣だ。
そうでなければ、マル暴では生きてゆけない。
「俺の情報源の話じゃ、奴らぁ『荒事師』を集めたらしい」
今時のヤクザは、自ら手を下さない。
経済ヤクザ化しており、大卒などの高学歴の構成員も多い。
よって、暴力沙汰は、アウトソーシングなのだという。
その『荒事』の下請けを行うのが『荒事師』。
「時代が変わっても、ヤクザはてめぇに利が無いと動かん。」
ヤクザは警察と事を構えるのを嫌う。
だが、あえてそうするには、そうするだけの理由があるということだ。
つまり……
『何をやっても逮捕されないお墨付きがある』
『荒事師をやとってでも、実行する価値がある』
……ということが推測される。
となると、事前に移送ルートに指定されているN駅は危ない。
諸角の警戒は、そのあたりにあるのだろう。
俺には自動車警邏隊、通称「自邏隊」の勤務経験がある。
だから、「鼻」が利く。その経験が役立った。
一見普通に見える、N駅前。
だが、潜在的犯罪者を見通す自邏隊の眼は、誤魔化せない。
「いるぜ、諸角。いたるところに……な」
堅気を装っても、俺から見ると、ヤクザは分かる。
そいつらが、殺気立っていることも。
「くそっ! なめやがって! 土屋、M駅に向かえ!」
無言で、土屋がハンドルを切る。
N駅前ロータリーから、俺たちの車は出て行こうとしていた。
ゾク・・・
俺の背中が痺れた。思わず、振りかえる。
N駅へと上がるエスカレーターの脇にいる者と眼が合った。
すらりと背が高い。
大理石を磨き上げたかのように、白い肌をしている。
その中で、薄い唇だけが朱を刷いたかと思わせるほど赤い。
ゆったりとした軍用パーカーを着ているので、体型がわからないこともあり、男なのか、女なのか、判断がつきかねた。
「…初めて見たぜ。ありゃあ『針』だ」
俺の視線を辿った諸角が言う。
――『針』――
性別も出身も、一切のベールに包まれた殺し屋。
警察庁のデータ・ベースに、五十年以上前から存在し、一度も捕まっていないという、たちの悪い冗談みたいな殺しの専門家だ。
『針』と思しき人物は、ツィっと視線を外すと壁に寄りかかる。艶めかしい口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
血なまこになって、我々を待ち受ける『荒事師』に、我々のことを告げる気はなさそうだ。なんとなくそんな気がした。
「M駅から『あずさ』で、東京に向かう。」
俺は、蒼白な顔の甲斐に、そう告げた。
いつの間にか『針』の姿は、雑踏の中に消えている。
さり気なく、俺たちの車は、N駅前を去った。
腑に落ちないのは、マル秘事項である移送経路と時間が、荒事師に漏れていたこと。
N県警内部に、タレこんだ奴がいるのかも知れない。
「携帯電話の電源を切れ。」
N駅から5分ほど離れた場所にあるコンビニエンスストアに車を止めて、俺は全員に言った。
携帯電話の電源が入っていると、微弱電波を追跡される。
そう言った技術が警察にはある。
それに、問題は「Nシステム」だ。監視カメラの映像で、特定の車両を追跡する仕組みである。もしも警察内部にタレ込み屋がいるなら、悪用されるだろう。
「くそっ 借りは作りたくねぇんだがな」
そう言って、諸角が公衆電話に10円玉を入れる。
長身を折り曲げて、なにやら小声で話していた。
おそらく、この移送任務にかかわっているのは、武田本部長。その手足となっているのは、山本総務課長。山本のコネで、子飼いの警官が順次報告を上げている。
そんな、図式が透けて見えた。
「まぁ、デコイなんだろうな……」
呟きが、声に出た。
何事かと、土屋が俺を見る。
「俺たちは、知らされないまま、囮にされたんだぜ。土屋。」
多分、諸角がやっているのは、アシのつかない車の手配。そして、今回の任務のウラ取りだ。
「さすが、捜査一課出身だね。察しがいいや。」
諸角が、受話器を置きながら言う。
「このスケ、単なるサギ師だ。」
聞かされていた移送対象者ではない。俺たちと同様、「死んでも構わない」囮として、選ばれた女だ。
『移送途中に非合法な連中に襲撃されて、護送警官ともども殺されました。』
これが、武田本部長が描いた絵図面。
本物の「証人」は、人知れず始末するか、どこかに匿い自分の外交カードとして使うか、どちらかだろう。
とにかく、俺たちには派手に死んでもらわないとマズいって言うわけだ。
無線の電源を切った覆面パトカーは、コンビニエンスストアに隣接するコインパーキングに捨てた。N県警が見つけるまで、料金は加算されるが、知ったことではない。ささやかな意趣返しだった。
やがて、オンボロのシビックが、我々の待つコンビニの駐車場に入ってきた。
運転席から、鶴のようにやせた白髪の老人が降りる。
「諸角さん、こいつは『貸し』だ」
痰がからまった声で、その老人が言う。
「わかっているよ」
がりがりと、短く刈り揃えた髪を掻きながら、諸角が言う。
「大きい『貸し』だ」
キーを指でつまみ、掲げながら、老人が言葉を重ねる。
「わかったって。アレは、俺が墓までもってくよ。」
アレとは何なのか、俺にはわからない。
だが、この老人の秘密を諸角が知っていることだけは判った。
おそらく、それでこの老人を強請り、エスに仕立てたのだろう。エスとは、内通者のこと。刑事にとっての必要悪だ。
「いっそ、死ねばいい」
老人は、暗い目で諸角を睨み付け、つぶやく。零れるように、指の間から キーが落ちた。地面に当たってチャリンと、金属音が響く。
血の気が多い土屋だが、我に返ったのは、老人がタクシーに乗り込んで消えた後だった。
「なんすか、あの爺ぃ」
地面に唾を吐いて、土屋が言う。諸角は苦笑しながら地面から車のキーを拾い上げる。
「引退した『故売屋』だよ。」
盗品や、一般ルートに乗せられない品物を買い取り、闇に流すのが『故売屋』。
ヤクザの暴力を担当するのが『荒事師』なら『故売屋』は、ロジスティクスを担当する専門家である。
チャカの仕入れから、盗難車の売買まで、ルートを押さえる事が出来て、理想的な「エス」だ。
「こんなボロ車寄越しやがって。」
諸角が、拾ったキーを土屋に投げる。
俺は、助手席の軋むドアを開けた。
埃だらけだと、ぶつくさ文句を言いながら、護送される甲斐が後部座席に座る。
「うへぇ、マニュアル車じゃねぇか」
若い土屋が、運転席で文句を言う。
最後に、諸角が車に乗り込む。
これで、Nシステムには追跡されない。
俺たちは、M駅に向かって動き出したのだった。
N県警本部は、俺達をロストしたはずだ。
内通者が疑われる現時点では、N県警は信用できない。N県から東京に向かうルートは、そう多くない。俺たちが、ルートを無断で切り替えたと気が付く前に「あずさ」に乗りたいところだ。
M駅をN駅と同様に、ぐるりと回る。N駅のように、あからさまに『荒事師』は居ないようだ。
オンボロのシビックを降りる。
駅の駐車場に乗り捨てすることにした。どうせ、アシのつかない車だ。
まず、諸角が駅の中に入る。
N駅ほどではないが、M駅も大きな駅だ。
日本アルプスの登山口であるK高地の入口であるので、登山客の姿も多い。
その中を俺と土屋で、甲斐の左右を挟むようにして歩く。
俺たちの緊張感が伝わっているのか、甲斐も素直に従う。
先行した諸角が、周囲を見回す。
そして、一点に眼を据えた。
その視線の先を追う。
四人の男が見えた。横一列になって、歩いてくる。険呑な気配に、駅の利用者が、自然と彼らの進路を譲る。
「土屋・・・甲斐を守れ・・・」
俺は小声で囁いて、腰のパウチから特殊警棒を外した。
そして、四人の男から土屋と甲斐の間に立ちふさがる位置に移動する。
諸角は、ポケットに手を突っ込んだまま、ブラブラと4人の横を突くべく移動を開始していた。
四人の男が、いきなり走り出すのと、俺が特殊警棒を伸ばすのは同時だった。
特殊警棒は、収納された本体を振り出すと、60センチ程の鋼鉄の棍棒になる。
男達から銀光が散った。短刀を抜いたのだとわかる。
諸角が、走った。長身の諸角のストライドは長い。地面を滑るように加速する。そして、だしぬけに手近な奴をブン殴った。
その男は、文字通り吹っ飛んだ。丸太のような腕に、無骨な岩石のような拳をくっつけた諸角の両腕は、それ自体が蛮族の使う『戦棍』のようなものだ。
吹っ飛んだ仲間を見て、一人が頭を低くして諸角に突き込む。
刃を上に構えたドスが、蛍光灯にギラリと光る。
俺の方にも、ドスを腰に固定した男が突っ込んでくる。
俺 は、とっさに体を開いた。そうしなければ、ドスに腹部を抉られていただろう。
ドスの切っ先に引っかかった、背広の裾がパクっと切れる。
取り調べ中、クソ野郎を半殺しにした時同様に俺の頭にカッと血が昇った。
特殊警棒を、伸びきった相手の腕に叩き下ろす。
手首に当たったそれは、骨の折れる乾いた音を俺に伝えた。
悲鳴が上がる。
短刀を取り落とした男の手首は、ありえない方向に曲がっていた。
「よせ!」
俺の中に残った、僅かな理性が叫ぶ。だが、止まらなかった。
再び振り上げた特殊警棒を、俺は渾身の力を込めて男の頭に打ち込んでいた。
硬い物が砕ける感触。警棒の形に男の頭蓋骨が陥没する。糸の切れたマリオネットの様に、男が倒れた。
ビクン、ビクンと、彼奴の足が痙攣している。
俺の眼は、もうそいつを見ていてはいない。荒事専門の連中にしては、素人くさい動きだ。それが、気にかかっていた。
殺気を出すタイミングが早すぎる。それに、俺を狙った奴は、短刀を横なぐりに振った。
直前まで、殺気は溜めておき、短刀は腰だめして体ごと突く。
そうでないと、確実に相手は仕留められない。
―― 陽動 ――
そんな言葉が、俺の脳裏に浮かぶ。
N駅に、腕のいい連中を集め、ここM駅は手薄だったのかも知れない。
女を殺すこと。それが『荒事師』の役割。
俺達、護送の警官を殺すのは、二の次のはず。
ようやく、パニックの波が、M駅利用者に伝わる。
我先に逃げ出す人々。ふと見ると、その人の流れに不自然に逆らう男がいた。
一見すると、普通のサラリーマンに見える。
だが、刑事の眼は欺けない。間違いない、こいつが荒事師だ。
そいつは、背広の内側に手を伸ばしていた。
抜き出したその手には、黒光りする拳銃があった。
小型の拳銃。おそらく、マカロフだろう。
荒事師の一人ともみ合っている土屋の背後で、護送対象の女が、突っ立ったまま悲鳴を上げている。拳銃の銃口が、女の方に向いた。
土屋は、駅の壁を背に「荒事師」に押されている。俺の角度からは、必死の形相の土屋の顔と丸めた「荒事師」の背中しか見えない。
短刀を突き込まれて、それを押し返しているのだろう。
女は、口をOの字に開けて、悲鳴を上げている。
土屋には、彼女に伏せるよう指示する余裕がないらしい。マズい状況だ。諸角は、短刀を振り回す二人の「荒事師」相手に、素手で立ち向かっている。
拳銃を構えた男と俺の距離は、およそ七~八メートル。
土屋はもちろん、諸角も六人目の「荒事師」には気付いてない。
「こなくそっ」
俺は、手にした特殊警棒を投げた。
走り寄って飛びかかる間に、女は射殺されてしまう。もしも、拳銃の扱いに慣れている奴なら、絶対に外しっこない距離なのだ。
回転しながら飛ぶ特殊警棒を追うようにして、俺は地面を蹴る。
SPじゃあるまいし、拳銃を持った男に飛びかかるなど、正気の沙汰ではないが、俺は迷わず拳銃を構えた男に頭から突進していた。
男の腕に特殊警棒が擦る。命中とはいかなかったが、僅かなズレで弾道は大きく逸れるものだ。
爆竹が爆ぜたような気の抜けた音とともに、男の手の拳銃が跳ねる。
着弾を見届ける余裕はなかったが、硝煙の糸を引きながら薬莢が飛ぶのが、まるでスロー再生のように俺には見えた。
ラグビーのタックルの要領で、男の腰に俺は肩をぶつけた。両腿を抱え込むようにして、相手に踏ん張らせないようにする。
柔道で言うところの、諸手刈のようなものだ。不意を衝かれた男は、地面に転がる。その手から離れて、小型の拳銃がカラカラと音をたてて床を滑ってゆく。
男は、それを目で追っていた。男に馬乗りになった俺は、その横顔に掌底を叩き込む。
人間の頭蓋骨は意外と硬い。空手家のように拳を鍛えていないと、拳が潰れる。
男は腕を十字に組んで、俺の腕をからめ取った。そのまま、ブリッジをするように体を反らす。
柔道の巴投げを受けたように、俺は投げを打たれていた。
とっさに受け身をとる。
転がった勢いで俺が立ち上がったのと、体操選手の如き身軽で男が立ち上がったのは同時だった。
六人目の「荒事師」と眼が合う。
冷やかな眼だった。
何か、格闘技でもやっているのか、踵を上げた奇妙な立姿で、両腕を腰のあたりにゆるく曲げている。
「しゃらくせぇ」
警官の術科である「逮捕術」「剣道」「柔道」の成績に関して俺は決して良い点数ではない。
だが、ずぶりと相手の間合いに踏み込んでいった。迷いも、恐怖も、なかった。
ふわり・・・
相手の足が上がった。スローな前蹴りだ。突進する俺を止める牽制のための蹴りに見えた。
頭を低くして突っ込む。
不意に、相手の蹴りの軌道が変わったのはその時だ。地面についている軸足を滑らせるようにして、前蹴りを廻し蹴りに変化させる。
俺の首筋に、硬い靴の爪先がぶち当たる。それでも俺は止まらなかった。
それが、結果的に打点をずらしたのだろう。えらく痛かったが、ぶっ倒れる程ではなかった。
頭から相手の胸に飛び込む。すかさず、相手から掌底が俺の側等部に突きこまれる。
首の筋肉で、その衝撃を殺しながら、俺は膝をかち上げた。睾丸を潰す前に、両脚を閉じられたので、目的は果たすことは出来なかったが、相手の動きが一瞬止まる。
その隙をついて、ぶん回すような鉤突きを打つ。めくら打ちなのが幸いしたか、相手の顎先に拳が当たった。
予測がつかなかったのだろう。ラッキーパンチというやつだ。
ストンと、相手の腰が落ちる。偶然だが、相手の脳を揺らす角度で、俺の拳がヒットしたらしい。もう一度膝を突き上げる。
今度は、膝の先に相手の顔があった。
鼻に命中する。
ぐちゃっと、鼻の軟骨が潰れる感触があった。
意識が飛びかけた相手の髪を掴む。そうやって固定しておいて、更にもう一度膝を入れた。
白い物が飛んだ。床に当たって硬い音を立てる。
へし折れた歯だった。
更に、もう一度、膝をかち上げる。
「死ね!」
無意識に怒号を上げながら、もう一度。
相手の顔は血まみれで見る影もない。
もう一度、更にもう一度。
そこで、がっしりとした腕が後ろから俺を抱きとめた。
反射的に肘を横なぐりに振る。
それは、分厚い胸筋の壁に当たった。
「真田! もういい! 殺す気か!」
諸角だった。
熱狂していた俺の心が、急速に冷静になる。
掴んでいた荒事師の髪を離した。
支えを失った相手は、朽木のように横倒しになり、ピクリとも動かない。
「離せ、諸角」
握りしめた俺の手には、大量の髪が残っていた。
誰かが通報したのか、おっとり刀でハコ番の警官が走ってくる。俺は、手の髪を払い落しながら、ぐったりと壁に寄り掛かって座っている土屋に駆け寄った。
土屋の白いワイシャツの腹部は赤く染まっていた。ボタンを外して、負傷部を見ると、典型的な刺し傷だった。何かおぞましい口が土屋の平らな腹にパクリと開いているかのようだ。
呼吸の度に、その傷口は開いたり閉じたりして、じわじわと血を溢れさせている。
この刺し傷自体は深くはなさそうだった。
土屋の掌の傷の方が、ひどい。
突き込まれた短刀の刀身を、素手で掴んだのだろう。
ばっくりと肉が爆ぜていた。
「真田さん……しくじった……」
荒い呼吸の合間に、搾り出すようにして土屋が言う。
「急所を外れている。大丈夫だ」
俺はそう答えたが、土屋の耳には届いていないようだった。土屋を襲った奴は、荒事師にしては素人くさい。短刀を使い慣れている者は、腹部に突き入れると同時に抉る。
もし、そうされていたら、土屋の掌の肉は削ぎ落とされ、致命的な深さにまで、刀身は土屋の腹に潜り込んでいただろう。
「俺の……実家は……農家なんすよ……」
痛みを紛らわせるためか、土屋が口を開く。
俺は、腹部を圧迫止血しながら、その声を聞いていた。
「ニワトリを飼っていたんですけど……ひよこが生まれると煩くて……」
諸角が、携帯電話で救急車を呼んでいる。
駆けつけたハコ番の警官と、鉄道警察隊が、野次馬を整理しはじめている。
倒れた荒事師に手錠をかける警官もいた。
「ある日、猫がひよこを襲ったんですけど、俺はひよこを助けなかった……居なくなりゃ、静かになると思って……」
必死に言葉を紡ぐ土屋の唇が、紫色になってきていた。ショック症状だ。
くそっ救急車はまだか・・・
「ひよこは、何匹も固まって逃げるんすけど……先頭を走る奴 の後ろを尾いていってるだけなんすよ……」
救急車のサイレンが聞こえる。
早く……早く来い……
「猫に先回りされても、盲目的に前の奴についていく……」
ストレッチャーを引いて、救急隊員が走ってくる。
「俺たち、その、逃げ回るひよこみたいだ……だせぇ」
土屋がそこまで言って気を失った。
俺は、血にぬれた手を離して、救急隊員にその後を任せた。
床に落ちた、特殊警棒を回収し、荒事師が落とした小型拳銃を拾う。
拳銃は生意気にも、輸出用に9ミリ口径にしたマカロフだった。高級品だ。
安全装置をかけて、ポケットに仕舞う。
ハンカチで、手の血をぬぐって、棒立ちの女の手首を掴む。
ここから、離れなければ……
警察無線で、俺たちの居場所がバレるのは、時間の問題だ。
俺は、諸角に目で合図を送って、混乱する現場からそっと離れた。
……生き残ってやるよ、土屋。俺たちは逃げ惑うひよこじゃない事を証明してやる……
ストレッチャーで運ばれる土屋に、俺はそっとつぶやいた。
俺と諸角は、混乱に紛れるようにして、女を連れて駅の外に出た。
一度捨てたつもりのポンコツ車に乗る。事件発生から緊急配備までのN県警の平均タイムは十分弱。それまでに、なるべく遠くに移動した方がリスクは小さい。匿名性が利点だった『故売屋』 からのこの車も、そろそろ特定されるころだろう。
捨て時は、とっくに経過している。
俺が向かったのは、北アルプスの登山口に向かうローカル線の駅だ。
M駅から出ている登山客御用達の路線である。
M駅での騒動は、土屋が居ることで、俺たちの足跡を残しているに等しい。
N県警内部に、密告者が存在しているなら、それはすでに、『荒事師』にも筒抜けになっていると考えていい。
次の伏撃の場所を設定するため、行動予測をするはずだ。
N駅から逃げ、M駅に向かうことで、俺たちは何が何でも東京に向かう意思を示した。
敵は、M駅から東京へ向かうルートを抑えるだろう。
高速道路やC線といった別ルートでの東京行を読むことが予想出来る。
俺たちは、その裏をかかなければならない。
シーズンオフのリゾート地に向かうローカル線を俺が選んだのは、東京の逆方向に行くとは予想しないだろうということ。
それに、M駅の2駅先のそのローカル線駅は無人駅であることが俺たちにとって有利だ。
まぁ、その程度しか追尾を振り切る手がないのだが、使えるカードは惜しみなく使う方がいい。
さらに、ローカル線終点から、北アルプス登山口までは、自然環境保護の観点から、一般車両の通行が禁止だ。厳しい排気ガス規制にクリアした車両か、プロパン燃料の車しか道路に侵入することが出来ない。
俺たちの所在が確認できても、車両を手配するのに幾ばくか時間がかかるだろう。
誰も信用することが出来ない俺たちの状況では、僅かな時間でも貴重だ。
駅で、時刻表は確認していた。
俺たちのポンコツ車は、長閑に走るローカル線を追い越し、無人駅でその 二両編成の車両に乗り込む。
予想通り、車内は俺達しかいない。
シートに深々と座る。
さすがの諸角も、頭をたれて、疲れた様子だ。
俺は、ガチガチになった肩をほぐしながら、後手後手になる今の状況について、考えていた。
M駅と日本有数数の高原リゾート地であり、アルペンルートでもあるK高地の玄関口となるS駅を結ぶローカル線は、コトコトと長閑に進む。
護送対象者の甲斐は、先ほどまで震えが止まらぬ様子だったが、今は軽いイビキをかいて眠っていた。
「どうも、先を読まれているな」
それが、気になる。
念のため、アシのつかない車に変えた。
わずかな時間とはいえ、Nシステムは俺たちをロストしたはずだ。
そのロストした時間にM駅に向かったのだ。
N県から東京に向かう全てのルートを張っていたとしても、手際が良すぎる。
俺は、刺された土屋を実は疑っていた。
諸角は、異例なほど組織犯罪対策課に長くいて、黒に近い灰色の男だが、ルールは自分で決めるタイプだ。
誰かのイヌになることは想像できない。
対して土屋は、不満を抱えた粗暴な男であるが、不満があるということは、野心や願望があるということだ。
そこを、突かれているかもしれないとは、思っていた。
だが、リタイアしてしまったことで、その疑念は晴れた。
やはり、諸角なのか?
諸角も土屋も、俺の視界から外れた時間はない。
だが、携帯電話の電源を入れるだけで、GPS機能は働く。
警察なら、NTTの協力をとりつけることも可能だ。
K高地で確認しよう。
K高地なら、まさか待ち伏せはないだろう。
今度こそ敵の予想外のはずだ。
そこでの反応の速さで、諸角の白黒がはっきりと判る。
俺は、ショルダー・ホルスターの拳銃のグリップを服の上から撫でて、終点までの時間、思考を停止させた。
S駅を降りたらすぐ、K高地に向かうバスがすぐに来る。
ローカル線と連動しているのだ。
K高地とS駅を結ぶバスは、排ガス規制の基準をクリアしたバスだ。
そうでないと、K高地に入ることは出来ない。それが、敵の追跡の遅延策になることを、俺は期待していたのだった。
バスの中は、やはり俺たちだけだった。
諸角は、通路を挟んで俺の反対側に座る。
俺は、つかれきった甲斐の隣に座った。
冬枯れの山道をバスがゆく。紅葉のシーズンも終わっているので、まったく観光客の姿
はないが、休眠期のダイヤに変更されるにはまだ数日あるという、半端な時期だった。
それが、俺たちには有利に働いた。
S駅で一時間以上待ちぼうけなど、追われる身としては避けたいところだ。
S駅で入手した時刻表をめくる。K高地~東京間の、夜行バスの時刻表だ。
俺が考えたプランは、夜行バスを使って、東京の新宿に抜けるコースだ。
鉄道はもう、無理だろう。
タクシーという方法もあるが、県内のタクシー会社に手が回っている可能性は否定できない。
タクシー会社と警察は、防犯上は密接な関係を持っている。
レンタカーも、同様だ。
ヒッチハイクなど、問題外だ。
諸角が信用できなくなった以上、故売屋はもう使えない。
残る手段は、リゾートのための路線というわけだ。
盲点となってくれればいいのだが。
一時間ほどで、車窓の景色が変わる。
山の風景になってきて、気温もぐっと下がってくる。
剃り残しのシェービング・クリームの様な雪が、斜面の所々にこびりついていた。
もうすぐ、ここは、雪に閉ざされる。
雪山を堪能する「山屋」の聖地になるのだ。
K高地のバスターミナルの一駅手前の、Tホテル前で下車する。
まさかとは思うが、待ち伏せを警戒したのだった。
諸角には、「K高地まで」と言ってあるにもかかわらず、予告なしに1駅手前で降りることにしたので、俺が奴を疑っていることがバレたかもしれない。
Tホテルの土産物コーナーで、バードウォッチング用のオペラグラスを買う。
それと、K高地のマスコット・キャラクターであるオコジョが背中と胸にプリントされたダサいブルゾンを購入した。
背広の上からそれを羽織る。ここでは、背広姿が異質なのだ。目立ちたくない。
甲斐にも、これを渡す。甲斐は、ニセブランド品の詐欺犯のくせに、本物のブランド品を身につけている。
「こんな ダサいの・・・」
と、ぶつぶつ呟きながら、そのブルゾンを甲斐は着た。Tホテルの遊歩道は、K高地のバスターミナルに続く。
俺たちは、遊歩道の植え込みの影からバスターミナルを俯瞰した。
オン・シーズンは、観光客で賑わうこの広いバスターミナルも、今は閑散としていた。
停まっているのは、1台のタクシーのみ。
ここまで上がってこられるタクシーも、数は限られているので、これは怪しい。
オペラグラスで、バスターミナル内を走査する。
すると、携帯電話で何かを話している一人の男を見つけた。
ダーク・スーツ。下品な柄のネクタイ。おおよそ、K高地には似合わない男であった。
それを言うなら、我々もそうではあるが。
たぶん、我々を追う暴力団の末端構成員だろう。
一番近くにいたから、ひっぱりだされたと、いったところか。
この場に馴染まない服装で来るあたり、おつむの程度は知れる。
だが、これでひとつ、物事がはっきりした。
諸角を切り捨てなければならない。
ゆっくり、この場を去る。
甲斐も諸角も、俺の後に続いた。
俺は、遊歩道の中にある、休憩のためと思しき東屋に、足を向けた。
夏の暑い盛り、俺は下司野郎をぶちのめして謹慎処分となった。
N県の夏は短い。あれから、わずか三ヶ月しか経過していないのに、K高地は、もう冬の気配だ。落ち葉を踏みしめる。
「なんで、こんなことになってしまったのか」
そう思うと、やり場のない怒りが浮かぶ。
子供は死んでしまった。
妻は去っていった。
俺は、少しづつ、そして確実に壊れていった。
挙句の果てに俺は、命を狙われ、ひよこのように逃げ惑っている。
くそ……くそ……くそ……
俺は、いきなり拳銃を抜くと両手保持で諸角に向けた。
驚いたことに、諸角もまた、拳銃の銃口を俺に向けていた。
『やはり、か』
腹の底にマグマのような怒りが湧く。滾る。
だが、頭の奥はシンと氷の如く冷えていた。
殺人鬼の思考パターン。俺がもう壊れちまった証拠だ。
諸角と俺の距離は5メートルもない。
俺の射撃の腕のランクは"C+"だが、これだけ近いと外っこない距離だ。
「馬鹿野郎、落ち着け!」
諸角が言う。
奴の鬼瓦のような顔には、びっしりと汗が浮かんでいる。
必殺の距離で銃口を向けられれば、誰でもそうなる。
何も感じない俺がおかしいのだ。
「やめて やめて やめて・・・」
うわ言のように、地面にへたりこんだ甲斐がつぶやく。
諸角の眼には、怯えがない。罪悪感がない。
緊張はしていたが、刑事の眼だ。
違和感がある。
諸角でなければ、誰が・・・
そう、考えた俺の目の端に甲斐が落としたハンドバックが映る。
高級ブランド品で固めた甲斐の装飾品の中にあって、このバックだけが、ノーブランド品だ。
諸角が、拳銃の銃口を上に向け、俺の視線を辿る。
俺と諸角の眼が合った。
俺達は間抜けだ。身内の裏切りばかりに目が行って、デコイ自体の仕込みに意識が向いていなかった。俺は、銃口を甲斐に向けた。
飛びあがらんばかりに、甲斐が驚く。
俺は甲斐に言った。
「ここで、全部脱げ」
一日に二度も実銃の銃口を向けられる経験など、日本ではありえないことだ。
それが、甲斐に奇妙な度胸をつけさせたのだろう。
腰をぬかすほど驚いていたが、すぐに不貞腐れた態度で甲斐はぱっぱと服を脱ぎ始めた。
「下着も?」
甲斐の言葉に、俺はうなづく。
彼女は、年齢のわりに引きしまった体をしていた。
一人暮らしの老人の家を訪問して、ニセブランド品を売ることもあったという。
当然、色仕掛けも使っただろう。
体型の維持は、いわば設備投資のようなものだ。
拳銃をホルスターに戻した諸角が、ハンドバックの中身を地面にぶちまける。
俺は、甲斐が脱ぎ捨てた服を探っていた。
「あった!」
ハンドバッグの底板をポケットナイフで裂いていた諸角が、小型の発信器を見つけた。
俺は、彼女のスーツの襟の裏から、発信機を見つける。
勾留中に仕込まれたものだろう。
「死んでいいデコイか」
忌々し気に諸角が吐き捨てる。
「県警本部を挙げてとは、盛大なことだ」
俺はそう言いながら、冷やかな表情の武田本部長の顔を思い出していた。
「意地でも、このスケは東京に送り届ける」
おれの呟きに、諸角がうなづいた。
図体はデカイが、諸角は素早く動ける。まるで、大型の肉食獣が獲物に近づくように。
油断しきっているらしい、先遣隊と思しきチンピラは、諸角の接近を察知できなかった。
カチカチと携帯電話をいじるばかりで、周囲に意識が向いていない。だから、ぬっと背後に諸角が立っても何の反応もなかった。
拳を固めて、諸角が丸太のような腕を叩き下ろす。チンピラの意識は一瞬で飛んだだろう。
諸角は手際よく崩れ落ちるチンピラを肩に担いで、登山口に入っていゆく。
Yという山小屋まで、A川に沿って平坦な道を辿り、K沢まで一気に登るつもりだと言っていた。ポケットには、2つの発信器。
…… 追い詰められて、山に逃げ込んだ ……
と、いう図式を一人で演出するつもりなのだ。キケンな役割だが、M駅のように一般人を巻き込む危険性がないのが救いだ。
装備がないとはいえ、諸角はN県生まれN県育ちで、山岳部出身。
荒事師に追いつかれない程度には動き回れると言っていた。
念のため、甲斐の服は全て交換した。幸いTホテルの土産物店には、登山用の衣類や下着もある。俺と甲斐が、物影からバスターミナルを観察していると、2台のタクシーが到着する。
降りてきたのは、六人の男。
発信機をつけた野生動物を追跡するための、指向性アンテナとハンディ・受信機が、タクシーのトランクから出される。
あとは、猟銃のケース。発信機の電波を追って、山狩りをするつもりらしい。
ここに張ってるはずのチンピラが見当たらないので、イラついているのは、地元の構成員だろう。
おそらく、荒事師は猟銃を背負った3人。残りはガイド兼荷物運びと思われた。
ペコペコと頭を下げるガイドを無視して、指向性アンテナを四方に向けつつ荒事師の一人が歩き始める。
全員がその後に続く。
タクシーは、去った。
俺は、たっぷり三十分は物影から動かず、ターミナル内を観察し、定時に到着した夜行バスの発車間際に駆け込んだ。
深くシートを倒し、隠れる。そうして、俺たちはやっとN県を出たのだった。
K高地と新宿を結ぶ夜行バスは、途中で東京に向かう少女たちの集団が乗り込んできて、大変賑やかになった。
東京で、アイドルグループのコンサートがあり、揃ってそのコンサート会場に向かうのだと知れた。
東京に着くのは、深夜。
彼女らは、その時間から会場に並び、開場を待つらしい。
俺の娘が生きて、成長したなら、このように他愛のない事に胸をときめかせ、黄色い声を上げたのだろうか。
果たしてどんな娘に育っただろう。
酒が飲みたい。今、切に思う。
死んだ娘の事を考えると、無性に酒が飲みたくなる。
種類はなんでもいい。
俺を酔いつぶすものであれば、何でも。
バスは走る。
騒がしかった車内は、次第に静かになった。
はしゃぎ疲れた娘たちが、束の間の安寧をむさぼっているのだろう。
「どこか……痛いの? 怪我した?」
眠っているとばかり思っていた甲斐が口を開く。
「あんた、痛くて仕方ないって、顔しているよ」
化粧を落とし、ダサいK高地の土産物の衣類をまとった甲斐は、年齢相応の疲れがにじんでいるように見えた。
が、ブランド品で武装しているより、俺にはよっぽど好ましく見えた。
「そうか?」
車窓に映る俺の顔は、げっそりと頬の肉が落ち、まるで半病人のようだった。
まだ何か言いたそうな甲斐を身振りで制する。疲れきっていて、話をするのも何かを考えるのもしんどい。
「今のうちに休んでおけ」
甲斐は、素直にうなづくと、ダサいオコジョがプリントされたダサいブルゾンを体に巻きつけるようにして、眠る。
俺も、思春期の少女たち特有の、日向のような香りに包まれながら、トロトロと眠った。
久しぶりに、事故死する前の娘の夢を見た。
娘は、すっかり荒んでしまった俺を見て哀しそうだった。
いや・・・俺は俺を哀れんでいるだけなのかもしれない。
きっと、そうだ。
新宿に到着したのは深夜だった。
都庁に隣接するKホテルがバスターミナルに近い。
俺は、そこに部屋をとった。
甲斐は、シャワーを浴びている。
ショルダー・ホルスターのリボルバーの輪胴をスイング・アウトして弾を抜き、荒事師から取り上げた9ミリパラベラム弾が使えるに口径を差し替えた輸出仕様のマカロフからマガジンを抜く。
マカロフは、チェンバーに残った1発も抜き、マガジンに挿入しておく。
明日の早朝、丸ノ内線に乗って霞が関に行き、甲斐を警視庁に送り届ければ俺の最後の任務は終わる。その後のことは、その後に考えればいい。
歯ブラシとフロントで借りたKUREのスプレーで、簡易な拳銃の手入れを終えると、再び弾を込め、安全装置をかける。
湯上りの甲斐が、素肌にタオルを巻いただけの姿でベッドに腰掛ける。
よく手入れされた脚を組んでいる。
「……いいよ……」
甲斐が言う。
一瞬俺は何をこいつが言っているのか分からなかったが、彼女の顔を見て、その真意を理解した。たしか、こいつはサギのほかに売春でもパクられたマエがあった。男は皆そういうものだと思っているのだろう。概ね正しいが。
「余計な事は考えなくていい。体を休めることだけを考えろ。」
俺のにべもない物言いに甲斐は傷ついたようだった。
「そうね。もう、くたくた。」
吐き捨てるように言って、甲斐はベッドにもぐりこんだ。
俺は、照明を落とした室内で、眠らない街を眺めていた。
タバコに火をつける。
体は疲れているのに、眠ることが出来なかった。
夜があけるまで、俺は窓の外を見ていた。
夜が明ける。
くすんだ東京の空でも、早朝だけは空らしい空に見える。甲斐の寝起きはいいようだ。
俺におはようと言って、洗面所に消えた。
機嫌は悪くないようだった。
ルームサービスで朝食を採る。たかが朝食に? という値段だが、ここまで来て不特定多数が出入りする場所にのこのこ出て行く危険は避けたい。
今日は、新宿~霞が関間の移動があるのだから、ギリギリまで安全な部屋に籠っているのが正解だ。
全く食欲がない俺に対して、甲斐はよく食べる。何の変哲もないアメリカン・ブレックファーストだが、スクランブルエッグの匂いだけで、俺はもうダメだった。
ポットにたっぷりあるコーヒーをブラックで飲む。ローストの深いコーヒーは苦手なのだが、ここのホテルのコーヒーは好みに合った。
甲斐に今日の移動ルートを説明する。
彼女は何度も東京に来ているので、一度の説明で理解してくれた。
初めて東京に来た者は、複雑な地下鉄網は理解しにくい。
チェックアウトの手続きは踏まなかった。
ルームサービス代を足しても充分すぎる金額をフロントには預けてある。
もしも、監視する者がいたら、チェックアウトすることによって
「これから出かける」
と、宣言するようなものだ。
同じ理由で、キャッシュカードは使わなかった。
やっとの思いで、姿を消したのだ。
アシがつくことは避けたい。おそらく俺名義のキャッシュカードは監視対象になっている。
諸角なら架空名義のキャッシュカードを用意できるかもしれないが、俺にはあいにくとそのようなコネはない。
Kホテルから、地下道を通って、地下鉄に向かう。
尾行のノウハウは知っている。
俺の刑事としての勘は、追跡者はいないと告げていた。
霞ヶ関駅は、総務省のある第二合同庁舎の脇の出口を使った。総務省と警 察庁公安部が入っているその庁舎の隣が日本最大の地方警察である警視庁だ。
そこが、俺と甲斐のゴール。
死ぬはずのデコイが生き延びた。
逃げ惑っているひよこも、野良猫の顎から逃れることだってあるのだ。
地下からの階段を上がる。
N県の空とは異なる、水で薄めたようなくすんだ空の色が、通路の壁面に四角く切り取られて、まぶしい。
誰かが、階段を下りてきた。
コツコツというヒールの音が聞こえる。
地下から階段の上を見上げる形になっている俺からは、逆光になって、はっきりと相手の顔が見えない。
だが、白い肌と真っ赤なルージュだけが印象に残った。
「どこかで……」
……見たことがある! そう思った瞬間、俺は甲斐を壁に押し付け俺の背後に庇った。
気の抜けた、エアガンのような音。
コルダイト火薬の硝煙の匂い。
そして、俺の体の中に氷柱が通り抜けたような感覚。
それが2回。
痛みはなかった。ただ、ひんやりと寒いだけだ。
「守りきったわね。」
階段を下りてきた女が、俺の頬を撫でながら言う。
間違いない、こいつは諸角が言っていた『針』だ。
俺は、懐の拳銃のグリップから手を離した。
銃を抜くヒマはなかったし、今更抜いても遅い。
それに、殺しを生業とする者が、警視庁の目の前で暗殺を仕掛けておいて、逃走ルートを設定していない訳がない。
銃を抜くのをやめた俺に、『針』が天使のような笑みを浮かべた。
「いい子ね。ご褒美をあげる。」
メモが俺のブルゾンのポケットに滑り込んできた。『針』の手には、サイレンサー付の22口径の拳銃。俺が撃たれたのはそれだ。
『針』は、甲斐を狙っていた。俺はSPよろしく、甲斐の盾になった。
ワンチャンスだけで、『針』が去ったのが解せない。
あと一発撃てば、甲斐は仕留められただろうに。
まあ、いい。
重要なのは、甲斐を無事に送り届けること。
俺は、いきなり突き飛ばされて、文句を言う甲斐の手を引いて、警視庁に向かった。
地下鉄の出口から、警視庁正門までおよそ五十メートル。
それが、途方もなく遠かった。
甲斐の引渡しは、手順とおりに行われた。
警視庁本庁に送り届けるのは、異例中の異例だが、今回の事態そのものが異例だった。
なんだかわからない……そんな表情のままの担当官に引渡しのサインをする。
「あの、真田さん、この服」
甲斐が言う。
「いらん。それは、君にやるよ。」
俺と、甲斐の最後の会話だった。
警視庁内の売店で、包帯を買った。
22口径の拳銃がつくった小さな傷からはじわじわと血が流れていて、俺のシャツを汚す。
幸い、K高地の黒いTシャツを下着代わりにしているので目立たない。
体を探ったが、銃弾の射出口がない。
二発の鉛弾は俺の体内に留まっているということだ。
警視庁内のトイレでポケットのメモを読む。
それは、広域指定暴力団から『針』へ宛てた殺しの依頼書であった。
俺が指示されたルートや、俺たちの人相などが細かく書かれていた。組織に裏切られた。
予想していたことだが、諸角や俺が考えていたことは、ほぼ当たっていたことになる。
「もういい」
ここ数年の疲れが、どっと出たようだ。精神の疲れだ。
俺に残っていたのは、警察官としての”誇り”のような何か。
それが、パチンと弾けた。
シャボン玉のように。
それは、俺にとってその程度のものだったのかもしれない。さあ、俺なりのケジメをつけて、俺の人生に幕を引こう。
メモを見たせいで、病院に行く・・・という選択肢は消えた。
俺は、包帯をきつく腹部に巻き、警視庁を出た。
霞ヶ関駅から東京駅に。
N県に帰る。
そこで、俺の最後の仕事をしよう。
甲斐を生きたまま警視庁に送り届けたことで、N県警の武田本部長の中での俺の役割は無くなった。俺が甲斐を守りきれなかったという絵図面が壊れた際の別の絵図面が用意されているだろう。
二重・三重にシナリオを用意するのは、危機管理の基本ではある。
普通に新幹線に乗った。
脱出にあれほど苦労したのがウソのように、あっさりとN駅に向かう。
包帯が圧迫止血になって、じくじく染み出していた血は止まったようだ。
だが、体の内部は、どこかが壊れていて、生命が少しづつ俺から流れ去っているのがわかった。
やたらと、寒いのに閉口する。
そのくせ、びっしりと脂汗が浮かぶ。
俺の吐息には「死」の匂いがあった。
そして、顔には死相が浮かんでいるのだろう。
「だんな・・・大丈夫ですか?えらく顔色悪いっすよ?」
N駅でつかまえたタクシーの運転手に心配されるほどに。
N県警についた。
すでに電話を入れてあったので、俺の同期の板垣が正面玄関で待っていた。
板垣は警備部の第二係長。階級は俺と同じ警部補。
俺の同期の中では出世頭だ。
「なんで、もっと早く俺に連絡しないんだ!」
他の警官に聞こえないよう、小声で俺に言う。
出来るわけなかろう。内部が裏切っているのだから。
だが、俺は何も言わなかった。
「諸角も土屋も無事だ」
俺と並んで歩きながら、さらに小声で板垣が言う。
「諸角から、だいたいの事は聞いた。何か俺に出来ることはないか?」
警戒心の強い諸角が、同期とはいえ板垣に今回の件を話したとは思えない。
これではっきりわかった、板垣は敵だ。
一歩脚を踏み出す毎に、生命が零れ落ちてゆく実感がある。
だから、板垣の言葉のウラをとるのも、駆け引きをするのも何もかも億劫だった。
「くだらない」
心からそう思う。俺がしがみついていた世界はこんな所だったのか。
「どこに行くんだ?」
俺の進路を、さえぎるように板垣が前に回る。
「決まってるだろう。武田本部長のところさ」
俺の任務は、本部長直々の特命だ。本部長に報告して完結する。
俺の顔に何を見たのか、板垣の顔色が変わる。
「だめだ、真田。よせ!」
人の顔色を読むのが、昔から板垣は上手かった。
ゆえに出世したのだろうが、自分の表情を隠すのはイマイチのようだ。
それに、ショルダー・ホルスターと拳銃のグリップが奴の上着の隙間から見える。
公安じゃあるまいし、普通の警官は事案でもない限りチャカはぶら下げない。
俺から武田本部長を警備しているつもりか?
俺は、自分の懐に手を入れた。
板垣が、強張った顔で、自分の拳銃を抜く。
「よせ!」
拳銃を構える板垣の前で、俺はゆっくりと自分の拳銃を抜き銃身をつかんで、グリップを板垣に差し出す。
「俺のハジキを預けるよ。何をブル噛んでやがる。」
板垣は、片手で拳銃を構えながら、身振りで拳銃を床に置くよう示した。
俺は、そのとおりにしてやる。次に、板垣は下がれと、身振りで示した。
五歩後ろに下がってやる。
板垣は、銃口を俺に向けたまま、床の拳銃を拾いポケットに収める。
「もう、いいだろ? 報告して終わりにしたいんだ」
俺は、板垣を無視して、本部長室のドアを開ける。
中には、山本総務課長と武田本部長がいた。
後ろ手に、ドアを閉める。
「なんだ、貴様は、ノックもせんで!」
山本総務課長が怒鳴った。
俺は、ポケットに手をいれ、荒事師から取り上げたマカロフをつかんだ。
病院の屋上。
初冬の気配が風に潜む。
自分の足で歩けるようになって、まずやったのが、屋上に来ることだった。
ポケットから、ジッポとタバコを取り出す。
タバコを咥えた。
手術後、あれほど好んでいたタバコが全く旨く感じない。旨くないことを確認するためにここでタバコを咥えるのが今の俺の新しい習慣だ。
「土屋さん! ここは禁煙ですよ!」
女性看護師が、目ざとく俺を見つけて言う。俺は苦笑して、灰皿代わりの缶コーヒーにタバコをつっこんだ。
腹の傷は10針ほど縫ったが、致命傷ではなかった。
掌の傷はかなり深かったが、リハビリで元通りになると、整形外科の医師は言っていた。
凍傷で入院していた諸角のおっさんは、昨日退院した。なんでも、初雪が観測されたY岳まで、ロクな装備もなく荒事師を引っ張りまわし、ついには 遭難させたというのだから、笑える。
三人の荒事師、四人のチンピラのうち、助かったのは一人。
殴り倒されて、山に入れなかった奴だけが助かったらしい。
諸角のおっさんから、俺が刺されてからの経過を聞いた。
真田さんは、甲斐を無事東京に送り届け、N県警に帰ってきたそうだ。
そこで、武田本部長と山本総務課長をハジいたという。
無言のまま、パンパンパンとマカロフを四発。
武田、山本の頭と心臓に至近距離から一発づつ。
最後に、自分の頭を撃ちぬいて終わり。
ヤクザの鉄砲玉でも、こうは冷静にハジけない。
武田と山本は、警察庁の裏金つくりの証拠を握っていて、ヤクザに買収された真田さんがヒットマンになった……ということにされているが、それは違う。
なぜなら、俺に「ひよこ」とだけ署名された封筒が届き、そこには殺しの依頼書らしきメモが入っていたから。
俺は、そのメモを諸角のおっさんにゆだねた。
どっちにせよ、おれみたいな「逃げるひよこ」には、扱いかねる代物だ。
今回の事件の全容は結局、謎のままだ。
諸角のおっさんは、多少知っているのかも知れないが、俺はもう何も知りたくない。
真田さんの字で、「自分のために使え」と書いてあったけど、俺はもうすこし「警察官」であることに、こだわってみようと思う。
正義とは、少し違うか?
正義なんてものは、この世にはない。
まぁ、せめて、おれのくちばしが黄色いうちは、群れの中に埋没してみようと思う。
(了)
これは、既に書いたものの蔵出しです。
友人との賭けで負けた私が、罰ゲームで短期集中連載で小説を書いたことがあり、そのマイナーな掲示板は廃止されてしまいましたが、「なろう」を知る何年も前に書いたものであります。
「なろう」での連載と違って、プロットも甘いし、人物造形もいまいちですけど、鷹樹の源流ということで、蔵出ししたします。
これは「なろう」の処女作「ハイエナの誇り」の原案になったものであります。