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親父の消息  作者: 真宮 裕
9/11

九章 再会

 電話で橋本は、「報道されてしまった以上、カメラに映っていた服装のままでいるのはさすがに不味いので、一応念の為に今から着替えを持っていきます」と言った。

 修一は、ソファーで涎を垂らしながら寝ている横山を揺り起こした。

「それってヤバくないっすか」

「えっ」

「拉致られたりしないっすかね」

「ま、まさか」

「口封じで大阪湾に沈められたりとか……」

 修一は苦笑した。「大丈夫だよ。僕は具体的なことを知らないからね、そこまでするほどの価値はないよ」

「じゃあ、ただの親切心で、わざわざ服を交換しに?」横山は訝しげに眉根を寄せる。

「彼らにもそれくらいの良心は残ってたんだろう」

 図書館の門のところで十五分ほど待った頃、一台の車が修一の脇を通り過ぎ、敷地内に入ってきた。紺のセルシオは少し進んだところで、急ブレーキ気味にタイヤの音を軋ませながら停車した。車の動向を注視しながら身構えていると、後部座席のドアが開いた。中から長身の男が出てきて、修一の方へ歩いてくる。

「シュウさんですね?」

 修一は無言で頷いた。その男は橋本ではなかった。

 スーツ姿の男は微笑を浮かべ、持っていた茶色い紙袋を差し出した。「早速ですけど、着替えてきて貰えますか」

 修一は図書館へ戻りトイレを拝借した。個室に入り、渡された紙袋を開けると、赤いチェックのシャツと緑のカーゴパンツが入っていた。素早く着替える。

「てっきり橋本さんが来るのかと思ってました」

 男はトイレの出口で待っていた。

「でしょうね、驚かせて申し訳ありません」

「いえ、いえ、そんな」修一は顔の前で手を振る。「お手数をかけまして、どうも」

 並んで絨毯を歩く。

「実はですね、シュウさんに折入って、個人的に相談したいことがあるんですよ」

「えっ……私に、ですか?」

 男は小田悟と名乗った。まあ恐らくは偽名だろう。しかし一見、三十代半ばのエリート会社員といった雰囲気で、犯罪者特有の荒んだ感じは見受けられない。小田は店を予約してあると言う。修一は車に乗るよう促されたが、横山の話が脳裏を過り、躊躇した。

「あぁ、そうか……やっぱり警戒しますよね、普通」小田も直ぐに察したのか、しつこく無理強いすることはなかった。

 修一は曖昧に笑ってごまかした。小田は運転席の若者に指示し、車を先に帰らせた。

「じゃあ、歩いて行きましょう。割と近いんで」

 図書館を出るとふたりは堺筋へ向かって歩いた。小田はスマートフォンを取り出し弄っている。

「あのう、小田さんは橋本さんのお仲間なんですよね?」

「うーん、まあ、大きな括りで言えばそういうことになりますかねぇ」小田はスマホから目を離さずに答えた。

「じゃあ、小田さんも普段は、お客さんのところへお金を運ぶのが仕事なんですか?」

「えっ、お客?」小田が驚いたように振り向き、そして一拍間を置いて笑い出した。「あっ、そっか、そっか。橋本って人からそういうふうに聞かされてたんですね」

「違うんですか……?」

 ふたりは交差点で堺筋を横断し、そのまま真っ直ぐ石畳の路地へと入って行く。

「その人から聞いた話、全部忘れちゃっていいですよ。もうシュウさん、出し子をする機会ないですし、ていうか、やろうと思ってもできませんしね。画像が公開されてる訳ですから」

「橋本さんの言ってたことは嘘だったんですか?」

「うーん」小田がスマホから顔を上げ、首を捻る。「まあ大体は正しいんでしょうけど……、正確には、彼が金を運ぶ先はお客ではなくて、グループのリーダーっていうのが本当でしょうね」

「てことは、もしかして……そのリーダーが小田さん、ということですか?」

「いやいや、私はその橋本って人とは面識すらないですよ」

「えっ、そうなんですか……」

 修一はやや混乱し始めた頭を整理すべく、しばらく無言で歩いた。チラリと隣を一瞥すると、小田は相変わらずスマホに見入っている。

「あのう……、小田さんはグループの中ではどういった立場なんでしょうか?」

「まあまあ、詳しいことは店に着いてからゆっくり話しましょうよ。……ところで――」小田は徐に立ち止まり、後ろを振り向いた。「図書館を出てから、ずっと付いてきている人はお友達ですか?」

 見ると電柱の陰から、今朝ユニクロで買ったデニムのシャツがはみ出していた。

「何か、そうみたいです……」

「良い仲間をお持ちのようですね」彼はそう言って微笑んだ。

 小田が入っていったのは、格式高い雰囲気の料亭であった。彼は出迎えた女将と思しき中年の女と親しげに談笑していた。常連なのかもしれない。しかし女は後ろの修一に気付くと、一瞬片眉を釣り上げて表情を凍りつかせた。

 ふたりは仲居に伴われて廊下をしばらく進み、奥の個室に通された。漆塗りの重そうな座卓が八畳間の中央に据えられ、その表面を艶めかせていた。修一は促されるまま奥の座椅子に座る。い草の匂いがした。向いに小田が腰を下ろす。

 修一は、初対面の男と差し向かう気詰まりさを紛らわそうと、部屋を眺めた。床の間に掛け軸が飾ってある。水墨画で繊細に描かれた霧に霞む山河。その下には桜の生け花が据えられている。飾り棚には茶碗や壺、鉄瓶などが置いてあった。その他、細かなさり気ないところにも意匠が施され、アンティークな和室の気品を保っていた。調度品を一通り眺めた頃、先程の若い仲居が御絞りとお茶を持ってきた。直に料理も出来るそうだ。

「しかし何故、私のような人間に、こんな事までしてくれるんですか?」修一は御絞りで手を拭きながら訊いた。

「それはもちろん、あなたにはそれだけの価値があるからですよ」

 どういう意味だろう。修一は続いて顔を拭き、首回りも拭った。白かった御絞りが薄茶色に染まる。瞬きしながら緑茶を啜り、庭を眺める。池の淵で太った三毛猫が背中を敷石に擦りつけていた。

「も、もしかして、内臓とか角膜とか……そういうのが目当てなんですか?」

「参ったなぁ」小田は苦笑を浮かべ、後頭部に手をやる。「まだ私を警戒しているんですか」

 修一はその一挙手一投足を仔細に観察した。「タイミングがタイミングですから」

「良いですか修一さん」そう言うと小田は居住まいを正し、改めて正面から修一を見据えた。「防犯カメラの件は、私達にとって些細なことに過ぎません。あなたが持っている情報は、運搬の外見だけだった訳ですが、この御時世そんなものはどうにでもなるんです。因みにふたりは今、手術台の上だそうですよ。つまり万一あなたが逮捕されるような事になったとしても、芋づる式に辿られる可能性はない。うちとしては痛くも痒くもなかった訳です」

「整形……ですか」

「我々は常に先手を打つことで、可能性の芽を潰していきますからね」

「それなら尚更、わざわざ顔を晒す余計なリスクを取ってまで、組織の人間である小田さんが私なんかに何の用があるんですか?」

「あなたが疑問に思うのも当然ですね」小田は微笑を浮かべ鷹揚に頷いた。

「着替えを用意してくれた事にはもちろん感謝してますけど」修一は視線を外し首を傾げる。「でも、ここまでされると……理由が分からないので薄気味悪いというか」

「もちろん通常なら、出し子を相手にこんな事はしません。画像が公開された時点で関係を断ち切るのがセオリーですからね。つまり今回は特別なんですよ。報道を通じて、防犯カメラに映るあなたの映像が私の目に留まった訳ですが、この点に関しては、双方にとって極めて幸運だったと言えるでしょう」

 襖の向こうで女の声がした。小田が返事をすると、ふたりの仲居が料理を載せた四角いお盆を持って入ってきた。刺身の盛り合わせ、ボイルした伊勢海老、ウニ、イクラ、蛸とキュウリの酢の物、春野菜の天ぷら、紫色の五穀米、お吸い物、茶碗蒸し、ビールの中瓶などが目の前に並べられていく。配膳が済むまで小田は、料理について尋ねたりしながら、当たり障りのない軽妙な話術でふたりの仲居を笑わせていた。修一はその様子を見ながら、何故か心の奥底で、微かな既視感とそれに伴う嫉妬のようなものを感じていた。

 仲居達が部屋を後にし、その足音が聞こえなくなったのを確認してから、修一は口を開いた。

「小田さん、あなたは私に、一体何を期待しているんですか?」

 小田は徐に箸で山葵を摘まみ、刺身醤油に溶かしながら、チラリと修一を一瞥した。「ちょうどセキュリティー強化の必要性を感じていた矢先、安全性工学の博士が目の前に現れた」

 修一は怪訝そうに眉根を寄せる。「そんなことまで調べたんですか」

「いいえ」小田は修一へ顔を向け、意味ありげに口角を上げる。「調べるまでもありませんでした。運命の再会ってやつですからね」

 ――再会? 

「もしかして……以前どこかで?」修一は、改めて小田を仔細に観察してみたものの、やはりその顔に見覚えはなかった。

 小田は自嘲するような薄笑いを浮かべ、溜息をつきながら項垂れた。「そりゃ、そうだよな……でもやっぱり、なんかさみしいなぁ」

 修一は、――相手の顔を忘れてしまっているのだろうか、と己への疑念を抱き始め、もしそうだった場合の自責の念を先取りするかのように、視線が落ち着かなくなった。

 顔を上げた小田が、やや大げさに手を振る。「いや、いや、違うよ、別にそっちが悪い訳じゃない。分からなくて当然なんだ。変わったのは俺の方なんだから」

「えっ――」修一はピンときて小田を見返した。「整形……」

「ただ、お前なら、もしかしたら気付いてくれるんじゃないかと、密かに期待していたんだよ。過去を捨てる為に整形しておいて、矛盾してるけど」

 修一は瞠目した。口を開いてはみたものの言葉が出てこない。

「だけどそっちも随分変わってしまったな。えらく痩せて、皺も増えた」男は修一の顔を眺めながら、おどけた様に言い、しばらく遠くを見るような目をしてから表情を緩めた。「それでもニュースを見た時、あの緊張した感じやオドオドした仕草は、あの頃となんにも変わってなかったなぁ……。あれだけは変装でも誤魔化せない部分だったよ」

「……佐田……なのか」修一は震える声を絞り出した。

 男は箸を伸ばすと、鰤の刺身を醤油に浸し、口へ放り込んだ。

「何年ぶりかな、その名前で呼ばれるの」

 男の目が潤んでいるのは、山葵のせいだけではないのかもしれない。

「で、でも……声が全然」

「声帯も弄ったんだ。今は新たな戸籍を取得して、法的にも別人として生きている」

「じゃあ……本当に、佐田徹なのか――」

 十四年前、杏子と緑の前から忽然と姿を消した元親友が、容貌と戸籍を変えて、修一の目の前に座っていた。

「そんなお化けを見るような顔をしないでくれよ」佐田は中瓶を掴むと、腰を浮かせて修一へ腕を伸ばした。「まあ、何はともあれ、久し振りの再会だ。ひとつグッといこうじゃないか」

 修一は近付いてくる男の顔をまじまじと見つめ、記憶にある佐田徹と比較した。以前の優しげな甘いマスクから、やや彫が深い目鼻立ちのハッキリした男性的な顔立ちに変わっている。

 その間中、佐田が目顔で促してきたが、修一はグラスに触れようともしなかった。佐田は自嘲気味に片頬を引き攣らせながら中瓶を引っ込めると、そのまま自分のグラスに注いでいた。

「こんな事は、今の俺が言えた義理でもないけど……」修一はまだ釈然としない複雑で奇妙な感情を抱えたまま、その以前とは似ても似つかない新しい佐田の顔を見据えた。「どうしてお前は十四年前、突然姿を消したんだ」

「えっ――」佐田は一瞬、眼を丸くして修一を見返し、「そんな分かりきった事を今更」と笑いだした。

「何が可笑しいんだ」

「俺はな、子供が出来たっていうから、仕方なく腹を括って結婚したんだぜ。それなのに生まれてきた子供が自分の子じゃなかったら、そりゃ誰だって――」

「ちょ、ストップ、ストップ!」修一は慌てて話を遮った。「ちょっと待ってくれ。自分の子供じゃないって、どういうことだ?」

 佐田はきょとんとした顔でしばらく修一を眺めていた。「お前、杏子と一緒になったのに、あいつから何も聞いてないのか?」

「ああ、俺はずっと緑はお前の子だと……」そこまで言うと修一は、はっとして佐田を見返した。「というか何でお前、俺と杏子が結婚したのを知ってるんだ?」

 佐田は口許に意味ありげな微笑を浮かべ、「まあ、その辺はちょっとな」

 そもそも佐田は、妊娠を知らされた時から、何かスッキリしない思いを心の片隅に抱いていたという。そこへ来て、実際生まれた赤ん坊の身体的特徴に、自身と類似するような部分を一切見つけられなかったことが、疑念に拍車をかけた。佐田は幼い緑の毛髪を引き抜き、民間のDNA鑑定会社に依頼したのであった。

「じゃ、じゃあ、緑は一体誰の……」

「さあな、その点に関しちゃ、あの女、最後まで口を割らなかったよ」

 修一は、大学時代を振り返り、杏子の周辺にいた男たちに思いを巡らした。

「俺に対する復讐だったのかもな」佐田が遠くを見るような目をして呟いた。

「お前は女癖が悪かったからな……。杏子は、同じ苦しみを味わわせたかったのかもしれない」

「ああ、お陰で人生が大きく狂っちまったよ」

 ふたりは料理に箸も付けず、しばらく黙りこんでいたが、不意に修一が話題を変えた。

「ところで小田悟というのは、新しい戸籍上の名前なのか」

「いや、これは今日出掛ける前に即興で作ったんだ。お前に対するヒントとして」

「ヒント?」

「そう。つまり、『さだとおる』を並べ替えて『おださとる』だ。残念ながら気付いてもらえなかったようだけど」

 修一は鼻を鳴らした。ふざけやがって。

「戸籍上の名前は別にあるけど、さすがにこれはお前にも言えないよ」

 佐田は半分程泡で満たされたグラスを煽る。

「一応聞くけど、お前に戸籍を乗っ取られた人はどうなったんだ」

「さあ、それは知らないよ」言いながら鼻の下に付いた泡を手の甲で拭った。「俺は業者から買っただけなんだから」

 美容整形外科医と戸籍ブローカーと三人で顔写真を見ながら相談して決めたのだと言う。

「つまり、今やお前は、完全に裏社会の人間ということか」

 修一は佐田を見据える。

「まあ、そう睨むなよ」佐田はニヤリとし、グラスの残りを飲み干した。「今の世の中、裏とか表とか、そんなにはっきり分けられるものでもないだろ」

 修一は返すことが出来ず、歯痒い思いで言葉を呑んだ。

「今俺は、大小合わせて二十一の詐欺グループを統括管理している」

 予想外の規模に、修一は思わず佐田を見返した。

「それぞれの店舗に道具やノウハウ、その他色々な情報を与えて指導することで、上がりの二十五%が俺の懐に入ってくるんだ。しかも最近はどの店舗も軒並み調子が良くてね。十五人くらいのところで月二億とか、悪くても最低五千は達成している。それでこの勢いに乗って組織を更に拡充していこうと、まさに準備を整えていたところなんだ」

「それでお前は……俺に一体何をさせようと言うんだ」

 ふたりの視線が交錯した。

「些細な人為的ミスが、主要メンバーの逮捕に繋がらない、フェイルセーフな組織管理システムを作って欲しい」

「……な、何!」

「つまり、お前を安全性工学のプロと見込んで、うちのセキュリティーシステムのアップグレードを依頼したい。尚且つそれを社会状況の変化に合わせて随時アップデートすることで、安全性を維持して欲しいんだ」

 怒りと恐怖がない交ぜになって修一の体を震わせた。座卓の下で、胡坐をかいた膝を両手で抑えつける。

「なるほど、俺の専門知識を悪用しようと言う訳か」

「有効利用と言って欲しいな。もちろんそれなりの待遇で迎え入れるつもりでいる。最低ラインとして月五百は保障するよ。お前にとっても悪い話じゃないはずだ」

「断る」

 佐田の顔から一瞬表情が消えた。彼はゆっくり視線を外すと、唸るような長い溜息をついた。それから無言で箸を取り、春野菜の天ぷらと蛸の酢の物と刺身を続けざまに食べ、茶碗蒸しの蓋を開けたところで顔を上げた。

「お前も食えよ」

 修一は緩慢に箸を掴み、取敢えず近くにあった烏賊の刺身を摘まむと、御座なりに醤油皿へ突っ込み口に放り込んだ。――旨い。

 沈黙の中、思いがけず、修一の箸を動かすペースが早まっていく。

「五年ほど前になるかな、今の商売を始めて半年ほど経った頃だ。仕事仲間に情報屋を紹介されたんだが、一体誰だったと思う?」

「さあな」修一は素っ気なく言い、天ぷらの盛り合わせに箸を伸ばした。

「赤木さんだよ」

 修一は佐田を見返すと同時に、海老天をお吸い物の中に落っことした。「えっ!」

「杏子の父親、赤木慶一郎だよ。今や彼は大切なビジネスパートナーのひとりだ」

「おい! そりゃあ一体どういうことだ」修一は声を荒げた。

「彼は現職の頃から、こちらの世界では知る人ぞ知る情報屋だったらしい。内部機密や捜査情報を裏社会に流していたんだよ」

 どうりで昔から羽振りが良かったわけだ。修一は舌打ちした。

「お前達夫婦や緑のことも折に触れて聞いていたって訳さ」

「……あの糞狸」

「お前も相変わらず一本気だなぁ」佐田が嘲るように言う。「まさか警察は全員正義の味方だとでも思っていたのか」

「いや、俺もそこまで餓鬼じゃない。あれだけのでかい組織だ、当然色々な人種がいるだろう。しかしな、そんな汚職塗れの二枚舌に説教されていたのかと思うと、俺は……」修一は俯き、座卓の下で左拳を握りしめた。

「因みに赤木さんには、今回の防犯カメラの件も捜査状況を調べてもらっている。発覚した口座から辿る線は手詰まり状態らしいから、うちとしては安泰だ。出し子の特定に関しても、連中あまり力を入れていないというから、お前も神経質にならなくて良さそうだな。まあ捕まえたところでさほどの意味はないと判断したんだろう」

「警察ってのはどうなってるんだ」

「あのなぁ修一」佐田が幾分冷めた目で見ていた。「もう既にフェーズが移行しているんだよ。社会の腐敗、欺瞞、矛盾、そういったものを織り込み済みで対処しなきゃならない時代になってきている。信頼関係を基盤とした社会は崩壊しつつあるんだ」

「ああ、その点に関しちゃ俺も同感だよ。確かに糞みたいな世の中だ」

「いずれ近い将来、世の中は一握りの金持ちとその他大勢の貧乏人しかいなくなる。つまり中間層が消滅するんだ。そうは思わないか?」

「そういう流れは、これまでの人生で身を以てひしひしと感じてきたよ」

「だとしたら、早いこと思考を切り替えて、手段を選ばず金持ちになる方法を実践した方が賢いとは思わないか?」

「いや、俺はいい」修一は即答した。「汚いことして金持ちになるくらいなら、貧乏なままでいい。もしお前の言うやり方が最先端の社会適応だというのなら、俺は社会不適合者のままでいい」

「また綺麗事か」佐田は鼻で笑った。

「違う! これは多分俺の意地だ。今更寝返るのも癪に障るじゃないか。ここまで来たら、むしろ金に背を向けたいような気持になってくる。何かそこにヒントがあるような気もするし……」

「ほう、なるほど。そりゃあ御立派だねぇ、社会変革への偉大な第一歩を踏み出すわけか」佐田は嘲るように言う。「じゃあ、仮にその地道な活動が賛同者を増やしていったとしよう。しかしそれが社会全体を巻き込むような大きなうねりとなり、理想的な社会とやらが実現するのには、あと何十年くらいかかるんだろうね。その頃までお前の寿命は持つのかな」

「違う、そんな大それたことを言ってるんじゃない。俺はただ、この金を中心とした雁字がらめの社会システムから抜け出す方法を探したいだけだ」

「その見つかるかどうかも分からない抜け道探しに、お前は残りの人生を捧げたいのか? 理解しかねるね。極めて高い確率で無駄骨に終わるだろう」

「たとえ見つけられなくても、自分で自分を欺かずに済むのなら、それでもいい」

「随分とカッコいいことを仰るじゃありませんか。小銭欲しさに出し子をなさってた方のセリフとは思えませんねぇ」

「そ、それは……」修一は目を泳がせた。「生きていく為に、どうしても必要に迫られて、仕方なく……」尻つぼみに声が小さくなっていく。

「いいか、そう簡単に世の中の仕組みは変わらないんだよ」佐田は冷たく言い切った。「いくらカッコいいことを言っても、結局は金がなけりゃ始まらない。今、目の前にそういう金を中心とした社会システムがあるわけだ。既に金はその多寡次第で、道徳や規範を凌駕する力まで持ってしまった。その結果、金のあるところには地位も名誉も権力も情報も集まって、何事においても有利な条件が整ってしまう。そういう現実を前にして、善悪を議論することに何の意味があるんだ。生きるということが、現実にうまく適応することであるなら、手段を選ばずにより多くの金を稼ごうとして何がいけない」

「で、でも人間が人間である為には、踏み越えてはならないラインというものがあるだろ」

「そんなものはもうとっくの昔から、既に踏み越えた状態で世の中は回っているんだよ。そこに早く気付けるかどうかが運命の分かれ道ってやつさ。いくら嘆いたところで時間を巻き戻すことはできないからな。弱肉強食の新しいフェーズが始まっているんだ」

「なら俺は、人間として留まる為に、抜け道を探しながら生きる」

 ふたりの視線が交錯した。佐田は修一を見据えたまま、口許を歪めて面倒臭そうにひとつ溜息をつくと、項垂れながら首を振った。

「お前は昔っからそう、結局は自分が可愛いだけなんだよ」投げやりに言い放ち、中瓶を引っ掴んだ。

「違う……」修一は自分に言い聞かすように呟いた。

 佐田は残り少なくなったビールを一気にグラスへ注ぎ、八割方泡かと思われるそれを一息に飲み干した。

「お前は常に誰からも咎められるいわれのない、自分で自分に言い訳する必要もない、精神的に自由な善人でいたいんだろ。お前はそのせいで他人を踏みつけることが出来ないんだ」

 修一は言葉に詰まった。

「お前はそれを優しさと勘違いしているのかもしれないが、実際はただ臆病なだけだろ」

「黙れ」修一の声は若干震えていた。

「時にはな、誰かが悪役を引き受けなきゃならない局面だってある。お前にゃ分からんかもしれんが、現実の社会とは残念ながらそういうもんだ。社会人なら誰だって、多かれ少なかれ何かしらの柵に囚われて、矛盾を抱えざるをえず、罪悪感を背負いながら生きてるんじゃないのか。それなのに自分だけは穢れることなく自由に生きていこうなんて、一体お前は何様のつもりなんだ、図々しい」

「うるさい!」思いのほか語気が強くなる。「そんな連中は長い物に巻かれて妥協してしまった俗物じゃないか!」

「だが現実社会に於いては、むしろ彼らの方が正しい存在と見做される」佐田は落ち着いた口調で淡々と語り始めた。「お前もそれくらいのことは分かってる筈だろ。その価値体系からみれば、お前のような融通の効かない糞真面目な人間は、誰に対しても公平でありたいとか、どんな人であれその人格は尊重されなければならないというような綺麗事にかこつけて、負担するべき罪から逃げ続けていた卑怯者という事になる。つまりその卑劣さが災いしてホームレスにまで転落したという事になるんだ」

 修一は右拳を座卓に叩きつけた。

「うるさい! 黙れ!」唾を飛ばしながら激昂し、佐田を睨みつける。「そんな出鱈目な理屈があって堪るか!」

「そう。だから出鱈目なんだよ」佐田は冷静な態度を崩さなかった。「最初から言ってるじゃないか、世の中は狂っているって。そして今や矛盾している方が正常で、正論を唱える方が異常というような反転現象が、社会の至る所で起り始めている。いいか修一、よく思い出せ。お前は社会に出てからの十数年、どんな目に遭ってきた。さぞかし悔しかっただろうな、俺にはそれが目に浮かぶようだぜ。糞真面目な人間がホームレスになるっていうのは、不器用ながらも愚直に努力し続けた人間が報われない世の中っていうのは、一体何なんだろうな」

「……大きなお世話だよ」修一は強がってはみたものの、目頭が熱くなるのを抑えることが出来なかった。

「残念ながら今の世の中、真面目な奴は死ぬまで利用されるだけなんだよ。報われることなどまずない。お前も、必死で身に付けた知識や能力を生かす機会すら与えられないまま、社会に無視され、蔑まれてきたんだろう?」

 修一は俯いた。歯を食いしばってみたものの、体の震えを抑えることが出来ない。

「なあ、そうなんだろう? もういい加減、現実を直視したらどうだ。こんな世の中でいくら正論を訴えたところで、糠に釘なのは痛いほど分かっただろ。結局お前は、餓鬼の頃から今までずっと、当りの入っていない籤を引かされ続けていたんだぞ。悔しくはないのか。社会に復讐したいとは思わないのか?」

 修一の口から、思わず呻き声が漏れた。

「このまま誰からも認められず、誰とも関わることなく、気に掛けられることもなく、まるで初めから存在しなかったかのように、消えて無くなるのか。お前はそんな人生で虚しくはないのか。それで生きてきたと言えるのか?」

 修一は座卓に突っ伏し、頭を抱えた。

「お前は本当にこれまでよく頑張ってきたと思うよ」佐田はしみじみと励ますように語りかけた。「しかしこの辺でもう楽になったらどうだ?」

 修一の背中がヒクつき、嗚咽が漏れる。

「俺は最後のチャンスを与えているんだぞ。ここまで落ちぶれて、今更、善だの悪だの言ってる余裕がお前にあるのか。そもそもこんな世の中で、誰に善悪が判断出来る」

 修一は成す術もなく放心していた。これまで拠り所とし、頑なに拘り、守り抜いてきた価値観が、脆くも崩れていく。足場を失くした魂が途方に暮れ、暗闇の中を彷徨い始めた。


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