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親父の消息  作者: 真宮 裕
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八章 消息

「でも、ちょっと痩せ過ぎてない?」隣で杏子が首を傾げた。

「よっぽど苦労したんだよ、きっと。でなきゃこんな事しないでしょ」

「だけどいくらなんでも、あの真面目な人がこんな事……」

 緑は、リモコンの一時停止ボタンを押した。

「ほら、ここにほくろみたいなのが――」ソファーから腰を浮かせ、大型テレビの画面を指差す。「親父も頬のここら辺にあったよね、確か」

「う、うん……でも……」

 昨夜からニュースで流れている防犯カメラの映像だった。大阪郊外のコンビニでATMから金を下ろす、野球帽を被り眼鏡を掛けた挙動不審な男である。振り込め詐欺に使用された口座から、二回に渡って五十万円ずつ、計百万円を引き出したと見られている。

 金曜の夜、なんとなくテレビを見ていた緑は、男の雰囲気や仕草に引き付けられ、画面の前から動けなくなった。そして土曜の朝から杏子を叩き起こし、録画したニュースを元に防犯カメラに映る男について検証していた。

「でも……修一さん視力は両目とも1.5だし……」杏子が弱々しく呟いた。

「眼鏡は変装だよ」緑はやんわりと優しく否定した。

「それにあんなエラ張ってなかったし……」

「いやいや……異物感丸出しでしょ」緑は苦笑いを浮かべた。「飴玉でも頬張ってるんだよ、多分。顔を変えようとして……」

 杏子は現実を受け入れることに怯えているのかもしれない。

「認めたくない気持ちは分かるけどさ、やっぱ親父でしょ、この人」言いながら緑はリモコンを操作し、停止していた映像をまた再生させる。

 杏子は何も答えなかった。画面からは男の緊張感がひしひしと伝わってくる。

「私も最初は目を疑ったよ。もちろんショックだったし。でも、なんかホッとしてる自分もいたんだよね」

 杏子が振り向いた。「えっ」

「生きてるって事でしょ。何か妙なことにはなってるみたいだけどさ」

 失踪して一年と少し、まさかこんな形で消息を知ることになろうとは……。今、親父の身に何が起こっているのだろう。

「そりゃ、私だってもちろん……。だけど――」杏子がテレビに向き直り、頬に手を添えた。「……どうしよう」

 緑はテーブルに置いていた携帯を取り上げ、杏子に差し出した。「通報しとく?」

「駄目よ!」杏子が目を見開き、尖った声を出す。「馬鹿なこと言わないで! 私はまだあの人と夫婦なのよ。前の労働安全衛生法違反とは犯罪の質が全然違うんだから。こんな詐欺の片棒担ぐような真似しでかして、世間にどう顔向けしろって言うの。私達、恥ずかしくて表歩けなくなるわよ」

 緑は杏子の勢いに気圧され、目を瞬かせた。「……じゃ、じゃあ、どうしよう?」

 重い沈黙がふたりの間を流れた。テレビの中では、なぜか男が白眼を剥いている。

「と、とにかく」杏子が声を潜めて語り始めた。「この事は絶対、誰にも口外しては駄目よ、分かった?」

 緑は怪しい男の挙動を見ながら頷いた。

「私達さえ黙っていれば、誰も気付かないから」

「随分痩せちゃったし、急に老けこんだ感じもするよね。その上、変装までしてるし……。確かに、余程近しい人でもない限り、分からないかも」

「そう」杏子は頷き、緑に向き直った。「で、あの人にそんな近しい人、いると思う? 私達以外に?」

 緑は記憶を遡り、思いを巡らす。「そう言えば、特に思い当たる人は……」

 杏子は悲しげに視線を落とし、ゆっくり首を振った。「そんな人いやしないわ」

 修一が長年従事してきたのは非正規の仕事であり、契約が切れる度に色々な職種を転々としていたので、長い付き合いの人などいないだろうと杏子は言う。その上、自分を卑下しているせいか、公私ともに他者と関わることを避けているようでもあった。緑は修一の知人、友人を一度も見たことがないし、その気配すら感じたことがなかった。恐らく大学の人間関係もとうの昔に切れているであろう。

「とにかく、今は下手に騒いだりせず、じっとして時が過ぎるのを待ちましょう。それで月曜になったら、朝一で市役所へ行って手続きしてくるから」

 咄嗟には、杏子が何のことを言っているのか分からなかったが、今一度、頭の中で反芻し、ようやく理解すると、

「えっ、嘘!」緑は素早く振り向いた。「なんで、なんで、そこまでしなくても大丈夫でしょ、多分捕まらないって」

「そんなこと分からないわ」杏子は冷静に言う。「もし修一さんが犯罪組織か何かに属しているとしたら、トカゲの尻尾切りみたいに見捨てられる可能性だってあるのよ」

「あの親父がそんな組織に入る訳ないじゃん」張り詰めた空気を和らげる効果を狙って、緑は敢えて陽気さを装ってみた。「多分、また変なのに騙されてるんだよ」

「恐らくはね……」杏子は抑揚のない深刻な調子を崩さなかった。「だけど、もうどちらでも同じことなの」

「はっ? お母さん?」

「既に『捕まる』『捕まらない』の問題ですらないのかもしれない。あの人はもう昔の修一さんとは別人なの。私達が関わってはいけない別世界の住人になってしまったの」

 その時、右後方でドアを開く音がした。緑は慌ててリモコンを操作し、通常の地上波放送に切り替える。振り向くと、慶一郎が訝しげにこちらを見ていた。

「あら、お父さん」杏子が咄嗟に平静を装って明るい声を出した。「今日はゴルフじゃなかったの?」

 土曜は早朝からゴルフに出かけるのが慶一郎の習慣になっていたので、この日もそうに違いないと、ふたりは高を括っていたのだ。

「あぁ」慶一郎はドアの前でしばし佇み、素早く左右に視線を走らせた。「ちょっと急用が出来てね」言いながらふたりへ歩み寄る。

「へぇー」緑は慶一郎から視線を逸らし、ガラス越しに外を見た。「せっかく天気も良くて……ゴルフ日和なのに、残念だったね、お爺ちゃん」

「まあ、たまにはそんな日もあるさ」慶一郎はソファーの横で立ち止まり、ふたりを見下ろした。「ところで緑、今、慌ててチャンネルを変えてなかったか?」

「いや、ずっと――」テレビに向き直ると、盤上の升目に駒が並んでいた。

『先手、7六歩』

「ずっと、ふたりで……将棋を見てたよ」

 チラリと杏子へ視線を送るが、彼女は微動だにしない。顔をテレビへ向けながらも、その目には何も映っていないようだった。

「ほぉー……そうかぁ」

「なんか、やっぱ凄いよね。奥の深さが半端ないっていうか、盤面上に広がる宇宙みたいな。前々から興味はあったんだけど、もうこの際だから、思い切って将棋部に入っちゃおっかなぁって、今お母さんと話してて」緑は喋りながら、自身でも呆れるほどに、次から次へと嘘が溢れ出てきた。

「ならその内、わしとも一局お手合わせ願いたいな……」

 返事をしようと振り向いた緑を、慶一郎の据わった視線が容赦なく射抜き、彼女は笑顔のまま絶句した。

「とでも言うと思ったのか、緑? 下手な嘘はもうたくさんだよ」慶一郎は右手を差し出した。「さあ、リモコンを渡しなさい」

 緑は咄嗟にリモコンをシャツの中へ入れると、ソファーの上で体育座りをし、背中を丸めてお腹で抱え込んだ。「だ、駄目だよー。今、めちゃくちゃ大事な局面なんだからぁ」

『後手4二銀』

「適当なことを言うんじゃない! まだ序盤の序盤じゃないか」

「お爺ちゃんもまだまだ甘いなぁ」虚勢を張った緑の声は若干の震えを帯びていた。「序盤の何気ない一手が勝敗を左右したりする、将棋っていうのは元来そういうもんだよ。『序盤を笑うものは序盤に泣く』って言うでしょ」追い込まれた彼女の口からは、何やら即興の格言めいたものまで飛び出した。

「ほ、ほーう、素人が知ったような事を言うじゃないか」慶一郎は冷笑した。「苦し紛れの思い付きにしては大したもんだ、そこだけは褒めてやろう」

 駄目だ。色々なことが極めて的確に見透かされている。緑の額からは、この時節には不自然と思われる、幾筋かの汗が流れ出していた。

「まったく、ここまで頑なに抵抗するところを見ると、よっぽどわしには見せたくない代物らしいな」慶一郎は訝しげにふたりの顔を交互に覗きこんだ。

 緑は将棋に没頭する振りを続け、杏子も相変わらず無言でテレビ画面の向こう側を眺めていた。

 そのとき突如、慶一郎の顔から表情が失われた。「まさかお前たち……」

 緑は将棋を見ながらも、様子のおかしい祖父をチラ見する。

「わしの娘と孫に限って、そんな――」

 この老人は何をひとりでぶつぶつ言っているのだろう。

「いや、これも時代の流れというやつなのか……」

 しばらく懊悩していた様子の慶一郎は、そのうち何やら自分なりの答を見つけ出したのか、苦笑を浮かべながらふたりの方へ顔を向けた。

「わしも随分歳をとってしまった」言いながら慶一郎は項垂れ、後頭部を擦った。「この歳にもなると気付かぬうちに、価値観の変化に取り残されてしまうのかなぁ。そのせいでふたりには気を使わせてしまったようだ。許しておくれ」そういうと彼は更に頭を下げた。

 緑と杏子は顔を見合わせ、瞬きした。

「わしらの時代は、そういった諸々は秘め事として、ひとりでこっそりと観賞するものだった。それにそもそもおなごの場合は、基本的にそういったものは見ないというのが、まあ実際のところはよう分からんが、一般的な社会通念として広く共有されとった。しかし昨今ではウーマンリブというのか、男女同権に対する希求の結果なのか、そういった諸々に対しても、割合オープンで能動的な女性も一般化しとるようじゃのう」

「ちょっ、ちょっと待ってお父さん!」若干頬を赤らめた杏子が慌てて割って入る。「何を言い出すつもりなの」

「はっ、はっ、はっ」慶一郎は鷹揚に笑った。「何もそんなに焦ることはないんだ、杏子。わしも確かに七十を過ぎてはいる。しかしな、頭の中はまだまだ柔軟性を維持しておるつもりだ。多少のことではカルチャーショックを受けたりせんよ」

 ふたりは言葉を失い、呆然と半口を開けたまま慶一郎を眺めていた。

 慶一郎が緑へ顔を向けた。「何か最近は女性向けに作られた作品というのもあるらしいが、そういうやつなのか?」

 緑の中で何かが弾けた。

「んなもん、見るわけねえだろ!」緑は下から慶一郎を睨んだ。「邪推にも限度ってもんがあるよ」

「な、何だ、その目は」

 緑は視線を外し、ひとつ溜息をついた。そしてお腹からリモコンを取り出し、普通に座り直す。

「確かに私は慌ててチャンネルを変えた。それは認める」

「緑!」杏子が声を尖らせる。

「ほらみろ」慶一郎は勝ち誇ったようにいう。

「だけどいくらなんでも発想が飛躍し過ぎだよ。母娘でそんなもん観てたら変態じゃん!」 

 確かに価値観は多様化していて、慶一郎が言う様に性的なことに関して明け透けな女性も増えているのかもしれない。しかしそんなのはごく一部だと緑は思いたかった。これからも一般化するなどと考えたくなかったし、そんな世の中になって欲しくなかった。

 慶一郎は徐にテレビへ近付くと、下のボードの扉を開き、ブルーレイ・レコーダーの中身が空なのを確認した。「何だ……違うのか」

「だから言ってんじゃん、疑り深いなぁ」

 因みに緑はニュース番組をテレビ本体に内蔵されたハードディスクに録画していた。

「それじゃあ、お前らが必死で隠そうとしとったのは一体――」

 そのとき、携帯の着信音が鳴り響いた。慶一郎がズボンのポケットをまさぐり、スマホを取り出した。顎を引き、眉間に皺を寄せながら、遠近両用眼鏡越しに液晶画面を覗く。舌打ちをして耳に宛がうと、緑たちに背を向け歩き始めた。

「はい」

 ――――

「いや、それほど人員は割いてないようですが……」

 ――――

「ええ、まだその辺りのルートまでは――」

 慶一郎がリビングから出ていったのを確認すると、緑はその隙に録画したニュース番組を削除した。


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