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親父の消息  作者: 真宮 裕
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七章 妥協

 修一は顎をしゃくれさせながら画面に触れた。小刻みに震える指で、カードの裏に書かれていた四桁の数字を打ち込む。引き続き、車の中で指示された通り、一回当たりの引き出し限度額五十万を入力する。

「しばらくそのままでお待ちください」機械が無機質な唸りを上げ始めた。

 修一はやや俯き加減のまま半歩後退し、目深に被ったヤンキースのキャップ、そのつばの部分を意味もなく弄りながら、極力顔を動かさずに目だけを動かし、伊達眼鏡の隙間から左右を窺った。

 左の雑誌コーナーに三十前後と思しきスーツ姿の男がひとり漫画雑誌を立ち読みしているだけで、他に客は見当たらなかった。右隣の自動ドアも修一の入店以来、出入りはない。ガラス越しに外を見る。無駄に広い駐車場には車が二台だけ、連中が待機する黒のワンボックスと左のスーツのものと思われる白のライトバンが、互いに離れて停まっている。轟音が迫って来て、向かいの片側一車線の傷んだ府道を、大型トラックが煤煙と粉塵を撒き散らしながら横切って行った。

 ガラスの反射を利用してレジ付近を窺う。修一が入店した際、「いらっしゃいませ、こんにちは~」と御座なりに唱えていた学生バイト風の男が見えなくなっていた。恐らくは暇を持て余し、どこかで陳列棚の整理でもしているのだろう。平日の午後二時とはいえ、さすがは郊外のベッドタウンである。

 目の前の機械に視線を戻す。相変わらずATMは断続的に唸り続けていた。

「……」

 やけに時間が掛かり過ぎているような気がしないでもない。

 修一も路上に出る前は、少なからずATMを利用する機会があった。しかし、これ程までに待たされた事などあっただろうか。長年放ったらかしておいた通帳の記帳処理ならばまだ分かる。しかし現金をただ引き出すだけでここまで時間を要するなどということがあるだろうか。修一は口腔内に溜まった唾液を飲み下した。喉仏が上下に波打つ。

 一昨日の夜、闇の職安サイトの求人情報にアクセスし、連中とは昨日初めて会った。「お金を下ろしてくるだけの簡単な仕事ですから」とだけ言われ、具体的なことは一切聞いていないものの、これがまともな金でないことくらいは、もちろん察しが付いていた。もし既にこの口座が当局の網に引っ掛かっていたとしたら……。今まさにパトカーがこちらへ向かっている……なんて事は……。

 そういったケースの場合、捜査員たちはサイレンを鳴らさないだろう。きっと近くで車を降りると、携帯で店員と連絡を取り合いながら、こっそり裏口から侵入するのだ。

 待て待て、落ち着け、そんなのはまだひとつの可能性に過ぎないではないか。修一はひとつ息を吐き、いま一度、目の前の機械に意識を集中した。

「……」

 相変わらずATMは唸り続けている。修一の額には汗が滲み始めていた。

 しかし延々、ここで突っ立っているわけにもいかないのではなかろうか。やっている行為の性質上、どこかで見切りをつけなければ……。ただ逃走するタイミングを見誤って、現金とカードを置き去りにするような事になった場合、連中は修一をただではおかないだろう。留まるも地獄、逃げるも地獄……。さっさと金が出てくれば、もちろんそれが一番なのだが。

 果たしてこれは正規の処理時間なのだろうか? それとも金融機関、警察、コンビニが連携した時間稼ぎなのか? 待つべきか逃げるべきか? 

 踏ん切りのつかない問いが、何度も頭の中で繰り返され、連中に支給された茶色いウインドブレーカーの中で、行き場を失った熱が体を火照らせる。修一は意識的に口から息をゆっくり吐き出し、ジーンズの尻の辺りで両掌の汗を拭った。

 焦って己を見失ってはいけない。少し冷静になろう。急いては事を仕損ずるとは良く言ったもので、何事においても、広い視野で合理的な判断を積み重ねることでしか道は開けないのだ。

 そうだ、実際に感じている程の時間は経っていないのかもしれない。極度の緊張で気が急いているために、時の過ぎる感覚が麻痺することだって有り得るではないか。それによくよく考えてみれば、これまで五十万もの現金をATMで降ろしたことなどあっただろうか。大抵は数万円が常ではなかったか。引き出す紙幣の枚数が多ければ、それに伴って機械の処理時間が多少増えても何ら不思議なことではないだろう。更に言えば、修一が過去に扱ったのは全て金融機関のATMであり、コンビニで金を引き出すのはこれが初めてであった。コンビニのATMは外観も金融機関のものとは異なっているし、一旦銀行を経由して預金を引き落とすという性質上、コンピューター内部でのデータのやり取りがその分煩雑になり、処理時間の遅延に繋がっている可能性も十分あり得る。それらの事情を総合的に判断すると――

「紙幣をお取りください……紙幣をお取りください……」

 無機質な音声に修一は我に返った。開いた紙幣取り出し口を見た瞬間、強張っていた全身から一気に力が抜けた。手を伸ばして感触を確かめる。久しく味わったことのない札束の厚みは、思いがけず修一を高揚させた。口腔内に溜まった唾液を飲み下す。周囲へ素早く視線を走らせながら、連中に持たされたヴィトンのセカンドバッグへ金を放り込んだ。

「続いてカードと明細書をお取りください……」

 カードを引き抜いて、修一はまた唾液を飲み下した。人相を変える為に、一つずつ左右に頬張っていたウズラの卵大のスーパーボール、その異物感が唾液の分泌を促進しているようだ。

「ご利用ありがとうございました」

 初期画面に戻ったのを確認し、修一は再びカードを挿入した。同様に暗証番号と残りの引き出し金額五十万を入力する。

 カードが使えることさえ分かれば、山は越えたも同然だった。後は残りの金を引き出して、連中が待機する車に百万を届ければ修一の任務は完了する。さしあたり捕まる心配もないだろう。キャップを被り、伊達眼鏡を掛け、スーパーボールを頬張った上に、顎をしゃくれさせているのだ。誰がこの顔を修一と見抜くことなど出来るだろうか。

 しかし、ATM内部から漏れ聞こえてくる断続的な唸りにじっと耳を傾けていると、微かな懸念が頭をもたげ始めた。テクノロジーというものは日進月歩である。昨今の顔認証技術はどの辺りまで発達しているのだろうか。俗世間から離れて路上で暮らしている間、画期的な進化を遂げたりはしていないだろうか。修一は、眉間を寄せたり、小鼻を膨らましたり、三白眼にしてみたり、更なるアレンジを顔に施し、念には念を入れてみる。

 しかしふと冷静になり、過剰な追加演出を止めた。客観的に己の姿を想像してみると、防犯カメラの解析技術に対抗するより、今はこの場で目立たないことの方が重要に違いない。顎のしゃくれ具合も幾分抑え目にした。過ぎたるは猶及ばざるが如し、である。

 程なくして紙幣取り出し口が開いた。修一は金を回収し、歩いて駐車場の隅に停めてあるハイエースへと向かった。スモークガラスの向こうから見張っているのは分かっていた。連中は全てを見透かしている。修一は彼らの素姓を知る由もないが、彼らは修一の運転免許証のコピーを持っていた。昨日の面接の際、提示を求められたのだ。最初から何もかもが公平さを欠いていたが、抗う術もなく、盲目的に服従するほか道はない。

 修一は、彼らに対する不信が表に現れないよう細心の注意を払いながら、強張った顔を俯き気味にぎこちなく歩いた。スモークガラスを見ないようタイヤの辺りを凝視し、何も考えないよう努めていた。

 ひとつ息を吐き、大きく凹んだ後部座席のドアをスライドさせる。

「お疲れ様でーす」まとめ役の橋本という若者がステップの上で、程良く小麦色に焼けた顔を綻ばせながら出迎えてくれた。「どうでした、問題なかったですか?」

「はい、無事百万下ろせました」言いながら、セカンドバッグを渡す。

 深緑のミリタリージャケットを羽織った橋本は、金を取り出しながら窓際の座席に腰を降ろし、修一に隣へ座るよう促した。次いで運転席の厳ついサングラスの男に指示を出し、車が動き始める。橋本は組んだ膝の上で器用に札束の側面を揃えると、慣れた手付きで紙幣を扇状に広げ、勘定を始めた。

「やっぱり……緊張しましたか?」札を数えながら俯いたまま聞いてくる。

「ええ、まあ……そうですね」

「初めてですからね……まあそのうち慣れますよ」そう言ってちらりと横目で修一を一瞥した。

 車はいつの間にか狭い府道から、片側三車線の国道に入っていた。ガスト、ユニクロ、ヤマダ電器、BOOK OFF、中古車ディーラー、消費者金融、パチンコ屋、どこにでもありそうな特色のない風景が車窓を横切って行く。

「じゃあこれ」

 振り向くと、橋本が指に挟んだ紙幣を差し出していた。

「約束の取り分です」

 修一はしばらくその金を凝視していた。

「えっ……」下から覗きこむように橋本の顔色を窺う。

「うん。百万の二パーセントで本来二万なんですけど、うちから支給してる服とか帽子とか眼鏡とか、そういった経費を差っ引いてます」橋本は悪びれる様子もなく、快活に答えた。

「あぁ……」修一は思わず弱々しい吐息を漏らしてしまう。

「でも次からは満額出ますよ」そう言うと橋本は、改めて一万円札を差し出し、修一も頭を下げながら、両手で受け取った。

「基本的にうちは完全歩合、その場で取っ払いのシステムなんで」

 修一は、釈然としない気持ちを抱えながら、ジーンズの尻ポケットから二つ折りの財布を取り出し、紙幣を収めた。

「『最終日にまとめて』とか言って、金額誤魔化すようなあくどい同業もいますからね。そういう点では、かなり良心的な方だと思いますよ、うちは」

 車は速度を落とし、左のでかいショッピングモールのような施設へ入っていった。三階建ての建物の横をゆっくり舐めるように徐行する。併設されたクリーニング店を越えた所でいったん停車し、運転席の男はしばらく逡巡するような素振りを見せた後、バックして白線で仕切られた駐車エリアへ入った。

「取敢えず三時まで、ここで待機です。もしその間に入金の連絡があれば、あっこで引き出して貰うんですけど」

 修一は半身を乗り出して、フロントガラス越しに橋本の指差す方を見た。そこには建物の壁に埋め込まれるような格好で、二つの銀行のキャッシングコーナーが併設されていた。

「まあ、後三十分ですからね、今日はもう無いとは思いますけど……。一応念の為です」

 週末の金曜日、ショッピングモールの駐車場は割合賑わっていた。夕食用の買い出しであろうか、建物との間を行き来するのは主婦らしき女性が多い。

 隣で橋本が煙草を吸い始めた。修一はシートの背凭れに体重を預け、軽く目を閉じた。異常な程の疲労感が体を鉛のようにして、冷たい革のシートに張り付かせる。しかし直ぐ、そのまま眠ってしまうのを恐れて強引に目を見開いた。隣にいるのは一見何処にでもいそうな今風の若者であるが、恐らくはバリバリの犯罪者なのだ。修一の体に再び緊張感が蘇り、シートから背中を浮かせ、姿勢を正す。

「良かったらどうぞ」

 横から橋本がマルボロメンソールのソフトパックを差し出していた。

「じゃ、じゃあ……遠慮なく」修一は無意識に何度も頭を下げながら、取り易いように一本だけアンテナのように突き出してくれている茶色いフィルター部分を、微かに震える指で挟み、煙草を抜き取った。ポケットから百円ライターを取り出し火をつける。久方ぶりの普通の煙草は、普段吸っているパイプと比較しても、特に遜色はなかった。

「これ良かったら使ってください」

 橋本が、修一のドリンクホルダーに、上蓋のくり抜かれた空き缶を刺し込んだ。中を覗くと赤茶けた汚水に吸殻が浸っている。修一は礼を言い、早速灰を落とす。

「取敢えず、三時になったら一旦解散なんすけど」

「ええ……」

「ぶっちゃけ……、シュウさん的にはどうなんですか?」

 彼らの業界では、互いをニックネームや偽名で呼び合うのが通例となっているそうで、修一の場合はその頭文字を使うこととなった。

「……と言いますと?」

 因みに橋本は偽名を使っており、頻繁に名前を変えるそうだ。彼は基本的に『は行』を攻めることが多いらしい。

「いや、だから……、つまり月曜以降も、うち専属でやってもらえるって事で良いんすかねぇ?」

 ふたりの視線が交錯し、一瞬妙な間が空いた。

「こういう仕事も、土日は休むんですね」――まるで普通の会社みたいだ。

「いや、だってそもそも銀行が営業してないと、うちらの商売は……ねぇ」

「あぁ……、なるほど」修一の中で想像していた仕事の内容が、また一段と絞り込まれていく。

 橋本はバツが悪そうに片頬を引き攣らせながら、しばらく修一の反応を窺っていた。

「いや分かりますよ、シュウさんの気持ちも。見てたらやっぱ分かりますもん、真面目な人なんだろうなって。そういうのって、一挙手一投足に染み込んでるんすかねぇ、今回だってよっぽどの事情があったんだろうなって……。こんな訳の分からない仕事、なるべく深入りしたくないのはよく分かります」

「ええ……まあ」

「でもね、シュウさん、一万なんてあっという間に無くなっちゃいますよ」

 確かにそうかも知れなかった。まず横山の服装を一式揃えるのにいくらぐらい掛かるだろうか。ユニクロや古着の安物を探せば靴も含めて四、五千円以内でなんとかなるだろうか。取敢えずはそれで店や図書館などの公共施設に入れるようにはなる。残り五、六千円を食費に回すとして、ひとり当り一日百円で、一ヶ月持つかどうかというところ。その間に新たな生活の打開策、あるいは収入源を見つけることが出来れば良いのだが……。

「どうするんです? また無一文になったら」橋本が追い打ちを掛けてくる。

「もしそうなったら……もし万が一、そういう事態になったら――」修一は反射的に媚びたような薄笑いを口許に漂わせ、「またこちらで……という訳には――」半ば自動的に申し訳なさそうな声を出していた。

「そのときになってから連絡してきても、都合良く仕事があるかどうかは分かりませんよ。こんな時代ですからね、他にやってくれる人は幾らでもいますし」

 橋本の眼差しに一段と力が籠り、抑え込むように修一の顔色を捉えて離さなかった。

「決めるんだったら早い方が良いんじゃないですかぁ。今この瞬間が今後の人生を左右する一大チャンスなのかもしれませんよ。これを逃したら、もう二度とやり直す機会なんて訪れないかもしれない」

「うーん……でも――」修一はその熱さで、火が根元近くにまで達していることに漸く気付き、煙草を灰皿代わりの空き缶に放り込んだ。水に浸かった吸殻が、微かな舌打ちのような音を立てる。

「あっ、もしかしてシュウさん、犯罪とか思ってません?」急に橋本が場にそぐわない奇妙な快活さで聞いてきた。

 修一は無言でゆっくり頷く。

「ない、ない、ない、ない」橋本は顔の前で大袈裟に手を振る。「基本的にそういうのは無いっす。だってシュウさんは他人から頼まれて、金を下ろしてきただけなんですよ。それって何の罪になるんですか?」

「でも、あんな変装までして……」

 橋本が口を半開きにして、わざとらしく恍けた顔をする。「変装? なんですかそれ? 俺そんな事、一言もいってないですよね?」

「だけど、そういう事なんでしょ?」

「えっ! 何すか、何すか?」橋本は極めて大げさに驚いたような顔をする。「えっ、えっ、金を下ろす時、帽子被ってちゃいけないんですか? 眼鏡掛けてちゃいけないんですか? スーパーボール口に入れてちゃいけない法律ができたんですか?」

 修一は苦笑いを浮かべ、「じゃあ、何の為にあんな恰好を?」

「俺はただファッションとして、あのキャップ、イケてるかなって。それにシュウさん、真面目そうな顔だし、眼鏡も似合うかなって思っただけですよ」

「だったらあのスーパーボールは何なんですか? あれもファッションですか?」修一は橋本の言い草に呆れてしまい、思わず投げやりな言い方になってしまった。

「もちろんそうですよ」橋本は真顔で言い切った。この男に皮肉は通じないようだ。

 余りにも無責任でふざけている。修一は不愉快を通り越して、まともに相手をするのが段々馬鹿馬鹿しくなってきた。そして当初の緊張も薄れ、少し気が大きくなってしまい、

「じゃあ、今日僕が下ろしたのは、一体どういう種類のお金なんですか?」つい踏み込んだことまで聞いてしまった。

「日本銀行券の一万円紙幣です」相変わらず橋本は淡々としている。

「そういうことじゃなくて……どういう手段で得たお金かと――」

「さあ、それは知りませんね」恍けた顔で首を傾げた。「ていうか、うちらがそんなことまで知る必要ないでしょ。何の関係があるんですか? うちらはただ、自分でお金を降ろすのが嫌な人の為に、代わりに引き出して届けてあげる。それで手数料を貰ってるだけなんですよ」

「そんなのは……」誤魔化しているだけだ! と喉元まで出掛かっていたのだが、修一自身、もはや言える立場でもなかった。

「客がどういう手段で稼ごうと、うちらには関係ないですよね。例え違法なやり方で稼いだとして、金の種類が変わる訳でもない。所詮、金は金であって、今や流動的に遣り取りされるただのデータみたいなもので、その金額以上でも以下でもなく、額面通りの価値があるに過ぎない訳ですよ。だったらその金を運搬したところで、うちらが罪に問われる理由もないですよね。裁かれるべきは罪を犯した人間なんですから」

「じゃあやっぱり、犯罪で得たお金なんですね?」

「だから、それは知りませんよ」橋本の半笑いの顔に、『確信犯』の文字が浮かび上がって見えた。「いちいち確認するんですか? そんな顧客を疑う様なことしてたら信頼関係壊れちゃいますよ。だってそうでしょ、どんな商売でもそこは同じだと思いますけどね。例えば、そうだなぁ……ラーメン屋を営んでるとして、会計するとき客に向かって、『それは合法的な手段で得たお金ですか?』なんていちいち聞いてたらどうなります? そんなことしてたら商売成り立たないですよね? 普通の運送屋にしてみても荷物の中身を一々改めたりはしませんけど、もし中に違法薬物が入っていたら、何かしらの責任があるんでしょうか? いいえ、罪に問われるのは送り主に過ぎません。それと同じですよ。客が何して稼ごうが関係ない。知る必要もない。うちらは依頼されたままに金を運べば良いんです。純然たる運び屋ですからね」

 橋本の口調は、まさに立て板に水の如く、不自然な程に流暢であった。彼自身も何らかの事情で型に嵌められ、裏で誰かに操られているのかも知れない。

「だったら、なんでわざわざ人を雇うんですか? 安くない賃金を払って」

「安全対策です」

「言ってる事、矛盾してないですか? 散々、捕まる危険がないようなこと言っておいて……」

「はっ? 誤解しないでくださいよ。俺は犯罪性がないって言っただけで、捕まらないとは言ってません」

「えっ……」

「万が一、客が犯罪者だった場合、仲間と間違えられて逮捕される可能性はあります――」

「はぁ~!」修一は思わず声を荒げてしまった。

「ただ!」橋本は諌めるように両掌を修一に向けた。「ただ誤認逮捕ですから、取り調べで否認し続ければ起訴されることはまずないです。じきに釈放されるでしょう。つまりその為に、出し子と運搬を分けてます。客との接点を作らせないようにすることで、あらぬ容疑から出し子を守っている訳です。本当に知らなければ自白のしようもないですからね」

「……なるほど、物は言いようですね」

「世の中には知らない方が幸せなことも多いんですよ。知らぬが仏って言うでしょ」

「それは暗に脅してるんですか?」

「また~、そんな人聞きの悪い」橋本はおどけた様に言う。

 修一は橋本の余りにも都合の良い解釈の仕方に些か閉口していたものの、しかしその言葉の中からは、幾つかの事実と連中の思惑が浮かび上がって見えた。その為か彼に対して、何か屈折した信頼感のようなものが芽生えつつあった。

「どんな仕事でも多かれ少なかれリスクは伴うものでしょう。そんな中でこの仕事は、かかるリスクに対して得られるリターンが破格に大きい。シュウさん、こんなオイシイ仕事逃したら、一生後悔しますよ」

 実際は真逆に違いなかった。『得られるリターンに対してかかるリスクが異常に大きい』のだ。これまでの話を総合的に判断すれば、修一が担う『出し子』という立場は、連中にとってただの捨駒に違いない。しかしそれでもしがみ付かざるを得ない事情が、今の修一にはあった。

「まあ僕も今回、あらゆる手段を尽くした末の苦渋の決断でしたから、正直こちらへ問い合わせた時点でそれなりの覚悟はしてましたよ」

「えっ……」橋本が拍子抜けしたような顔をする。

「ただ、どういった種類のリスクなのか明確にしておきたかったんです。自分が何をやっているのか、何処に立たされているのかさえ分からないのでは心細いですからね」


 結局そのまま新たな入金の連絡もなく三時を廻ると、橋本は携帯を取り出し、誰かと話し始めた。この日の業務報告と終了確認のようである。それを合図とするように車も動き出した。

「そうっすね……はい、……はい」

 ――――

「今、門真に居てるんで、後三十分くらいで着けると思います……はい」

 ――――

「あっ、それなんすけど、ちょうど今さっき待ち時間に話してて……」

 ――――

「そうっす、そうっす、昨日面接した……はい」

 ――――

「それで取敢えず月曜から一週間だけならって、本人言ってまして……ええ」

 ――――

「それはもう……はい……免許証できっちり、昨日の内に裏も取れてます」

 車は国道百六十三号を南下していく。特別何と比較した訳でもないが、交通量は意外と多いような気がした。

 車は梅田周辺の路肩に停車し、そこで修一は降りるよう指示された。

「お疲れさまでした」修一はステップの上で体を捻りながら頭を下げた。

「じゃあまた月曜から宜しくお願いしますね」橋本が煙草を挟んだ左手を軽く上げた。

 そして修一が車から降りてスライドドアに手を掛けた時、

「あっ――」橋本が何か思い出したように声を上げた。「一応休みの間も携帯は常時繋がるようにしといてくださいね。何があるか分かりませんから」

 東梅田から地下鉄谷町線に乗る。公共の乗り物を利用するのは久しぶりだったが、来週から得られるかもしれない収入の見込みが、財布の紐を緩ませた。谷町九丁目で下車。地上に出て周りを見渡し、方角を確認する。しばらく歩くと鬱蒼とした雑木林が見えてきた。既に横山の携帯は料金不払いの為に使えなくなっていたので、合流場所を城ヶ崎記念公園に予め決めておいたのだ。

 修一は池の前に佇んで、周囲を見渡した。それらしき人影は見当たらない。どのベンチも空席である。しかし以前修一たちが座っていた辺りにレジ袋が置いてあるのを見つけた。コンビニの中サイズであろうか、一応縛ってはあるが、周りを数匹の蠅が飛び交っており、微かに漏れ出す臭気が、その中身を如実に物語っていた。

 修一は袋を脇へ寄せベンチに座った。池の水面が西日を受けて煌めき、近くでホトトギスが一定のリズムを保ちながら啼き続けている。


「……青さん、……青さん」

 ハッとして目を開くと、横山が少し前屈みになって目の前に立っていた。修一は座ったまま伸びをする。

「ついうたた寝してたらしいね」

 体を捻ると逆光が眩しかった。手をかざしてトイレ脇の時計を見上げる。さほど時間は経っていないようだ。

「横山君、どっか出掛けてたの?」

「いや、ちょっとトイレっす……」言いながら、ゆっくり隣に腰を下ろした。「で……どうでした?」

「ん……うん……まあ、想定の範囲内かな」

「そうっすか……」横山は足元に視線を落とした。

「でも、いざ給料もらってみたら、約束してたよりやけに少ないんだ」

「まじっすか……」

「天引きだってさ」修一は立ち上がると、顔を顰めながら自らの服装を眺めた。「これで一万だよ。どう考えてもボッタクリだね」

「それ……支給品ですか」

「あのボロい服じゃ業務に支障があるからって、連中が」

 伊達眼鏡とスーパーボールについては伏せておいた。

「でもまあ、残りの一万は貰えたから良かったよ」修一は再びベンチに腰を下ろす。「まずはこれで、予定通り横山君の服装一式を揃えなきゃね。そうすればまた以前みたいに図書館や――」

 隣を見ると、横山が深刻な表情で地面を見詰めていた。額には汗を滲ませている。

「ん? どうしたの? 何か顔色悪いみたいだけど……」

「ちょっ、ちょっと、トイレ行ってきます」

 修一は振り返り、その内股気味におぼつかない足取りで急ぐ後ろ姿に向かって、

「あれ? さっき行ってたんじゃ……」と言いかけたが、視界の隅に捉えた白いレジ袋がその口を噤ませた。どうやら横山は花見客の置き土産にあたってしまったようである。

 修一は、「トイレの傍を片時も離れたくない」という横山の意思を尊重し、一緒に服を買いに行くのを諦めた。代わりにひとりで上本町六丁目周辺を散策し、ダイコクドラッグでセイロガン糖衣A(六百八十円)を買ってきて、横山に飲ませた。

「やっぱりカニ味噌がいけなかったんすかねぇ」

 夜、ベンチに寝そべりながら横山が呟いた。この頃には薬が効いたのか、下痢の症状も治まっているようだった。

「拾って食べるのには適さない食材だね。蟹だけでなく、甲殻類全般について言えることだと思うけど」

 修一は隣のベンチに座り、パイプを燻らせながら、満月を眺めていた。

「……だけど、あんな食べ方されたんじゃあ、カニも浮かばれませんよ。大雑把というか何というか」

「うん。人間の驕りかもしれないね。現代人は生き物を殺して食っているという自覚に乏しいんだ。今回の横山君の苦しみは、ある意味、贖罪になったのかもしれないよ」

「な、なんで俺が」横山は不満そうに言う。

「世の中の仕組みって大抵そういうものだよ」


 翌日ふたりは、午前中に露店とユニクロで横山の服や靴を一式揃えた。難波の立ち食いうどん屋で腹ごしらえし、その足で鳥之内図書館へ向かった。服装を新調した効果か、警備員に睨まれることも、職員に付き纏われることもなかった。いつものように本を選び、ソファーに陣取る。近くのコンセントを拝借し携帯を充電させて貰った。

 腹の上に本を開き、柔らかい背凭れに体重を預ける。全身が沈みこんでいき、思わず吐息が漏れた。小春日和の午後、程良く腹も満たされている。瞼を閉じると肉体の感覚が徐々に失われていき、意識が遠のいていった。


 断続的に鳴り続ける微かな異音が、徐々に修一の意識を現実へと引き戻していった。どれくらい眠っていたのだろう。眩しさに顔を顰めながら上体を起こす。腹に載せていた東洋医学の専門書を膝の辺りで慌てて受け止める。

 発光する携帯が小刻みに床を蠢き、長いコードの尻尾を引き摺りながら、壁際からこちらへ向かって少しずつ移動していた。修一は徐にソファーから腰を上げ、寝ぼけ眼で、コンセントに繋がれたままの携帯を拾い上げた。非通知からの着信に胸騒ぎを覚え、緊張が蘇る。瞬時に覚醒した頭の中を漠とした不安が錯綜し、震える指で通話ボタンを押した。

「……も、もしもし」

『あっ、シュウさんすか?』

「は、はい」

『お疲れ様です、橋本です。実はちょっと面倒なことになりまして……』


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