六章 小泉
だるい体を引き摺るように階段を上る。途中、二人組の女子が追い抜きざまに、「青山さん、おはよう」。何やら恐々と遠慮がちに声をかけてきた。クラスメイトである。緑も作り笑顔で無難に挨拶を返す。
高校に入って一年と少し、緑も薄々勘付いてはいた。クラスの男女を問わず、中でも大人しそうな人達が、妙によそよそしいのだ。そういうことが一年の頃からしばしばあった。恐らく一度体に染みついた悪癖は、そう簡単に直せるものではないのだろう。どれだけ気を付けていても、所詮は表面を取り繕っただけに過ぎないのだ。特に広美と親しくなってからは、彼女の前で素の自分を曝け出すことが増えた。例え近くに他の生徒がいても、最近はあまり気にせず普通に喋っている。きっとそういった言葉の端々やふとした時の立ち振舞いに、育ちの悪さが顔を出してしまうのだ。
今やクラスの誰も、緑をお嬢様だとは思わないだろう。精々あくどい商売で財を築いた成金の娘、といった印象ではないだろうか。しかし緑は、この際それでも良いのではないかと考えていた。というのも正直しんどいのである。元々、漠然としたお嬢様というイメージに憧れを抱いていただけの緑にとって、淑女に成りきって一日を過ごすことが、これ程までに労力を要するものとは思いもよらなかった。そのくせ得られる恩恵は、せいぜい男受けが良くなったり、上辺の友達付き合いが増えたりするだけだ。最近流行りのコストパフォーマンスの概念に照らし合わせてみても、合理的とは言えないだろう。
やはり淑女の役割は本物の淑女に任せておくべきなのではないか。そもそも己を偽ること自体、間違っていたのかもしれない。そう言えば、親父も言っていたではないか、「嘘だけはつくな」と……。
緑は、中途で志を曲げるための言い訳を、都合よく捏ね繰り回しながら階段を上り、三階に到達した。彼女のクラスは一番奥、廊下の突き当たりにある。教室を横切りながらクリーム色の廊下を歩く。明るい女子たちの語らい、男子の低い笑い声などが漏れ聞こえてくる。平和だと緑は思った。さすがは優等生の集まる進学校。一定の秩序が守られていて、穏やかな空気に包まれている。基本的に真面目な人が多いのだ。別の意味でややこしいのもたまにいるが……。
ドアを通ると、教室の前方で広美が、張り付いたような堅い笑顔を浮かべながら、直立不動のまま佇んでいるのが目に入った。その前には小泉博が座っている。どうやら彼女は前日の計画を早速実行に移したようだ。
広美がこちらに気付いた。緑は素早く視線を逸らす。明らかに助けを求めているようだった。しかし緑は低血圧、朝一から面倒臭いことに積極的に関わっていくような気力も体力も持ち合わせていない。気付かない振りをして、窓際の後ろから二番目、自分の席へ向かった。
一時限目が終わると広美が緑の席へとやって来た。
「おはよう、広美」若干のうしろめたさを抱きつつも、何事も無かったかのように座ったまま彼女を見上げた。
広美は黙ったまま真っ直ぐこちらを見降ろしている。
緑は反射的に微笑を浮かべていた。「ん? どうしたの?」
「さっき逃げたでしょ」広美の目は据わったままである。
「……えっ」
「確実に一回目が合ったよね」
耳が紅くなっていくのが自分でも分かった。
「違う、違う!」緑は大袈裟に顔の前で手を振った。「別に逃げたとかそういうんじゃなくて、ほら、私が朝弱いの広美も知ってるでしょ」
「それにしても冷た過ぎないかな、親友が窮地に陥っているというのに」抑揚のない声で、淡々と呟く。
「一度席に着いて一息入れてから応援に行こうと思ってたんだけど、なんか先にチャイムが鳴っちゃったのよね」嘘をつくときは、若干早口になる。
広美が訝しげにこちらの顔色を窺っているので、緑は一旦目を逸らし、話題の矛先を自分から遠ざけようと検討した。
「で、どうだったの? 小泉とのファーストコンタクトは?」若干上擦った声で問いかけながら、再び広美に向き直る。
「もー、ホントに大変だったんだから~」彼女は少し膨れる。「とてもあたしひとりの手には負えないわ」
ようやく広美の表情に変化らしい変化が現れて、緑は胸をなでおろした。
この日、広美は気合を入れ、普段より一本早い電車に乗って登校した。始業三十分前の教室には、まだ五人ほどしかいなかったが、その内のひとりは小泉で、彼はいつものようにぶつぶつ言いながら本を読んでいたという。
広美は自分の机に鞄を置くと、意を決し、恐る恐る足音を忍ばすように彼の背後へと近付いた。
「それで私、昨日言ってたみたいに、極力自然な感じを装って、『何読んでるの?』って聞いたの」
すると小泉が、飛び上がらんばかりに全身をビクつかせて、太腿で跳ね上げられた机が前に倒れた。何事かと周囲の耳目が一気に集まったという。
「こっちの方がビックリしたわ」広美は眉根を寄せる。
「何、何?」緑は前のめりになり、目を輝かせた。「あいつ、まさかエロ本でも見てたの?」
「んな訳ないでしょ……。確か社会学とか言ってたかな、そういう関係の本だったと思う」
普段、人から話しかけられる経験が著しく不足している小泉にとって、朝早い閑散とした教室で、いきなり背後から女子に話しかけられるなんてことが現実に起こり得ようなどとは、思いもよらなかったのかもしれない。
謝りながら慌てて机を起こそうとした広美であったが、小泉はそれを制するように、「あー、大丈夫だよ。ちょっと驚いたけど」。淡々と自ら机を起こした。それから彼は読んでいた本の内容について、よく分からない専門用語を交えながら、広美の反応を気に留める様子もなく、ほぼ自己の世界に没入し、チャイムが鳴るまで延々と喋り続けていたらしい。
「聞いているだけでも気が重いわ」緑は溜息をつき、小泉の席に目を遣った。しかしその姿は見えない。たぶんトイレにでもいったのだろう。
「そうか、分かり難かったのか」
声に驚いて振り向くと、いつから居たのであろうか、小泉が立っていた。
「それならそうと言ってくれれば良かったのに」言いながら彼は広美へと近付いた。「えーと、確か及川さんで良かったのかな……」
広美は名前を呼ばれてピクリと反応し、困ったような、愛想笑いとも少し違う、複雑な堅い表情で振り向き、ぎこちなく会釈した。
緑は座ったまま、広美の隣に並んだ小泉を訝しげに見上げた。小柄な広美より頭一つ大きい。
「黙って聞いてくれているものだから、理解しているのかと思って」小泉は緑の存在を意に介さず、広美に向かって喋り続けた。「まあこういうのも日本社会独自の文化なのかもしれないけど」
緑と広美は顔を見合わせ、首を傾げる。
小泉は構わず続けた。「でもね、それじゃあコミュニケーションが成立しないと思うんだ」
聞き捨てならないセリフに、緑は小泉の横顔を凝視した。
「分からないことは分からないと、はっきり意思表示してくれれば、こっちも相手の予備知識を推測しながら、そのレベルに合わせた話し方だってできる訳だし、お互いに有意義な時間が――」
「ちょっといいかな」緑は堪らず話を遮った。押さえたつもりの声が思いのほか大きくなってしまう。
「何、青山さん」小泉が徐に振り向いた。
その涼しげで飄々とした顔が、緑の神経を逆撫でする。「お前――」
しかしこちらを見詰める広美の不安げな表情が、緑に自重を促した。一度目を閉じ、ゆっくり深呼吸する。平常心を取り戻したところで改めて奴と向き合った。
「あのね、小泉君」
「……ん?」奴は不思議そうに二度瞬きした。
「広美は意思表示してたんじゃないかな」
一拍間を置いて、小泉は目を丸くした。
「えっ! 嘘!」広美に向き直り、興奮気味に問い詰める。「何か言ってたの、及川さん?」
広美は怯えたように、体を仰け反らせた。顔と顔の距離が近すぎるのだ。
「ご、ゴメンね、私がちゃんと質問すればよかったね……」
「でしょ、でしょ、そうでしょ。絶対何も言ってなかったよね。僕、耳には自信があるから、その点に関しては、耳鼻科で診断書を貰ってきてもいいくらいだよ」小泉は興奮状態から次第に落ち着きを取り戻していった。
詰問から解放された広美は、胸を撫で下ろしているようだ。
小泉は、己の主張が広美によって、その正当性を認められたことに喜んでいるのか、或いは、つい興奮し過ぎてしまったのを後悔し、照れているのか、にやけた顔を俯けて、体を左右に捩じったりしている。
「確かに広美は、何も言わなかったのかもしれない」
「そうだよ、今本人がそう言ったよね」相変わらず小泉はモジモジしている。
「でもね、意思表示するのは言葉だけとは限らないのよ」
小泉のにやけた顔から色が失われていく。彼は真顔に戻り動きを止めた。「どういう意味だい……青山さん」
「私には明らかに困っているように見えたわ」
小泉は寝耳に水のような顔をし、広美へ向き直る。水を向けられた彼女はゆっくり頷いた。
「朝、広美は私に、目で助けを求めてきたのよ」
「全然気付かなかったな」
「言葉の意味する情報を正確に遣り取りするのも大切なことだと思うけど、実際の対人コミュニケーションっていうのは、それ以外の部分も大きな情報量を持ち得るのよ。つまり表情や態度とか」
小泉は中空の一点を見詰めたまま五秒ほど固まったあと、拳で掌をポンと叩いた。「なるほど、確かに言われてみればそうかもしれない」
「あんたの場合、聞き逃しは無かったけれど、多くのサインを見逃していたのよ」
小泉は胸ポケットから小さなメモ帳とシャーペンを取り出した。背中を丸めてペンを走らせる。
「そうかそうか、そういう事だったのか。これはまさに目から鱗ってやつだね。しかし何で今まで誰も指摘してくれなかったんだろう」
「普通は言われなくても自然と身につくものだけどね」
しばらくすると、小泉はペンを止め、顔を上げた。
「あれ……でも何か腑に落ちないな」首を傾げ、頻繁に瞬きを繰り返す。「確かに僕にも落ち度はあった……。話すことに熱中して、及川さんの顔色にまで注意が及ばなかった、その点に関しては認めよう。しかしだよ、青山さん――」小泉の鋭い眼光が緑を捉えた。「僕はそんなに責められなきゃならないような悪い事をしたのだろうか。僕はただ、及川さんの質問に真摯に答えようとしていただけなのに……」
小泉は腕を組み、黙り込んでしまった。
「べ、別に責めてるわけじゃないのよ」ようやく広美が自主的に会話へ入ってきた。「私たちはただ、気づいて欲しかったの。そして差し出がましいようだけど、改善するために何かできないかと思って……。だってこのままだと小泉君、将来大変なことに――」
「あっ、分かったぞ!」小泉が広美の話を遮った。「君たちは僕にそうやって言いがかりをつけて、陥れようとしているんじゃないのか」そう言って、訝しげに広美と緑を交互に見た。
緑は溜息をついた。「お前は何を……」
「そうだ、そうだ、そうなんだろう。僕の知識量を侮ってもらっちゃあ困る。前に週刊誌で読んだことがあるんだ。あれだろ、新手の美人局的なやつだろ。なるほどな、それを更に応用した変則タイプという訳か……」
「あんた、美人局の意味分かって言ってんの?」
小泉がひとりでぶつぶつ呟き出した。「――何てことだ、まさかこんな進学校にまで、闇社会の魔の手が及んでいようとは……」
その隙に広美が声を潜めて聞いてくる。「ねえ、ねえ、緑、『ツツモタセ』って何?」
「えっ――」この初な少女に教えて良いものか、緑は逡巡した。「別にたいしたことじゃないよ、こいつが勘違いしてるだけだから」ひとまずはぐらかす。
「青山さん!」
振り向くと、小泉の顔が迫ってきて、緑は思わず体を仰け反らせた。「何だよ! 顔が近いよ」
「青山さん、悪いことは言わない。直ぐにそんな連中とは手を切るんだ!」
「はっ?」
真剣な顔で小泉は続ける。
「確かに中学の頃、君が不良みたいに振舞っていたのを僕は覚えている。でもあの頃の君は、自ら悪事に手を染めたり、喧嘩を売るような真似はしなかったはずだ。僕はね、そんな君を密かに尊敬し、陰ながら応援していたんだよ。それなのに一体どうしたっていうんだ。あの頃の硬派な君はどこへ行ってしまったんだ。こんな詐欺まがいの行為に手を染めて……、僕はファンとして情けないよ。いいかい、こんな事を続けていたら――」
その時、二限目のチャイムが鳴った。
小泉は急に口を閉ざし、姿勢を正して反転すると、自分の座席までの最短距離を、机の間を縫うようにして有り得ないほどの早歩きで戻っていった。緑は呆然とその後ろ姿を見送った。――何なんだろう、アイツは……。
その場に突っ立ったままの広美に視線を移す。「ねえ、チャイム鳴ったよ」
彼女はスマホの画面に見入り、頬を赤らめていた。どうやら検索してしまったらしい、『ツツモタセ』の意味を。
二限目以降の休憩時間には、広美が懸命に小泉の思い込みを諭そうと尽力してくれた。恐らく彼女は己の身に降りかかる破廉恥な疑いを、一刻も早く振り払いたかったのだろう。お陰で昼休みには、小泉の誤解も解けていた。
学食は思ったほど混んでいなかった。奥の空いたテーブル席を適当に選んで、定食を載せたトレーを置く。
「いやぁ、今日は僕のとんだ早とちりのせいで、ふたりには酷く不愉快な思いをさせてしまったねぇ。本当に申し訳なかった」斜め前に座る小泉が深々と頭を下げた。「まったく恩を仇で返すような真似をしてしまって、これはせめてものお詫びのしるしだよ。さあ、さあ、遠慮せずにどんどん召し上がってくれたまえ」
小泉はふたりに昼食を奢ってくれた。三人でAランチの焼き魚定食(三百五十円)を食べる。早速緑は秋刀魚の中央に載せられた大根おろしに醤油を垂らした。
「僕は最近、なんだか得体の知れない不気味な怖さを感じているんだ」
緑は顔を上げ、呟く小泉にちらりと目を遣った。隣から伸びてきた広美の手に醤油を渡す。
「世の中の至る所に罠が仕掛けられているような気がしてね」
「それって、詐欺とかのこと?」広美が訊ねた。
「うん、表面的にはそういう事が顕在化してきているね」
「それで、うちらを疑ったわけだ」緑は秋刀魚を解しながら言う。
「知識の詰め込み過ぎで疑心暗鬼になっていたのかな」
緑は、解した身の上に茶色い大根おろしを乗せ、口へ運んだ。季節外れながら、それなりに脂が乗っている。冷凍ものであろうか。続けてご飯を頬張った。
「でも僕が本当に不気味に感じているのは、そういう表に出てくる部分よりも、その裏側というか背景というか、着実に進行している社会全体の変質とか、価値観の変化みたいなもので……。何ていうんだろう、じっくりと時間をかけて真綿で締め上げるような、周到で狡猾な暴力性みたいなものを感じるんだ」
「それで社会学を勉強しているのね」
「まあ、それだけじゃないけどさ。恐怖に突き動かされるような感じで色々調べているんだ。もうテレビや新聞の報道だけじゃ、何が本当で正しいのかよく分からないからね」
「確かに、それは言えてるかも」緑はほうれん草の御浸しに箸を伸ばした。
「建前抜きで、今、実際に世の中がどうなっているのか把握しないことには、不安で身動きすら取れないよ。最近、マスコミや警察や司法といった、社会の基盤に関わるような機関でさえ、正常に機能しているようには見えないだろ。例えば、冤罪なんていうのがたまにあるけど、中には警察が意図的に素行の悪い人物をスケープゴートにして、犯人に仕立て上げるようなケースもあったんだ」
「えー、嘘……」広美が顔を上げ、口に手を遣る。「なんか怖い」
「しかもだよ、一昔前にそんな事実が発覚したら、マスコミはこぞって警察を追及していたと思うんだけど、そのときは夕方のニュースでさらっと事実関係を説明して、それっきり一切どのテレビ局も触れなくなってしまった……」
「何それ」広美が目を見開く。「ヤバ過ぎでしょ」
「最近のマスコミは圧力に弱いからね」緑は訳知り顔で頷いた。
「日本というのは元々タブーの多い国みたいでね」小泉が続ける。「建前で成立している社会というのかな。しかし長い間タブーを放置した結果、反社会勢力に付け入る隙を与えてしまったのかもしれないね。どうも水面下でそういう連中が力を蓄えていたらしい。最近では、社会に絶望したインテリをスカウトしたり、貧しい人の足元を見て犯罪用の捨駒にしたりして、勢力を伸ばしている新興組織もあるみたいなんだ。彼らは、裏表問わない幅広い人脈と、犯罪で得た資金力を武器に、表社会にも食い込んでいるらしいから、もう裏と表が癒着しまくっていて、秩序も何もあったもんじゃないよ」
「知らない内にそんなことが……」広美が呆然と呟いた。
「そりゃ、目と耳を塞いでいれば、建前の世界に安住出来るかもしれないし、その方が楽かもしれないけど。でもいつかそのうち、何か些細なことをきっかけに足元を掬われそうで、僕は怖いんだ」
小泉は下を向き、そして思い出したように、まだ手の付けられていない定食を慌ててかき込み始めた。
「そういや、うちのお母さんも前に似たようなこと言ってたなぁ」緑は箸を止め、記憶の糸を手繰り寄せる。「……『本質とは別のところで世の中が動いているみたいで、気持ちが悪い』って」
小泉は咀嚼しながら「うん、うん」頷いている。
「あんたが言うのも何か分かる気がするよ。結局みんなややこしい問題から目を背けて、関わらないようにして、当り障りのないところで無難に生活しようとするんだけど、みんなでそれを続けている内に、いつの間にか水面下でややこしい問題が安全圏を侵食し始めていたってことでしょ? 小泉が恐れているのはそういうことでしょ?」
「そう――」小泉は湯呑を掴み、お茶で口の中の物を飲み下した。「そうなんだ。今や、いつ、何がきっかけで、どんなことに巻き込まれるかも分からないというような、漠然とした不安が、僕に限らず、世の中全体に蔓延しているのかもしれない」
「だからかな、みんな空気読むのに必死なのって」緑は憂鬱そうに呟いた。
「長年、僕ら日本人は、はなから間違いを前提として、その中で妥協して暮らすことを文化的に強いられてきたからね。だから今もなお、本質的な正しさを追求するより、その場を無難にやり過ごす能力が重視されているんだよ」
「でもそのつけが溜まりに溜まった結果、社会の基盤を揺るがしかねないような、危険な兆候が現れ始めているのね」
三人は箸の動きも止め、しばらくの間黙りこんだ。
「ねぇ、こういう状況はいつまで続くのかしら?」不意に広美が不安げに訊いた。
「どうだろう……失われた二十年なんて言われていて、僕らはその期間しか知らない訳だけど――」小泉は瞬きを繰り返し、低く唸った。「でも……ここ数年の、過去に例がないほどに胡散臭い、混沌とした社会状況を考えると、今がまさに時代の転換期なのかもしれないね」
「じゃあ……もうすぐ良くなる?」
「いや、そんなに簡単じゃないよ。下手すりゃ、もっと悲惨な状況になるかもしれない」
「えー」広美がうんざりしたように項垂れた。
「でも僕らはともかく凌がなくちゃならない。これからもきっと色んな人が色んな事を言って、ますます何が正しいのか分からなくなるかもしれないけど、それでも僕らは、必死で自分の頭で考え、何とかバランスを保ちながら、この時期を凌がなくちゃならないんだ」
緑は小泉の話を受け、漠然と自らの将来に不安を感じながら、片面を食べ終わった秋刀魚を裏返した。左手で頭を固定し、背骨から身を一気に引き剥がす。大根おろしで薄まった醤油が程良く身全体に沁み渡っている。皮ごと口へ運び、続いて御飯を頬張った。
「じゃあ、じゃあ!」広美が急に顔を上げた。「やっぱり大学は行っといた方が良いのかな? 社会に出るまでの時間稼ぎにもなるし」
「まあ、その期間を利用して知識武装するのは、意義のある事だと思うよ」
「ねぇ」広美が振り向いた。「緑はもちろん進学するんでしょ?」
緑は咀嚼しながら頷いた。
「そりゃ、そうだよね。うちの学校、進学校だもんね……」
「えっ、もしかして及川さん、進学しないつもりなの?」小泉が少し驚いたように訊いた。
「いや、私ももちろん、受験はするんだけど……まあなんて言うか、経済的理由で、地元の国立一本勝負みたいな……」広美が照れ臭そうに下を向く。「しかも浪人はNGだったりして……」
「そっかぁ、及川さんも色々大変なんだね。でも僕らはまだ二年になったばかりじゃないか。まだまだ時間はあるし、K大なら、これから勉強を頑張れば大丈夫だよ、きっと」
「ま、まあね」広美は苦笑を浮かべながら、しばらく箸で秋刀魚をほじくっていたのだが、急に顔を上げて振り向くと、「そうだ、緑も一緒にK大受けようよ」
緑は飲み干した味噌汁の器をトレーに置き、渋い顔で首を傾げた。「K大かぁ」
緑の知る三人のK大出身者は、揃いも揃って、碌な人生を歩んでいないのであった。




