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親父の消息  作者: 真宮 裕
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五章 困窮

 修一は薄明を頼りに花見客の置き土産を調べていた。放置された青いビニールシートが風に煽られ、桜の根元で皺苦茶になっている。その周辺には空き缶、空き瓶、レジ袋、弁当のプラスチック容器、カップ麺の容器、スナック菓子の袋、吸殻などが散乱しているのだが、その中には食べ残しも多いのだ。ひとつずつ臭いを確認しながらチェックし、いけそうなものをレジ袋に放り込んでいく。

 野宿生活を始めた当初は、どんな事があっても残飯にだけは手を出すまいと誓いを立てたふたりであったが、先立つ物のない今、いざ大量の食材を目の前にすると、お互い敢えてそこには触れない。

 何気に東の空を見やると、林立するビルの麓が淡い橙に染められ始めていた。そろそろ切り上げなければならない時刻が近付いている。前方に気配を感じて視線を戻す。二メートルほど先で黒い鳥がヒレカツと思しきものを咥えていた。慌てて駆け寄る。

 鴉はひらりと身をかわし、近くの枝にとまって器用に頭を振りながら獲物を呑み下した。更にこちらを見下ろし嘲笑うかの如く啼いた後、首を傾げながら糞を落とした。

 奴が探っていた茶色いレジ袋の中には、弁当の紅いプラスチック容器があった。やはりヒレカツ弁当であったのだろう。おかずの底上げ用パスタに付着したとんかつソースがそれを裏付けている。

「畜生、貴重な蛋白源を……」

 仕方なく修一は臭いを確認した後、底上げ用パスタと三分の一ほど残された黒ゴマの振りかかった御飯を、既にその半分ほどが食材で満たされているL寸のレジ袋に追加した。

「まあこれだけあれば十分か……」

 腰を伸ばし、周りを見渡す。少し離れたところで横山が酒瓶を傾けながらしゃがみ込んでいた。

「どう、順調?」歩み寄りながら声をかけると、

「バッチリっすよ!」弾んだ声が返ってきた。「さっきなんてオールドが三分の一くらい残ってたんすから」横山は赤ワインのボトルを逆さにし、膝に抱えた一升瓶と飲み口どうしをくっ付けて、最後の一滴まで絞り取ろうとしていた。

 つまり役割分担である。修一が食料を探し、横山は余った酒や吸殻等の嗜好品を寄せ集める。

「もしかして全部一升瓶に入れてるの……」

「えっ、そうっすけど、駄目っすか?」

「今言ってたオールドも?」

「はい」

 勿体無い。修一はウイスキーをストレートで飲むのが好きなのだ。銘柄毎に分けろとまでは言わないが、せめて大まかな種類分けぐらいはして欲しかった。横山には大雑把なところがある。

「食料の方はどうなんすか?」

 無言のまま修一はズシリと重いレジ袋を開いて見せる。

「マジっすか!」

「これ以上取っても多分食べきれないよ」

「そうっすね、もう帰りましょうか」

 日が昇って明るくなる頃には、公園管理事務所に雇われた清掃員がやってきてゴミを一掃するだろう。しかしまた夕方には花見客が来て食い散らかすに違いない。桜はまだ見頃を迎えたばかりなのだ。明日も午前四時から鴉と一緒に残飯を奪い合う予定である。


 さて帰ると言ってもどこかに定住している訳ではない。別の公園に移動するだけであった。ただその儀式的行為の裏には、少しでも惨めさを和らげることが出来るのではないかという淡い期待が込められていた。その場で食べることは、ふたりの中にまだ辛うじて残されている人間としての尊厳、文明人としての矜持が許さなかったのである。

 まだ薄暗く人気のない住宅街を幾度も角を曲がりながら縫うように歩いた。横山曰く近道らしい。昭和の匂い漂うアーケード街を通ると、古い酒屋の前で老人が自販機のゴミ箱を漁っていた。この時間は静まり返っているが、昼間はそれなりに活気があるのかもしれない。大阪にはこういう地域密着型の商店街が至る所に残っており、見た目は古くともまだ現役で機能しているのだ。

 閑散とした住宅街の風景が、早朝の青みがかった灰色に染まり始める頃、幾分幅の広い街路を、くすんだ白い猫が体勢を低くして素早く横切った。一瞬立ち止まってこちらを振り向いた後、またそそくさとほふく前進のように塀沿いを進み、家屋と家屋の隙間へと入っていった。

 修一はレジ袋を右手に持ち替え、ずり落ちそうになったボストンバッグを担ぎ直した。リュックを背負った横山が、中身の半分ほど入った一升瓶を両手で胸に抱え、「たぷん、たぷん」音を立てながら横を追い抜いていく。

 横山が左に入っていったのは、幅三メートル程のドブ川に沿った、舗装されていない畦道であった。集合住宅の裏と接しており、所々に薄汚れたポリバケツが置かれている。

「近道なんすよ……」別に文句を言った訳でもないのに、横山は言い訳するような口振りだった。

 突き当りは二メートル程の壁で、剥き出しのコンクリートが行く手を遮っていた。その横で格子柄の青い門扉が口を開けている。ドブ川に設置された水門である。濁った水がコンクリの下へと流れていく。手摺と階段は、ペンキを塗り替えたばかりなのか、鮮やかな水色であった。昇っていくと水門伝いに道へ出られた。目の前には片側二車線の道路が通っている。

「あれっすよ」

 横山が指差すのは五十メートルくらい北、朝日を浴びて橙に染まる古い寺院が雑木林と隣接しているのが見えた。ふたりは人気のない道路を斜めに横断する。今宮公園を出てから三十分ほどが経っていた。寺院の趣ある門構えを横切ると、綺麗に剪定された垣根がしばらく続き、その内側では雑木林の新緑が煌めいていた。

 城ヶ崎記念公園と書かれた石柱門を入ると、すぐに遊歩道があった。鬱蒼とした林の中へふたりは歩を進める。主にクヌギであろうか、道の両脇から伸びる枝葉によって風が遮られているのだろう、湿った冷気が底に沈殿し、石畳を濡らしていた。左から微かな木漏れ日が差し込み、浮遊する細かな霧を照らし出している。若干の起伏がある狭い遊歩道を、苔むした石畳を踏みしめながら、味わうようにゆっくり歩いた。ホトトギスが一定のリズムで何かを主張するように啼き続け、そこへ不規則な小鳥の囀りが音を重ねていく。

 雑木林を抜けると、一気に視界が開けた。思っていたより広い。芝生も生えていて、点在する樹木がなければ野球でも出来そうだ。ふたりはその周りを遊歩道に従って左回りに進んだ。若干の傾斜を登りきると前方に小さな池が見えた。近くにはトイレらしき建物もある。緩やかな坂を下っていく。池の手前に木のベンチが等間隔で並んでおり、そのひとつに横山が座った。

「ここなんかどうすか、景色も良いし」

 丸太の柵越しに池を見下ろすと、蓮で覆われた水面に朝靄が立ち籠めていた。修一もベンチに腰を降ろし、ふたりの間に食料の入ったレジ袋を置いた。こういう物は傷まないうちにさっさと食べたほうが良いだろう。

 ペペロンチーノと鳥の空揚げとポテトサラダをプラスチック容器に乗せ、一気にかき込む。喉が詰まりそうになって、ペットボトルに入れておいた水道水で流し込んだ。

 黒い犬が坂を下ってくるのが見えた。鼻先を石畳に擦りつけるようにして、尻尾をブンブン振り回しながら前へ前へと突き進んでいる。リード伝いにその後ろを、六十前後と思しき首にタオルを巻いた白髪のお父さんが、上下ジャージ姿で引っ張られるようにして追いかけていた。犬はベンチの前まで来ると、こちらへ興味を示したが、今度は飼い主が強引に引っ張っていった。修一はその後姿を見送った。トイレ脇の丸い時計が六時になろうとしていた。

 臭いを感じて隣を見ると、横山が一升瓶を傾けて怪しげな色の液体を紙コップに注いでいる。

「朝から飲むのかい」

 横山はレジ袋からフライドチキンを取り出して豪快にかぶりつき、しばらく咀嚼した後、酒で流し込んだ。「結構イケますよ、これ。青さんもどうっすか」

 一升瓶の中で不気味に泡立つ液体を凝視しながら、修一はしばらく逡巡した。

「じゃ……じゃあ試しにちょっとだけ」

 紙コップに三分の一ほど注がれた茶色く濁る液体を険しい顔で観察する。

「ねぇねぇ横山君、表面に浮いている白い粒々は何だろう……?」

「あ~、甘酒に入ってた米粒っすかねぇ」

 お前はそんな物まで……。

 口許に宛がうと、嗅いだ事のない強烈な臭いが鼻腔の粘膜を刺激し、表情は自然と険しさを増す。修一はゆっくり瞼を閉じて息を止めると、勇気を振り絞り、紙コップをあおった。

 やや複雑ながらも濃厚で確りとした味わい、微かな甘みと渋みが絶妙なバランスを保ちつつ、しかも仄かな微炭酸が喉越し良く……。

「……あれ、これは意外と」

 怪しげな外観とは裏腹にその酒はもの凄く美味しかった。まさに奇跡の調合と言えよう。また和食にも洋食にも合う。

「まだ飲むんすか? 最初嫌そうな顔してたくせに……」

 修一は食事をしながら、勝手に『横山スペシャル』と名付けたその酒を三回お代わりした。

「しかしまずいよなぁ……」修一は横スペを飲みながら呟き、溜息を漏らした。

「どの口が言ってんすか」

「いや違う、違う。そうじゃなくて仕事のことだよ」

 こんな乞食みたいな真似をせざるを得なくなったのには、勿論それなりの理由があった。路上の仕事における需給のバランスが大きく崩れていたのだ。

「やっぱり長引く不況のせいなのかな。きっと想像していたより、路上を彷徨う人は多かったんだよ」

 年末から二月にかけて、炊き出しに集まる人数が若干増えてはいるようだった。ただそれだけでは路上生活者の全体像は見えてこない。特に若い世代になるほど炊き出しを敬遠する者も多いのだ。また公園などでテントを張ったり、段ボールハウスに住んだりしている明確なホームレスなら増減が目に見えるが、修一たちのように路上を絶えず移動するタイプは街の雑踏に溶け込んでしまう為、数を把握するのは難しい。

「今年に入って図書館やネットカフェなんかが混み始めたのも、きっとその影響なんだろうね」

 終夜営業のファストフード店を深夜に訪れたときも、窓際のカウンター席が殆ど人で埋め尽くされていた。みんなコーヒーなどの安い単品メニューで長時間粘るのだ。しかし後ろから監視されており、こっちがうとうとし始めると、「お客さーん、仮眠してないですかー? 仮眠やめてくださいねー」。いちいち起こしにくるから鬱陶しい。恐らく店員は業務マニュアルに従っているだけなのだろう。まあそれはそれで過酷な仕事にも思えるが、こちらサイドは極限状態で生きているのだ。

「あと試食が無くなったのも痛いっす……」

 この界隈のデパートやスーパーも路上生活者を警戒してか、二月から試食コーナーを廃止にした。

「道で雑誌売る人も増えたね。その分、利幅は少ない筈なのに……」

「若いもんの考えることはよう分からんすね」

「しかしまあ、それでも稼げるだけ僕らよりマシか……。ホント言うと羨ましいよ」

 若い路上生活者のグループが、組織的に仕事を囲い込み始めているらしく、ここひと月というもの修一たちのような中高年は現金収入の機会をほぼ失っていた。

「愚痴るのやめましょうよ」横山がフライドポテトを摘まみながら、痩せこけた顔をこちらに向ける。

「そうだね」修一は頷き、レジ袋から湿ったサンドウィッチを取り出した。「とりあえず前向きに打開策を考えるしかないね」

 しかし残っている仕事と言えば手配師経由の日雇いぐらいである。僅かばかりの金と引き替えに放射能を浴びたり、アスベストを吸い込んだりするのも割に合わない。

 また仕事以外で唯一収入を期待できるのが路上アンケートと献血であったが、アンケートはさほど頻繁にはないようで、ここ二週間、機会に恵まれていない。献血に関しても、ふたり揃って事前の検査で引っ掛かるようになってしまった。

 医師曰く、「栄養のある物をしっかり取って、体調を整えてから来てくださいね」

 そんな事が出来るくらいなら血を売る必要もないのだが。

 もちろん仕事が減っていく過程で危機感を募らせていたふたりは、出来る限りの対策は講じてきたつもりだ。完全に労働市場から閉め出しを食らう前に、不測の事態に備えてライフスタイルを変えていた。宿泊代を節約しようと、まだ余寒抜けきらぬ三月の頭から野宿生活に踏み切ったのである。

「こんなに腹一杯食ったの久しぶりっすね」横山がパイプを燻らせながらゲップをした。

「そうだね」修一も腹を撫でながら、横目でレジ袋の中を覗く。「でもまだ結構残ってるよ」

「昼までならもつんじゃないっすか」

 修一はレジ袋を二重にして縛ると、ボストンバックに仕舞った。煙草の瓶を横山から受け取り、パイプに詰めて火をつける。修一たちは吸殻を拾って、葉っぱだけを集めるのが習慣になっていた。

「しかしまあ、あれだね。今回みたいなケースはある意味、特別というか、何と言うか……。捨ててあると言うよりは、そのまま放置してあったという捉え方のほうが正しいかもしれないね」

「あぁ……、清掃員が回収した段階で初めてゴミになるって事っすか?」

「……うん、そう」

 横山は切れ長の一重瞼を更に細め、口許へパイプをあてがう。「確かに、そう考えた方が気は楽っすね」

 一服した後、ふたりは公衆トイレへ向かった。その建物は丸みを帯びた近代的なデザインで、建てられて間もないのかベージュの外壁もまだ綺麗なままだった。

「あっ」先に入った横山が声を上げた。「液体石鹸が満タンすよ」

 きっと残ったやつをペットボトルに入れて持っていくつもりなのだろう。洗濯にも使えるし。

「じゃあ俺、入口見張っときますんで」横山が出てきた。「青さんからどうぞ」

 中へ入ると、二つ並んだ洗面台の周辺に蛾や甲虫の死骸が散乱していた。蛍光灯の光に誘われてやって来るのだろう、自然に囲まれているのだから仕方がない。それらを払いのけスペースをつくる。靴を脱ぎ、次いで服と下着も脱いで洗面台の脇へ置いた。全裸である。気合を入れる為に胸や顔を叩くと、その音が反響した。蛇口を捻り、水を両手で受け止め、自らの体や頭に浴びせかけた。全身を強張らせて寒さに堪える。

 備え付けの青い液体石鹸を総毛立つ体に塗りたくり、両手で全身の隅々まで伸ばしていくが、殆ど泡立つことなく、直ぐに茶色い汚水となって足元へ流れ落ちていく。石鹸で体を洗うのは五日振りなのだ。何度も石鹸を追加する。夢中で体を擦る。陰毛で泡立ててアソコも念入りに洗う。顔も洗う。頭に石鹸を直接かけて洗う。髪は節約の為に互いにバリカンで刈り合うようにしていたが、ここ二ヶ月ほど放ったらかしなので少し伸びていた。

 鏡で泡だらけの体を確認し、再び蛇口を捻る。水を掬って頭から浴びせかける。何度も何度も水をかけて泡を落としきる。震えながら顔を上げると、鏡越しに目があった。痩せ細り、肋の浮き出た自分が、鋭い眼光でこちらを見据えていた。

 服を着替えると、今度は交代で入り口の見張りをした。中からは横山の雄叫びが聞こえてくる。多分寒いのだろう。いつも体を洗った直後は清々しく、生々しいほどの生きている実感が得られた。

 犬を連れた男が遊歩道をこちらへ向かって来るのが見えた。初老の男はトイレの手前で立ち止まると、リードを時計のポールに結び付けだした。

 慌てた修一は咄嗟にその場で四つん這いになった。男は柴犬を繋ぎ終えるとこちらへ向き直り、怪訝な顔で立ち止まった。柴犬もこっちを見ながら尻尾を振っている。修一も今更後には引けず、

「ワン、ワン……、ワオーン……」一か八か吠えてみた。

 初老の男は一瞬目を見開き、しばらく及び腰で立ち尽くしていたが、バックでゆっくり引き返すと犬を解いて足早に立ち去った。

 横山が体を洗い終えた後、二つの洗面台に水を貯め、そこへ液体石鹸を投入した。さっきまで着ていた服や下着をその中へ放り込み、かき混ぜたり揉んだりする。二回濯ぎ洗いをした後、水気を絞り落とした。この時トランクスやTシャツなどは力を加減しながら、これ以上破れないように細心の注意を払わなければならない。

 ベンチに戻って洗い終えたものを干す。池の柵にフリース、カーゴパンツ、トレーナーなどを掛け、下着や靴下、保温機能のあるインナーなどは近くの木の枝に引っ掛けた。

 ふたりはベンチで煙草を吸いながら、ぼんやりと洗濯物を眺めた。パイプの先から紫煙が真っ直ぐ昇っていく。

「だいぶ服も下着もくたびれてきているねぇ」

「そうっすね……」

 角度のついてきた日差しが徐々に冷えた体を温めてくれる。横山が隣のベンチへ移動し、横になった。振り返って時計を見ると八時を少し回ったところ。修一も煙草を吸い終えると、タオルを顔に乗せ、ベンチの上で仰臥した。

 野宿生活を始めてから睡眠は日中とるようにしていた。夜中は寒くて眠れないのもあったし、安全面も考慮してのことだ。


 修一は目脂で固まりそうな瞼を片方だけ半開きにして、眩しさに顔を顰めた。体を捻ると軋むような鈍い痛みが背中を襲う。長時間堅いベンチに横たわっていたせいだろう。ゆっくり起き上がり、座ったまましばらく放心した。足元のタオルを拾う。顔に乗せていたやつだ。軽く払ってボストンバッグに仕舞った。徐々に意識がはっきりしてくる。隣のベンチに目を遣ると、横山はまだ寝ていた。トイレの方を振り返り、逆光を手で遮りながら上目遣いに目を細める。もうすぐ四時半になろうとしていた。随分と長い間眠っていたらしい。

 瓶の蓋を開けると、煙草の匂いの中に仄かな黴臭さが混じっていた。ポケットからパイプを取り出す。溢さないように気を付けながら、摘まんだ茶色い葉っぱを丁寧に詰め込んでいく。軽く吸いながら百円ライターで先端を炙る。

 修一は煙草を吸いながら目脂を取り始めた。いつの頃からか、それは寝起き後の儀式のようになっている。親指と人差し指で瞼の淵を摘まんで引っ張ると、乾いた目脂と一緒に睫毛が二本付いてきた。次いで目頭を拭って黄緑の粘っこい脂を寄せ集める。それをしばらく指先で弄び、乾燥して堅くなったものを親指で弾き飛ばした。

 気配を感じて顔を上げると、横山が立っていた。欠伸をしながら左手で頭を掻いている。

 修一は煙草の入った瓶を差し出した。「おはよう」

「あっ、どうも」横山は瓶を受け取りながら、隣に腰を降ろした。

「僕もさっき起きたとこだよ」

 並んで煙草を吸う。

「こんなに纏めて睡眠とったの久し振りっすね」

「やっぱり、満腹だとよく眠れるのかもしれないね」

 煙草を吸い終えると、修一は池を眺めた。風にさざ波立ち、西日を受け煌めいている。柵の丸太に掛けておいた洗濯物を触って確認する。厚手のトレーナーだけまだ少し湿っていたが、他は乾いているようだ。ふたりは木の枝に引っ掛けてある下着なども含め洗濯物を全て取り込んだ。

「さて、どうしようか」

「取敢えず、駄目もとで難波まで出ますか」

 ふたりは四十分ほどかけて日本橋経由で難波まで歩き、人通りの多い界隈を雑踏に紛れてしばらく彷徨った。一度路上アンケートに出くわしたが、残念ながらそれは対象年齢で弾かれてしまった。

「やっと見つけたと思ったら、これっすもんね」

「でも君は凄いな。僕もここ最近の過酷な生活で、老けては見えるだろうけれど、六十代とまで言い張る根性はないよ」

 横山は身分証の提示を求められるまで粘っていた。マーケティングリサーチの対象も金のある世代に偏り始めているのだろうか。ふたりはアンケート探しに見切りを付け、堺筋に入り北上した。

「なんか図書館行くの久し振りっすね」

「うん、そう言えば前も体洗った直後に行ったような気がするね」

 ふたりは橋の上で、どちらからともなく足を止めていた。真っ直ぐ西へ伸びる道頓堀川、灯り始めたネオンが黒い川面に映っている。切り開かれたビルの谷間で、空が藍色に染まり始めており、茜色の雲を引き立てていた。

 修一はボストンバッグを担ぎ直した。肩紐のあたる部分にはたこができており、感覚を失いつつあった。

 北上を続けていると路肩に本を売る連中がいた。ふたりは無言で俯き気味に露店の前を通り過ぎる。背後から若者のからかうような嘲笑が聞こえた。

 点滅し始めた青信号に急かされ、小走りに車道を横断する。牛丼屋の手前を右へ入り、歩道のない狭い路地を街灯の薄明りを頼りに黙々と歩いた。時折雑居ビルの隙間からライトアップされた茶色い外壁が見え隠れする。五日振りに見るダークブラウンの立方体は、こころもち大きく見えた。

「なんかアイツ、さっきからこっち見てないっすか?」

「えっ」修一は歩きながら、顔を動かさずに目だけを動かす。

「ずっと見てますよ」伏し目がちに横山が言い、修一はまたチラ見をした。

 結局、自動ドアを通るまで、警備員はふたりを見据えたままではあったが、その場を動く事はなかった。館内に入って振り返ると、ガラス越しに警備員が無線で喋っているのが見えた。

 ふたりは周りの様子を気にしながら、サーモンピンクのカーペットを奥へ進んだ。修一の脇の下を冷汗が流れ落ちる。いつものように書架の並ぶ区域へ入っていく。出くわした学生風の女が逃げるように去っていった。修一は何となく目に付いた精神分析の本を抜き取った。気配を感じて振り向くと、首からIDをぶら下げた若い男がこちらを見ながらじっと佇んでいた。職員に背を向けて書架を出る。通路を奥へ進んでいると、前方の『金属・鉱学』コーナーから横山が出てきて鉢合わせをし、彼が修一の背後に視線を遣った。

「そっちもなんすね」

 振り返ると、やはり先程の職員が少し間隔を空けて付いてきていた。

「ということは君の方もかい?」

 ふたりは閲覧コーナーへ向かい、いつものカウンターから死角となるソファーに腰を降ろし、本を開いた。

「何のつもりだろうね」修一は声を潜めた。

 横山が首を傾げる。「さあ……圧力掛けてんすかねぇ」

 ソファーの三メートルくらい後ろで、職員が二人じっと佇んでいた。

「もう服装に限界が来ているのかなぁ……」

 修一は横山の着ている染みだらけのパーカーをまじまじと見詰めた。手洗い用の石鹸では落ちないのだろう。また生地はくたびれているし、所々摩耗して薄くなっている。

「それもあるでしょうね」

 横山も苦々しい顔で、修一の汗染み黄ばんだジャージ、両膝に穴の開いたチノパン、黒ずんだスニーカーと順番に辿っていく。

「他の利用者の迷惑になりますので、私語は謹んでいただけますか」

 振り向くと隣で若い職員が、その丁寧な口調からは想像もできない侮蔑的な表情で見下ろしていた。修一は反射的に目を逸らし、

「すいません……」無意識に何度も頭を下げていた。

 職員はまた後ろに戻り、監視を続けていた。横山が本を閉じて立ち上がると、修一もそれに続いた。

 図書館を出ると既に日が暮れていた。横山は、来た道を戻らずに反対方向へ進んだ。一方通行の狭い路地を幅のある車が前方から迫ってきて、修一は壁際へ身をかわした。黒塗りのセダンはスピードを緩めることなく、ふたりの傍らを横切っていく。時間差を置いて修一は眩暈のするような惨めさに襲われた。

 ふたりは歩きながら、無意識の内に人気のない場所を探していたのかもしれない。導かれるように自然と足が向き、阪神高速の高架下へと入っていった。薄闇の中、埃っぽいコンクリートに並んで腰を降ろし、緑色の金網に背を凭せ掛けた。後ろにドブ川でもあるのだろうか、風が通る度にヘドロの臭いが鼻を突く。

「しかし、わざとくたびれた服を着たり、穴の開いたズボンを穿いたりする、そういうお洒落の仕方もあるらしいけどね」以前、緑から聞いたことがあった。

「いやいや、青さん……それは無理でしょ」横山は疲れ果てた顔を更に歪ませた。「そういうのはある程度顔かたちの整った、経済的にも精神的にも余裕のある人間が、敢えて着るからこそ映えるんすから」

 つまりギャップが互いを引き立て合い、様になるという理屈らしい。

「着ている人間が放つ雰囲気の違いで、服が主張する意味合いも変わってくるんすよ」横山はいつになく投げやりな言い方をした。「俺らみたいな身も心もボロボロの人間が、そのうえ更にボロい服着てたら、ただひたすらに残念なだけっす」

「なるほど、そういう事だったのか……」

「とりあえず、服を新調しない事にはどうにもなんないっすよ」横山が溜息をつく。

「うん……でも、どうやって金を稼ぐかが問題だね。やっぱり、もう日雇いしかないのかなぁ」

 横山は金網に背中を預けたまま、黙っていた。

「でもよく考えたら、今の僕らの体力じゃあ、もう肉体労働は無理かもね……。こんなガリガリの体を見たら、さすがの手配師も相手にしないかな」

 修一は自嘲気味に薄笑いを浮かべ、横山の反応を窺うが、彼は相変わらず微動だにしなかった。気まずい沈黙をしばらく味わった後、不意に腹が鳴って、修一は空腹に思い至った。

「そうだ、あれを食べるの忘れていたね。朝残したやつ」

 あれ以来、ふたりは何も口にしていなかった。修一はボストンバッグを探って、レジ袋を取り出した。しかし二重にしてある内側の袋を解くと、次の瞬間咳き込んだ。

「こりゃあ駄目だ、変な臭いがする」

「んな事……」横山が何か呟きながら立ち上がったが、上を走る車の音に掻き消されてよく聞き取れなかった。横山はそのまま歩み寄ってくると、修一から傷んだ食材をひきむしるように奪い取った。

「えっ?」修一は横山を見上げた。

「んな事してても、どうにも……」横山は腕を伸ばしたままハンマー投げの要領でレジ袋を回転させる。「ならねぇよ!」

 怒声を上げながら、斜め上方へ射出された白いレジ袋は、金網の内側、見えない暗闇に向かってきれいな放物線を描いた。そして一拍の間を置いて、大仰な水音が高架に反響した。やはりドブ川が流れていたらしい。

「……」

 それから横山は興奮冷めあらぬ様子で、「糞、糞」などと叫びながら金網を四、五発殴った後、その場に膝をついて項垂れ、しばらく肩で息をしていた。

「そういう事をするから、ドブ川はいつまで経ってもドブ川のまんまなんだよ……」修一は静かにぼやいた。

「あんなもん食ってたって気休めにしかならねえよ! どうせ一時的なものなんすから……。花見の季節が終わったら、俺らどうやって生きてくんすか!」

 修一は何も返すことが出来なかった。

「このままだと俺ら、近い将来、生き倒れは必至っすよ。そうなったらもう本当にお終いです。二度と人間として扱われる事はありません。悲惨な最期が待ってるんです……」そう言うと、横山はまた項垂れた。

「それってもしかして……例の病院のことかい?」修一は以前噂で聞いたことがあった。

「あんなのは病院なんかじゃありません、強制収容所です。連中は医者でもなけりゃ、もはや人間でもない、医師免許を持った悪魔ですよ」

 患者達は複数の病院の間でたらい回しにされると言う。そして彼らが亡くなると、事務員は福祉関係者面してドヤ街を歩き、また新たに使えそうなホームレスを言葉巧みに引っ張って来て、空いたベッドを埋めるらしい。

「今でも夢に出てくるんすよ。ホームレスの爺ちゃんが小汚いベッドに放置されて、床擦れの痛みに顔を歪めている姿が……」

「じゃあ君が働いてた病院っていうのは……」

 横山は両手で頭を抱えた。「お、俺は……あんな事に……、手を……」

 彼は小刻みに震えているようだった。

「青さん、だけど俺、最初は何にも知らなかったんすよ、ホントに知らなかったんすよ」横山は縋るような目をして修一の両肩を掴んだ。

「あぁ……分かってるよ。君は自分からそんな事をする人間じゃない」

 しばらくすると、横山は徐々に落ち着きを取り戻し始めた。フェンス際のコンクリートに並んで腰を降ろす。

「まあでも、今更泣きごと言ってもしようがないんすけど……。結局は、今こういう状況にあるのも、自己責任ですからね。何だかんだ言っても、長いこと中途半端にフリーターしてた自分が全部悪いんすから」

「景気の責任まで君が負うことはないだろ」

 横山はフリーター生活を続ける中で、二十代半ばを過ぎた頃から、徐々に自らの先行きについて不安を感じ始めたという。そしてハローワークへ通いながら正社員に拘って職を探すようになり、ようやく二十八歳のときに事務職員として大阪市内の病院に正規雇用が決まり、住込みで働くことになった。

「一応ハローワークでも、特殊なそういう人達専門の病院っていうのは聞いてたんすけど、普通に人助けというか、社会福祉みたいな感覚で捉えてました……」

 働き始めてからも、先輩の下で雑用をこなしながら、たまに仕事を教えてもらうような日々がしばらく続き、病院内の実情に触れる機会はなかなか訪れなかった。しかしレセプト作成業務に携わるようになると、すぐ横山はその異常さに気付いたという。

「とにかくどのレセプトも有り得ないくらいにみんな点数が高いんすよ」

「それは……つまり過剰診療ということだね」

「ええ。ただもうその時点では、疑問を口にする勇気は持てなくなってました。あの病院にはカースト制度みたいなのがあって、『先生たちが下した診断結果に、事務員ごときが口を出すなんて、絶対に許されない』そんな空気が漂っていて……。つまりレセプトの話はタブーだった訳です。もちろんそういう職場の雰囲気はやっぱり不気味でしたし、医師たちのやってる事も納得出来なかったです。……で、でも――」

 横山は、言葉を詰まらせ、膝の上で両拳を握り締めた。

「でも、生活かかってたし、就職難にやっとのことで掴んだ仕事だったから、そう簡単に辞める訳にもいかなかったんです。だから、だから俺、初めの頃は、自分の気持ちを押し殺しながら、割り切って一日一日をやり過ごしてました」

 それから横山は厳しい表情のまま、当時の記憶を手繰るように、しばらく虚空を見詰めていたのだが、急にその顔を歪めると両手で頭を抱えた。

「だけど……だけど俺も、いつの頃からか、患者を以前とは違う目で見始めていたのかもしれません……」

 修一は、俯き黙り込んでしまった横山の隣で、人間の適応能力について考えていた。どんな事にでも慣れてしまうのであろうか。『朱に交われば赤くなる』とはよく言ったもので、段々と感覚が麻痺していくのかもしれない。

「そうか、君は行路病院で……」

 生き倒れた身寄りのない老人やホームレスなどが緊急搬送される専門の病院である。ここで患者は直ぐ生活保護にかけられ、病院側はそこから医療費を出せるようにする。ただこの生活保護受給者の医療費というのが曲者で、医療扶助という形で全額公費負担となっており、治療すればするほど、取り逸れることなく確実に病院側が儲かってしまうのだ。

 修一は何となく煙草の瓶を取り出し、横山にも勧めてみた。しかし彼はかぶりを振る。横山の中で患者に対する思いは、どのような経緯を辿り、変わっていったのだろう。

「周りの上司や先輩たちは患者をどんな風に扱っていたの?」

 横山はゆっくりとこちらへ顔を向け、弱々しく呟いた。「……消耗品……みたいな感覚ですかね」

「消耗品?」

「……ええ」横山は緩慢に頷いた。

 院長と副院長はいつも朝礼で、「患者を大切に扱うように」と職員たちを啓蒙していたと言う。

「これだけ聞くと何か矛盾してるように聞こえますけど、要するに死ぬまでの長いスパンで考えて、最大のコストパフォーマンスを発揮させろという意味なんです」

 例えば、比較的若くてしばらく使えそうな患者は、ある程度時間を掛けて医師が育てるのだという。つまり投薬に対する抵抗力をつけさせて、薬の消費能力を高めるのである。それで期待通りのパフォーマンスを発揮した者は、利益に貢献してくれる優良な患者として院長に気に入られ、他の患者よりも良い待遇を受けるらしい。

「例えば、ちょっと綺麗な部屋に移動したり、美味しいものを食べさせてもらったりしてましたね」

 しかし逆に、薬に弱い体質の者もいる。そういう薬の消費能力がいつまで経っても伸びない患者は、早い段階で見切りを付けられて、路上へと返されるそうだ。病院側としてはなるべく消費能力の高い人でベットを埋め、効率的に稼ぎたいのだろう。

「それから、もうすぐ死にそうな人がいたりすると、医師たちは急いで出来るだけ沢山の手術をするんです。更には、限界ぎりぎりまで薬を打ったり、飲ませたり。亡くなった後でさえ、体中の穴という穴に錠剤を目一杯詰め込む、なんて噂もあったほどです」

 因みにこのやり方は院内で『追い込み』と呼ばれていたらしい。

「結局、殆どの患者には身寄りがないんすよ。あいつらはそこに付け込んで……」

 どんな医療行為を受けても、彼らには疑問やクレームを唱えてくれる家族がいなかった。そういう患者側の境遇が医師たちの暴走に拍車を掛けたのだと言う。

「とにかくレセプト点数を稼ぐために、患者は余すところなく使い切るというのが、あの病院の経営理念でしたから……、そういう価値観が末端まで浸透していたんだと思います」

 こうなってしまうと患者を救うことは極めて難しい。というのも利権構造が出来上がってしまうからだ。倫理的に問題があろうとなかろうと、大儲けの仕組みを作ってしまえば、特別措置が許される不思議な世の中である。本来なら監視する立場の行政も袖の下を握らされて黙認しているのだろう。きっと金の一部は裏社会にも流れているから、下手に騒ぐと何をされるか分からない。

「医師たちはどこかのタイミングで、金に魂を売ってしまったんだね」

 そんな環境の中、徐々に組織の色に染まり始めていた頃、横山はある患者と再会したという。

「勤務初日に先輩と俺が路上から引っ張って来た人で、そのときは転院させるために、先輩とストレッチャーで正面玄関まで運んでたんです。でもこれも、病院側が儲けるためのテクニックで……。そ、それなのに――」横山は声を詰まらせた。

「それなのに、あの爺さん、寝たまま俺に向かって手合わせるんすよ……」

 老人は既に自分の置かれた境遇すら分からなくなっていたのだろうか。

「殆ど歯がなくて呂律の回らない口で、『ありがと、ありがと』って……」

 若しくは、人と関われるだけで嬉しかったのだろうか。

「俺、爺さんの顔まともに見れなくて、上の方を見ながら歩いてました。そのうち何か体ん中が熱くなってきて、頭ん中も混乱してきて……」

 内面の葛藤を先輩に悟られぬよう、必死で平静を装いつつ、横山は何とか正面玄関まで辿り着いた。しかし迎えの車がまだ来ておらず、三人はそこで待つ事になった。

「嫌な予感がしてたんです。暇な時間ができると、大抵ろくなことが起こらないんすよ。そしたら案の定、先輩がいつものように悪乗りして爺さんをからかい始めました」

 院内のカーストで最低辺とされる事務員は他の職種の者から見下されており、常に抑圧され、こき使われているためか、不満を鬱積させている者が多いそうだ。その為どうしても患者を捌け口にする者が後を絶たない。

「でもその場の同調圧力に抗うことが出来なくて、俺はいつものように必死で作り笑いを浮かべてました」

 しかしどういう訳かそのときの横山は、段々と頭の中が冷静になっていったと言う。

「気づくと先輩の一挙手一投足を細かく観察してました。老人を見下ろす感情を宿さない目、仮初の優越感に浸りながら段々と饒舌になって己を高揚させていく、その浅ましい姿。あの時、自分を取り巻く環境のヤバさを思い知らされましたね。何か直感的なものが体を内側から震わすんですよ。ここで働いていると、いずれはコイツみたいにならざるを得ないんだって……」

 そんな折、目の前で悪戯がエスカレートし始めた。

「この時は俺、もう笑ってなかったと思います」

 先輩は老人の顔に唾を垂らしていた。

「もしかしたら、あのときが人生の分岐点だったのかもしれません」

 数回に渡って落とされた唾液が鼻腔を塞いだのであろうか、老人は痩せた体を捩じり、咳き込んでいた。先輩はその様子を見ながら、大きな体をくの字に曲げ、手を叩いて笑っていた。

「ここで行っとかないと、一生後悔しそうな気がして……。もしかすると自分に対するけじめだったのかもしれません」

 横山は、まるで何かに背中を押されるように、軽やかな足取りで前に踏み出していたという。そして前傾姿勢の先輩が顔を上げた刹那、加速した横山の右膝がそのボディーを捉えた。

 しかし、自らの実力や圧倒的体格差を顧みない無謀な攻撃は、喧嘩慣れした元不良にとってはさほどの傷手にもならなかったようである。先輩は顔を歪めながら、右手でみぞおち辺りをしばらく押さえてはいたが、確りと左手で捉えた横山の胸倉を決して離すことはなかった。

 左手で上半身を固定されたまま、右拳で顔面とボディーを二、三発殴られたところまでは覚えていたが、後のことは記憶にないという。恐らく意識を失っていたのだろう。

 結局、鼻骨骨折、左眼窩底骨折、左頬骨陥没骨折、顎の骨と肋骨にひびが入る重傷で、二カ月入院したという。しかしほぼ一方的に怪我をした横山であったが、先に手を出したことには違いなかった。その為、病院を解雇され、仕事と住居と前歯二本を同時に失うこととなった。

「じゃあ、退院してからはずっと路上に?」

「ええ、もうかれこれ四、五年になりますね」

 一度落ちぶれた人間が這い上がるのは、本当に難しい。修一も身にしみて感じていた。

「でもあれ以来、人の道を逸れるのだけはマジでやばいっていう、ほとんど恐怖心に近いものが自分の中に刺さってて」横山はしみじみと語る。「それだけはもう、何て言うか、生きていく上でぶれることのない信念というか、まあちょっと大袈裟かもしんないっすけど……、絶対に誤魔化しちゃいけない部分に思えて」

「今の時代、表面的に堅気のふりをしていても、黒い仕事が沢山あるからね」

「人の弱みに付け込んだり、不安を煽って商品を売りつけたり」横山は舌打ちをする。「学も経験もない俺みたいなのが働こうと思ったら、ホントそんなのばかりっすよ」

「うん、何かそういうのが多いみたいだね。結局雇われる側も足元をみられて、黒く染まらざるを得ない状況に追い込まれているんだろうな。つまり逆に考えると、インテリ気取った屑みたいな経営者が、狡賢く法の盲点をつく事が何か知的営みであるかのように勘違いして、実社会で幅を利かし始めたということか……」

 修一は口腔内で粘つく唾液を寄せ集めると、上体で反動を付けながら、思いきり遠くへ吐き捨てた。

「で、厄介なことに……」手の甲で口許を拭う。「そういう連中に金と権力が集まってしまうと、ルールやモラル自体が奴らの都合の良いようにねじ曲げられてしまう」

「結局、金の無い人間は足元見られて、有無を言わさず色んな厄介事を背負わされるんすかねぇ」横山は投げやりな言い方をする。「それで散々いいように利用されて、使えなくなったら最後はポイっ。消耗材くらいにしか思われてないんすよ、どうせ」

「そういう構図は、至る所で見られるよ。弱肉強食だと言われればそれまでだけど、食われる方は堪ったもんじゃない。見方を変えれば、未必の故意による緩慢な殺人とも言える」

「結局、人間の行きつく先は、踏みつけるか、踏みつけられるか、ふたつにひとつなんすかねぇ」横山は背後の金網に凭れかかり、腕を組んだ。「そのどちらも嫌なんていうのは、もしかすると我儘なのかな」

「共存共栄するだけの余裕がもうないんだろうね。それで上は下を蔑むことで違う種類の人間と見なし、自分たちの行為を正当化しようとする。当然下は上を憎む。互いに信頼関係なんて築けるわけがないから、背任行為が増加する。するとセキュリティなんかの余計なコストが膨大に発生して利益を圧迫してしまう。本当に色んなことが悪循環に陥っていて、広い視野で見れば自滅行為なんだ。この流れに歯止めがかからないと、モラルも秩序も崩壊して、ますます悲惨な社会になりそうだよ」

「やっぱり長引く不況のせいでブラックな会社が増えちゃったんすかね」

「もう今や有名な大企業でも、下請けから孫請け、そして曾孫請けへと幾度となくロンダリングを重ねることで、巧みに責任の所在をうやむやにしながら、ノーリスクハイリターンで間接的に、黒い仕事に手を染めているらしい。つまり彼らは己の利益を守る為に見て見ぬふりをし、自分たちとは関係ない事のように黙殺している訳だ。恐らく巨悪の根源はそういうところにあるんじゃないのかな」

 横山は低く唸った。「結局突き詰めていくと、誤魔化しに辿り着くんですかね」

「彼らは見たいものだけを見ているんだ。都合の悪いものには蓋をして、見えないようにしてしまう。知っていても知らない振りをする。そうやって自分の生活水準だけは意地でも守ろうとする。その権利があると思いこもうとしている。要するに自己欺瞞だね」

「でも社会全体を俯瞰で眺めれば、自分で自分の首を絞めてるわけですか」

「うん、そう。視野の狭い自己防衛本能と言えるだろうね。全体の生み出す利益が減少していく中で、上の階層の人間が、自分だけは何とかしてこのまま逃げきろうと目論んでいるから、食われる側の人間は当然増えていく。でもそんな状況で蔑まれている人達がいつまでも品行方正でいられると思うかい? 己にメリットの無いルールを守り続けられる人は余りいないよ。そうやってモラルも秩序も段々と崩れていき、下の階層もまた同様に利己的無関心へと陥らざるを得ない。広い視野など持ちえずに目先の分かりやすい利益だけを追い回す。結局、彼らが求めるものも金なんだ。長年それがない為に苦しんでいたんだからね。少ない賃金で労働に縛り付けられて、自由と尊厳を奪われていた人達は、金さえあれば幸福になれると信じて疑わない。そして金銭的価値に重きを置くあまり、道徳的価値は軽視され、人々の信頼関係は希薄となり、互いに無関心になる。その結果、階層を問わず、手段を選ばずに金を得ようとする連中が蔓延るようになるんだよ。まあ、これは僕の勝手な憶測に過ぎないけど……」

「真面目に働いても搾取されるだけなら、この際思い切って、モラルも秩序も無視してみようって訳ですね」

「金の価値を最上位に置く究極の拝金主義みたいな思想が、社会全体に浸透しているのかもしれない。中には万事を金に換算し、周到に計算した上で最大の利益を出そうとするインテリもいるだろうね。彼らはモラルも秩序も単なるリスク要因として、その計算式に組み込むだけだよ」

「結局みんな金、金、金かぁ。俺もあんまり偉そうなこと言えないっすけど」

「横山君や僕も、完全に汚染されている世代だろうね」

「あー、そういや俺、ガキの頃から金持ちの家に憧れてたなぁ。『うちは親父が平社員だから貧乏なんだ』そんなイメージが漠然とありましたね」

「そういう価値観を背景として、僕ら世代は受験勉強へと駆り立てられていったんだ。勉強して偏差値の高い大学に入ることさえできれば、大企業に就職できて、安定した裕福な生活が保障されるような幻想を植え付けられた……」

 修一は、最初に就職した自動車部品メーカーのことを思い出していた。

「でも理想と現実は余りにもかけ離れていた。ある程度は予測も出来たはずなのにね」

「もしかすると国の偉い人達は、高度成長期の余韻にいつまでもしがみ付いていたかったんすかね」

「心のどこかでまた同じことを体験したがっていたって?」

「ええ、まあ」

「いや、違うと思うよ」修一は即答した。「彼らはそんなに馬鹿じゃない。極めて周到な準備と巧妙な手段を使って、学生に幻想を信じ込ませたんだ」

「えっ……」

「馬鹿だったのは鵜呑みにした僕ら学生の方かもしれない」

「でも、何のためにそんなことを?」

「つまりそのことで得をする連中がいただけだよ。僕らの人生を犠牲にすることで儲けた連中がいた。例えば文部省の役人や大学の教員。彼らは、高度な専門知識と技能を身に付ければ、明るい将来が約束されるかのような夢物語を吹き込むことで、多くの学生を大学院という地獄の入口へとミスリードした。実社会における人材の需給バランスを無視して、受け入れ先のない知的エリートを大量生産したんだ。つまりそうすることで学生と言う名の顧客を確保し、当面の自分たちの食い扶持だけは何とか守ろうと謀ったんだよ」

「まじっすか……」

「彼らの中では既に究極の拝金主義が始まっていたのかもしれないね」

 横山は溜息をついた。「こんなんだから最近学校もおかしくなるんすよ。中心から腐りきってるんすから」

「同じ政治体制が長く続くと、どうしてもこういう事態に陥らざるを得ないのかもしれないね。本来なら互いに目を光らせて監視し合うべき権力が、馴れ合い、癒着し、凭れ合う。自制心を失い、増長し、大衆を自分達の為の道具みたいに見做し始め、都合の良いルールを作りだす。そしてようやく大衆が、腐った権力者達の欺瞞に勘付き始めた頃には、理不尽な法律や社会システムで縛られていて、反抗すれば逮捕されたりするんだ。未来に絶望し、金の為なら手段を選ばない連中が巷に蔓延し始めたのも不思議じゃない」

 ふたりはしばらくの間、黙り込んだ。遠くでサイレンの音がしている。

「あーあ、社会全体が腐りかけてるんすかね」横山が徐に立ち上がり、両手を上げて伸びをした。

「そうだね、改めて考えるとうんざりするね」つられて修一も立ち上がる。右手で尻を払うと、長いあいだ堅く冷たいコンクリートに座っていた為か、痺れていて殆ど感覚がなかった。

「正直者が馬鹿を見る世の中なんすかね」

「でも、こうやって拝金主義を非難している僕らが、今や誰よりも、喉から手が出るほど金を欲しているんだよ」

 横山が金網を掴み、暗闇を見据えていた。「ほんとに……皮肉な話です」

「僕らは究極の選択を迫られている」修一もそこに流れているであろう、見えないドブ川に目を凝らす。「己を腐らせることで腐った社会で生きるか、このまま清らかに消えていくか……」

 周辺には相変わらず仄かな異臭が漂っていた。あの腐った卵のような独特の臭い。ヘドロが生み出す硫化水素である。

「俺らみたいな落ちぶれた人間は、どう足掻いても悪の片棒を担がされる運命なんすかね」

「残念ながら、法令を遵守していては、生き残れないところまで来てしまった」

「法はともかくとしても、人の道に逸れるのだけは、避けたいんすけどねぇ……」

「僕らは今、生死の境に立たされているんだ。何が何でも生き抜いてやる、そういう態度こそが、人の道として唯一の答えだとは思わないかい? 多少の過ちは神様だって大目に見てくれるよ」修一は元来神様を信じていなかったが、都合の良いことを言ってみた。

「でも……、それだと、自分が生き残る為なら、他人に何しても良いって理屈になるから、やっぱりおかしくないっすか?」

「そう、矛盾している。もしかすると、そもそも人間なんてものは、最初から矛盾を孕んだ存在なのかもしれないね。多少なりとも余裕があるうちは、綺麗事が並べられるけど、いざ目の前に死が迫って来れば、誰だってなりふりかまっちゃいられないんだ」

「結局、開き直るしかないんすかね。モラルをねじ曲げてるような気もしますけど」

「そうだよ……、人は皆、そうやって腐っていくんだ」

 このとき初めて修一は、以前義父から言われた『清濁併せ呑むようなところがなくて、世の中渡っていけるはずがないだろう』の意味が腑に落ちた。

 修一はジャンパーの内ポケットから一枚の写真を取り出した。ライターを灯し、明かり代わりにする。

「何すか、それ」横山が首を伸ばし覗きこんでくる。

「過去の栄光だよ」あの日、団地の玄関で抜き取った家族写真であった。

「青さん……結婚してたんすね」

「うん、元妻の杏子と娘の緑だ。結局、彼女たちには最後まで苦労をかけてしまった」言いながらライターで下から炙る。

「何してんすか!」咄嗟に横山が修一のライターを持つ左手を掴んだが、既に炎は写真へと移っていた。

 修一は、尚も手を伸ばそうとする横山を左腕で制しながら、燃える写真を眺めた。橙の炎を揺らめかせながら、徐々に下から黒い灰へと変わっていく。熱さに耐えきれなくなり手を放した。

「大事な写真だったんでしょ」横山が諦めの籠った声で言う。

「……けじめだよ」

 ふたりは黙って、コンクリートの上で写真が燃え尽きるのを見届けた。完全に火が消えてしまうと、また薄闇が戻ってきた。ふたりはその場でしばらく立ち尽くした。時折車の走行音が高架下に反響していた。

 修一はフェンス際に腰を下ろすと、徐に携帯を取り出した。液晶のバックライトが修一の顔を青白く浮かび上がらせる。iモードを起動し、黙々とサイトを検索し始めた。

 修一は、これまで幾度となく誘惑に駆られながらも、何とか己を抑制し、一度もアクセスすることのなかった場所、闇の入り口へと足を踏み入れた。


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