四章 進級
女教師が黒板に、年号と起きた出来事を書きながら喋り続けている。その後ろ姿を眺めながら緑は欠伸をした。食後の授業は主に眠気との戦いである。イギリスの植民地政策に興味など持てるはずもない。黒板の文字が涙で滲んだ。
元来、物を丸暗記するタイプの勉強はモチベーションが上がらなかった。いつ何処で何が起こったかを正確に覚えたところで、今後の人生にさほどプラスになるとも思えなかったし、出来れば脳みその貴重な容量はもっと有意義に使いたいと考えていた。
窓際に座る緑は外を眺めた。三階から見える校庭の桜並木は、丁度見頃を迎えており満開なのである。離れた所から見る桜もなかなか良いものだと思った。これこそが本当の意味での花見なのかもしれない。真下で敷物広げて飲んだり食ったりしている連中は、実際花なんて見ちゃいないものだ。
風が吹くと、桜並木全体がたわみながら揺れ、白い花弁が舞った。
「青山さん!」
尖った声に緑は現実に引き戻される。前を向くと教師と目があった。金縁眼鏡のレンズが怪しく光る。
「あなたさっきからずっと校庭を眺めているみたいだけど、もしかしていい男でも発見した?」
教室全体に控えめなクスクス笑いが広がっていく。
二年に進級するにあたっては、文系か理系かを一月の終りまでに選ばなければならず、更にそこへ、社会と理科の選択科目によってクラスの編成が決まることになっていた。
「ねえねえ緑、どうするの? やっぱり数学得意だから理系?」
当時、希望届を提出するとき及川広美が聞いてきた。
「うん、私は理系だよ。広美は?」
「まあ、私はどっちでもいいんだよね。だから私も理系にしようかな」
二人は共に理系クラスを希望し、
「やっぱりまた同じクラスになりたいよね」という広美の提案で、希望する選択科目も同じものを選ぶことにした。緑は理科の二科目、物理、化学は譲れないと主張し、どうでもいい社会は広美に任せた。そして彼女は世界史を選んだのである。
授業が終わると広美が緑の席へやって来た。
「なんなの、あのババア。いちいち嫌味ったらしい」
広美の膨れっ面をみて、緑は思わず笑ってしまう。
「まあいいじゃん別に、悪いの私だし」
緑は高校入学以来、誰に対しても心を開かず、上っ面を取り繕って、清楚な女子を演じてきた。最初のうちは何かにつけていちいち絡んでくる広美を面倒臭く感じ、内心では疎んじていたのである。しかし学校生活を続ける中で、積極的に人と関わっていくのが苦手な自分にとっては、広美のような向こうから来てくれるタイプが、一番付き合いやすいのではないかと次第に思い始めた。今となっては、たまに広美が欠席したりすると、暇な休憩時間をどうやり過ごせばよいのか悩んでしまう程だ。
それでも彼女の前で、こんなにも構えていない素の自分でいられるようになったのはいつからだったろう。
「ねえ緑、今日の放課後、暇?」
「うん、暇だね~」緑は頬杖をついたまま答えた。
「じゃあうち来ない? 緑んちでもいいけど」
開け放った窓から春風が通り抜け、広美の長い髪をなびかせた。
「う~ん、今日はジジイが居るかもしれないなぁ。居たら面倒臭いから広美んちにしようか」
既に二人はお互いの家を頻繁に行き来するようになっていた。しかし初めて緑が広美の家を訪れたときには度肝を抜かれたものである。
二月の初旬、広美が風邪をこじらせて一週間ほど休んだとき、緑は担任に頼まれて宿題や学校からの配布物などを届けに行ったのだが、教えられた住所には、廃屋かと見紛うようなトタン屋根の寂れた自動車整備工場があり、入口の煤けた看板に『及川モータース』と書かれていたのであった。
後日、病み上がりの広美は教室で、
「私の家……あんまりボロくってビックリしたでしょう」などと、やつれた顔を赤らめながら照れ臭そうに俯いた。
緑は何と言ったら良いのか、咄嗟に判断しかね、やや不自然な間を空けてから、
「そ、そうかなぁ、別に普通だと思うけど」
それ以来、広美はしつこく劣等感をまとい続けていたようで、その態度はどこかぎこちなく、緑と目を合わさなくなったのであった。
日に日に緑は、そんな広美を見ているのが不憫で居た堪れなくなってきた。そもそも貧乏が何だって言うのだろう。家がボロくて何が悪い。そんなに恥ずかしがることないだろうに。
そしてとうとう我慢できなくなり、そっと彼女に耳打ちしてしまったのである。
「実は、ここだけの話なんだけど、私、中学まで、めっちゃくちゃボロい団地に住んでたんだ」
「えっ、ウソ!」こちらを見返した広美の目に、ようやっと輝きが戻った。緑は未だにその驚いた顔を思い出すと、ひとりで笑ってしまう。
「なんと家賃……円」
「安!」
それからしばらく二人の会話は、貧乏自慢の様相を呈し、教室の片隅でヒソヒソと互いに耳打ちし合っていた。
以来、広美にだけは何でも話せるようになった。中学時代悪ぶっていたことも、高校からキャラを変えようとしていることも既に伝えてある。広美はそんな緑に協力的だった。眉間の皺を指摘してくれたり、摺り足気味に歩く癖を注意してくれたり、緑が自分では気が付かないところを色々と教えてくれる。
放課後、緑は広美の家に寄った。やはり何度見ても半端ない佇まいである。工場では、軽トラがジャッキアップされており、その下から繋ぎを穿いた足が出ていた。恐らく広美の父親だろう。一応客がいるということか。勇気のある客だ。
工場の右端にある赤茶けた鉄階段を、広美の後に続いて音を立てながら昇っていく。二階は事務所兼居住スペースで、アルミサッシの引き戸は開いていた。玄関の靴入れの上に金魚鉢が置いてあり、小さな和金が三匹、水面で口をパクパクさせている。
事務所のスペースには広美の母親がいた。丁度電話中で、緑に気付くと送話口を手で押さえ「あら、緑ちゃん、いらっしゃい」化粧の濃い顔で豪快に微笑んだ。
「お、おじゃまします」緑は若干気圧され、ぺこりと頭を下げた。
広美の部屋は一番奥の和室で、四畳半の半分程をベッドが占領している。緑はいつもの様にその上に腰かけた。
「あっ、そうだ」広美がハンガーに制服のブレザーを掛けながら声を上げた。「貰い物のお菓子があるんだ。ちょっと取ってくるね」
ひとり残された緑は手持ち無沙汰に部屋の中を眺めた。相変わらず地味だ。女子高生の部屋にしては彩りが無さすぎる。調度品も年季の入った物が多く、角にあるテレビは二十一型のブラウン管で、地デジ対応チューナーと接続しているそうだ。
「近所の人がね、沖縄行ったお土産なんだけど」右手に菓子を乗せた木皿を、左手に麦茶ポットと二つのコップを器用に持ち、広美が戻って来た。折り畳み式のちゃぶ台の上にそれらを置く。
「ちょっと変な名前なんだけど、これが結構いけるのよ」
ちんすこう……食べ物の名前にしては響きが卑猥だな、食欲を失う人もきっといるだろう。心の中で突っ込みを入れながら、緑はその脆いクッキーみたいな代物を一応口に運んだ。隣では広美がコップに麦茶を注いでくれている。
しかし意外にも、サクサクとした心地よい歯触り、程良い上品な甘さ。
「これ美味しい」
「でしょ」
早くも緑は二つ目を口に放り込んだ。粉砕され口腔内に広がった菓子粒が、唾液を吸い取り、ペースト状になって奥歯の溝に絡みつく。
麦茶に手を伸ばしながら――本来ならここは熱い緑茶の方が合うな――などとつい不遜な思いが頭を過る。いかん、いかん、祖父の家に移り住んでからというもの、いつのまにか贅沢が身についてしまっているようだ。
「ねぇねぇ緑、小泉君って、ちょっと良くない?」
飲んでいた麦茶が気管に入りそうになり、緑は咳き込んだ。
「どうしたの? 大丈夫」広美が背中を擦ってくれる。
この娘は突然何を言い出すんだろう……。「そ、それってまさかうちのクラスの――」
「えっ、うん。緑って、彼と同じ中学だったんでしょ?」
小泉とは今回のクラス替えで同じクラスになってしまった。
「あんたマジで言ってんの……」緑は広美の顔を覗き込む。「あれは相当な変人だよ、良いも悪いもないでしょ!」
「えー、そうかなぁ」広美は呑気な声を出す。
「そうだよ、大体見てたら分かるでしょ。クラスで早くも浮いてるし、それにあの異常者特有のギラついた目つき」
「浮いてるんじゃなくて、きっと彼は一匹狼タイプなのよ」広美は腕を組みながら、自分で言って自分で頷く。「群れなくても生きていける精神的に自立した強い男」
「違う、ただの社会不適合者だよ」緑は冷たく言い放った。「群れたくても群れることが出来ないの」
「良いじゃない、今時珍しい群れない男、アウトローみたいでカッコいい」
工場のすぐ裏を電車が通り過ぎていく。部屋全体が小刻みに震え、カタカタと木枠の窓ガラスを揺らした。
「アウトローじゃなくて、人間としてアウトなの」
同じ中学と言っても、小泉とは三年間通じて一緒のクラスになったことがなく、喋ったこともなかった。例え一緒のクラスになったとしても、ヤンキーとして孤高の存在だった緑が、オタク臭を放つ小泉と喋る機会など無かったであろうが。つまり緑にとって小泉は見かけたことがあるという程度の存在でしかなかったのだ。それだけに高校入学後、初めて話したときの強烈な印象を忘れることが出来なかった。
『アナゴとは一体どういった魚でしょうか?』
あの状況認識能力の低さは何だろう。会話する相手の意図を汲み取らないにも程がある。そのくせ自分が興味を持ったことに対しては、異様なほどに執着し、蛇のようにしつこい。
「でも彼って基本はひとりだけど、興味のある話題を聞きつけると、普通にその中に入って楽しそうに話してるんだよね」広美が遠くを見るような顔をする。「だから人見知りって訳ではなさそう。けど話題が変わるといつのまにか居なくなってる。誰とでも話すけど、どこにも属してないの。なんかミステリアス!」
「好奇心の赴くままに生きてんでしょ。協調性ってもんがまるでないのよ」緑は冷たく言い捨てた。「好きなことに没頭していると周りが見えなくなるんでしょうね。やたら一人言多いし、自分が他人にどう思われているかなんて気にしたこともなさそう」
「なんか憧れちゃうなぁ、そういう生き方」広美は吐息を漏らした。「私もあんな風に強く生きられたらなぁ」
緑はたまに広美のことが分からなくなる。
「あんた正気なの」
「私には自分てものがないの」広美は下を向く。「いつも周りの顔色ばっかり窺ってて、波風立てず無難にその場を凌ぐことが目的になってるの」
「協調性があるってことじゃん、それも大事なことだと思うよ」
「違うの、ただ一日一日をやり過ごしているだけなの……」
普段教室では常に明るく陽気な広美であったが、その反動なのか、緑と二人になると根の暗い部分を時折見せる。
「でもああいう特殊な生き方はどうかと思うよ。クラスの連中だって話しかけられたら話すけど、自分から小泉に話しかける人見たことないし、やっぱりどこか異質なものとして距離を置かれてるんじゃないかな」
「孤高の存在ね」
「……そういう事ではないと思う」
「私にも孤独に負けない強さがあったらなぁ」
どうやら広美は小泉を異性として意識している訳ではなさそうだ。しかし彼の生き様の中に自分に無いものを見出し、人間として尊敬しているらしい。……危険だ。
「まあ小泉みたいなタイプの人間は、学者や研究職みたいな特殊な仕事には向いているんだろうけど」
「そうだよね」広美が笑顔を見せる。「頭良いし、白衣とか超似合いそう!」
「でもそういう仕事は数自体が少ないからね、希望したからといって就ける保証なんてないのよ」
「小泉君なら大丈夫よ」
「いや、今の世の中そんなに甘くはないの。国の財政状況が逼迫しているのは広美だって知っているでしょ。そうなってくると国立大学や公的機関の研究費も削られる。それに少子化の影響で今後学生が減るのは目に見えているから、大学の数も減って、教員の数も減る。一般企業だってこの不況の中、将来を見据えた研究開発よりも目先の利益に重点を置かざるを得ないでしょうね。研究職の需要はこれからも減る一方なの」
「な、何か凄いことになってるのね……」
「だから小泉みたいなタイプでも殆どの人は普通の仕事に就かざるを得なくなるんだけど、協調性やコミュニケーション能力なんかの社会的スキルが低いから、巧くいく訳がない。結局は人間関係で躓くことになるんでしょうね。上司や同僚に鬱陶しがられて、窓際へ追いやられ、リストラされたり退職を余儀なくされたり……。その後はもう転がり落ちるのみ。一生、社会の底辺を彷徨うことになるの」
「ねえ、それって……もしかして」広美が口ごもる。
「悲惨だよ……。多額の学費を納めながら、長年大学で一生懸命ひとつの分野に打ち込んで、博士号まで取得して高い能力と知識を身に付けても、それを生かす場所がないんだから。得意なことは取り上げられ、苦手なことばかり求められて、常識がないとか無能だとか罵られ続けるのよ。プライドもズタズタにされて、年々卑屈になっていかざるを得ない。周りで見ている家族だって辛いよ」
「やっぱり、失踪した親父さんの事なのね」
「一般論でもあるのよ。ああいう生き方はリスキーだから憧れちゃ駄目ってこと」
当事者を間近で見てきた緑の言葉は、重く十分な現実味を伴って広美の心を捉えたのか、彼女はしばらく黙ったまま、神妙な面持ちで部屋の隅っこを見詰めていた。
「小泉君も将来ヤバいことになっちゃうのかな?」
「あそこまでぶっ飛んでると、そう簡単に普通の人間には戻れないでしょうね。うちの親父でもアイツよりかは協調性あったと思うし」
「路頭に迷っちゃうのかな……。なんか可哀想」
「もう既に片足突っ込んでるかも、貧困という名の底無し沼に」
また広美は考え込んでしまったようで、腕を組み、俯いたまま、ちゃぶ台の麦茶ポットの辺りを見詰め、頻繁に瞬きを繰り返している。その隙に緑は木皿に残る最後のちんすこうに手を伸ばした。
「ねえ、何とかならないかな!」急に広美が振り向いた。
その深刻な声音に、緑は木皿の前で手を止めた。中腰で腕を伸ばしたまま、広美の方を見る。
「片足だけならまだ間に合うんじゃないかしら。私達の力で引っ張り上げること出来ないかな?」
「?」意味が分からない。この娘は真剣な顔をして何を言っているのだろう。緑はゆっくりベッドに座り直し、手にした獲物を口へと運んだ。
「だって彼まだ十六だよ。きっと頑張れば何とかなるわよ、私達がみっちり鍛えてあげれば――」
緑は口から粉を噴き出した。
「とりあえず明日から休憩時間は三人で過ごすことにしましょう。でもきっかけが必要よね。どうしよう……最初に話しかけるきっかけ……。あっ、そうだ、彼いつも休憩時間にひとりでぶつぶつ言いながら、読んだり書いたりしてるから、『何読んでるの』とか、『何書いてるの』とかって聞けば良いか。きっとそこから話は広がっていくはず。彼だって同じ人間なんだもの」
広美が変人に憧れて面倒なことになりそうだったので、それを回避するために話を誘導したつもりだったのだが、何故か余計に面倒な方向へと進み始めていた。
「せっかく緑の親父さんが反面教師となり、身を以て示してくれた人生の失敗を、決して無駄にしてはならないわ。次世代の為に生かさなくてはね。小泉君の将来が今私達の手に委ねられているのよ!」
広美は突如降って湧いたような使命感に燃え、瞳を爛々と輝かせていたのだが、不意に思い出したかのように聞いてきた。
「あっ、そう言えば緑、相変わらず親父さんとは連絡つかないの?」
畳に這いつくばったまま緑は顔を上げた。自ら撒き散らかした粉末を寄せ集めていたのだ。
「……うん。今でも週に一回はメール送ってるけど、返事はない」
言いながら、ささくれ立った畳の目に沿って手を這わせる。
「でも送信エラーにならないってことは、まだ親父さんの携帯が使われてるってことだよね」
「やっぱりそうなのかな」拾い集めた菓子粒を掌にのせ、ベッド脇のゴミ箱の上で手を払った。
「なんで残念そうなの?」
不思議そうに見詰める広美と目が合い、思わず緑は視線を逸らした。「えっ、何が……、そんな訳ないじゃん」
親父に無事でいて欲しい。その思いに嘘はない筈だった。しかし最近、メールの着信が鳴る度、親父からでないことを望んでいる自分が、心の何処かに潜んでいるような気がして、緑は己と向き合うことを恐れていた。
「私の声、そんな風に聞こえた?」
「うん……ちょっとね」
生活水準が飛躍的に向上して一年余り、経済的ゆとりは物質的には勿論のこと、精神的にも緑を潤した。今となってはウォシュレットのない生活は考えられなかったし、中学時代のささくれ立った自分にも二度と戻りたくなかった。
「私って、もしかしたら最低の人間なのかもしれない」
「緑、何言ってんの」
また裏を電車が通り、部屋を小刻みに揺らした。
「ねぇ、広美が私と同じ立場だったら、どうなることを望む?」緑は広美へ向き直った。
「同じ立場って、うちのお父さんが失踪するってこと?」
「そう」緑は頷く。「それで母方のお爺ちゃんの家に移り住むの」
「お爺ちゃん、だいぶ前に死んでるんだけど」
「いや……別にそこはお婆ちゃんでも良いから」この娘は若干呑み込みが悪い。
「要するに、私とお母さんが緑の家みたいな所に移り住むってことね」広美の表情が次第に和らいでいく。「いいよね~、緑んち。高い天井に広いリビング、静かな所だし、丘の上に建ってるから見晴らしは最高。その上、程良く自然に囲まれて――」
「そこでの暮らしを想像してみて……。その状況で広美はどうなって欲しい? お父さんに帰って来て欲しい?」
広美は考え込むように真顔でしばらく固まっていたが、「うん……まあ、豪邸も捨てがたいけどねぇ」と少し照れ臭そうにはにかみながら、「でもやっぱり帰って来て欲しいかなぁ」
「普通の親子ってそういうものなのかな」
「さあ、人それぞれなんじゃない」
家族や周囲の大人たちが、修一が実父でないことを緑に特別隠そうとはしていなかった為か、既に物心ついた頃には緑自身、その辺の事情を漠然と把握していたように思う。そんな修一をお父さんと呼ぶことには、確かに初めから抵抗があった。二歳で別れ、面影すら記憶にないのだから、それは実父に対する義理立てなどでもなかっただろう。ただ、『お父さん』という言葉を発する度に、自身の心と周辺に漂う白々しい空気を、好きにはなれなかったのである。そして小学校の高学年くらいから、修一のことを『親父』と、まるであだ名のような感覚で呼び始めたのであった。
「やっぱり私の場合、血繋がってないからドライになれちゃうのかな」
広美が目を見開いた。
「あっ……。ごめん、忘れてた」彼女は気まずそうに目を逸らす。「前に言ってたよね」
小学校低学年の頃、泳ぎに行きたいと駄々をこねたとき、運動神経鈍くて泳ぐの苦手なのに、無理して海に連れて行ってくれた親父。お母さんと喧嘩して不貞腐れているとき、愚痴を聞いてくれた親父。仕事で疲れていても宿題を教えてくれた親父。反抗期に悪態をついても困ったような顔をするばかりで、怒られることはほとんどなかったけれど、嘘をついたときだけは真剣に叱ってくれた親父。
『お父さん』とは呼び難かったけれど、かけがえのない家族の一員の筈だった。
「私ね、心の奥底では、現状維持を望んでいるのかもしれない」
「……緑」
「生きていて欲しいよ、元気でいて欲しい。これは本心。でもね、親父からの連絡にいつも怯えてるの。自分勝手だよね……最低だよね。結局私は今の生活を守りたいんだと思う。貧乏に戻るのも、あの頃の自分に戻るのも嫌だから」
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。下の工場からエンジン音が漏れ聞こえてくる。広美は幼い頃から、油塗れになって働く父親の姿を見続けていたのだろうか。対外的には貧しさを恥じながらも、心の奥底では父親を尊敬しているのかもしれない。
「私だって実際にそういう状況に追い込まれたら、どうなるか分からないよ」広美が呟いた。
「あんたは絶対にそんなこと考えない、私には分かる」冷静に緑は言いきった。「きっと広美は本当の意味で優しい人なんだよ。私とは根本的に、人間としての本質的な部分において、何かが違うんだと思う。私は人間として大切なものが欠落しているのかもしれない。計算高くて冷酷な人間なの」
「カッコつけないでよ」広美が珍しく棘のある言い方をした。「緑はクールさを装っているだけ。それくらいのこと、毎日一緒にいる私が見抜けないと思ってるの」
「広美は私のこと買い被り過ぎてる」
「そんな事ない!」
「だって今回の小泉の件にしたってそうなんだよ。私、最初広美が何を言ってるのか分からなかった。自分の中にはない発想だったから。私はあいつのことを変人だと思ってて、関わり合いたくないと思ってて、将来どうなろうが知ったこっちゃなかった……」
広美が溜息をつき、困ったような顔をする。
「それは趣味の問題でしょ。緑が小泉君みたいなタイプを苦手としているってだけ。私にだって苦手なタイプの人いるわよ」
「だけど広美は、誰に対してだって、私ほど冷酷にはなれないと思う。一方私は、誰に対しても、自分にとって利用価値があるかどうか、その一点で関わっているのかもしれない。人生のどこかのタイミングで何かを間違えたのか、持って生まれたものなのかは分からないけど、私の心根にはそういう汚い部分があるの」
広美は少し間を置いてから、励ますように声を和らげた。「誰にだって多少はそういうところあると思うよ……」
「今の世の中、私みたいに利己的な人間の方が多くなってるのかな」緑は深刻な表情のまま淡々と続ける。「広美みたいに利他的な人は、私にとっても、世の中全体にとっても、大切な存在だよ」
互いの瞳を探るように無言でしばらく見つめ合った後、広美が吹き出した。
「ちょっと何なの、ひとのことマザー・テレサみたいに」
懸命にフォローしてくれる広美の気持ちは嬉しかったが、緑の考えは変わることがなかった。やはり広美は、他人の幸福を自分の事のように心から喜べる人に違いなく見える。いざとなったら他人を犠牲にしても、裏切ってでも、自分だけは生き残ろうとしてしまうであろう薄情なエゴイストとは、異なる種類の人間なのだ。お互い貧しい家庭環境で育ちながら、どうしてこうも違うのか。
広美と付き合って半年余り、彼女は色々な事を気付かせてくれた。人間の黒い部分を見過ぎたせいであろうか、知らないうちに猜疑心で凝り固まっていた緑の心を、少しずつ溶かしてくれた。ただ彼女の優しさに触れていると、己の邪悪さを突き付けられているようで、時折目を背けたくなる。きっとその中には、今更取り返しのつかないものもあるのだろう。
「やっぱり……私は冷たい人間だよ」
いつまでもいじけたような事を言い続ける友人の相手をすることに疲れたのか、広美は困ったようにひとつ溜息をついた。「だからぁ~、そんなことないって」
「父親に似ちゃったのかな」
また電車が部屋を揺らす。ガタつく窓枠に目をやると、西日が曇りガラスを橙色に染め始めていた。
「緑の本当のお父さんて、どんな人だったの?」
緑は実父のことをほとんど何も知らなかった。
「二歳の娘を置いて居なくなるような人」
青山家において、その話題はタブーだったのであろうが、みんなが器用に避けている為に、そこだけが余計に浮き上がって見えた。会話の中でそこへ接近しそうになると、きまって不穏な空気が漂った。修一が養父であることは知らされながら、実父について言及できないと言うのは、不自然なことにも思えたが、自ら踏み込んでいく勇気は持てなかった。修一に対する配慮もあった。なるべく平穏に暮らしたかったのである。
豪邸が立ち並ぶ閑静な高級住宅街の緩やかな坂道を上っていく。夕暮れの街路には灯がともり始めていた。犬を散歩する近所のおっさんとすれ違い、緑は鞄を前にして両手を添え、
「こんばんは」伏し目がちにしおらしく会釈した。
住宅の高い塀に囲まれた右カーブを過ぎると、坂の頂上付近で薄闇を背景にし、三階建ての洋館がその白壁を浮かび上がらせていた。家の前に辿り着くと駐車スペースにはレクサスがなかった。門燈とポーチには灯がともり、リビングから庭の芝生へ蛍光灯の白い光が漏れている。
帰宅すると、キッチンで杏子が料理をしていた。スナックが休みの日は、ほぼ毎日夕食を作ってくれる。
「お帰り」ハンバーグであろうか、ボールの中で挽肉か何かを捏ねながら笑顔を見せる。
「ただいま」
緑はつと立ち止まり、料理中の母親を観察した。ここ最近、杏子は妙に楽しそうだ。一時期の塞ぎ込み様を思うと、嘘のように明るくなった。また職業柄なのか、服装やヘアスタイル、メイクにも気を使うようになり、日に日に洗練され綺麗になっていくようだ。肌の張り艶も良くなって、少し若返ったようにも見える。
「お爺ちゃん、今日も出掛けてるんだね」
「交友関係の広い人だから」杏子は喋りながら、挽肉の塊を左右の手で交互にキャッチし、中の空気を抜いている。「さっき五時ぐらいに、『晩飯はいらないから』って、そそくさと携帯片手に出て行ったわ」
慶一郎は七十代の老人とは思えないほどにアクティブだった。夜は殆ど家にいない。元気で健康なのは何よりだが、どれだけ公務員年金とやらが潤沢なのかは知らないが、これだけ遊び回っていてよく金が続くものだと感心してしまう。
それにしても、この世代の老人の生きることに対する貪欲さは、どこからやってくるのだろう。生まれ育った時代背景が強い影響を与えているのかもしれない。戦前戦後の物のない時代に、ひもじい思いをしながら生き抜いた子供時代の経験が、今も尚、彼らの底知れぬ欲望を下支えしているのだろうか。
緑は冷蔵庫を開けた。最上段にヨーグルトを発見。
「広美ちゃんち寄ってきたの?」後ろから杏子が聞いてくる。
「うん。ヨーグルトもらうね」
テーブルに座り、器用に挽肉のキャッチボールを続ける母親を眺めながら、緑はスプーンを口へ運ぶ。
「ねえ、お母さん。私の性格って、誰に似たんだろう。……お父さんかな」
「そうねぇ――」杏子は肉を叩きつける音をリズミカルに響かせ続けている。「ちょっと理屈っぽいところは、修一さんの影響かもね」
「いや……親父のことじゃなくてさ……」
杏子の動きが止まり、広いリビングが静まり返った。
「私の本当のお父さんってどんな人だったの」
旧姓赤木杏子は、市内の県立高校を卒業後、K大学理工学部システム安全工学科に入学した。その学科内で初めて言葉を交わしたのが青山修一だったと言う。入学式後に行われたオリエンテーリングで、学生番号順に並んで学内の施設を巡りながら学科担当教員の説明を受けていたとき、隣を歩いていたのが修一だったそうだ。
「修一さんと私が列の一番先頭でね。隣であの人、説明聞きながら小さなノートに一所懸命メモしてたわ」テーブルの向いに座った杏子は、当時を懐かしむように遠い目をして微笑んだ。
「それで最初は修一さん、何か話しかけ辛い空気を醸し出してたんだけど、ずっと無言のままっていうのも気まずいじゃない、隣だし。それで私の方から、『学部棟と一般教養棟って結構距離ありますよね』みたいな当たり障りの無さそうなことを話しかけたわけ。そしたらあの人、『そ、そうですね。これだと授業と授業のあいだ歩いて移動してたら、それだけで休憩時間なくなっちゃいますね』なんて、耳真っ赤にしながら言ったの。あの頃の修一さんうぶだったのね、女慣れしてない感じで。それに私も可愛かったから、余計に緊張してたのかも――」
それから杏子は、当時の自分がいかにモテまくっていたかを、エピソードを交えて嬉しそうに語り始めた。緑は話半分で聞き流していたのだが、これがなかなか終わりそうもない。
「うん、うん、うん、お母さんがモテモテだったのはもう分かったからさ。それより私の父親の話はいつになったら出てくるの?」軌道修正を試みる。
「まあ、そう焦りなさんなって」
その後も杏子と修一は、学生番号が隣接していることもあって、実験や実習などでは常に同じグループに属し、それなりに親交を深めていった。しかしその関係性はただの学友のひとりという域を超えることはなかったそうだ。
そんなとき出会ったのが、修一と中学、高校の同級生で、理工学部人間総合理工学科の佐田徹だった。
杏子たちが実習の後、その流れで同じ班のメンバーと学食でお茶しながら雑談していたとき、その背の高い甘いマスクの男は修一の名を呼びながら、テーブルへとやってきた。佐田は軽快に冗談を交えながら修一との間柄を語りつつ、自己紹介を済ませると、また修一をダシにするような形で、その場にいた杏子を含む五人へ適度に話を振りながら場を温め、気付くと輪の中に溶け込んでいた。
杏子は既にこのとき、佐田の自らに対する好意に気が付いていたし、自身も満更ではなかったという。
「あなたのお父さん、カッコ良かったのよね」
ただ当時杏子には高校から付き合っている彼氏がいたそうだ。この彼氏は杏子と一緒にK大を受験したものの、自分だけ落ちてしまい浪人中だった。そのため杏子と佐田は互いに好意を持ちながらも、暫くの間はその関係性に進展はなかった。
しかし彼氏が翌年もK大の受験に失敗し、仕方なく関西の私立大に入ると、それを機にふたりの関係は急速に冷えていき、遠距離恋愛は三カ月を待たずに破局を迎えたという。
「……どうせそうなるように仕向けたんでしょ」
それから間もなく、杏子と佐田の交際は始まった。
しかしこちらも順調というわけにはいかなかった。そこには終始他の女の影がちらついていたのである。
「周りがほっとかないのよね、ああいう良い男は」
佐田は社交的で頭の回転が速くユーモアのセンスもあり、気付くといつのまにか人心を掌握し、自然とリーダーシップを執ってしまうような頼りがいのある男だったという。
「修一さんは共通の友人だったから、相談に乗ってもらったり、ふたりの間に入ってもらったりしてたわね」
結局、佐田の浮気が原因で何度も破局の危機を迎えながらも、その度に別れたり、またくっ付いたりを繰り返し、ふたりが共に大学院へ進んでからも、その腐れ縁のような関係が続いた。
「理屈じゃないのよ、男と女は」
そして修士課程二年のとき杏子が妊娠し、ふたりは在学中に学生結婚した。翌年、佐田は親族のコネで東京の証券会社に入社。ふたりは東京郊外に二LDKのマンションを借り、新生活をスタートさせたが、間もなく杏子は臨月を迎えると、ひとりで出産のために一時実家へ帰省し緑を出産した。
「家庭を顧みるような人じゃなかったわね。私が帰省している間、仕事が忙しいからって、一度も会いに来なかったし、戻ったときも空港へ迎えに来さえしなかった。そのうち段々家に居つかなくなって、また女の影がちらつき始めたの」
結局、佐田は緑が二歳のとき、記名捺印済みの離婚届を残して失踪した。またそれから二カ月後、佐田がいた会社の経理担当の女が三千万程横領し、忽然と姿を消したという。
「最初佐田がいなくなった時なんて、探す素振りも見せなかった警察が、横領事件の後は、連日家まで押しかけてきて、『旦那の居場所に心当たりはないか』『何か連絡は無かったか』って、しつこいのなんの、全くこっちが知りたいっていうのにね」杏子は不機嫌そうに眉根を寄せる。「挙句の果てには令状まで持ってきて、家の中全部、私の物まで調べ尽くされちゃったわ」
ふたりの消息は今も不明のままらしい。




