三章 路上
寒空の下、公園に五百人程が縦横整列していた。カトリック系団体が主催する炊き出しの列に並び、代表の説教が終わるのを待っているのである。空は鉛色に覆われ日差しはない。木枯らしに吹かれて、白いレジ袋が足元を走り抜けていった。
周りを見回すと、割合身綺麗な者も少なくはない。見た目だけでは普通の人と判別できない程である。見分けるポイントはボストンバッグなどの割と大掛かりな荷物を持ち歩いていることぐらいだろうか。
炊き出しにありつくには、一時間近く説教を聞かねばならなかった。毎度お預けをくらった犬のような気分になる。説教は頭に入ってくる筈もなかったが、時折「ハレルヤ!」などと代表が雄叫びを上げると、修一たちホームレスも拳を突き上げながら声を出さなければならない。それ以外は寒さに身を竦ませて、物思いに耽りながらただ時が過ぎるのを待つだけだった。
あの家族会議の日、義父に厳しく非難され、修一自身は離婚を受け入れる気持ちに傾いていたのだが、杏子と緑の反対によって、結婚生活は継続される事となった。自責の念に駆られる中で、彼女達の思いは修一にとって唯一の救いだったのかもしれない。しかしそれだけに、何としてでも仕事を見つけなければならなかったのである。修一は連日ハローワークへ通った。
「ただでさえ年齢的に厳しいのに、その上懲戒解雇と賞罰まで付いてしまってはねえ……。せっかく正規で入れたのに、私も担当者として情けないですよ、ホントに」そう言うと、顔馴染みの職員はうんざりした様に溜息をついた。
「そこを何とかお願いします。何でもやりますから」言いたいことは色々あったが、職を求める立場ゆえ、修一は自分を抑えカウンターに頭を擦りつけた。
しかし毎回、端末で検索した条件の合致するいくつかの求人情報を問い合わせてもらうものの、面接まで辿りつけるものは殆どなかった。大抵は電話で断られてしまう。
これといって手に職のない、博士課程卒の、三十九歳、前科有り、直近の仕事は懲戒解雇である。無理もない。
結局ハローワークでは、一度も継続的な仕事を得ることは出来なかった。唯一、派遣会社を通じて月に一、二回単発のバイトが舞い込んでくる以外、仕事のない修一は、積極的に家事全般を受け持つようになり、ほぼ専業主夫と化していった。そして段々と日が経つにつれて自分自身の存在に追い詰められていったのである。
「探しても見つからんもんはしようがないだろう」と、開き直ることが出来たならどんなに良かっただろうか。「仕事が見つかるまで俺は専業主夫だ」と、堂々としていることができたなら、それくらいに修一が図太い神経の持ち主であったのなら、それが三人にとっては一番良かったのかもしれない。
しかし実際の修一は、段々と自分を恥ずかしく思う感情を抑えることが出来なくなっていった。日を追うごとに卑屈さを増していく。狭い二間の団地に逃げ場はなく、日々妻子の前で恥ずかしい自分を晒し続けた。恐らく優しいふたりは気を使ったのだろう、そんな修一の惨めさに気付いていない振りを一生懸命してくれていたのだが、その優しさは皮肉にも余計に修一を傷つける事となった。
修一は自分が存在することで、妻子に不快な思いをさせていることを、いつの頃からか自覚するようになった。卑屈さが体に染みついてしまい、真っ直ぐ人の顔を見ることさえ出来なかった。もう取り繕うことすら出来なくなっていたのである。こんな父親と暮らすことが、緑にとってどれほど負担となっていたことだろう。
ハローワークや買い物の行き帰りでは、団地の階段を上り下りしながら、近隣住民との対面を恐れた。まともに対応する自信がなかったのである。平静を装っているつもりでいても、大抵相手に不可解な顔をされる。何か忌まわしきものでも見たが如く、一瞬にして相手の顔色は曇ってしまう。修一は、もう既に自分は人間ではないのかもしれない、と感じていた。人と同じ空間にいることが苦痛で堪らなかったし、人の視界に入るだけでも居心地が悪かった。
気付くとホームレスの群れが動き出していた。代表の説教が終わり、ようやく食事が配られ始めたようだ。修一も慌てて足元の青いボストンバッグを肩に担ぎ、行列に従う。
特大の寸胴が八つ並んでおり、周辺に湯気と旨そうな匂いが漂っていた。頭に赤いバンダナを巻いたマスク姿のおばさんが、丼型の白い発泡スチロール容器におたまでよそってくれる。
この日のメニューは、定番の雑炊であった。様々な野菜と卵が入っている。立ったまま知らない人達と焚き火を囲む。皆、黙々と食べていた。修一はプラスティックの杓文字を口へ運び、手の甲で鼻の下を拭った。――寒いところで暖かいものを食べると、鼻水が垂れてくるのは何故だろう……。顔を上げると、白いものが舞っているのに気付いた。風に吹かれて漂う雪が、あの日の記憶を呼び覚ます。
二月の終わり頃、いつものように杏子はパートへ、緑は学校へ行っており、ハローワークから戻った修一はひとり部屋にいた。
洗濯物を干してしまうと、後はこれといってやることもなかった。何となく習慣でテレビのリモコンに手が伸びる。再放送の二時間ドラマ、時代劇、情報バラエティ、通販、順番にチャンネルを変え続けてみるものの、これといって興味の湧くものはなかった。ザッピング三往復目に、何となく情報バラエティで止めてみる。
また川にアザラシが現れたらしい。
《「ということで今回淀川に現れたアザラシなんですけれども。えー、ところで皆さん、一昨年にもアザラシが発見されたのを覚えておいででしょうか?」
「えっと……やまちゃん……でしたっけ」元水泳選手の女が答えた。
「はーい、そうなんです。えー、映像出ますでしょうか……。えー、はい、こちらが一昨年、大和川に現れた『やまちゃん』ですね。という訳で今回のアザラシは、もしかするとあの『やまちゃん』なのか? 非常に皆さん気になるところですよね。その辺りを当番組で検証してみました。えー、こちらのフリップをご覧ください。二匹の顔をアップにした画像なんですけれども、皆さんから見て右側が『やまちゃん』、そして左側が今回淀川で発見されたアザラシです。どうでしょう皆さん、違いは分かりますでしょうか……」
経済評論家の五十絡みの男が短い首を捻る。「う~ん、微妙ですねぇ」
「髭の辺りに注目していただきたいのですが……」
「あっ、『やまちゃん』の方が多くないですか? 髭の数」元水泳選手の女が声を上げた。
「はーい、実はそうなんですねぇ。ではその辺りについて、本日はアザラシの生態に大変お詳しい関西獣医畜産大学の島木教授に来て頂いております。先生本日は大変お忙しいところご足労願いまして、誠にありがとうございます」
「あっ、どうも」小太りで丸顔の教授が軽く会釈をした。彼自身、何処となくアザラシに似てなくもない。
「一昨年大和川で発見された個体の方はですね、アゴヒゲアザラシでして、まあその名が示すように髭の多いのが特徴なんですわ。一方先日淀川で発見された個体は、ゴマフアザラシのようです。ちょっとこちらの写真では頭の部分しか映っていないので分かり難いんですけれど、背中に胡麻斑と呼ばれる黒いまだら模様があるのが特徴でして……」》
「淀川の『よどちゃん』か……」修一はひとり呟いた。
司会者もコメンテーターも教授も、みんな必要とされスタジオに集っている。彼らにもアザラシにも需要がある。存在価値も存在意義もある。しかし修一には何もない。誰からも必要とされていない。何の付加価値も生み出すことが出来ない存在として、これから死ぬまで恥を晒し続けるのだろうか……。
悲しくなってきてテレビを消すと、部屋の中はまた静まりかえった。なんとなく勢いで炬燵から立ち上がってみたものの、特に目的はない。その場で立ち尽くしてしまう。
――ともかく何かをしなければ……。
この頃、何もやることがないと暗いことばかりが頭を支配し、時折妙な発作に襲われるようになっていた。発作が起こってしまえば、自分が自分で無くなるような混乱した状態に陥り、原因不明の恐怖が体を支配する。一度そうなってしまえば、冷や汗を流しながら身を竦ませ、治まるのを待つ以外に方法はなかった。
しばらくすると発作の前兆と思しき焦燥と不安が、じわじわ頭をもたげてきた。まるでそれらに追い立てられるように、修一は家の中を歩き始めた。気を紛らわそうとしていたのだ。自分の存在が鬱陶しくて堪らなかったが、極力何も考えないように、歩くことだけに集中しようとした。六畳の畳部屋から四畳半の板間を通り過ぎ、玄関の前を横切り、狭い台所を通り抜け、また六畳間へ戻る。グルグルと何回も何回も周り続けた。
スエットの下に着ていたTシャツが汗で冷たくなった頃、無心の反復運動が功を奏したのか、不吉な予感は影を潜めていた。どうやら発作を回避できたらしい。六畳間で修一は肩で息をしながら立ち尽くし、スエットの袖で額の汗を拭った。
――俺は一体何なんだろう?
ふと部屋が薄暗くなったような気がして窓を見ると、雪が降っていた。ガラスの引き戸を開け、流れ込む冷気をその場でしばらく浴びた後、埃の積もった健康サンダルを穿き、ベランダへ出た。所々ペンキの剥げ落ちた手摺を握りしめる。
五階のベランダからは、向かい合う棟の右側に視界が開け、住宅街を見降ろす事ができた。鉛色の空の下、住宅、スーパー、パチンコ屋、アパート、マンション、病院、トタン屋根の自動車整備工場などが立ち並ぶ。遠くの赤い電波塔が雪に霞んでいた。
結婚し、団地で暮らし始めて既に十一年の歳月が流れていた。修一たち家族の生活は年々悪化しているように思われた。
「どうしてこんな事に……」
修一はしばらくベランダで立ち尽くし、ひとつ長い溜息をつくと、重い体を引き摺るように部屋へ戻った。整理箪笥の引き出しから義父に託されていた離婚届を取ってくると、既に記入済みである名前の横に判を押し、書き置きと共に炬燵の上に置いた。
ボストンバッグに衣類を詰め込み、家の中をゆっくり眺めながら歩いた。玄関で靴箱の上に飾ってある写真立てに目がとまる。幼い緑と若い杏子、そしてまだ目に光が宿っていた頃の修一が同じフレームに収まっていた。緑が小学二年生のとき、ゴールデンウィークに家族で行った京都、金閣寺を背景に撮った写真である。抜き出してジャンパーの内ポケットに仕舞った。
埠頭のフェリー乗り場まで一時間程歩き、坂松発神戸三宮行きのフェリーに乗った。それから修一は一週間ほど関西地域を放浪し、ここ大阪へ辿り着いたのである。
修一は雑炊を食べ終えると容器を回収袋へ捨てに行き、すれ違うボランティアの教会関係者に頭を下げながら公園を後にした。
日暮れが随分と早くなっているようだった。天候のせいもあるのだろうが、まだ五時前なのにやけに暗い。ジャンパーの襟を立て、商店街など極力屋根のある所を歩き、風雪を凌ぐ。アーケードの中で女に呼び止められた。マーケティングリサーチの路上アンケートである。十分ほど拘束されて質問に答えると、謝礼として図書カード五百円分を貰った。これを金券ショップで捌けば四百円くらいになる。修一にとって路上アンケートは大切な収入源のひとつであった。
難波に出て千日前通りを歩く。ここは相変わらず平日でも人通りが多い。すれ違う人々は皆一様に白い息を吐き、街路樹を彩る青い電飾が、その寒さに拍車をかけている。
「青さん!」
後ろから声をかけられて振り向くと、横山がカレー屋の前に立っていた。並んで歩く。
「教会の炊き出しの帰りっすか?」
カレーの匂いがした。さっきの店で食べたのだろう。
「うん、まあね」
「俺、あそこは待つのが辛いんで、最近はパスしてんすよね」
横山もまた路上生活者である。年齢は三十三で年下なのだが、この道では大先輩にあたる。大阪に流れ着いてまだ間もない頃に横山と出会えたのは、修一にとって幸運だったのかもしれない。慣れない生活環境に疲れ果て、所持金も殆ど底をつき、茫然自失で街を徘徊していたとき、横山は上の前歯が二本欠けた満面の笑顔で話しかけてきた。
「自分も同じ立場なんで、なんか困った事とかあったら、気軽に連絡ください」
そう言って携帯番号とメルアドを教えてくれた。横山は一目でこちらの境遇を見抜いていたようだ。
しかし修一は、横山が自分と同じ立場だと俄かには信じられなかった。というのも前歯こそ欠けてはいるものの、服装には清潔感があったし、またホームレスには似つかわしくない精神的余裕のようなものを漂わせていたからだ。それ故、最初の頃は横山に対して警戒心を解くことが出来ず、失礼にならないよう気を付けながらも、少し距離を置くようにしていた。
ただそれでも連日のように修一を発見しては、
「どおっすか、調子は」
「ちゃんと飯食ってますか? これ良かったらどうぞ」などと言って、賞味期限が一日二日切れたおにぎりやパンをくれた。そしてこの時、そういった期限切れの食品などを、破格の値段で販売する露店があることを教わった。
次第に打ち解けていったふたりは、一緒に炊き出しに参加したり、行動を共にすることが多くなっていき、この九ヶ月の間、修一は横山から路上生活のノウハウを色々と教わったのであった。因みに路上アンケートで稼ぐ方法も横山から伝授されたものである。
「でもぶっちゃけ、なんだかんだ言っても、見た目が一番大事っすよ、あと臭いも注意した方が良いっすね」
横山曰く、外見や臭い等でホームレスの属性を身に付けた途端、世界の見え方が一変するそうである。つまり逆に言えば世間からの見られ方が変わってしまうのだ。その瞬間、社会は修一たちを異物とみなし始め、排除する方向へ動き出すという。要するに、店で買い物や食事ができなくなったり、図書館などの公共の施設に入れなくなったりして、まともな社会生活を営めなくなるのである。
「飯代と宿代節約しても、定期的な洗濯と風呂だけは死守、これ現代の路上生活においては鉄則っす」
これを疎かにすると、負のスパイラルに巻き込まれてしまい、抜け出すのは難しいと横山は言う。
ふたりは千日前通りを進み、日本橋の交差点で堺筋に入り北上した。道頓堀のでかいカニを横目に見ながら、黒く狭い川を渡り、林立するビルに沿うように黙々と歩いた。
修一は、最前からすれ違うカップルがチラチラとこちらを見ていることに気が付いた。
「ねえ、横山君、……お互い少し離れて歩いた方が良いかもしれない」
「えっ」
「時節柄、誤解を招きかねないからね」
「あっ、今日はクリスマスイブなんすね! この糞寒いのに人出が多いと思ったら、そういうことか」
ふたりは前後に間隔を空けて歩いた。牛丼屋の手前で路地を右へ入る。しばらく進むと、ダークブラウンの巨大な四角い建物が見えてきた。ふたりの歩調も自然と速まる。入口の近くにはいつもの警備員が立っていた。厚手の防寒着を身に付けてはいるものの、剥き出しの顔は寒さで硬直している。鼻の下で光っているのは鼻水だろうか。
ふたつ目の自動ドアが開くと、ふわりとした暖かい空気が頬を撫で、修一は思わず吐息を漏らした。二枚重ねにした軍手を脱ぎ、ジャンパーのポケットに仕舞う。かじかんだ掌を開閉しながら、サーモンピンクのカーペットを歩いた。貸出カウンターの手前で右へ折れ、書架の中を縫うように進みながら、途中で適当に本を選んだ。修一が手にしたのはミクロ経済学の翻訳本。横山は『哲学、思想関連』の書架から出てきた。
ふたりはカウンターから死角となっているソファーに腰を落ちつけると、早速本を開いた。意味不明の専門用語が網膜を刺激し眠気を誘う。
修一たちにとってこの市立鳥之内図書館は、路上生活における重要拠点であった。冷暖房完備、座り心地の良いソファー、さすがに横になることは出来ないが、座ったまま仮眠を取ることが出来た。ごくたまに巡回している職員に揺り起こされることもあったが、そんなときは、本を読んでいたらついウトウトしてしまった風を装えば事足りる。その為に本を開いているのだ。
またこんな芸当が可能なのも横山流『見た目最重要視戦略』の賜物であった。汚れた衣服や臭う体では、入口で警備員に摘まみだされるに違いない。
修一たちはソファーで仮眠をとりながら、冷えた体を温めた。途中トイレを拝借したり、携帯電話を充電したりして、閉館になる午後八時まで、使える物は何でも有効利用させてもらった。
図書館を出ると雪は止んでいた。路地を大通りの方へ戻る。ネットカフェのナイトパック八時間九百八十円は午後十時にならないと始まらないので、それまで時間を潰さなければならなかった。時折吹き付ける寒風に、せっかく補充した体力が奪われていく。煌々と輝く蛍光灯に導かれて、ふたりはコンビニへ吸い込まれていった。
横山が雑誌コーナーに陣取り立ち読みを始めると、修一も横目でおでんの湯気を眺めながら後に続く。何の興味もない車の雑誌を開き、虚ろな視線を漂わせながらただ時が過ぎるのを待つ。
二十分ほどが経過し、雑誌コーナーが学生やサラリーマンで賑わい始めると、横山が週刊誌をラックに戻しながら修一に目顔で合図し、ふたりは店を後にした。込み具合などによって臨機応変に対応するのが、店側に睨まれない為には重要らしい。そしてまた次の店を探しながら歩いた。
「明日からガッツリ稼ぎたいっすね」
五件目のコンビニを出てネットカフェへ向かう途中、横山が言った。
「そうだね。とりあえず晴れれば良いけど」
ふたりは空を見上げた。
翌朝六時にネットカフェを出ると、ふたりは歩いて新今宮駅へ向かった。薄暗い靄の中に通天閣の影が浮かんでくる。駅前の広い歩道にはゴミが散乱していた。所々、道路標識と街路樹の間にロープが張られ、洗濯物が干されていたり、青いビニールシートで覆われた立方体が点在していたりして、路上生活の痕跡を窺わせる。
中には既に商売を始めている人もいた。歩道の隅で、消費期限切れのコンビニ弁当がビニールシートの上に並べられており、概ね、消費期限一日切れが百円、二日切れが五十円といった具合であった。
修一は一日切れの牛カルビ弁当を手に取り、錆びたパイプ椅子に座る赤茶けた顔の男に百円を手渡した。その緑のジャンパーに黒いニット帽の男は、一見初老のようでもあり、しかし見ようによってはまだ五十くらいかもしれなかった。横山はしばらく悩んだ末に、百円の幕の内弁当を購入した。因みに修一たちは一日一食を基本としているので、これがこの日唯一の食事という事になる。
再び長い直線の歩道を歩きだすと、前方にリヤカーを引いた二人組が見えた。合流するとやはり彼らは顔馴染みの拾い屋であった。リヤカーには大量の雑誌が載せられている。連中が駅のホームや車両内、ゴミ箱などから拾い集めてきたものだ。
「少なくとも五百以上はありますよ」拾い屋のひとり、背が高く痩せてひょろ長い顔をした男が言った。きっと彼がリーダーなのだろう。リヤカーを引いていた小柄で丸っこい男は疲れたのか、金網に背を凭せ掛けしゃがみこんでいる。
横山はしばらく雑誌の山を眺めていた。
「まあ大体そんなところかな」
財布から千円札を数枚つまみ出し、リーダー格の男に渡す。
男は長細い体をくの字に曲げながら、その骨ばった赤黒い指で紙幣の枚数を二度繰り返し確認した。「五千円、確かに」
横山が錆びた梶棒を潜り、リヤカーを引き始めた。修一も後ろから押して加勢する。軋んだ音を響かせつつ動きだしたものの、異常に重い。タイヤを見ると潰れていて、空気が入っていないようだった。
しばらく進んだところで、ふたりは歩道に適当なスペースを見つけてリヤカーをガードレールに横付けした。放置自転車を脇へ寄せて更にスペースを広げると、そこへ青いビニールシートを敷いた。週刊誌、月刊誌、漫画雑誌など種類ごとに分類しながら、その上に並べていく。
気配を感じて顔を上げると、薄明の中を焦げ茶色に日焼けした老人がペダルをきしらせながら現れた。空き缶で満たされたゴミ袋を前後に三袋ずつ固定した自転車が、目の前の歩道を通り過ぎていく。
横山が段ボール紙に赤マジックで『一冊五十円』と馬鹿でかく書き殴り、車道を背にしてガードレールに立て掛けた。
七時頃、日雇労働者風の五十がらみの男が、何やら険しい顔をしてぶつぶつ言いながらやってきた。彼は恐らく仕事にあぶれたのだろう。まだ雑誌の分類をしていた修一に無言で五十円玉を突き出すと、漫画雑誌を持っていった。これを皮切りに、ポツリポツリと雑誌は売れ始めた。七時半から八時にかけては人通りがピークで飛ぶように売れた。労働者は勿論のこと通勤通学途中のサラリーマンや学生も買っていった。
「今日はいいペースで売れていくね」
「天気が味方したんすかねえ」
風は殆どなく、日差しも出てきていたので凌ぎやすい。何とか売り切りたいものだ。この仕事は二日間の予定であった。一冊十円で仕入れた本を五十円で売る。五百冊売り切れば、二万円の利益。一人当たり日当五千円になる。
人通りが落ち着いた頃、修一は店番を横山に任せ、用を足しに駅へと向かった。腕時計を見ると十時を少し回ったところ。歩道の露店の数は増えていた。
駅構内でトイレを拝借し人心地付くと、修一はのんびり露店を眺めながら歩道を歩いた。青いビニールシートの上に明らかに違法コピーと思われる五百円均一のエロDVDが並べられている。パッケージを手に取り、しばし眺めてから元に戻す。
次いで修一は隣のカオスの如き空間の前で足を止めた。小さなちゃぶ台が二つ並べられ、その上に何の統一性もない品々が無秩序に散乱している。修一はそれら一つ一つを左上から順番にじっくり観察した。この手のミステリアスな雑貨屋を覗くのが、ここ最近の密かなマイブームになっていた。
そんな店でも、一個一個値札だけは確りと付けられていた。段ボールなどの厚紙やビニールテープにマジックで数字を書き込んでいる。どこで仕入れたのか久しく見かけない赤い公衆電話が千八百円、扇風機六百円、蚊取り線香百円、釣りのスピニングリール五百円、見た目で食欲をなくさせる古い炊飯ジャー三百円、未開封の糸ノコギリ六百円、自転車のタイヤチューブ千円、用途不明のリモコン百円、二十円の値札がつけられた『ギザ十』、使いさしの百円ライターがガスの残量に応じて十円から五十円、同じく使いさしのオロナインH軟膏百円、消費者金融のポケットティッシュ五円、輪ゴムで束ねられた二、三十本の吸殻が五十円、ブルーベリージャムの空き瓶に煙草の葉っぱだけを詰め込んだものが二百円(恐らく吸殻を解して集めたのだろう)。
隣のちゃぶ台を探すとパイプが一本百円で売られていた。――夕方までは殆ど客も来ない。暇つぶしに丁度良いかもしれない。
籐椅子に座ったおばさんに四百円を渡し、瓶詰めの煙草とパイプ二本を買った。
ようやく戻った修一を、段ボールの上に胡坐をかいた横山が見上げた。
「大っすか?」
「いや、帰りに買い物をしていたんだよ」言いながら修一は煙草の詰まったジャムの瓶を渡した。「これお土産」
「何すかこれ?」横山は訝しげに瓶と修一を交互に見た。
修一は横山にパイプを渡しながら隣に腰を降ろした。早速ふたりは煙草を試してみる。
「俺パイプとか使うの初めてっす」
「僕もだよ」
瓶の蓋に少し葉っぱを移し、それを指で摘まんでパイプに詰め込んでいく。
「まあこんなもんかな」
ライターで炙って、恐る恐る吸ってみた。
「うん……、普通の煙草と比べても特に遜色はないね」
「そうっすね、いけますね」隣で横山も煙を吐きだす。「あっ、ちょっとメンソールっぽい」
「色んな銘柄が混ざってるんだよ。だから毎回味が違うと思う」
「あ~、なるほど」
正午を過ぎると人通りが少し回復した。近くで働いている人達が昼食をとりに出ているのだろう。ポツリポツリと本が売れる。しかし一時を過ぎるとまた人通りは途絶えた。そこでふたりも食事を取ることにした。
冷えた牛カルビ弁当は、ご飯が堅く、肉の脂も白く固まっていたが、特に品質に問題はなさそうだった。きっと温めることが出来たら、もっと美味しく食べられたことだろう。修一はゆっくりと時間をかけて咀嚼した。飯粒と唾液が混じり合いペースト状になって喉に流れ落ちるまで噛み続けた。一日に一度の食事である。それを最大限楽しむために、味覚をなるべく長く感じていたかったし、また時間をかけて食べたほうが満腹感を得られるのである。
飯が終わるとまた煙草を吸った。微妙な味の違いを楽しみながら、立ち上る紫煙を眺めた。隣を見ると、横山が漫画雑誌を読みながら、まだ幕の内弁当をつついている。高くなった日差しが体を温めるせいもあってか、少し眠くなってきた。欠伸をしながら立ち上がり、軽く柔軟体操をする。客はしばらく来ていなかった。修一は本を売っている時のこういう退屈な時間が割合気に入っていた。
携帯の着信音が短く二度鳴った。ジャンパーの内ポケットから携帯を取り出し、メールの内容を確認する。
携帯が相変わらず使えるということは、修一が家を出てからも杏子が律義に料金を払い続けているのだろう。有難い話ではあるが、何だか申し訳ない気もする。お金に余裕が出来たら仕送りしようと考えていた。
横山が雑誌から顔を上げた。「仕事関係っすか?」
「……いや、ただの迷惑メールだよ」嘘だった。
「そういえば青さん、路上に出る前はどんな仕事してたんですか?」
「えっ?」修一は予期せぬ質問に一瞬戸惑い、答え方に迷った。「いや、僕は……まあ主に非正規を転々と……」答えてから、間の抜けた微笑を浮かべている自分に気付き、顔が熱くなるのを感じた。
「横山君は?」
相手から先に訊かれたことで、ようやく修一は以前から気になっていたことを訊くことが出来た。
「病院の事務員です」雑誌に目を落としながら横山が答えた。
目の前の歩道を自転車が横切り、逃げるように鳩が飛んでいった。その後ろ姿は朝見かけた老人かもしれなかった。あの大量の空き缶はいくらになったのだろう。背後の国道を大型重機が通過し、地面が揺れた。
ふたりは主に煙草と雑誌で午後の退屈な時間を潰した。日が陰る頃になると少しずつ歩道も賑わいを取り戻し、またポツリポツリと本が売れていった。夜は風が出てきた。ジャンパーの襟を立て、軍手を二枚重ねにして寒さを凌ぐ。
午後九時半に店仕舞いをした。この日だけで半分以上は売れているようだった。残りの本をリヤカーに戻すと、上からビニールシートを被せてロープでグルグル巻きにし、それを街路樹に固定した。それからふたりはまた前日のネットカフェへ向かった。
翌日も天候に恵まれ、また同じ場所で本を売った。結局、汚れていたり破れていたりする物、雨に濡れてふやけている物など二十冊ほど売れ残ったが、二日間で粗方売り切ることが出来た。
それからもふたりは積極的に働いた。雑誌を売る意外にも色々な仕事をした。例えば、夜中から並んでスポーツ観戦やコンサートのチケット、大型電気店の格安でパソコンが買える券などを手に入れる、ダフ屋を経由した並びのバイト。その他にもピンクチラシのポスティング、風俗や個室ビデオの看板持ち。また前述した路上アンケートや献血で貰った図書カードを換金したり、デパートの試食コーナーを梯子して食費を節約したりもした。
手配師経由の日雇いもたまにやったが、これは割に合わないものが多かった。結局は足元を見られてしまうのだ。やれ弁当代だのガソリン代だのロッカーの使用料だとか言っては、不当に天引きされてしまい、殆ど手元に残らないということがよくあった。また作業内容の嘘も多い。手配師側にしてみれば、「現場に連れて行けばこっちのもんだ」という考えがあるのだろう。
とにかく冬場は、野宿を避けるために必死で宿代を稼がなければならなかった。




