二章 変転
――杏子と緑へ
僕はもう、人間として限界のようです。これ以上、君たちに迷惑はかけられません。今まで本当にありがとう――
修一が書置きを残し、姿を消したのは、二月の終りのことだった。あれから九ヶ月が過ぎたが、未だに連絡はなく、行方は分からないままである。
緑たちは修一の失踪後しばらくすると、杏子の実家、赤木慶一郎の元に身を寄せることとなった。元々杏子一人のパート代では生計が苦しく、あのまま暮らしていたのでは、緑の高校進学すら叶わなかったかもしれない。
「お爺ちゃん、おはよう」
あの日、威勢の良い啖呵を切ってしまった手前、当初祖父との暮らしは気まずいものであったが、経済的に凭れかかっているという負い目が、徐々に緑の態度を改めさせた。
「おい緑、時間は大丈夫なのか。もう七時半をまわっとるぞ」
慶一郎にしてみても、あの頃は一時的な反抗期として処理されているのだろう。特別、根に持ってはいないようだ。
「うん、まだギリ大丈夫だよ」
「朝食は摂らないつもりなのか」
「ゴメン、ちょっと無理かも」
「じゃあ、わしが駅まで乗せてってやるから、車の中でパンだけでも食べていきなさい」
ただ正直に言えば、内心では慶一郎に対し、反吐がでるほどウザいと思うことが多々あった。しかしその気持ちを心の奥底へと仕舞い込み、表沙汰にすることがなかったので、今のところ割合良好な関係が続いているのである。
大型の黒いセダンが時折タイヤを軋らせながら坂道を下っていく。元警察官僚の癖に法定速度をあまり気にかけていない慶一郎のお陰で、緑は余裕を持って最寄駅に到着することができた。車から降りると十二月の寒風が首に巻き付いて、マフラーを忘れたことに気付かされた。
改札を潜り三番線上りホームへの階段を昇っていると、背後から甲高い声が聞こえてきた。
「緑ー!」
何故、朝一からそんなにハイテンションなのだろう。血圧が高いのであろうか。そのうちポックリ逝ってくれるかもしれない。
「あっ、広美、おはよう」クラスメイトを無視するわけにもいかず、緑は低血圧の体に鞭打ち、極力明るい声を出す。
ホームで隣に並ぶと、やや小柄な及川広美が何故かじっと緑の顔を見つめてくる。思わず反射的に睨み返しそうになるが、何とか己を抑制し目を泳がせた。
「何か付いてるよ」広美が緑の顔を指差す。
指で拭うと苺ジャムが顎に付いていた。さっき車の中で、トーストに塗って食べたのだ。
「ねえねえ、今の人誰?」
「えっ」
「レクサスで送ってもらってた人、緑のパパ?」
この女の言う『パパ』は、本来的な父親を指しているのか、若しくはパトロン的な意味合いなのか? 因みに慶一郎は七十を超えている。シバきたい気持ちを押し殺し、
「違うよ、お爺ちゃんだよ」頬を引き攣らせながらも緑は陽気さを装って答えた。元来緑は、父親を『パパ』などと呼ぶ軟弱な女も気に食わないのだ。
電車が到着し二人は乗り込んだ。込み合う車両内でも広美はどうでもいいことを延々と喋り続ける。
「レクサスか~、いいなあ~、うちなんか二台とも軽四だからね」
「お爺ちゃんが車好きなだけ。うちもお母さんは軽だよ」
「お爺様、社長かなんか?」
「違う、違う。だいぶ前に定年退職して今は年金暮らしだって」
及川広美とは、十月に行われた体育祭の実行委員を一緒にやったのがきっかけで喋るようになった。以来、何かにつけて絡んでくる。正直言うと面倒臭かったが、これもひとつの修行だと思って緑は割り切ることにしていた。日々の鍛錬によって、今では笑顔を交えた自然な受け答えができている筈だ。教室でも微笑みを絶やさぬよう気を配っている。たまに何かに集中していると、「顔恐いよ」と指摘されることもあるが……。
修一の失踪を切っ掛けとして慶一郎の家へ身を寄せる事となり、結果的にスラムのような団地を抜け出し、閑静な高級住宅街で暮らす事となった緑は、この生活水準の飛躍的向上と高校進学を機に、それまでのキャラクターから脱却しようと目論んでいた。
緑自身、中学時代、何もすき好んで悪ぶっていた訳ではなかった。団地には団地の文化があり、最初はそれに適応するための処世術のようなものだった。郷に入れば郷に従え、である。しかしどういう訳かその道の才覚があったようで、気が付くと地域の不良を束ねているみたいな感じに、不本意ながらもなってしまっていただけなのだ。そんなこと全く望んでいなかったのに。
それでも幼い頃から、貧乏なくせに両親が異常なほど教育熱心だったこともあってか、緑は悪ぶりながらも密かに勉強が好きだったので、授業中気だるそうに頬杖をつきながらも、きっちり授業内容には耳を傾けるという特殊技能を身に付けていった。その為か学業成績も極めて良かったし、高校は県内随一の進学校へ入学できたのである。
ただ高校にも同じ中学の生徒が少人数ながら居たので、裏で奴らには「瀬戸内海でアナゴの餌になりたくなかったら、余計なことしゃべるんじゃねえぞ」と因果を含めておいた。
中にひとり「アナゴとは一体どういった魚でしょうか?」等としつこく聞いてくるガリ勉のオタクがおり、思わず手が出そうになるのを必死でこらえ、わざわざパソコン室に連れていきGoogleで画像検索してやったりもした。奴の満足そうな横顔を思い出すと今でも鳥肌が立つ。
そんな涙ぐましい努力の甲斐もあって、貧乏ヤンキーから清楚なお嬢様キャラへの転身は着々と進んでいた。
金曜の夜中、二階にある自室で、翌週から始まる期末テストに備え数学の問題集を解いていると、階下から玄関のドアを威勢よく開閉する音が聞こえてきた。
階段を降りると、玄関先で杏子が体を捩じるようにして横たわっていた。
「お母さん、そんなとこで寝てたら風邪引くよ」肩を貸して抱き起こす。左だけハイヒールを履いたままだったので脱がせた。彼女の体からはいつものように酒と煙草の匂いがした。
慶一郎の家に移り住み、その潤沢な公務員年金の恩恵に与り始めると、直ぐに杏子は物流センターのパートを辞めた。それから最初の半年程は彼女も、久し振りに得た有り余る時間を謳歌していたようであったが、次第に自由すぎる環境を持て余し始めたようだ。目的のない空疎な生活の中で徐々に煮詰まってしまったのだろう。結局ひと月ほど前から知り合いの伝手で週三日、スナックの雇われママをするようになった。
緑は杏子を一旦リビングのソファーまで運ぶと自らはキッチンへと向かった。
「緑ごめーん、お水ちょーだーい」カラオケで歌い過ぎたのか、それとも酒やけか、背後から杏子が掠れた声を上げる。緑は冷蔵庫からエビアンのボトルを取り出しながら、曖昧に返事をした。
「そんなに飲まなきゃいけないもんなの」グラスを差し出すと、ソファーの上で杏子はゆっくり体を起こした。
質問には答えず、「ごめんね、ありがと」言いながら受け取ると、一息に飲み干した。
「こんな生活してたら体壊すよ」
「そうね……」杏子は力なく呟き、しばらく空いたグラスを見つめていた。「最近私、混乱しているの」
「そりゃあ色々あったから、分かるけど」
緑は杏子の部屋まで付き添って、彼女がベッドに入るのを見届けると、自分も部屋に戻り床に付いた。
「ごめん、そこのジャム取ってくれる」
「ん? どっち? こっち?」
「うん、そっち」
翌朝十一時頃、緑は杏子とリビングで遅い朝食を摂っていた。土曜はゴルフの日だそうで、この糞寒いのに慶一郎は朝早くから出かけている。
「ねえ緑、お父さんが工場で事故の責任なすり付けられたときにね、予想していたより比較的軽い罪で済んだでしょう」
トーストにマーマレードを塗りながら、唐突にそんな事を言い出すので、思わず緑は母親の顔を覗き込んだ。「えっ、うん。でも、元はと言えば濡れ衣なんでしょ」
「そう、そうなんだけどね……」杏子はバターナイフの動きを止めた。「実は裏でお爺ちゃんが手を回していたらしいの」
「え~! どういうこと」
杏子はこめかみを指で押さえながら顔を歪める。「二日酔いで頭痛いんだから、そんな大きな声出さないでよ」
杏子によると、慶一郎は警察官僚時代の人脈を使って、修一の刑が軽く済むよう奔走していたらしい。警察関係者の客がそんな話をしているのを店で聞いてしまったのである。
「それって何か意外だね」
あんなに親父を責め立てていたのに、人格を全否定するような言い草だったのに。
「まあ、私やあなたの事を案じたんだとは思うけど……」
「なるほど、娘と孫の為に仕方なくか」緑はスクランブルエッグをスプーンで口へ運んだ。
「でもこの話聞いたとき、急に何もかもが虚しくなったっていうのかなぁ、もうどうにでもなれって感じになっちゃって」
「えっ、なんで?」
杏子はトーストをかじり、「だって修一さん、何もしてないんだもの」咀嚼しながら答えた。
「でも実刑とか食らうよりマシじゃない? 不幸中の幸いみたいな」
「違うのよ」杏子はコーヒーを一口飲んだ。「そりゃあ、お爺ちゃんが私や緑を思ってくれるのは有難いことかもしれないわ。けど、そんなことが出来てしまう世の中自体、やっぱり何かおかしいでしょ。争点がずれていて馬鹿馬鹿しいというか」
ゆっくりソーサーにカップを戻すと、グラニュー糖を追加した。
「そもそもが、やってもいないことなのよ。それを人脈使って減刑するって、何なの?」杏子は首を傾げながら肩をすくめた。「本質とは別のところで世の中が動いているみたいで、気持ちが悪いわ」
緑は味のしないスクランブルエッグに塩を振りかけた。杏子の気持ちも分からなくはなかったが、今更社会に公正さを期待するのは難しいように思われた。
「まあ確かに訳の分かんない世の中だよね」
「余りにも世の中が複雑になり過ぎたのかもしれないわね」
複雑でなかった頃を知らないが、切実な母の声を聞いていると、緑自身そんな気がしてきた。「そうかもね」
「修一さんみたいな人には生き難い時代よ。あの人不器用だから、正義感強いんだけど、それに自分自身が押し潰されちゃうのよね、きっと」
「いたたまれなくなったのかな、親父」
結局あの家族会議では、緑の活躍もあってか両親の離婚は回避できた。
しかし修一は毎日のようにハローワークへ通っていたものの、いつまで経っても継続的な仕事に就くことは出来なかった。たまに月に一度か二度、単発の派遣があるくらいで、ほとんど毎日家にいた。何かに追い立てられるように必死でやることを探して、いつも率先して家事をやっていた。狭い家の中で、気恥ずかしそうに顔を背けて。
緑自身、そんな修一を見ているのは辛かった。
「……ねえ緑」
前を見ると杏子が俯いて洟を啜っていた。「あの人、何処行っちゃったのかしら」
あまり聞いたことのない母の声音に、緑は動揺した。




