十一章 業務
網戸越しに空が白み始めていた。築四十五年、家賃三万二千円の木造二階建てアパート、その二階の角部屋で修一は座卓を前に胡坐をかいている。短くなったマルボロメンソールをアルミ灰皿に捻じ込み、再びノートパソコンに目を戻した。画面右下の時計を見ると、四時五十五分。指先で畳のささくれを弄びながら、原稿に目を通していく。
昨夜、法務関係の責任者である元弁護士の山岡から、近々条例が改正されると連絡があった。セキュリティー業務を担当する修一は、警察の動向は勿論のこと、法律や条例の改正にも常に目を光らせていなければならない。地下鉄で梅田の事務所に赴き、深夜まで山岡と対策を練ったのだった。それからひとりアパートに戻った修一は、暫定的な対応策を業務マニュアルに組み込んでいたのだが、つい夢中になりまた徹夜をしてしまったのである。
原稿の最終確認を終え、印刷ボタンをクリックする。座卓の横でエプソンのプリンターが唸りを上げ始めた。
修一は煙草に火を付け一息つくと、鍵束を掴み立ち上がった。玄関で裸足に健康サンダルを突っ掛けて、咥え煙草でドアを施錠した。煙が充血した目に沁みる。カラカラと靴音を響かせながら廊下中程にある共同便所へと入っていく。
一瞬の外出でも鍵は必ず掛けるようにしていた。万が一にも組織に関する資料を他人に見られる訳にはいかないというのもあったが、理由はそれだけではない。
当局に金の流れを掴まれるのを警戒し、組織は報酬を全て現金で支給した。しかしその中から修一が月々使うのは、三万二千円の家賃を含めても十万に満たなかった。組織の他の幹部はこぞって高級車を購入したりして、自己顕示欲を満たしていたようだが、修一は元来車に興味がなかったし見せびらかす相手も居なかった。またこの歳になって今更女遊びがしたいでもなく、高い酒が飲みたい訳でもない。むしろ、歓楽街などでやたらと散財したがる若い掛け子の連中を、セキュリティーの観点から目立つ行動は慎むよう諌める立場でもあった。修一の嗜好品は唯一煙草くらいのもので、最近カートン単位でまとめて買うようになったが、贅沢といえばそれくらいの事だろうか。そんな慎ましい生活を送っていたため、給料の大半を紙袋に包んだまま部屋に置いてあったのだ。
修一は年季の入った卵形の小便器に向かって放尿しながら、正面の窓から差し込む朝日に顔を顰めた。今日もまた暑くなりそうだ。下から芳香剤の臭いが立ち上ってきた。
部屋へ戻ると、プリンターがカタカタ音を立てながら、まだA4の用紙を吐き出し続けていた。窓を施錠し、レースのカーテンを閉める。小型の冷蔵庫からボトルを取り出し湯呑に注ぐ。昨夜作り置きしておいたウーロン茶である。修一は湯呑片手に狭い部屋をうろついた。そしていつものように押し入れの前で徐に足を止め、そっと手を伸ばして襖を半分ほど引き開けた。
五箱パックのボックスティッシュをずらすと、四つの白い紙袋が姿を現した。修一は小さく息をつき、茶を啜った。奥の三つ重ねてあるのが手付かずの千五百万。手前のは最初に貰った給料袋で、ここから日々の生活費を賄っている。
最初に金を手にした日のことを思い出す。一度にあれだけの額を目にしたのは初めてだった。四畳半の畳部屋で、座卓の上に輪ゴムで雑に束ねられた五つの札束を並べ、思わずひとり小躍りしたものだ。しかしその一方では、穢れた金を前に浮足立つ己の姿を、冷やかに背後から見詰めるもうひとりの自分も次第に意識され始め、札束を見る目は徐々に生気を失っていったのだが、ただそれでもなお、自らの意思に反して自然とにやけてしまう口許だけは、どうしても抑えきることが出来なかった……。
修一はボックスティッシュを元の位置に戻し、襖を閉めた。静かになった部屋で、刷り上がった五十枚ほどの原稿をプリンターから取り出しWクリップで留める。データの入ったUSBメモリをノートパソコンから抜き取り、書類と一緒にブリーフケースへ入れた。青い半袖のワイシャツと紺のスーツ用パンツに着替えてアパートを出た。玄関のところで最近たまに見かける白髪混じりの女が掃き掃除をしていた。
「お仕事ですか?」女がやや面長な顔を綻ばせた。
「ええ、まあ」
作り笑顔で答えると、歩いて地下鉄本町駅へと向かった。
梅田で電車を降り、ダンジョンの如き地下街を五分ほど彷徨い地上に出た。排ガスの混じった生温かい空気が体を包む。そびえる豪奢な高層ビルを仰ぎながら大通りをしばらく歩き、脇道へ入った。両側に、居酒屋、スナック、風俗などの入った雑居ビルが立ち並び、狭い路地には猥雑な空気が漂っている。修一は路地の中程にあるビルのひとつに入って行った。エントランスでエレベーターを待つ。一階がもつ鍋屋、二階が雀荘、三階が空き店舗で、四階と五階を組織が借りている。
五階に着いて、部屋のインターホンを押して待っていると、ハンズフリーイヤホンを装着した佐田がドアを開け修一を出迎えた。五階は佐田専用の居住スペースも兼ねた仕事部屋であった。廊下を通って奥へ向かった。二十畳ほどの事務室は物が少なく閑散としている。佐田は三台のモニターが並べられた窓際のデスクに一旦戻ると、通信相手との話を切り上げた。
「随分早いな、また徹夜したのか」佐田がイヤホンを外しながら立ち上がった。
「ええ、まあ、大体そんなところです」修一はブリーフケースからマニュアルとUSBメモリを取り出し、佐田に手渡した。「与えられた仕事には全力で取り組む質で」
佐田は早速マニュアルに目を通し始めた。「頑張ってくれているみたいだが、余り無理はせんでくれよ。体を壊したら元も子もない」顔を上げ修一を一瞥した。「今じゃうちの大事な戦力なんだから」
修一は促されるままに、壁際の四人掛け応接セットのソファーに腰を下ろした。ぐるりと部屋を眺めると、デスク以外ではこれが唯一家具と呼べるものかもしれない。佐田はデスクに座ってマニュアルをチェックしている。
ソファーの背凭れに体を預けると汗に濡れたワイシャツがヒンヤリしていた。空調が効き過ぎているのか少し肌寒いくらいだ。
「特に問題はないようだ」
顔を上げると、佐田が早足でこちらへ歩いてくる。
「最新版のマニュアルとしてサーバーに上げといたから、みんなにも伝えといてくれ」言いながら佐田はUSBメモリを差し出した。
事務所を出ると埃っぽい路地に熱気が澱んでいた。ゴミゴミした道をまた戻る。空調の効いた室内との寒暖差の為か、体がふわふわしていた。大通りへ出ると修一は顔を顰めながら前方を仰ぎ見た。林立する高層ビルが鏡のようになって日差しを散乱させており、寝不足の目には些か堪えた。地下鉄へは向かわず歩道を北上した。
大阪駅一番線のホームで電車を待ちながら、携帯で各店舗のリーダー宛てにメールを送った。環状線内回りに乗る。九時三十五分、朝のラッシュも終り、乗車率は六割といったところだろうか。修一はドアの前で手摺に捕まり、過ぎゆく街を眺めた。凸凹と不揃いな大小のビル、マンション、住宅が車窓を通り過ぎてゆく。それらは真新しいもの、老朽化しているもの、建てられた時代も色合いも様式も不揃いで混沌としていたが、所狭しと犇めき合い、みっしりと機能的に凝縮しているようでもあった。
弁天町で下車した修一は南口改札を通過し、二階に架かる地下鉄との連絡通路を歩いて中央大通りの上を渡った。駅を出て、そのまま路地を南に入り、パチンコ屋の前を左に曲がる。住宅と店舗の入り混じるアーケードのない商店街を進んでいく。歩きながら修一は携帯を取り出した。
――新着メール 二十三件
了解です。
了解です。
了解です。
……
各店舗のリーダーからの返信であった。
三ブロック程歩いたところで修一はベージュの五階建てマンション、『レジデンス市岡』へ入って行った。オートロックのエントランスで部屋番号505を呼び出す。インターフォンのカメラを見詰めながらしばらく待っていると、「お疲れ様です」男の声で返事があり、ドアが開いた。
五階でエレベーターを降りると緑のTシャツに短パン姿の西田が出迎えてくれた。彼はここのリーダーを任されている。
「どう、順調?」
並んで廊下を歩く。
「ええ、特に問題なく」西田は二十代後半にしては、やや額の後退しすぎた老け顔で、儀礼的な笑みを浮かべた。
修一はセキュリティーに不備がないか抜き打ちでチェックするため、ほぼ毎日一店舗ずつ、ランダムに顔を出すようにしていた。
因みに万が一の事態に備えて、これら店舗の契約者には、二万円で名義を借りた、組織と接点のない生活困窮者(名義人役者)を立ててあった。更に念には念を入れ、二ヶ月毎に引っ越しをするよう各リーダーに義務付けてもいた。
「新しいマニュアル見てくれましたか?」
「今ちょうど見てたとこなんですよ」言いながら西田がドアノブを引いて、修一を先に部屋へ通した。玄関で靴を脱いでいると奥から話し声が聞こえてきた。フローリングの廊下を進むに連れて、その内容が明確になっていく。
「こちらもまだ若い女性ですから、わざわざ裁判沙汰にして事を荒立てるのは避けたいようですし」
途中から泣きじゃくる男の声が混じる。
「是非その辺の事情も察していただいて――」
修一はドアの前でしばらく佇んだ後、音を立てぬようゆっくりドアノブを回して引き開けた。二十帖程のフローリングには男が六人。事務机の前に座る三人がこちらに気付いて、黙ったまま会釈した。
一方部屋の奥では、グレーのVネックTシャツにデニムの短パンを穿いた短髪の若者が、長身の男から手渡された携帯を握りしめ、
「母さん御免、俺どうかしてたんだ。何でこんな事をしでかしてしまったのか、自分でもよく分からないんだよ」今にも泣き出しそうな顔で声を絞り出している。「最近ずっと深夜まで残業続きで……、今朝も電車の中で頭がぼーっとしてたんだ。気が付いたときには誰かが俺の手首を掴んでいて……」
そこまで言うと若者はまた嗚咽を漏らして泣きじゃくりながら、黒いポロシャツを着た小太りの男に携帯を渡した。
「あっ、お電話代わりました。私、大阪府警察本部鉄道警察隊の棚橋と申します。……ええ、ええ……、まあまあ、お母さん、ともかく一旦ちょっと落ち着いてください」
事務机に座る右端の若者が口許を歪め、俯き気味に笑いを噛み殺している。
「そんなことを言われましてもねぇ、現に私がこの目で息子さんの犯行を確認して、現行犯逮捕しとるんですから、言い逃れできませんでしょう」
電車の到着を知らせるアナウンス、人々の行き交う足音や微かな話声などが、その場に居合わせているかのような臨場感で室内に響いていた。地下鉄難波駅で録音してきたものを部屋の四隅に置かれたスピーカーから流しているのだ。
「まあしかし本人も非常に反省しておるようですし、我々鉄道警察としましてもね、被害者側が告訴を望んでおられないものを無理やりどうこうしようとも思っとらんですから……ええ、ええ、まあその辺の事はまた相手側の弁護士さんと代わりますんで、十分に相談していただいて……」
警察役と思われる小太りの男は額の汗をハンドタオルで拭いながら、最初の長身の男に携帯を戻した。
「もしもし、お電話代わりました。……ええ、ええ、はい……そうですね、やはりそういうことになるとは思います……はい。……まあ、そうですねぇ……示談金で相場なんて言い方をしますと、妙に聞こえるかもしれませんけれど、でもやっぱり私の経験上言わしてもらえば、娘さんの年齢や家柄である程度は決まってくるというのが実際のところですかねぇ」
弁護士役と見られる長身痩躯の男が事務机の方に目配せし、右手で空中に物を書くような仕草をした。すると一番左に座っていた眼鏡を掛けた真面目そうな若い男が立ち上がり、背後のホワイトボードの前でマジックペンを片手に身構えた。
「まあ、今回の場合ですと、三百万くらいが妥当なラインではないかと思うんですがねぇ」
既にそこには名前や住所、息子の勤め先と思われる会社名などが書かれており、その下に三百と書き加えられた。
修一はそっと静かに部屋を出た。特にセキュリティー面で問題はなさそうであった。それから西田と共に別室へ移り、次回の引っ越しの段取りや注意事項について、二時間余りかけて綿密な打ち合わせをした。そして最後に、マニュアルの更新内容をメンバー全員に確り落とし込んでおくよう釘を刺してから、修一は店舗を後にした。
炎天下を蝉の声を聴きながら駅へ向かって歩いていると、不意に眩暈に襲われた。朝からまだ何も食べていなかった事にようやく気付いた修一は、弁天町駅前のマクドナルドで、チーズバーガーを二個食べ、コーラを飲んだ。
それから地下鉄中央線に乗った。乗客は疎らであったが、修一は車両内を歩き、中でも特に人の少ない場所を厳選してシートに腰を下ろした。先程店舗で見た光景に思いを巡らす。毎度の事ながら掛け子の迫真の演技には圧倒されてしまう。歩合制なので皆必死なのだろう。
彼らは組織の主催する研修を経て、各グループに振り分けられていたが、研修を受けた者全員が主要メンバーになれる訳ではなかった。研修は一週間ほぼ監禁状態で、騙しの電話のテクニックなどを叩きこまれるのだが、掛け子業務は声質や臨機応変な対応が出来るかなどの適性があり、三分の二ほどは途中で淘汰されてしまうのだ。つまり彼ら現場要員は、ある意味精鋭達なのであった。
一方、途中で振るい落とされた者達は、一旦仲介業者を経由し、また別の詐欺組織に売り渡される。そこで彼らは、捨駒的役割で逮捕リスクの高い、詐欺用携帯、口座、店舗などの名義人にされたり、出し子業務に回されたりするらしい。
こういった研修は至る所で開催されており、参加する者の素姓も様々であったが、負債を抱え闇金業者に連れて来られた人、訳あって一般社会からドロップアウトした人など、やはり何かしらのペナルティーを抱えた者が多いという。
修一は組織中枢で働くようになって、その全体像を知るに付け、この詐欺ビジネスというものが驚くほど巧妙に組織化、システム化されていることに驚かされた。その徹底した管理体制は表社会の優良企業にも引けを取らないだろう。捨てる人材と守る人材を明確に線引きし、組織の上層部は何があっても絶対に捕まらないようにするのが至上命題であった。
また上下の階層構造もさることながら、横の繋がりである外部協力業者の存在も大きい。先程の店舗のホワイトボードに書かれていたターゲットの個人情報は、名簿屋から仕入れたものだが、彼らは住所や電話番号は勿論のこと、資産状況や家族構成、子供の勤務先なども調べ、詐欺のターゲットとして成功率の高そうな案件を抽出し、リスト化して販売している。他にもトバシ携帯や架空口座を扱う道具屋、赤木のような捜査業況をリークしてくれる情報屋、詐欺のシナリオを販売する台本屋、研修を請け負うコーチ屋などがいて、詐欺組織と持ちつ持たれつの関係を築いている。
『オレオレ詐欺』などと呼ばれ、初めてその被害がマスコミの俎上に載り始めたのが二〇〇三年だという。そこから長年に渡って、捜査当局と鼬ごっこの知恵比べを繰り返し、先達の失敗からも学習しながら、集団は規模を拡大しつつ世代交代を重ねていったのだ。水面下で密かにそのノウハウを精錬し、着実に組織体制を成熟させながら、いつのまにか途轍もなく拡大発展した一大詐欺産業のようなものが、既に社会に定着してしまっているのかもしれない。
リスクとリターンを天秤にかけ、ある者は自らが置かれた苦境を脱するために、またある者は纏まった金を元手に表のビジネスへ進出するために、この裏稼業に身を投ずるのだろうか。今や詐欺組織、否、詐欺産業は、そういった人生に行き詰った者達が、土壇場で起死回生を狙う、賭博場として機能しているのかもしれない。
電車が軋むような金属音を立てながら減速する。「阿波座、阿波座。左側のドアが開きます。ご注意ください」
電車が停車し、右前方のドアから一人降り、新たに三人が乗ってきた。その中のひとり、上下豹柄で薄茶色のサングラスを掛けた派手な老女が正面に腰を下ろす。修一は反射的に目を逸らした。それから意味もなく首を回してから腕を組み、俯いて目を閉じた。しばらくするとまた軋むような音をたて、電車が動き出した。
「次は本町、本町。御堂筋線、四つ橋線は乗り換えです。The next station is……」
金が全てを支配するこの世界では、金を持っている事を根拠として、何事においても有利な条件が与えられるようになっており、一握りの富裕層を大勢の貧乏人が支えねばならぬよう巧みに仕組まれている。金持ちは金持ちであるが故に保護され、貧乏人は貧乏を理由に踏みつけられ、今やそれが当然であるかのような風潮さえ芽生えつつある。何かが根本的におかしいと感じながらも、改善する方法は見つけられそうもなく、夢や希望も大抵の場合まやかしに過ぎず、恐らく大多数の貧乏人は闇雲に働き続けるしか生きる術のない、未来への保障も与えられていない使い捨ての消耗材なのであった。皆がその事に気付き始め、その中の一部が――とにかく纏まった金を手にしなければ――と焦り、自棄を起こし始めているのだろうか。
佐田の言っていた新たなフェーズ……手段を選ばず、騙し合い、奪い合う、何でもありの弱肉強食の価値観は、実際知らず知らずの内に社会全体を侵蝕していたらしい。既に多くの持たざる者が、資本の暴力によって尊厳を打ち砕かれ、社会的に強制された笑顔の裏に荒みきった心を隠し、不信と猜疑の目を光らせていたのだろう。巧みに不可視化され、社会の底に沈殿した欺瞞と矛盾は、長年に渡り幾層にも堆積を重ね続けた挙句、近年とうとう臨界点へ達し、濃密な悪意となって染み出し始めている。いずれ誰も逃れようのない大きなうねりとなり、否応なく人々を巻き込み、その心を互いに破壊し合うのだろうか。病むべく導かれた者達で街は溢れ返り、発作的暴発が頻度を加速しながら、そこかしこで繰り返されるのだろうか。
そう思うと修一は、もはや新しい時代のうねりに適応する自信も、適応しようという気力も一切湧いて来ず、荒涼たる惨状を前に、ただ茫然と立ち尽くすより術はないのであった。
ただその時が来たならば、ひとり人生の一切を諦め、可能な限り社会と距離を置き、誰にも見つからぬよう目を付けられぬよう、地味に細々と暮らしながら、世の行く末を傍観していたい。
それは卑劣で逃げ腰な生き方に違いなかったが、未来に対する、どこか残酷とも言える淡い好奇心のようなものだけが、今の修一を辛うじて繋ぎ止め、動かしていた。
彼はもう既に以前の修一ではなかった。「正しさ」に拘ることを止め、穢れた金を前に跪き、状況に応じて都合よく自分を切り替え、割り切ることを身に付けていた。
今や修一にとって最優先すべきは、混沌に呑まれずに自身が生き残ることであった。一時的に組織の駒として己を捨て、自己を欺くことで罪悪感と折り合いをつけながら、日々を凌いでいくことにもう迷いはなかった。そしていつか、騙したり騙されたり、利用したり利用されたり、延々と続く煩わしさから解放されたいと願った。修一はその一心でひたすら金を貯めることに専念しており、近い将来、組織からも社会からも足を洗うつもりでいた。
修一にとっては、今や押し入れで貯蓄されていく金だけが拠り所であり、その金額の多寡が安心のバロメーターであり、未来への保障そのものであった。生活費に月十万とすれば年間で百二十万、あと五十年生きるとすれば最低でも六千万は必要ということになる。加えて、念のため病気になった場合に備え医療費として三千万、更にはインフレ等による物価の変動リスクも考慮して二千万、足すと合計一億一千万。このまま順調に働き続けることさえ出来れば、後二年程で貯まる。今、修一が唯一求めているのは、壊れていく世界からの逃走資金なのであった。
「本町、本町。右側のドアが開きます。ご注意ください」
地下鉄本町駅のいつもの出口階段から地上に出ると、ビルの谷間に、巨大な入道雲が隆々と眩しくそびえていた。炎天下を真っ直ぐ貫く御堂筋、熱せられたアスファルトが遠方で所々鏡のようになり、縦長に歪んだ車の像を溶かしこんでいる。修一は眩しさに顔を顰め、陽炎へ向かって歩きだした。靴底に焼けたアスファルトが粘り着く。
不意に誰かに見られているような気がして、立ち止まって周りを見渡してみたが、市バスの停留所に、老婆とその連れと思われる中年の女がハンカチで汗を抑えながら並んで座っているだけで、それらしき人物はどこにも見当たらなかった。
了




