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親父の消息  作者: 真宮 裕
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十章 捜索

 週に一度は必ず送るようにしていたメールが、送信エラーとなり戻ってきた。一応杏子に確認してみると、やはり修一の携帯を解約したという。離婚したのだから当然と言えば当然なのだが……。

 振り込め詐欺の報道から十日が過ぎようとしている。あれ以来これといった続報もなく、捜査に進展はないようであった。既に視聴者の記憶には殆ど残っていないだろう。日々発生し続ける大小様々な事件事故、更新される報道に押し流されるようにして、膨大な情報の海に希釈されながら、いずれは世間から忘れ去られていく。

 さて緑は急に苗字が変わったことで、クラスメイトから奇異の目を向けられることも多少あったが、そこは流石に進学校、陰口を叩くくらいで、直接プライベートに踏み込んだことをズケズケ聞いてくるような無神経な奴はほとんどいなかった。

 ただひとり、「一応確認なのだけど、青山さんが結婚した訳では……ないんだよね?」と小声で聞いてきた小泉に対しては、しばらく無言で見据えてやった。最近ようやく空気を読むことを覚えつつある彼は、それ以上何も言わず、自分の席へそそくさと帰って行った。

 そんな中、広美にだけは一週間前の帰宅途中、「親が離婚した」とだけ伝えてあった。

「そっかぁ……。例の保管してあった用紙、ついに出しちゃったんだね」彼女は前を向いて歩きながら、少し顔を上げ、遠くを見るような目をしてそう言った。以後、この件に関しては何も聞いてこない。

 表面的には、母娘ともども平穏な日常を取り戻しつつあるかのように見えた。しかし緑は、日々心に募るわだかまりを無視することに、段々と耐えられなくなっていった。本当にこのままで良いのだろうか。杏子の言うように、修一を別世界の人間と見做し、切り捨てることが、取り得る最善の手立てなのだろうか。

「ねぇ、最近何か悩んでる?」この日の帰宅途中、広美が聞いてきた。「もしかして両親の件で自分を責めたりしてない?」

 緑は直ぐには何も答えることが出来ず、ふたりとも黙ったまましばらく歩き続けた。国道のでかい交差点で信号に捕まり、足を止める。

「離婚そのものに関しては、あんまり気にしてないんだけど……」

 隣で広美が、うん、うん、頷き、「もしかして、赤木って苗字がダサくて嫌とか?」

「はっ?」緑は思わず笑ってしまった。「違うって」

 広美も遠慮気味に笑う。「何だ、違うのか」

「そうじゃなくてさ、このまま親父を見捨てちゃうと、私自身が後悔しそうな気がして」

「別に緑は見捨ててなんかないでしょ。それにおばさんだってきっと、いつまで経っても連絡が取れないから、業を煮やした末の決断だったんじゃないかな」

「いや、実はそれがさ……」緑が言い淀む。

「えっ、もしかして親父さんから連絡あったの」

 緑は苦笑を浮かべながら首を捻る。「うーん、直接連絡があった訳ではないんだけど、間接的に近況を知る事になってしまったというか、何というか……」

「ん?」広美も首を傾げた。「どういうこと?」

「これ、絶対誰にも言わないで欲しいんだけど」緑は声を潜めた。

 広美が「うん、うん」言いながら顔を近づけてくる。

「十日くらい前に、ニュースで振り込め詐欺の映像が報道されたの覚えてる?」

「えっ……」広美が斜め上に目をやり、瞬きをする。「あー、何かそういえばチラッと見たような気が……、大阪のコンビニだっけ」

「そう、その事件。でね……」

 緑は事の詳細を話して聞かせた。徐々に広美の口数は減っていき、逆に瞬きの回数が増えていった。信号はいつの間にか青に変わっており、横断歩道の前で佇むふたりの傍らを、肩にギターケースを担いだ男子学生や、前かごにレジ袋を入れた中年の女などが、訝しげな視線を投げかけつつ自転車で横切っていく。

「お母さん的にはもう完全に吹っ切れてるみたいで、親父との接点を断ち切ることに全力で邁進、って感じなんだけど、でも私の方はそんなふうにドライになりきれないというか」

 広美はどんな顔をすれば良いのか戸惑い、表情の調整に苦心しているように見えた。彼女が引くのも無理はない。

「何かごめんね、こんな重い話」

 広美は慌てて首を振る。「違うの、想像を遥かに凌ぐ内容だったから、ちょっとビックリしちゃって」彼女は大きな瞳を見開いたまま、ひとつ深呼吸をした。「大丈夫だから、続きを聞かせて」

「つまり『法的に親子かどうか』『血の繋がりがあるかどうか』みたいな事とは関係なく、私自身がひとりの人間として誠実に向き合うべきなんじゃないかって。まるで最初から私の人生に彼が存在していなかったような振りをして、自分を誤魔化しながら生きていくのは、やっぱり何か違うような気がするのよ。例えばこれから先、どこかで親父とすれ違うようなことがあったとして、思わず見て見ぬふりをしてしまうような、そんな人間にだけはなりたくないというか……」

 広美が真顔で頷いていた。

「ついこの前まで現状維持を望んで、親父からのメールに怯えていた私がこんなこと言っても、説得力ないし、嘘臭いかもしれないけど」緑は自嘲気味に苦笑いを浮かべる。

 広美は穏やかな表情でゆっくりと首を振った。「案外そういうものなんじゃないかなぁ」

「えっ」緑は広美を見返した。

「実際に差し迫った状況にならないと、本人にさえ見えない部分があるのかも。本当の気持ちって、普段は心の奥底に隠れているものなんじゃないかな」

 緑は俯いて黙り込んだ。もしそうなら、少しは自分のことを許せるだろうか。

 広美が緑の袖を引っ張る。「ねぇ、ねぇ、どうしたの? 大丈夫?」

「私……親父の身に今何が起こっているのか知りたい。そして出来ることなら、そこから救い出したい」

「うん……。私も協力するからさ、何ができるか一緒に考えようよ」

 再び信号が青に変わり、ふたりは歩きだした。


 翌日の放課後、三人は校舎の屋上にいた。緑と広美は貯水タンクの土台に並んで座り、向かい合う形で、小泉がコンクリートの地べたに胡坐をかいている。

「確かに今聞いた親父さんの信念や性格から考えると、余程のことでもない限りそんな真似をするとは考えにくいね。やっぱり僕もふたりが言うように、極限まで追い込まれた末の犯行ではないかと思う」

「つまり金が底を尽きて、生活がままならなくなったから、仕方なく……」緑は足元を見据えたまま呟いた。

「こんな事を言うと、青山さんショックを受けるかもしれないけど……多分親父さんは路上生活か、もしくはそれに近い環境にあったんじゃないかな」相変わらず小泉は、緑のことを『青山さん』と呼び続けていた。「だけど、もしそうだったとしたら、否、今も尚そうなのだとしたら、彼が暮らしていそうな地域というのは、それなりに絞り込むことができると思うよ」

「えっ、そうなの」ふたりは身を乗り出し、声を揃えた。

「大阪には他府県からも訳ありの人達が集う、日雇労働者の街があるんだ」

「じゃあ、そこへ行けば……」緑が呟いた。

「可能性はあるだろうね。写真でも見せながら聞き込みをすれば、割とあっさり見つかるかもしれない」

「ねぇ! この際、三人で行っちゃわない」広美が声を上げた。「ゴールデンウィークもあることだし」

「まあ、僕も行くことに関しては別に構いはしないけど……」小泉が歯切れの悪い言い方をする。

「けど何よ?」広美がやや非難がましい口調で訊いた。

「いや、つまり……もし親父さんが見つかった場合、青山さんはどうするつもりなのかと思って」

「えっ……」緑は一瞬言葉に詰まった。「だから、今どういう事になってるのかを聞いて、何か手助け出来ることがあれば……」

「じゃあ生活に困窮してるとしたら、坂松に連れて帰ってふたりで一緒に暮らすって事?」

「そ、それは……」

「生活費はどうするの? 青山さんが働いて稼ぐの? 学校は?」

「正直そこまでは出来ないよ」緑は弱々しく呟いた。

「そんな責め立てるような言い方しなくてもいいじゃない!」広美が声を尖らせる。「大切なのはハートでしょ!」

「ごめん、ごめん」小泉は広美を制するように両掌を前にかざした。「別に責めるつもりなんてないんだ。相手を思う気持ちが大切なのは僕も分かってる。ただそれだけに、もう一歩踏み込んだ配慮が必要なんじゃないかと思うんだよ」

「どういうことよ?」広美が小泉に訝しげな眼を向ける。

「妻子あるひとりの男が全てを捨てて失踪するというのは、並大抵の覚悟では出来ないことだよ。つまり親父さんにとっては考えに考えた末の苦渋の決断だったと思うんだ。恐らく、身を引くような感覚かな。自分を犠牲にしてでも、君やお母さんを幸せにしたかったんじゃないかな」

 緑は失踪前の恐縮した修一の態度を思い出していた。「多分、そうかもしれない」

「だとしたら青山さんが親父さんの前に現れて助けようとする事は、彼の面子を潰すことにはならないだろうか。彼にとっては失踪が、人間としての尊厳を保つ最後の手段だったとしたなら、それを奪うのは余りにも酷というものじゃないだろうか」

 三人は沈黙した。グラウンドから運動部の掛け声が聞こえてくる。夕焼け空の彼方を、何かの鳥の群れが影となり、ゆっくり横切っていった。

 緑は舌打ちをした。「……なんか、段々ムカついてきた」

「何で?」小泉が不思議そうな顔をする。

「親父は勝手過ぎるよ。ある意味では私を侮辱しているのかもしれない」

「ん?」小泉が首を捻る。

「自分だけ良いカッコしやがって」緑の眉間に皺が刻まれる。

「緑? 何いってるの?」心配そうな顔で広美が振り向いた。

「だってそうじゃない、お母さんや私のことを、夫や父親を犠牲にしても平気でいられる、軽薄な人間と見做してるんだから」

「いや、それはちょっと言い過ぎじゃ……」小泉が困ったような顔をする。

「冗談じゃないわ! お母さんは知らないけど、私は絶対にそんな薄っぺらい人間にはならない!」緑は睨むような形相で中空を見据えた。「誰かの犠牲の上で成り立つ恩恵なんて、もういらない。そんなもんで喜ぶセコイ人間には成りたくない。ある意味で親父は、自分の尊厳を守る代わりに、私やお母さんの尊厳を踏み躙っていたのよ」

「あ、青山さん……」小泉が腰を上げ、狼狽した様子で緑の元へと歩み寄る。

「緑……」広美が心配そうに顔を近づけてくる。

 緑は顔を伏せ、「自分が育てた娘を……甘く見るんじゃないわよ」震える声を絞り出した。

 広美の差し出した水色のハンカチを受け取ると、緑は慌ててふたりに背を向け、屋上の端へと向かった。西日に染まる街の風景が滲んで見えた。胸が詰まって呼吸が浅くなる。目を閉じてハンカチを宛がうと、抑えていたものがどっと溢れ出した。


 四連休の初日となる金曜、緑はバスに揺られていた。低血圧な上に長時間座りっぱなしなためか、体がだるい。まどろむ意識の中、窓際の彼女は外に目をやった。今どの辺りを走っているのだろう。遮音壁の上にマンションらしき建物やビルが頭を覗かせていた。車内の時計を見ると、もうすぐ午前十一時、坂松駅バスターミナルを出て三時間が経とうとしていた。

 肩に重みを感じて隣を見る。眠った広美が凭れかかっていた。明石海峡大橋の上では、その絶景にはしゃいでいた彼女も、遮音壁に囲まれた変化の乏しい景観にはさすがに退屈したのだろう。通路を挟んだその隣では、小泉が相変わらず新書らしきものを読んでいる。また社会学だろうか。緑はゆっくり広美を押し返す。

 彼女は唸りながら両手を挙げて伸びをした。起こしてしまったらしい。

「……今どの辺?」広美が寝ぼけ眼を擦りながら聞いてきた。

「うん、もう時間的には近くまで来てるはずなんだけど」緑は車窓に目を戻す。ちょうどバスが車線変更し、インターの出口へと向かって行く。「あっ、やっぱりもうすぐ着くっぽい」

 高速を降りたバスは料金所を通過し、一般道へ出た。緑は車窓から行き交う人々を眺める。この街のどこかに親父がいるかもしれない。

 程なくバスは、大阪シティエアターミナル(通称OCATと呼ばれる複合商業施設)内にある湊町バスターミナルに到着した。三人は建物を出て周辺を見渡す。

「うわぁー」広美が頭上を仰ぎながら感嘆の声を上げた。「さすがは都会って感じね」

 ここはミナミと呼ばれる大阪の中心地。周辺には巨大なビルが乱立し、高速道路や鉄道の高架橋などが縦横無尽に交錯している。また休日というのもあってか人通りが異常に多かった。

「目指す地域はここから近いの?」緑が小泉に聞いた。

「まあ、徒歩三十分、車で十分ってとこかな」

「ねぇ」広美が勢いよく振り向いた。「ずっとバスの中で座りっぱなしだったからさぁ、運動がてら、ちょっと歩かない?」

 ふたりも広美の意見に同意した。

「青山さん、聞き込み用の写真は持ってきた?」歩きながら小泉が聞いてくる。

 緑は杏子に借りてきた赤いスーツケースのサイドポケットから数枚の小さな写真を取り出した。

「多分、親父が仕事探す時、履歴書用に使ってたものだと思う」言いながら、小泉と広美に一枚ずつ渡す。「ニュースで見た感じだと、この頃より十キロは痩せてるんじゃないかな」

 四つ橋筋という四車線の一方通行は、大型連休の初日というのもあってか、かなりの交通量であった。緑たちは、梅田方面へ北上する車両とは反対向きに、歩道に沿って南下していく。大きな五差路の交差点を渡ったところで、左後方から南向きの一方通行が合流して、そのまま反対車線となった。道幅は更に広くなる。幾度も交差点を横断しながら、三人は歩き続けた。どこまでも真っ直ぐな道は、ミナミの繁華街から遠ざかるに従って、景観から光沢が失われていき、色彩がくすみを帯びていくような気がする。深緑色のJRの鉄橋を潜ったところで、また一段と大きな交差点にぶつかった。歩行者用の信号がないかわりに歩道橋が設置されている。しかしそこで初めて小泉は、歩道橋を渡らずに左折した。

 これを切っ掛けとするように街の様相が明らかな変化を見せ始めた。まず緑は歩道のいたる所にゴミが落ちていることに気付いた。煙草の吸殻、レジ袋、ペットボトル、紙屑などがやけに目立つのだ。それから何故か、道路標識や信号、ガードレールなどの公共物が錆びていたりして、極端に老朽化しているようにも思われた。

 JR新今宮駅の辺りからは、歩道の隅に、青いビニールシートに包まれた荷物らしき物やリヤカーに積み上げられた大量の段ボール、ガードレールに凭せ掛けられた台車、空き缶が詰め込まれた大きなゴミ袋などが散見されるようになった。更に進むと、露店を開いている人達がいた。テーブルの上に雑多な商品が所狭しと並んでおり、その後ろで老人がパイプ椅子に座っている。一瞬、何か地域のイベントでも開催されているのかと思ったが、そういう訳でもなさそうだ。近くの色褪せた駐禁の標識と街路樹の間には水色のビニールロープが渡されており、そこへ私物の洗濯物か売り物か判然としないタオルやシャツ、下着などがハンガーで吊るされている。彼はもしかすると歩道の片隅で暮らしているのかもしれない。

「ねぇ」緑は小泉の袖を軽く引っ張った。「もしかしてここ……」

「うん、大体この辺り」

 小泉はそのまましばらく歩き続け、点滅し始めた歩行者用信号で駅前の広い国道を小走りに渡った。更に南側の区域に入っていく。路地の両側には、大小の古いビルがひしめき合っていた。くすんだ外壁に小さな窓が縦横整然と並んでいる。

 緑が怪訝な顔で周囲を眺めていると、

「ここらは通称ドヤと呼ばれる簡易宿泊施設が密集している地域なんだ」隣の小泉が説明してくれた。

 緑はビルの外観に何やら違和感を覚えたが、その理由は自分でもよく分からなかった。

 小泉が路地を右に入っていく。道の両サイドを埋め尽くす勢いで自転車が並んでいた。

「うわぁー、超安いんですけど!」広美が声を上げた。

 見ると宿屋の入口に看板が立て掛けてある。一泊千三百円、確かに安い。

「ねぇ、今日この辺の宿に泊ってみない?」

「そうだね、社会勉強の一環として一度泊ってみるのも悪くないね」小泉が顎に手を添えながら頷く。「何故にここまでの低価格を実現できるのか、その謎が解けるかもしれないし」

 緑は訝しげに、そのやけに細長い七階建のビルを見上げた。「まあ、旅費の節約にはなりそうだけどね……」

 引き続き路地を進む。宿以外にもコインランドリー、銭湯、居酒屋、煙草屋などの煤けた軒先テントが並んでいる。街はそれこそセピア色といった感じで、ノスタルジックな風情がある。まるで昭和のまま取り残されたかのように。

 すれ違うのは中高年の男性が多い。歩いていたり、自転車に乗っていたり。道端で話しこんでいたり、ワンカップ大関を片手にしゃがみこんでいたり。また不思議そうにこちらを眺める人も少なくない。余程三人が浮いていたのだろう。

「えっ! 嘘でしょ!」また広美が声を上げる。

 さっきより安い宿でも発見したのかと振り向くと、今度は自販機であった。

「何でこんなに安いんだろう?」広美は目を輝かせている。

 でかい字でオール五十円と書かれていた。確かに安い。しかし緑は、いちいち低価格に反応して浮足立つ親友の姿に、まるで中学までの自分を見ているようで、少しやり切れない気持になった。

「賞味期限の迫っているものを安く仕入れたのかな」広美は自販機に歩み寄り、サンプルのラインナップを検証していた。見ると、サンガリア以外は坂松では見たことのないメーカーのものが混在しているようだ。

「ここら一帯は総じて物価が安いらしいからね」後ろで小泉が答えた。

 三人は難波から四十分以上歩きっぱなしであった。それなりに汗もかき、喉も渇いている。緑はサンガリアの緑茶、広美は知らない会社のカフェオレ、小泉は謎の炭酸飲料を買った。飲みながら歩く。

「ねぇ、小泉」

 彼はゲップをしてから振り向いた。「何、青山さん?」

「これってさ、どこを目指して歩いてるの?」

「いや、別にどこって訳でもなくて、初めての場所だから取敢えず適当に散策してるだけだよ」

 小泉は路地を右へ左へ入りながら歩き続けた。そしてとある公園の前で三人は立ち止まった。内側の柵に沿うようにして、廃材やビニールシートで作られた小屋が並んでいる。公園の外周には、廃棄物であろうか、冷蔵庫などの大型家電や家具などが大量に放置されていた。公園の中も、その周辺にも大勢人がいた。

「聞き込みをするなら、ここがベストかもしれないね」小泉が言う。

「……うん、そうかもしれない」言葉とは裏腹に、緑はその荒涼たる風景に圧倒され、呆然と佇んでいた。ペットボトルの蓋を開け、ひとまずお茶を飲む。その間も横切るおっちゃん達が物珍しそうに三人を見ていた。小泉は炭酸飲料を飲み干し、長いゲップをした。

「兄ちゃん、それ捨てるやろ?」

 三人は声のする方を振り向いた。半透明の白いゴミ袋を持った坊主頭の老人が立っていた。小泉は確認するように、人差し指を自分に向けた。

「そのアルミ缶、もろてもええか?」

 小泉が空き缶を渡すと、老人は手慣れた動作で踏み潰し、ゴミ袋に放り込んだ。

「兄ちゃんらは……あれか、学生さんのボランティアか?」

「いえ、僕らは、その……人を探してて」

「人を――」そう言うと老人は、広美の持つカフェオレから小泉に、ゆっくり視線を戻した。

「実は失踪した私の父親を探しているんです」緑は横から、老人に修一の写真を差し出した。

「ほう、あんたのオヤジさん……」老人は一瞬真顔になると、ベストの内ポケットから取り出した老眼鏡を鼻に乗せ、顎を引いて写真を眺め始めた。

「見かけたことはないでしょうか? この写真よりは随分痩せてると思うんですけど……」

 老人は眉間に皺を寄せ、唸っている。そうこうしていると、別の二人組が近付いてきた。

「おっちゃん、どないしてん」五十代半ばであろうか、老人の知り合いと思しき四角い顔のおっさんが親しげに声を掛けてきた。

 老人は後ろへ少し首を捻り、上目遣いにそのがたいの良い男を見上げた。「この娘がおとうちゃん探しとるんやって」

「へぇー、そりゃあ……あれやな」おっさんは緑の方を見て、少し気まずげに目を泳がせた。「ちょっとワシにも見してぇや」

 彼は、一緒に来た少し年嵩と思われる額の禿げあがった男と共に、写真を見ている。

「どっかで見たことあるような顔やけどなぁ」おっさんは太く毛深い腕を組みながら首を捻った。

「えっ、本当ですか!」

 気付くといつのまにか周りには十人ぐらいが集まっていた。いずれも哀愁漂う年配の方々だ。広美と小泉も彼らに写真を見せながら聞き込みを始めていた。

「そうかぁ、四国の坂松から遠路はるばるこんなとこまで……」

「君らいくつ? 大学生? ……へぇー、高校生」

 彼女たちに投げかけられる視線は皆一様に優しげであった。

「わしにもなぁ、娘がおるんや。もういくつになったやろか……二十、いやもう大方三十近いんか? 今どないしてんねやろなぁ……」などと言って、涙ぐむ人もいた。

 そんな中、「あれ、この人もしかして駅前で本売ってた人ちゃうか?」小泉と話していた初老の男が声を上げた。

 すると、最初に「どっかで見たことあるような……」と首を捻っていた四角い顔のおっさんも、

「あぁ! そうや、そうや、思いだした。駅前の歩道で雑誌売ってた人や。間違いないわ!」と言うのである。

「もしかして新今宮駅の前の歩道でしょうか?」小泉が訊くと、

 老人は「そうや」とゆっくり頷いた。「いつもふたりでな、ビニールシートの上に本並べとった」

「なるほど、先程通った時も幾つか露店が出てました……。ということは」小泉は緑へ向き直った。「青山さん! あそこで張り込んでたら、会えるかもしれませんよ」

 緑は笑顔で頷き返す。

「何か幸先いいね」広美がやってきて緑と軽くハイタッチをした。「ホントにあっさり見つかりそう」

 ところが、四角い顔のおっさんが「いや……でも、どうやろ」と、また首を捻り始めた。「ここしばらくは見かけてないしなぁ」

 緑は真顔に戻っておっさんに向き直る。「えっ……」

「うん、冬頃までは見た覚えがあんねんけど」おっさんは申し訳なさそうな声を出す。「ここ二、三か月は見てないような気がするなぁ」

「最近、路上で本売ってる人、なんや知らんけど皆代わってもうたんや」また別の白髪で小柄なおっさんが話に入ってきた。歳の割にやけに声が高い。「縄張り争いでもあったんやろかなぁ、知らんけど」

「今もここの地域で暮らしている可能性はないでしょうか?」緑は訊いた。

「いや」四角い顔のおっさんが首を捻る。「元々、雑誌売ってた頃からこの辺の住人ではなさそうやったし」

 周りのおっさん達も同意するように唸った。

「ねぐらは他所にあって、仕事があるときだけ通ってたんとちゃうかなぁ」

 三人は沈黙した。おっちゃん達は互いに顔を見合わせたりしている。

「ま、まあでも、今は気候のええ時期やし」四角い顔のおっさんがわざとらしく明るい声を出す。「たぶんお父さんもどっかで別のシノギ見つけて、元気にやってる思うで」

 恐らく修一は新たなシノギとして出し子を始めたのだろう。しかし防犯カメラの映像が報道されてしまった以上、もう出し子は出来ないはずだ。ならば彼は今、何をして暮らしているのだろうか。

「ところで話は変わるけど、自分ら昼飯はもう食うたん?」四角い顔のおっさんが訊いてきた。

「いえ、まだですけど」

「よっしゃ、ほなワシが奢ったる」おっさんの連れ、禿げた初老の男が言う。「ワシはこう見えて金持ちやからな。生活保護やけど」

 緑たちは、笑うところなのかどうなのか、周りの様子を窺いながら、作り笑いを浮かべた。

 三人が男の後をついて行くと、他のおっさんたちもぞろぞろついてきた。多分暇なのだろう。禿げた老人は赤い軒先テントの前で立ち止まった。ソースの香ばしい匂いが漂ってくる。

「せっかく大阪まで来て、これを食わん手は無いで。なんちゅうても、ここのたこ焼きは、安い、旨い、三拍子揃っとるしな」

 ひとつ足りないと思いながらも緑は聞き流した。三人は促されるまま、店先の長椅子に腰を下ろし、おっちゃん達に囲まれて、たこ焼きを御馳走になった。

「どや、旨いか?」

 緑と小泉はたこ焼きを頬張ったまま頷いた。広美は猫舌なのか、隣でハフハフ言っている。そんな三人をおっちゃん達は目尻を下げて見守っていた。

「さすが若いもんは旨そうに食うのう」誰かがしみじみ感嘆の声を上げると、共鳴するように周りも低く唸る。

「喉乾いてないか?」「ジュース奢ったろか?」彼らは競い合うように、何か話す切っ掛けを探しているようでもあった。

「君らいくつ?」

「十六です」

「大学生?」

 緑は、公園の前でも同じことを訊かれたのを思い出した。「……いえ、高校です」

「へぇー、高校生」

 以後彼は同じ質問を約二分おきにした。三人は順番に交代しつつも、律義に同じ受け答えを繰り返した。

「こっちにはいつまで居れるの?」三人がたこ焼きを食べ終える頃、四角い顔のおっさんが訊いてきた。

「火曜から学校なので、一応月曜までは粘ろうかと思ってます」

「じゃあその間に、もしこっちで何かお父さんに関することが分かったら連絡しようか?」

 緑は携帯番号とメルアドをおっさんと交換し、余っている親父の写真を三枚渡した。

 三人はおっちゃん達と別れ、また路地を歩きだした。

「何かみんな優しい人で、ビックリしちゃったね」広美が呟く。

「うん、僕も勝手な先入観で、何となく荒んだ人物像を思い描いていたけど、良い意味で裏切られたよ」

 おっちゃん達の話から、この界隈は期待薄と判断し、駅前の国道まで戻った。取敢えず歩道を東へ進む。コンビニを見つけては、外から雑誌コーナーをチェックし、パチンコ屋があれば中に入って、一通り客を見回した。天王寺周辺で大型商業施設、ファストフード店、ゲーセン、本屋、図書館などを巡った。客に声を掛けるのは何となく憚られ、店員や職員に話しかけ、写真を見せた。しかしそこはさすが人情の街大阪である。店員などと話していると、興味津々といった様子で近付いてきて、

「姉ちゃんら、どないしてん?」などと逆に話しかけてくるおっちゃんやおばちゃんも少なくなかった。ただ残念ながら店員も客も皆首を傾げるばかりで特に手応えはなかったが。

 図書館を出ると、既に日が暮れかけていた。棒の様になった足を引き摺りながら国道沿いを歩く。

「ねぇ、お腹すかない?」広美が疲れた顔で呟いた。

 三人は適当に目に付いた天下一品というラーメン屋へ入った。奥のテーブル席に座りラーメンを注文すると、店員が「コッテリですか、アッサリですか?」と妙なことを訊いてくる。

「……じゃ、じゃあ……ええと――」三人は互いに顔を見合わせ、何となくコッテリを選んだ。

 空腹を満たし店を出ると、来た道を引き返してまたドヤ街へ戻った。価格表示に目を凝らしながらしばらく路地をうろつき、千二百円のドヤを探し当てた。昼間見つけたところより百円安い。老朽化の凄まじい十階建、くすんだ灰色のビルであった。

 チェックインを済ませ、フロントのおばちゃんに渡された鍵を片手に、指示された部屋を目指す。一応エレベーターはあったが、古い映画でしか見たことのないレトロな外観に不安を覚え、三人は薄暗い階段へと向かった。五階に着くと、トイレの洗浄剤らしき臭いが仄かに漂っていた。すれ違うのがやっとの狭い廊下を進む。天井も低く圧迫感があった。

 そこで不意に緑は、昼間ドヤの外観に覚えた違和感の正体に思い当った。恐らくドヤは全般的に天井が低く設計されている為、通常の建物より縦に並ぶ窓の間隔が狭いのだ。

 部屋のドアを開け、薄闇に目を凝らしながら電燈のスイッチを押す。余りの狭さと殺風景さに緑は目を疑った。ささくれ立った畳が二枚敷かれていて、その上に畳んだ布団が一式載せてあるだけなのだ。

「マ、マジかよ……」

 テレビも家具も何もない、本当にただ寝る為だけの部屋であった。


 翌朝早くに、緑は足の痒さで目を覚ました。恐らくダニか蚤にでも喰われたのだろう。早々と三人はドヤを後にし、ゴミや吐瀉物の巻き散らかされた、まだ薄暗い路地を、腕や足を掻きながら歩いた。

 捜索二日目以降はビジネスホテルに泊まりながら、難波周辺や大阪城周辺を廻ったが、これと言った情報は得られず、四角い顔のおっちゃんからも連絡がないまま、最終四日目の月曜を迎えた。

 朝から通称「上六」と呼ばれる上本町六丁目周辺で聞き込みをした。勾配のきつい坂道を上りながら、相変わらず路上生活者が立ち寄りそうな店舗や施設を巡り、店員や職員を中心に話しかけ、写真を見せる。パチンコ屋に入り、カウンターの横で店員と話していると、例によって初老のおっちゃんが何か言いながら近付いてきた。しかし店内の喧騒に掻き消されて緑には聞き取ることができなかった。

「実は、人を探してまして」小泉が写真を見せながら、おっちゃんの耳元で大きな声を出す。

 眼鏡越しに写真を眺めていたおっちゃんの顔色が、徐々に真剣味を帯びてくるのが見ていて分かった。彼は顔を上げ、小泉に向かって何やら喋っている。

「それ本当ですか!」小泉が声を張り上げた。

 緑は小泉の腕を掴んで揺さぶった。「何! 何! どうしたの?」

「青山さん! この人、見たことがあるんだって!」

 三人はおっちゃんを連れて店の外へ出た。彼に詰め寄って質問を浴びせかける。

「うん。写真より髪が短こうて、もっと痩せとったかもしれんけど」

 それを聞いて余計に信憑性が高まる。

「いやぁー、あん時はホンマにビックリしたでぇー」彼はギョロつく目を更に見開いた。

 四月のある朝、おっちゃんは日課である犬の散歩をしていたという。お決まりのコースである近所の公園を愛犬・石松を連れて歩いていたとき、おっちゃんは尿意を催し、トイレの側にあった時計のポールに犬のリードを結び付けたのであったが、いざトイレへ向かうべく振り返ると、入口の前で男がじっと彼を見据えていたという。しかも四つん這いになって。

「何のこっちゃ分れへんからなぁ、一瞬頭が真っ白になって、お互い無言で見詰め合ったまま、しばらく固まっとった。そしたら、向こうがいきなり犬みたいに吠え始めるやないか」

 身の危険を感じたおっちゃんは、素早くリードを解くと、愛犬と共に足早にその場を立ち去ったと言う。

「春いうのは、ちょくちょくおかしげなんが出てくる言うけど、あれはホンマ強烈やったでぇ。気色悪うてあれ以来、散歩のコース変えたしな」しみじみ言うと、また手許の顔写真に目を落とした。「それだけに、今でもあの顔は鮮明に焼き付いとる。まずこの人で間違いないでぇ」

 緑が返す言葉を見失い、顔を赤らめていると、おっちゃんは、ハッとしたような顔になり、声を潜めた。

「もしかして……姉ちゃん達もこいつに何かされたんか?」

 緑は今更、「父なんです」とも言い出せず、更に紅潮を極めながら無言で俯いた。しかしその態度が余計に誤解を促したのか、おっちゃんは狼狽を露わにし、

「あっ、御免、御免、御免やでぇ、女の子に変なこと訊いてしもうたなぁ」手刀を切りながら何度も頭を下げた。

 おっちゃんによるとその公園はここから近いらしい。場所を教えてもらい、三人は礼を言ってパチンコ屋を後にした。

「最後にきてビッグチャンス到来だね」小泉が興奮したように言う。「これはひょっとしたらひょっとするかもしれないよ」

 公園へ向かいながらも、緑はまだ動揺を引き摺っていた。小泉とは対照的に押し黙ったまま歩く。親父は一体どうしてしまったのだろう。気でも狂ってしまったのか。

「多分、複雑な事情があったのよ、きっと……」広美が隣で呟いた。

 他人に向かって、四つん這いで吠えなきゃならない事情って何だ。

 五分ほどで三人は城ヶ崎記念公園に到着した。石柱門を潜り、鬱蒼とした雑木林を通り抜けると、芝生が広がっていた。休日というのもあって、サッカーボールやフリスピー、バドミントンなどで遊んでいる親子やカップルが散見される。遊歩道に沿って歩いて行くと小さな池の近くに例のトイレはあっさり見つかった。男女二手に分かれて中に修一が居ないのを一応確認し、再び遊歩道に沿って歩く。一時間ほどかけて一通り公園内を散策してみたが、ホームレスが定住していそうな段ボールハウスやテントハウスは見つからなかった。

 再びトイレの方へ戻ってくると、池の周りに並んでいる長椅子に、小柄な男がひとりで座っていた。男と一脚間を開けて三人も長椅子に腰掛ける。

「住んでなさそうだね」広美が呟いた。

「そうだね。でも近くで路上生活をしているとしたら、トイレがあって、水もタダで使えるからそれなりに便利なんじゃないかな。割と頻繁に立ち寄ってるのかもしれないよ」小泉がトイレの方に視線を送る。「ここで見張ってたら、案外現れるかも」

 緑は不意に煙たさを感じて横を振り向いた。先程の男が煙草を燻らせながら、半身を捻ってこちらを見ていた。緑と目が合うと、彼は口を半開きにして目を見張った。次いで腰を上げ、ゆっくりこちらへ近付いてくる。途中で躓きながらも意に介さず、その目は緑を捉えたままであった。

「あのう……失礼ですが、あなたはもしや――」異様に日焼けしたその男は、そこまで言うと口を閉ざし、首を傾げた。「ん?」

「な、何ですか?」緑は訝しげに眉根を寄せ、男を見上げた。

「あっ、いや、御免なさい。人違いだ」男は急に頭を下げると、独り言のように呟いた。「いくらなんでも若過ぎるな」

 もしかして新手のナンパであろうか。だとしたら、その前に歯を直すべきだろう。彼は前歯が二本欠けている。「あの、一体何なんですか?」

「いやぁ」男は短髪の頭に手をやった。「以前写真で見せてもらった仲間の奥さんに、余りにも似てたものだから。でも君、見たところまだ十代みたいだし、たぶん結婚もしてないよね?」

 緑は少しムッとして顔を強張らせた。「未婚の十六です!」

「まあその仲間も色々訳ありで、最近行方が分からなくなっちゃってさ。もしかすると、ここで待ってたら会えるんじゃないかと思って、ちょくちょく通ってるんだけどねぇ」男はぼんやり池を眺めながら言った。

「では、あなたも人を探してるんですね」小泉が訊いた。

「えっ……うん」男は三人を見渡した。「君らも誰か探してるの?」

 この男、頻繁にここへ通っているのなら、親父を見かけたことがあるかもしれない。

「実は私の父を探してまして」緑は男に修一の写真を差し出した。

 男はそれを見て、目を見張った。「えっ!」

 男のただならぬ反応に、三人は顔を見合わせた。

 男は写真から顔を上げると、無言のまま緑をまじまじと見詰め、またもう一度写真に目を落とし、瞬きを繰り返した後、

「あー、そうかー、そういうことかぁー」興奮冷めあらぬ様子でひとり喋り続けた。「参ったなぁ、つまり君は――」また緑の顔をまじまじと見つめる。「一緒に写ってた女の子。確か……えーと……緑ちゃん? だっけ?」

 緑は顔色を曇らせ、一歩後退る。「な、何で私の名前を……」

「あっ、分かった!」突然隣で小泉が声を張り上げた。「この人、親父さんと一緒に本を売ってた人だよ」

 前歯の欠けた赤黒い顔が微笑んだ。「うん、正解」


 男は横山と名乗った。ここ一年余り、修一とつるんで路上生活を凌いできた仲間らしい。

「あの頃は俺達、経済的にも精神的にもホントにギリギリまで追い込まれてたんだ」横山はしみじみ語り始めた。「でも結局、最後の引き金を引いちまったのは俺だと思う。俺が切れて、自暴自棄みたいになっちまったから。多分、青さんは見るに見かねて……」

 そこまで言うと横山は突然地面に膝を着き、緑に向かって土下座をし始めた。

「本当にすまない、俺のせいで君のお父さんをおかしなことに巻きこんでしまって」

「やめてください」緑は横山の腕を引っ張って立たせようとした。「そんなことより、今あの人がどういう状況になってるのか、もっと詳しく聞かせてください。行方が分からないってどういう事なんですか?」

 ひとまず興奮気味の横山を長椅子に座らせて、落ち着くのを待った。頃合いを見計らって、緑の方から冷静に語りかける。

「私達、既に出し子の件は承知してました」

 横山が意外そうな顔で緑を見た。

「私がニュースを見て気付いたから、大阪に来たんです」

 横山が切れ長の目を更に細め、小さく唸る。「……親子ってのは凄えな、あの映像で見抜いちまうのかぁ」

 横山は詐欺事件が発覚した翌日の事を語り出した。ふたりで行きつけの図書館にいたとき、修一の携帯に怪しい仕事の上司から連絡があったという。

「服を交換しに?」

「そう」横山は頷いた。「犯行時と同じ服装はさすがにヤバいやろって」

「あぁ、なるほど」

「でも俺、拉致られるんじゃねえかと心配で、隠れて遠くから見てたんだ。そしたら黒っぽい高級車みたいなのが来て、スーツ姿の奴が出てきた。青さん、そいつから受け取った紙袋持って一旦図書館へ戻ると、赤いチェックのシャツに緑のカーゴパンツ姿になって出てきたから、多分トイレで着替えたんだろうな」

「じゃあ、その人は普通に着替えを持って来ただけだったんですね」広美が訊いた。

「いや、でもそれが、なかなか帰らないんだ。車の前で、しばらく青さんと何か話しているみたいだったけど、そのうち運転手に車だけ帰らせると、ふたりで図書館を出て歩き始めた」

 横山はふたりを尾行したという。そしてふたりが心斎橋のとある老舗料亭に入っていくのを確認すると、電柱の陰にしゃがみ込んで出入り口を見張り続けていたらしい。しかし三時間程経った頃、玄関に図書館で見たのと同じような車が止まり、店から出てきたふたりを乗せて行ってしまったという。

「じゃあ、それ以来行方が分からないんですか?」小泉が訊いた。

 横山は無言で頷いた。緑は溜息を漏らす。四人はしばらく沈黙した。

「ね、ねぇ……ちょっとヤバ過ぎない?」広美がおずおずと、誰にともなく呟くように尋ねた。

「うん、いきなり音信不通になっちゃうのは、さすがにね」小泉は顎に右手を添え、瞬きを繰り返す。

「警察に相談した方が良いよ」広美が興奮気味に緑の袖を引っ張った。「そりゃあ出し子の件では罪に問われるかもしれないけど、もうそんなこと言ってる場合じゃないよ!」

「いや、あの……実は――」横山が気遅れ気味に言葉を挟み、三人の視線が彼へと向けられた。

「実は、音信不通と言う訳でも無いんだ」

「えっ!」三人は声を揃えた。

「一度だけ、来たのかもしれない」

「どういう事ですか? かもしれないって……」緑が訊いた。

「車で居なくなった二日後、俺が昼間ここのベンチで寝ている間に、こっそりやってきて、リュックのポケットに手紙を差し込んでいったみたいなんだ。まあ顔を合わせた訳じゃないから、本当に本人が来たかどうか、確証はないけど……」言いながら横山は腰を浮かせ、チノパンの尻ポケットから二つ折りにした茶封筒を取り出し、緑に手渡した。

 中には便箋が一枚入っていた。やや右上がりの筆跡には確かに見覚えがある。

「親父の字だ。間違いないよ」


 横山君、御免。急に居なくなり、心配させてしまったかもしれないけど、別に拉致されて監禁されている訳じゃないから、安心してください。

 実はあの日、着替えを持って来た人に誘われて、彼らの組織で一緒に働くことになったんだ。もちろん葛藤はあったけど、あのまま意地を張り続けていても事態は好転しそうになかったし、近い将来破滅するのは目に見えていたからね。このまま何事もなく人生が終わるのかと思ったら、そっちの方が怖くなったんだ。

 横山君、「正しい」っていうのはどういうことなんだろうね。僕は長年、正しさに拘り続けてきたけれど、結局社会の中に居場所を見つけることが出来なかった。誠実さを貫こうとすればするほど、端へ端へと追いやられ、何も出来ない状況に押し込まれてしまった。そして皮肉なことに今となっては、数少ない選択肢の中に、社会的に正しいとされる答えはもう残っていなかったんだ。

 これから僕は組織の為に能力を発揮し、得られる金と引き換えに罪悪感と後ろめたさを背負いこみながら生きていこうと考えている。逮捕されるのが先か、下手を打って消されるのが先か、発狂するのが先か、まあ碌な死に方はしないのかもしれないけれど、これは僕が始めて自ら選んだ道と言えるのかもしれないから、後悔はしていないよ。未だ色さえついていなかった僕の職務経歴を、これから黒く染めていくんだ。

 善人として死に続けるよりも、悪人として生きる道を選んだ僕を、君は軽蔑するだろうか。

 ただ君の場合は僕より幾分若いから、まだ堅実な道が残されているかもしれない。リュックの中に金を入れておいたから、是非それを元手に生活を立て直して欲しい。そんな汚い金はいらないと、君は怒るかもしれないけど、お願いだから受け取って欲しい。部屋を借りることくらいは出来る筈だ。住所があればハローワークにも通えるだろうし、まともな仕事が得られるかもしれない。君には何とか人の道を逸れずに生き抜いて欲しい。

 青山修一


「因みに幾ら入ってたんですか?」小泉が訊いた。

 横山は下を向いたまま片手を広げた。「……五十」

 彼は実際その金でアパートを借り、ハローワークへ通いながら職を探しているという。先日、医療事務の面接を受け、現在結果待ちらしい。

「仕事、決まると良いですね」緑が言うと、横山は申し訳なさそうに顔を伏せ、無言で頷いた。

 緑と横山は携帯番号とメルアドを交換し、お互い修一のことで何か分かったら連絡することを約束した。


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