000.魔王と蒼い瞳と
魔王視点.
*諸々訂正(2017/11/23)
最期に見たのは、彼の鋭い蒼の瞳。
「哀れで滑稽なお人形さん
舞い踊る姿は道化の女王
糸が切れてもくるくる踊る
紅い林檎は蜜の味
ひとくち齧るとあら不思議
お人形さんは死んじゃった」
扉の開かれる音に、口遊んでいた私は希望の光を見出した。眼の前に立つ彼の姿を認め、自然と笑みが浮かんでくる。
「――――ようこそ、人々の希望たる勇者。お会いできて光栄だわ」
広間に現れた彼に向かって、できるだけ艶を滲ませた声でそう宣った私は、でもと小首を傾げて見せた。
「でも残念ながら、もうお別れだわ」
そう言って私が手放した王杖を、彼は怪訝そうに眉を顰め……私の手の中にあるものに気付いたよう。鈍く煌く、鋭利な刃。命のひとつやふたつ、簡単に奪い去ってしまうことのできるそれ。
武器の重みなど知らなかった、白くて細い手に持つ短剣を、私は握り直す。ちょっぴり重くて、気を抜くと落としてしまいそう。でも、決して落としはしない。
「なんだか争いにも飽きてしまったわ。此処まで来て貰っておいて、貴方には悪いのだけれど」
私は短剣を両の手で持った。鋭い剣先を、自分の細い首筋に添える。
精悍な面差しは驚愕を浮かべ、信じられないという風情で私を見つめていた。
蒼い瞳に映るのは、困惑と吃驚と――――焦燥。どうして焦っているの? 私にはわからないわ。
それでも構わない。悪者は早く舞台から降りて、幕を引かなくてはならないのだから。
重みで剣を持つ手が、ほんの少し震えた。その際に皮が裂けたのかしら、ぴりっとした痛みが走る。
彼は痛ましげに顔を歪め、1歩踏み出した。私は反射的に、それと同じだけ足を引く。
私は微笑んだ。彼の目に私が妖花に見えるように。悪者が悪者らしく、彼の目に映るように。
「さようなら」
争いのないこれからの世界に、魔王は必要はない。だから消える。ただそれだけ。
そしてそれは、この私に許された唯一の自由。
「待てっ!」
彼が手を伸ばしてくるけれど、私は構わずに剣を動かして、自分の細い咽喉を切り裂いた。鮮血が散り、紅い唇から命の雫を吐き出す。
「っ! 魔王!」
彼が床に倒れた私に駆け寄ってきた。彼は血に汚れることを厭うこともなくて、私は逞しい腕に抱き起される。
「なんで……」
視界の隅で、光加減で薄紫に見える銀の髪が血に染まっていく。私の唯一と言っても過言ではない、密かな自慢だったのに。彼に会うからと折角用意して貰った紫のドレスも、無残に色を変えてしまっている。彼に綺麗な姿を見て貰いたかったのに。残念。
視界がぼんやりしてきて、もうよく見えない。彼の声も、水の中にいる時のように不透明でよく聞こえない。
でも、これだけは。
私は彼に手を伸ばそうとし、指先が血に汚れていることに気付いて止めた。引き戻そうとしたその手を、彼が取る。
「なんで……っ!」
彼は泣きそうな顔をしてそう繰り返すけれど、直接響いてくる低い声が心地よくて、私は微笑んだ。紅い鮮血に塗れた唇を開く。
初めて彼の存在を知った時から、私の世界は変わった。彼のお蔭で、私は私の真実と、それ以上に大切なたくさんのものを護ることができた。
ひゅうひゅうと、切り裂いた咽喉が嫌な音を立てている。彼に握られている指先は冷え切り、感覚は既にない。
目頭が熱くなり、余計に視界が滲む。
ああ、もう時間は殆ど残ってはいない。本当は、もっともっと彼とお話をしたかった。
もっともっと早く出逢いたかったけれど、私は彼らの敵だから仕方がない。
でも。でもね。
「……あえ…て…………よか、た…………」
彼の蒼い瞳が見開かれる。綺麗な蒼玉の双眸。このような時でさえ、見惚れてしまうくらい――――とても綺麗。
彼が何かを言おうとする前に、私の意識は閉じていく。
最期に彼の瞳を見ることができてよかった。薄れていく意識で、私は何年振りに心から笑った。
たとえどれほど強大な敵を前にしても、真っ直ぐに前を見据える蒼い瞳が、私は好きだった。
願わくば、もう一度貴方に出逢いたい。敵としてではなく、ひとりの女として。
そしてその蒼い瞳に私を映して欲しい。その瞳で、私を見つめて欲しい。
そう思うことは、自由であってもいいでしょう……?
+*+☽+*+☾+*+
「…………私は貴方に恋をしていた」
暗い室内。静寂の揺蕩う冷たい床の上に、密やかな声が落ちる。
「私にとって、貴方は光だった。貴方は何よりも強く、何よりも逞しく、何よりも鮮烈で――――そして何よりも綺麗だった」
ぽつり、ぽつりと。白い頬に幾筋もの線を描く透明な雫が、毛布を握り締める手の甲に落ちては砕けていく。
あの最期の出来事が、もう夢でしかないことはわかっている。わかってはいても、彼が恋しくて恋しくて――――胸が締め付けられるよう。
嗚咽を漏らすことなく静かに涙を流し続けていた私は、のろのろと顔を上げた。締め忘れたカーテンの隙間から、光を失った白い月が見える。
緩慢な仕草で私はベッドから出ると、窓を開けて星の散りばめられた空を見上げた。まだ春先のため、ひんやりと肌を刺す空気が閉ざされていた室内に忍び込んで、足下をくすぐる。
街はまだ眠りの中にいて、目覚める気配はない。だからと言って再び眠ってしまうことは、何か勿体無いような気がしてできなかった。
夜風が頬を撫で、長い黒髪を揺らす。
「…………逢いたい」
逢いたい。逢いたい。
貴方に、逢いたい。
夜の帳に閉ざされていた世界に、朝の足音が聴こえてくる。
闇と光が交差する空を眩しそうに見つめて、私は目を細めた。
夜明けの時だ。