第四話
ぼーっとしたまま、都は毛布から這い出した。
「ええと……」
どこだっけ?と考えたが思い出せず、肌寒さを感じて毛布の中にもう一度もぐる。
「って、そうだ!」
思い出してぱっと飛び起きた。
いささか高い寝台から木の床に降りると、裸足のまま窓に近寄る。背の高い窓にかけられた布を引っ張って、少しだけ開いた。
「うわ……」
目の前に広がるのはなだらかな丘陵と点在する紅葉した森。その向こうに銀色に光る湖がほんの少しだけ見える。着いたのが夜だったので全く様子がわからなかったが、まるでヨーロッパの北のような風景に感嘆する。
室内に目を向けると、都が眠っていた天蓋付の寝台の足元にコギンが丸まっていた。そして床には背負ってきたディパックがひとつ。綺麗な布の張られた椅子の上には脱いだものが掛けてある。
物凄く広い……というわけではないが、それでも都の部屋の倍の広さはあるはずだ。
「こういうの、普通なのかな。」
溜息をついて視線をもう一度外に向ければ、足元には手入れされた庭が一望できる。もそもそと寝台に戻り、枕元に置いてあった男性サイズの腕時計を覗いた。
早瀬の運転する軽自動車でフリューゲルに向かったのは夜も更けた頃だった。
とっくに閉店した店内は小さな照明が灯るだけの幻想的な空間で、ただ一人、セルファ・アデルがカウンター席でコーヒーカップを手に都を待っていた。
都はコギン用と化しているカメラバッグを開けると、小さな白い竜を抱き上げた。
「随分大きくなりましたね。」
セルファの声を合図に、一回り大きな銀竜がふわりと舞い降りた。
コギンが嬉しそうな声をあげてパタパタとまとわりつく。
「ルーラ、伯父上の銀竜です。そしてコギンの親。」
え?と都は早瀬を見る。
「マスターの?」
ルーラと呼ばれた銀竜は早瀬の肩に止まる。彼が身体をなでると、気持ちよさそうに目を細めた。
「僕の……という訳ではないけど、随分長く一緒にいる銀竜だよ。」
「門を通るには銀竜が必要なので。それとこれを。」
それは古い映画か写真で見た、大昔の飛行機乗りが使うようなゴーグルだった。
「通り抜けたら必要になります。」
今は必要ないと言われたので、とりあえず首に提げておく。他にもいくつか注意や説明を受けていると、早瀬が手にしていたものを差し出した。
「正確な日付が必要になるから、これを持っていきなさい。」
重たそうな腕時計だった。
「女性用じゃないから大きくて申し訳ないんだけど。」言いながら、都の細い腕と見比べる。
「でも、壊したら困るし。」高価そうな時計に都は躊躇する。
「新学期までの時間が限られているからね。正確さは何者にも代えがたいし、その点は自己管理に任せるしかないから。」
自己管理と言われて都は時計を受け取った。普段使いの華奢なクォーツは早瀬に預け、上着の袖の上から革のベルトを巻きつける。まるで飛行機のメーターのような時計の重量感がズシリと腕に伝わる。
「都ちゃん、こんな形で送り出して本当に申し訳ない。竜杜にも都合はあったのかもしれないが……」
都は首を振る。
「わたしが言い出したことだから。」
「ルーラ、彼女のこと頼んだよ。コギン、お前もだ。セルファ……」
「ええ。伯母上にも伝えておきます。」
応える代わりに早瀬は二人を促した。
セルファが先に立って階段を下りる。
店に地下があることもそこに門があることも知っていたが、実際に都が降りるのは初めてだ。そもそも地下室へ至る階段は「使われていない」ことを理由に、従業員控室の奥に隠すようにひっそりとある。コンクリート打ち放しのそれはところどころヒビが入り、蛍光灯を頼りに注意深く進むとレンガとコンクリートで囲まれた小さな部屋に行き着く。天井が低く感じるが早瀬が立っても余裕があるので、二メートルちょっとほどだろうか。壁には神棚、床には埃を被ったバケツや一升瓶、スコップや防災ヘルメットまで転がっている。
その奥にもう一つの小さい扉。
コギンが小さな手で、都にぎゅっとしがみついた。
「ここは特別な場所だから。」誰に言うともなく早瀬が呟く。
セルファが銀竜を呼んだ。
ばさり、とルーラがその腕に舞い降りると、その金色の瞳が自分の目の高さに来るところまで腕を持ち上げる。
「白き翼の盟友に連なるもの、案内をお願いします。」
ぐぁ!とルーラが鳴く。
「ミヤコは私の手を離さないように。コギンは繋いでますね?」
念のために、と言われコギンの足と自分の手首を紐で繋ぎ、セルファをと同じように腕に止まらせる。
「気をつけて。」
早瀬に見送られて扉をくぐった。
ぱたん、と背後が閉まると辺りは闇。
その中でぼうっと白く光るものがあると思ったら銀竜だった。
差し出されたセルファの手に緊張しながらつかまり、引っ張られるように歩き出す。
不思議な空間だった。
高いのか低いのか、狭いのか広いのか真っ暗なのでわからない。足元は土のようでもあり、コンクリートのようでもある。音もなく、匂いもない。まるで夢の中を歩いているような気持ちになってくる。
どれほど歩いたか。
空気が変わったと思うのと同時に、湿った土の匂いが鼻先をくすぐった。やがて冷たい風の流れを肌に感じるとその先に小さな光の点が見えてきて、やがてそれがトンネルの出口だと気付く。そしてそのまま歩くと外に出た。
セルファの手が離れた。
と、
「え、ええっ!」
向こうと同じ夜の闇の中、けれど暗がりに慣れた目はしっかりと辺りの風景を捉えていた。
「狭いので気をつけて。それとも高い場所は苦手でしたか?」空を見上げ、言葉を口にしていたセルファが肩越しに振り返る。
「じゃなくて、なんなんですかっ!ここ!」
「門の入り口です。」セルファは眉一つ動かさず、当然のように言う。
そこは断崖絶壁の中腹だった。
二人が立っているのは畳三枚ほど張り出した場所で、その先に足元を支えるものは見当たらない。振り返ると、たった今出てきたのは洞窟で、都が見た光は足元に置かれたランタンだった。そして目の前には同じような断崖絶壁。距離はあるのだろうが見上げれば、岩と岩の裂け目に迷い込んだような風景である。そして岩の隙間から見えるのは、白い光を帯びた月。
昼間だったらむしろ恐怖が先行するだろうか。それに今は風がさほど強くないが、これが悪天候だったらどうなるのだろうと不安になる。
「この場所だから一族しか使えないのです。」
セルファは灯りを拾い上げると光を細くして都に渡した。
「熱くないですか?」
「火ではありませんから。」
言われて見ると、確かに炎とは違った輝きがガラスの中に灯っている。フィラメントも見当たらないので、電球とも違うらしい。
「来たようですね。」
セルファの声に顔を上げる。
「あ……」
ルーラが舞い上がってその背に止まった。
「竜……」
「竜に乗ったことは……」
「フェスには……」
「では本物は……初めてですね。」
都は息をついて竜を見上げた。
大きいのか小さいのかわからないが、都の基準からすれば大きな生き物だろう。「竜」と名がついていても、銀竜とは全然違う。
セルファは空中でホバリングしている竜の背に、簡単な鐙のようなものをかける。
「名前……あるんですか?」
「あったとしても、それを知る必要はありません。彼らと自分たちはただ空を思い、共にそれを守るだけ。」
はぁ、と溜息のような返事をする。
その後経験したことは、言葉で説明しづらいことばかりだった。
胸にコギンを抱いてセルファの前に座ったが、周りを見る余裕はなかった。ゴーグルをかけているのでかろうじて前を見ることはできるが、闇ばかりで何がなにやら判らず。そんな調子でようやく慣れたと思った頃には、柔らかな土の上に降ろされたのだ。
セルファが何か言葉をかけると、竜は小さく咆哮してそのまま空に舞い戻った。
「行きましょう。」
促されて振り返れば、明かりの漏れた建物がすぐそこにある。その石造りの建物の前にはシルエットが二つ。
「お帰りなさいませ、セルファ坊ちゃん。」
声がした。
見ると両開きの扉の前に、老齢の女性が佇んでいる。
「イーサ、リュートから連絡は?」
いいえ、と女は首を振る。
「そうか……」と呟いてから、セルファは傍らに立つ背の高い中年女性に向いた。
「遅くなりました。」
「ご苦労様。時間はあまり当てになりませんから。それよりルーラにも何も届いていませんか?」柔らかな声が訊ねる。
都は息を呑んだ。
すっと伸びた背筋に首を覆うブラウスと足元までの長さのスカート。まるでヴィクトリア期のスタイルだが、その凛とした姿が彼女には似合っていた。茶色の髪は結い上げ、手入れされた指には指輪が一つ。たったそれだけなのに、決して派手ではないが見るものを惹きつける美しさがある。
「ミヤコ。」
セルファが呼んだ。
「あ……はい。」
「伯母のエミリア・ラグレスです。」
聞かなくともわかっていた。
リュートとセルファと同じ漆黒色の瞳を持つ女性の前に立ち、無意識にきゅっと掌を握り締める。頭の中で何度も考えていたはずなのに、いざ彼女を目の前にしたら喉の奥が張り付いて息苦しい。
意を決して都が唇を動かしたのと、エミリアの手が伸びたのが同時だった。
エミリアは自分より小柄な少女の身体を優しく抱きしめる。
驚いた都の耳に声が届いた。
「ごめんなさい。」
「え?」
「あなたを巻き込んでしまったこと……謝らなければいけないと思っていました。」そして、と優しい声が続く。
「あの子を……リュートを受け入れてくれてありがとう。」
「そんな……」謝ってもらう筋合いなんてない。
「わ、わたしのほうこそ……」都は身体を離してエミリアを見上げた。
恋人と同じ色の瞳がそれを優しく受け止める。
「リュートがいなかったら、こうしてここにいることはできなかったから……だから……お礼を言うのはわたしのほうです。それに……」自分と契約したことで、きっと迷惑をかけているはず。
けれどその謝罪はエミリアの言葉に遮られた。
「カズトの言うとおり、優しいのね。けれど自分を責めるのはおやめなさい。」
「でも……」
「あなたはリュートが選んだ相手。そしてまたあなたも、リュートを選んでくれた。それ以上の説明が必要かしら?」
都は首を振る。
「国の違いなど些細なことです。なにより契約が成立したということは、何か縁があってのことなのでしょう。」それに、とエミリアは都を見つめる。
「リュートがあなたを独り占めするものだから、少し腹が立っていたの。だから会えて嬉しいわ。」
「あ、ありがとうございます。」ぺこんと頭を下げる都の肩に、コギンがふわりと止った。
「コギン。」エミリアが呼ぶとコギンはうぎゃ、と応える。
「よい名前をもらったわね。それに随分可愛がってもらっている。ルーラも安心したでしょう。」
舞い上がったルーラがエミリアの差し出した腕に止まる。
「カズトに会えて嬉しかったのね。フリューゲルのこと、色々聞かせてちょうだいね。」
最後の言葉は自分に向けられたものだと気付く。
「その前に、休ませてもらえませんか?」セルファが口を挟んだ。
「何度通っても、気分のいいものじゃありませんから。」
眉をひそめるセルファに笑いながら、エミリアは二人を促した。
ようやっとファンタジーらしく・・・なったのかな?うーん・・・