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第三話

 遠くで声がした。

 若い女の声。

 誰が何を言っているのか、聞き取ろうとするのに全く言葉がつながらない。

 それにひどく頭が重い。

 女の声が近づく。

「……こんなことをする必要があるのですか?」

「神を守るのが我らの役目。」

「人を受け入れるのも、神の役目ではないのですか?」

「忍び込む(やから)に言葉が通じると思うか?」

「だからといって、理由も聞かずにこのようなことをするなんて!」

「お前が司教に目をかけられているとはいえ、おれを(とが)める筋合いはない。」

 息を呑む気配。

「人として……卑怯だと思わないのですか?」

「生憎。それが仕事だ。」

 湿った土の匂いに混じって、吐きそうなほど甘い匂いが鼻先をかすめる。

 耳に届いた呻き声は自分のものだったのか?

 それを確かめる間もなく、声は更に遠のく。


「一体……」震える声が問いかける。

「眠らせただけだ。」

 黒尽くめの服を着た、若い赤毛の男が立ち上がった。革の手袋をはめた手の中で小さな瓶の蓋を閉める。懐にしまいながら、背後に従えていた男達に目で合図を送った。

 灰色のフードを被った男達は、言葉を発することなく抱えていた担架(たんか)を地面に下ろす。そうして足元に倒れている長身の男を手際よく乗せた。

 月明かりに男の横顔が浮かび上がる。目を閉じたどこか異国風情の漂う顔に黒髪が無造作にかかる。

「面倒はあなたが見るのですよ、ネフェル。」

 名前を呼ばれて彼女は顔を上げた。血の気の失せた唇を真一文字に結び、少女の面差しが残る緑色の瞳で相手を()めつける。

 赤毛の男が指示を出すと、灰色のフードたちは草を踏みしめながらその場を立ち去る。

「この時期に司教の気を()ぐような行いは、神への冒涜に等しい。」

「神は常に寄り添うべき存在。それを許さないほどの冒涜だとは思いません。」

 赤毛の男は灰色の瞳を細めて相手を見た。

「お前のような半端者に言われる筋合いはない。」

 冷たい視線にネフェルは息を呑む。

「お前がここにいられるのは司教さまのおかげ。それを忘れるな。」

「忘れてなんて……」

「ならば言われた事だけしてればいい。たかが語り部一人、いつでも放り出すのはたやすいこと。」

 ネフェルは唇を噛みしめる。

「ああ、それと……」男は背をかがめて彼女の耳元に口を寄せる。

「彼が目を覚ましたら、ここで何をしていたのか聞いておけ。」

「それで情状酌量じょうじょうしゃくりょうの余地があるというの?」

開帳(かいちょう)までは大人しくしてもらう。だがその後のことは……聞いてから決める。」

 頭上から男を呼ぶ声がした。

 振り仰ぎ、手を振って合図を送ると足早にその場を立ち去る。

 一人残されたネフェルは、草むらにしゃがみ込んだ。緊張の糸が解けたのかひどく疲れきっている。結い上げた金色の髪がほつれ、顔に影を作る。

「あの人は苦手。」そっと呟く。

 首まで衿で覆われた(ドレス)は先ほどの男達が被っていたフードと同じような灰色で、飾り気は一切ない。ふくらはぎから下は履き古した編み上げの靴で、けれどそんないでたちであっても彼女が若く整った容姿であることは一目でわかる。

 控えめに、大人しく、慎ましく。

 ここではそうあるべきだと教えられた。

 それは構わない。

 けれど彼の灰色の瞳と対峙(たいじ)しその言葉を聞くと、心の深い部分を傷つけられるような痛みを感じる。

 最初からそうだった。彼はいつもネフェルを見下し、(おとし)める言葉を投げかける。

 彼女が信徒(しんと)ではないことへのあてつけ、そして司教の庇護を受けていることへのやっかみもあるのかもしれない。

 けれどそれは自分が望んだわけではない。

 司教さまは「気にするな」と言うが、ネフェルは苦しくて逃げ出したくなる。けれど行く当てのない、後見人すらいない自分を雇ってくれるところなど他にないだろうし、もしあったとしても真っ当な仕事とは思えない。少なくともここにいれば、母の志を受け継ぐことができる。それは自分が何よりも信じるべきことであり、同時に自分をここに導いてくれた人への恩返しに他ならない。

 ふと顔を上げて空を見る。

 頭の上には白く輝く月、そして少し離れたところに灰色の影を映すもう一つの月。いつもと変わらぬ二つの光を見ていると、少し心が安らぐ気がした。

 軽く息を整えて立ち上がる。

 神舎(しんしゃ)に戻ろうと足を踏み出したとき、何かが目の端に留まった。手を伸ばして草の間に落ちている物を拾い上げる。

 小さな紙片だった。

 開いて首をかしげる。

「ネフェル?どこにいるの?」頭上から女の声が反響した。

 あっ、と顔を上げ、ありったけの声で叫ぶ。

「今、行きます!」

 紙片を袖の内にしまうと、踵を返してその場を離れた。


「遺跡目当て?」

「ここ数日、何度かこの神舎を尋ねてきた男と特徴が一致します。」

「学者かね?」

 揺らめく明りの向こうで、相手は背をこちらに向けたまま問いかける。肩に届く髪は白く、一心に何かを書き綴っている手には深い皺が刻まれている。彼は書き上げたものを傍らに置くと、また新しい木札を手に取り同じ作業を繰り返す。

 その流れるような手元を見ながら、赤毛の男は淡々と報告する。

「判りません。身元を示すような持ち物は一切……ただ風貌と言葉から察するに北のほうの人間かと。」

「それはあまり気にしなくて良い。それよりも上がよこした可能性は?」

「それは……ないと思います。昼間応対した者に聞いたところ、竜の時代の遺跡を訪ねて来たとのこと。」

 ふと、相手の手の動きが止まった。

聖竜(せいりゅう)リラントか。」忌々(いまいまし)しそうに呟く。

「ひょっとして竜を繰る一族……」

 いいや、と白髪の頭が左右に揺れる。

「連中はこんな場所に近づきもしない。それはそれで好都合だが……」そこまで言ってふっと肩の力を抜く。

「じきに月も光を戻すか。」

「はい。場合によってはその男……」

「余計なことはするな。むしろ気付かれると面倒だ。せめて開帳の儀が終わるまでは丁寧に扱え。」

「それはネフェルに任せてあります。」

「あの娘も使えると思ったが……母親ほどの知識は持ち合わせていないようだな。」

「そうでしょうか。」

「そうではない、と?」

「曖昧な思想が知識を妨げています。」

「いずれ……力を知れば信じるものが何かわかるだろう。」

 赤毛の男は小さく頷く。

「それと、ゼスィ。ガッセンディーアから、開帳に立ち会いたいという関係者がやってくる。」

「断っているはずでは?」

「相手も司教の位を持つ人間だ。迂闊(うかつ)に断ることもできん。供が一人二人いるはずだが、いずれもルァに仕えるものだ。丁重に扱うように。」

「判りました。」そっと頭を下げる。

 白髪の男は再び木札に向かうと手を動かし始めた。


 外に出ると水の流れる音が耳につく。

 昼間は気にならないほど小さな音だが、人が寝静まるこの時間になるとその存在感が増す。

 回廊(かいろう)の端まで来たゼスィは顔を上げ、真上まで昇ってきた月を見上げた。手袋をはめたまま左手を空に突き出し、まるで光を受け止めるかのように(てのひら)を広げる。

 目を閉じるといつもとは違う、言いようのない感覚を指先に感じた。

 溜息のような声が漏れる。

 この場所に来て初めてそれを感じた時、嬉しさのあまり背筋が震えたことを思い出す。あれから数年。こうして触れるたび、確実な手応えを感じるたびに心が安堵し充足感で満たされていく。そうして確かに古い時代、この世界が「気」に満ちていたのだと確信する。(いにしえ)の人々はそれを知っていたからここを選んだのだろう。

 ゼスィは目を開いた。

 失われたものを取り戻すのが容易ならざる事は心得ている。だが、こうして確実に力が存在しているならば、その道を切り開くことも……。

 ゼスィは己の掌に目を落とす。

 ぎゅっと握り締めると、もう一度目を閉じた。そうしてたたずむ彼の唇から、言葉とも歌ともつかないものが流れる。

 ざぁーっと風が吹く。

 その風はどこか、不穏(ふおん)な空気をはらんでいた。

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