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第二話

 早瀬竜杜(はやせ りゅうと)のことを説明するとき、都はいつも悩んでしまう。

 差し障りがない経歴を述べるなら、戦後すぐから続く喫茶店フリューゲルの三代目で、目下交際中の都の恋人。九歳年上の二十六。背が高く運動神経も良くて、その少し低い声で名前を呼ばれるとくすぐったいような嬉しいような気持ちになる。普段は別の場所で仕事をしており、都と会うのは東京の実家に戻ったときだけ……といったところだろうか。

 髪も瞳も黒いのは日本人として当然だが、よくよく見ればどこか不思議な雰囲気をまとっているのが印象的。以前店で接客中に聞かれたとき、「母が外国人なので」と答えるのに遭遇したことがあった。 

 確かに。

 竜杜の母、エミリアは日本以外で生まれ育ち、今もそこで暮らしている。外国といえば外国に違いない。けれど頭に「異世界の」という言葉がつくのを忘れてはならない。それを知っているのは都と保護者の冴、それに早瀬の旧友、宮原夫妻を始めとする「共犯者」と呼んでいる、ごくわずかな数人だけ。他言できることではないし、まず誰も信じないというのが早瀬の弁である。

 その世界では地上に人、そして空には竜が住んでいるのだと言う。その二つの世界を(つな)ぐのが「一族」と呼ばれる一派。彼らは竜と意思を通わせ、その背に乗って空を飛ぶことを特技としている。

 エミリア・ラグレスはこの一族に名を連ねる一人であった。若くしてラグレスの家を継いだと、都は竜杜から聞いている。

 そもそも二つの世界がどうして並行的に存在するのか、誰にもわからない。けれどこちらと向こうは「門」と呼ばれる通路で繋がっており、長い年月閉ざされていたため向こうの世界でもその存在は伝説化しているらしい。けれど門は今でも存在し、門番である早瀬一族の手によって「こちら」の世界で大切に守られていた。

 そんな二つの世界の人間が接点を持ったのは偶然だったのだろう。けれどその偶然が門番の後継者であった加津杜(かずと)と、一族の後継者であったエミリアを引き合わせた。そうして紆余曲折の末に結ばれた二人の間に生まれたのが竜杜である。

「だから、早瀬竜杜もリュート・ハヤセ・ラグレスも本名だ。」と言われても、都にはピンと来なかった。

 かろうじて理解したのは彼は竜を繰る一族でありながら、門を守る門番の後継者でもあるということ。そしてそんな人材は「向こう」でも彼一人しかいないということ。

 もちろん出逢った頃は、彼がそんな役目を背負っているとはゆめゆめ思いもしなかった。それどころか危ないところを助けてもらったとはいえ、男性不在の家庭で育った都には年上で口数の少ない彼の第一印象はむしろ怖いものだった。その後偶然再会し言葉を交わすようになって、ようやく「不思議な雰囲気の人」と思うまでになったのだ。今は短い彼の黒髪が、その時は長かったのも一因かもしれない。本人いわく、こちらの世界で暮らすのが十数年ぶりで「慣れるのに手間取った」時期だったらしい。

 ようやく「顔見知り」まで昇格した頃。

 それまでも何度か遭遇した「黒き竜」と呼ばれるものに、都が襲われた。

 それは遥か昔、「向こう」から「こちら」に追放された竜の魂で、かつて封印されたものが長い年月を経て、名も知らぬ一人の男を依代(よりしろ)にして復活したのだ。彼は都を執拗に狙い、その血を欲した。

 理由は今もわからない。

 何か言われた覚えはあるが、後になってそれが全く思い出せないことに都は愕然(がくぜん)とした。

 ただ薄れる意識の中にあって大きくて暖かな(てのひら)が自分に触れていたこと、そして必死に自分を呼ぶ声があったことは記憶している。けれどその時一体何をされたのか、何が起きたのかはすでに意識の外の話。翌朝目覚めて自分が死ぬ寸前だったと教えられても、そして消えそうだった命が竜杜との「契約」によって繋ぎ止められたと聞いても首をかしげるばかりであった。

 そもそも彼らが「契約」と呼んでいる行為は、互いが互いを支えるための一族の婚姻の契約で、決して白紙にすることはできない、そしてなぜこちらの世界で成立したかわからないという代物だった。

 命を助けてもらったことは感謝したが、突然突きつけられた「婚姻」の二文字に困惑したのは言うまでもない。そんな彼女の様子を竜杜はちゃんと見ていたのだろう。契約が彼女を苦しめるのなら、別の道を歩んでも構わないと言ったのだ。

「だがもし一緒に歩いてくれるのなら、俺は君を守りたい。」

 そう言われてすぐ答えが出るものでもない。

 気持ちが変わり始めたのは、彼の空への思いを垣間見た頃だろうか。

 彼らが「同胞」と呼ぶ、竜という生き物と共に飛ぶその空が、自分の目にしている空と違うと気付いたとき。「自分も同じ空を見たい」と強く思ったのである。

 その気持ちを伝え、彼の気持ちに応えたのが昨年の秋。

 もちろんお付き合いから……だったが、その成り行きに激怒したのが小暮冴(こぐれ さえ)だった。

 三年前に母親を事故で亡くした都にとって、親代わりとも言える実質的な保護者である。ただ竜杜と出会った頃は仕事の都合で日本を離れており、そんな最中に都に男ができただけでも「はぁ?」という状況なのに、異世界なんて訳のわからないものが絡んできたのだから反対するのも当然といえば当然だった。最終的には状況を理解してくれたからいいが、冴と対立したその時期は都にとってひどく辛いものだった。

 なのに今では職場から近くて便利を理由にフリューゲルに日々通っているのだから、文句の一つも言いたくなる。

「だったら、最初からあたしが納得するように説明すればいいでしょ。」

「だって、冴さんみたいに説明、上手くないもん。」

「プレゼンテーションなんて訓練よ。口と言葉は何のためにあるの?」

 そう言ってむにっ、と都の唇をつまむ。

 もうっ!と都は頬を膨らませる。

「冴さんの言い方、お母さんにそっくり!」

「朝子が生きてたら同じこと言ったわよ。」眼鏡の奥の瞳がにっこり笑う。

 なんだかんだ言っても、彼女が心底心配してくれていることは都だって了解している。だからこそ非常識を承知の上で竜杜との交際を見守り、彼が都に託した小さな白い竜との暮らしも受け入れてくれているのだ。

「まぁ、遠距離すぎるのはどうかと思うけど、マスターが言うとおり真面目は真面目なのよね。それが腹立つっちゃ腹立つんだけど……」

 褒めているのか文句を言っているのかわからない言葉に都は苦笑する。

 けれど遠距離すぎる事に関しては認めざるを得ない。だからこそ、セルファとの対話の場で腹をくくって切り出したのだ。


「そりゃまた、思い切ったわね。」

「だって……」後ろを向いたまま、都は唇を尖らせる。

 フリューゲルから戻り、ちょうど同じタイミングで帰宅した冴と遅めの夕食を共にし、お茶でも()れようかと思案しているところだった。背伸びをしてシンクの上の物入れにストックしてある茶葉を物色する。

「待ってるだけじゃ飽き足らず、追いかけてみようかな、とか?」グラスに残ったビールを飲み干して冴は言った。

「すっごく、やな言い方なんだけど。」

「直訳すればそういうことでしょ。」

 ごちそうさま、と立ち上がる。

 帰宅してすぐに夕食だったので仕事着と化しているジーンズ姿のままである。少し癖のある髪は束ねていて、華奢なフレームの眼鏡の奥の瞳はアルコールでリラックスしている。四十三という実年齢より若く見えるのは、自分以下四名のスタッフを抱えるインテリア設計事務所の責任者として動き回っているせいか、はたまた自分より年下のスタッフと毎日意見を戦わせているからだろうか。

「大体都ちゃん、素直じゃないわよ。」食洗機に皿を放り込みながら冴は言った。

「どういう意味?」

「だって好きで竜杜くんと付き合ってるわけでしょ?だったら会いたい、でいいじゃない。変な理由つける必要なんてないでしょ。」

「だ、だから……」

「図星か。」

「それもだけど、コギンのこともあるから……」

 名前を呼ばれたと思ったのか、安楽椅子の上で丸まっていた子猫ほどの大きさの白い竜がぴくりと起き上がった。金色の目をきらきらさせ羽を広げて、文字通り都のところに飛んでくる。

 身体はもちろん羽も真っ白で、見る角度によって銀色に輝いて見えることから「銀竜(ぎんりゅう)」と呼ばれている生き物だ。(うろこ)は当然固いが、その表面はサテンのような滑らかな触り心地。その色と質感もあって、指先に仕込まれた爪も裂けた口も怖いというよりむしろ神々しい印象を与える。

 生まれたばかりでまだ名前もなかったこの銀竜を「いずれ必要になるから」と竜杜から手渡されたのは五ヵ月ほど前のこと。今より一回り小さく、しかも向こうの世界でも貴重な生き物を自分が育てられるか不安だった。けれど一緒に暮らし始めればそんな不安は杞憂(きゆう)に終わり、今では都はもちろん冴にもすっかり懐いている。まだ完全な大人でないため出来ること出来ないことがあって、それを把握していないのが不安といえば不安。けれどいざとなれば「銀竜研究者」の肩書きを持つ早瀬に聞くことができるし、必要最低限の能力はちゃんと発揮している。

 それは「声を伝える」ということ。

 世界が違うほどの超遠距離では、当然、携帯電話も郵便配達も存在しない。今日のように向こうの人間が来て手紙を渡すこともあるが、そうそう行き来があるはずもない。そんな状況での連絡手段が、銀竜を介した声のやり取りなのだ。銀竜のテレパシー能力を使った留守番電話機能と思えばいい……と言うのが早瀬の説明で、その言葉どおりコギンの口から竜杜のメッセージが聞こえた時には、思わず「おおっ!」と声を上げてしまった。ただし記憶能力は個体差によるところが大きく、コギンはまだ子供だからかそれとも性格なのか、声を受け取った翌日に綺麗さっぱり忘れてくれるのが残念なところ。それによく甘えるのも銀竜にしては珍しいとか。

 今も都の肩に止まってスリスリと身体を寄せ、喉を鳴らしている。

「コギン、危ないからそっちに行ってて。」と言うと、ようやく肩から降りた。

 湯気を噴いている電気ケトルを持ち上げ、急須(きゅうす)に注ぐ。

 茶菓子と一緒に運ぶと、ダイニングテーブルの片隅にしつらえた小さな座布団の上にコギンがちんまり座っていた。その姿が可愛らしくて思わず口元がほころぶ。

 座布団、といっても不要になったカーテンのサンプル布地で冴が作ったもので、彼女はコギンの寝床も現場で拾ってきた端材(はざい)であっという間に作ってくれた。

「建築関係やってりゃ当たり前よ。」と言うが、スキルがない都はそれだけでも凄い!と思ってしまう

「いい香り。金沢の棒茶……久しぶりね。」

 都が置いたマグカップを手に、冴は目を細める。

「この間見つけたの。昔お母さんがよく買ってきたよね?」

「そういや、一時よく金沢に行ってたもんなぁ。あいつ。」

「何を撮影してたんだろ?」

「さあね。年中動きまわってたから、こっちは何がなにやら。」

 商業写真家だった都の母親は風景を専門としていたので、どこかに出かけることが常だった。独身の頃は海外にも足しげく通っていたようだが、都が生まれてからは国内を飛びまわり、時には同じ場所に何度も通うこともしばしば。そんなシングルマザーだった彼女が頼りにしていたのが、学生時代からの親友の冴だったのだ。そんな経緯もあって都が小学校に上がる頃には同居状態になり、母親が事故で亡くなった今でも、こうして一緒に暮らしている。血のつながりこそないが都が「家族」と呼べる唯一の存在なのである。

「学生の時なんか、ほーんと、よく行方不明になってたもの。今みたいに携帯電話もないでしょ。単位不足予告で掲示板に名前貼り出されたって、連絡できやしない。」

「よく卒業できたね。」

「フォローするほうも大変だったわよ。」学部違うのに、と付け加える。

「でもお母さんって、最後までそんな感じだったよね。」

 都の言葉に冴は微笑んだ。

 元々内向的な子だった。それが母親を亡くし、受験もままならない状態で高校に進学。やる気があるのかないのか判らない毎日を過ごしていた。その頃に比べれば近頃は前向きになったし、外へ出るようになったと感じる。それと以前は口にするのをためらっていた母親の事をこうして話すようになったのは、進歩と言ってもいいだろう。

 吹っ切れた。

 その言葉がふさわしい。

 きっかけが早瀬竜杜であったことは腹立たしいが、楽しそうにフリューゲルに通う姿を見ていると、その笑顔が続いて欲しいと願うのは保護者として当然だろう。

「もしかして……あっちに行くって言い出したこと……怒ってる?」

 上目遣いに、都は冴を見る。

「怒ってどうなるもんでもないでしょ。頑固なところは朝子にそっくりなんだから。」

 冴は半分にちぎったカステラをコギンに渡した。竜は小さい手でそれを(つか)むと、匂いをかいでから「はぐっ」と噛り付く。もぐもぐ咀嚼(そしゃく)すると、金色の瞳を嬉しそうに細めた。

「それにこの場で反対するくらいだったら、あの時どんな手段を使ってでも、竜杜くんと別れさせてたわよ。むしろ自分から言い出したってのに驚いただけ。」

 自分ひとりの問題であれば、きっと待つことを選んだだろう。

「コギンに……空、見せてあげたいなぁって……」

 今は背中に折畳まれている、滑らかな竜の羽を指先でなぞる。

「フェスみたいに危険なことが判ってれば、こっちでも空に放すことできるんだけど……見てて危ないって言うか……」

 時折このマンションより広い早瀬家の室内で遊ばせていても、とんでもないことをしそうになるから目が離せない。早瀬に言わせれば加減を知らないのはちゃんと飛んだことがないからで、段階を踏んだ訓練をすれば「こちら」でも飛ぶことは可能だと言う。

「一度思いっきり飛ばせたほうがいいのかな、って考えてたから。ちょうど春休みだし……」

「確かにこの子が思い切り飛んでるの、見たことないもんね。」

 もっと頂戴と催促の手を伸ばすコギンに、都は「おしまい」と言って聞かせる。銀竜は悲しそうな声で鳴くと、恐竜柄のマグカップに顔を突っ込んでお茶をすすった。

「出会いは事故だったかもしれないが、今はそれに感謝してる、か。」

「な、何?」

 突然の冴の言葉に都は目を剥く。

「あたしじゃないわよ。竜杜くんがそう言ったの。」

「い、いつそんなこと……」

「都ちゃんが発作起こした時。まったくああいう台詞さらっと吐けるところが、腹立つのよね。って、都ちゃん顔赤い。」

「だって……」都は両手で顔を覆う。

 嬉しいは嬉しいが、冴の口から聞くとなんとも恥ずかしい。

 そんな都を見ながら、冴は言った。

「いってらっしゃい。」

 顔を上げると、眼鏡の奥の優しい表情と目が合う。

「待ってるだけじゃ後悔する事もあるでしょ。朝子の時と同じ思いすることないもの。」

「ごめん。」

「ただし、やるべきことは片付けてから。明後日、終業式だっけ?」

「あ、うん。」

「だったら課題と用事は先に片付けて。もちろんあたしは手伝わないわよ。それと新学期までには戻ってらっしゃい。竜杜くんと一緒にね。」


 それから数日。文字通り都は走り回った。

 わずかな課題をやっつけ、図書館に本を返す。

 手間取った写真部の作業は結局終わらず、同じ部の波多野(はたの)に後を頼むことにした。

「ついでだからかまわねーよ。心行くまで墓参りしてこいや。」

 二つ返事で引き受けてくれたクラスメイトには、都は「母親の墓参りに行く」と説明したのだ。

 少しだけ良心(りょうしん)呵責(かしゃく)を感じて、心の中で「ごめん」と手を合わせる。けれど冴が足を運ぶ予定なので全くのでたらめではないし、波多野は中学も一緒だったので都が母親を亡くしていることは承知している。

「そういや、新川(ぶちょう)から連絡もらった?」

「演劇部の撮影がどうとかって奴なら……でも新学期の話だよね?」

「だな。春休みは……っと女子チームは宿題あるんだっけ?」

「宿題って言うか実験。」

 普段はテーマなどない写真部なのに、なぜか引きずり込まれたお題に彼女が取り組んでいるのは他の部員も承知しているのだ。

「今までやったことないから面白いけど……勝手が違うっていうか難しいね。」

「だろうな。オレだって、んな原始的(レトロ)なの使ったことねーもん。とりあえず上手くできたら見せて。」

「上手く・・・行くかなぁ。」

 苦笑しながら、都は資料一式を波多野にうやうやしく渡した。

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