第二十八話
その日の夕方、都は薬師に預けていたコギンを回収すると、クラウディアと共に慌しくラグレスの家に戻った。
薬師の家族と別れることも心残りだったが、アルが「次に会うのはガッセンディーアだよね。」と言ったので気が楽になった。
それより辛かったのはネフェルとの別れ。
「連絡するから。」
そう何度も念押しし、それでも名残惜しげに「絶対、また会おうね。」と約束を交わしたのだ。
ラグレスの家では先にダールが立ち寄って話をしておいたらしく、都がとんでもない捕り物に巻き込まれたことに驚きつつも無事を喜び、すぐに休めるよう準備してくれていた。ただしエミリアは、事後処理で一緒に戻れなかった自分の息子に対して遠慮なく文句を言っていたが……。
都もホッとして疲れが出たのか、この二日間ひたすらボーっとしていた。そうして自堕落的に過ごしていると、ラグレスの家が居心地の良い場所だということに気付く。まるで何かに守られているような安心感。それはどこかフリューゲルや、早瀬家の母屋に身を置いたときの心地よさに通じるものがある。
特に都が好んだのが温室だった。エミリアが手塩にかけた花や池を眺めるのは気分転換になったし、他の銀竜に会うこともできる。
コギンも催促するように都を温室へと促し、そうして足を踏み入れると真っ先に親であるルーラの元に飛んで行くのである。ルーラもまだ成竜になりきっていないコギンには甘いらしく、睦まじい様子を眺めているのも飽きなかった。
今日も料理人の作るおいしい夕食をお腹いっぱい食べた後、かろうじて眺められそうな絵本を持ち込んでやって来たが、気がつけば昼間の日差しが残していった暖気に誘われて長椅子の上でうとうとしていた。
ふと、気配を感じて身じろぎする。
薄目を開けて、傍らに人がいることに気が付いた。
「りゅーと?」寝ぼけ眼をこすりながら起き上がる。
拍子に薄い布が肩から滑り落ちた。
「夜は冷えるぞ。」
「あ、うん。寝るつもりなかったんだけど……」
「ここはは居心地がいいからな。」
「今日も……帰ってこないと思った。」
お帰りなさい、と言って改めて相手を見上げる。
伸びた黒髪が無造作に顔にかかっているが、二日前に別れたときよりこざっぱりした印象を受ける。
「もっと早い時間にこちらに戻ってたんだが……セルファの……アデルの家で足止め喰ってた。」
「いつからここにいたの?」
「都が目を覚ます少し前。その前は母に捕まってた。もう一度くらい司教殿に呼び出されそうだと言ったら、えらく不機嫌になった。」
その様子が目に浮かぶようで、都はくすっと笑う。
傍らにいたコギンに気付き、そっと抱き上げる。
「コギンも寝ちゃった、か。」
起こさないように気をつけながら、ルーラの寝床に置いた。ルーラはコギンに寄り添うと、自分も身体を丸めて金色の目を閉じる。
「そういえば、フェスは?」
「部屋にいる。まだ本調子じゃないんでルーヴに薬を作ってもらった。」
「アル、銀竜がいなくなってガッカリしたんじゃない?」
「ああ。随分と銀竜が気に入ったらしいな。」
「コギンも仲良くしてもらったもん。」
「だから別の銀竜を任せようと思っている。」
「それ……すぐ見つかるの?」
「当てはある。彼らがこちらに戻ってきたら会わせるつもりだ。」
都はなんだか嬉しくなる。
「それとネフェルを送ってきた。」
ネフェルの名前に思わずリュートに駆け寄った。
「ネフェル、どうなるの?」
「彼女の祖父のところで暮らすことになる。」
「お祖父さん?」
目を丸くする都に、リュートは順を追って説明した。
それによると都とクラウディアがガッセンディーアに戻った翌日の夕方、入れ替わるようにセルファが神舎のマーギスを訪ねて来た。
「アデルの坊ちゃんがいらっしゃるとは……」驚いたようにマーギスが出迎える。
「姉と従弟、二人の身内がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。」
「それを言いにわざわざ来たわけじゃないだろう。」とリュート。
セルファは頷くと外で待機していた人物を呼び寄せた。
使い込まれた革の上着に身を包み白髪を綺麗になでつけた老人の姿に、リュートは思わず声を漏らす。
「オーロフ殿……」
「久しぶりだね。リュート・ラグレス。」かくしゃくとした声。緑の瞳が真っ直ぐにリュートを見据える。
「母君はお元気かね?」
「ええ、相変わらず。」
そうか、と老人は頷く。その視線はそのまま書庫の扉を押し入って来たネフェルに注がれる。
気付いたネフェルが足を止めた。問いかけるような視線。
けれど老人は構わず彼女の前に立った。
「ネフェル……スゥエンとイナリサの娘だね。」
「あの……」
「デレフ・オーロフ。あなたの父上の父上、つまりお祖父様です。」
セルファの説明にネフェルは息を呑む。
構わず彼は続けた。
「あなたのお祖父様は、あなたとお母様を探していたそうです。だから私が言うより先にあなたの名を知っていました。」
「え?」
セルファの説明によればオーロフ家を尋ねた彼が戸口でスゥエンの名を出すや否や、老オーロフ自ら、「ネフェルが見つかったのか?」と飛び出してきたらしい。
「その先は、ご想像に任せます。」
そう言われてネフェルは目の前の老人を見た。
クラウディアとセルファの姉弟がどのようなやり取りをしたか知らないが、昨日の今日でオーロフ家を訪問したセルファの行動は想像しがたいほど迅速だ。けれど竜を繰るとはいえ、それを受けてここまでやってきた老オーロフの行動力はそれ以上に目を見張るものがある。
それほど切実に彼女を探していた……という事なのだろうか。
「ミヤコに聞きましたが、スゥエンから贈られたものがあるそうですね。」
セルファの問いかけにネフェルは襟元から指輪のついた鎖を引っ張り出す。そのまま外すとセルファに渡した。
セルファから渡されたオーロフが「間違いない」と呻いた。
「我が家の印だ。」
「普通はその家の男子に家長から贈られることが多いのですが……この際男女は関係ないでしょう。」セルファも頷く。
「スゥエンがお前に贈ったのなら、間違いなくお前はオーロフの子。もっともクラウディア・へザースの言うとおりスゥエンに生き写しだ。間違えることもない。」オーロフは腰を落とすとネフェルを覗き込んだ。
「一人で辛かっただろう。」
ネフェルは首を振った。
「一人では……ありませんでした。母が教えてくれたことがあったから、こうしてここにいることができました。」
そうか、と老人は目を細める。
「あの……」と遠慮がちにネフェルは口を開く。
「一つお聞きしてもいいでしょうか?」
「ああ、何なりと。」
「父が亡くなったのは……事故……だったんですか?」
その質問に、オーロフは戸惑うような視線をリュートに向ける。
「彼女は何も知りません。」
そうか、と老人は息を吐き出す。
「そうだな……事故のようなもの……と言うべきか。」
「それは……」
「その話は家でゆっくりとしよう。」
「家?」
「あなたにオーロフの家に来てもらいたいそうです。」とセルファ。
「妻も……お前のおばあさんもそれを望んでいる。できれば今すぐにでも。」
「そ、そんな急に……」
「お前にとっては急かもしれないが、わたしはずっと待ちかねていた。一生、会えないかと諦めかけていた矢先、アデルが朗報をもたらしてくれたんだ。」
「でも……」
言いよどむネフェルに、マーギスが近づいた。
「ネフェル、あなたは英雄の遺したものを読むという夢があるのでしょう?それに、まだまだ読んだことのない文字があると言っていましたね。」
「勉強熱心なのだな。」老オーロフが目を細める。
「ええ、とても。けれどここでは……陸の孤島のような砦では、できることに限界があります。私も……そうでした。」
「マーギスさまも?」
「だから神学校を飛び出したんです。おかげでいささか回り道をしましたが、決して神舎の中にいたら見えないことも見えるようになりました。だから後悔はしていません。もちろん、それには不安や時には痛みも伴うでしょう。けれどその先の世界はここよりずっと広いはずです。それにあなたの年ならば……いえ、もうすでに出会っていますね。」にっこりとマーギスは微笑む。
「かつて英雄が白き翼の盟友を得たのと同じように、共に好奇心に向かい、時に励ましあうことのできる相手と。」
「あ……」
「オーロフの家はガッセンディーアの領内にあるそうですよ。」
ネフェルはセルファを振り返った。
「私……この先もミヤコと会うことができるんですね。」
「彼女は学業の都合でまた自国に戻りますが、こちらに来る機会はいくらでもあります。その時は、ガッセンディーア領内のラグレスの家に滞在します。まぁ間に手紙を取り次ぐくらいならリュートでもできるでしょう。」
「くらい、ね。」とリュートは息をつく。
ネフェルの緑の瞳が輝く。
そこに先ほどまでの迷いはなかった。
すっと背筋を伸ばすと、老オーロフに深々と頭を下げる。そして言った。
「よろしくお願いします。」
「そっか」と都は安堵の息を漏らす。
「ネフェルのお祖父さんってどんな人?」
「引退したが元は竜に乗っていた人だ。いささか頑固なところもある真面目な人だと聞いている。祖父と交流があったらしいが、俺が生まれる前の話だから……」
「でもリュートのお祖父さんと知り合いだったなら、きっといい人だよね。」
「勝手に決めるな。」
「絶対そうだよ。同じガッセンディーアの領内だったら近い?」
「竜の翼を借りれば、さほどかからない距離だ。」
「じゃあ次にこっちに来た時、会えるかな。」
「もう次のことか?」
「だって……ダールさんにお礼、言ってないし……」
「それは気にしなくていい。都がこの家に来れば、奴には嫌というほど会える。」
「そんなに仲、いいんだ。」
「向こうが勝手に来るだけだ。」言いながら、目を細めて都を見る。
「何?」
じっと見られていることに気付いて首をかしげる。
「そういう格好も似合ってる。」
胸の辺りで切り返しのある服はシンプルだが、上品な淡い色で、それが都の肌の白さに似合っていた。胸元には自分が贈った守り石。髪は両脇をすくって後ろでピンで留めているので顔の輪郭がすっきりと出ている。
母親が選んだ装いだということは一目でわかる。きっと都なりに抵抗しただろうということも。
「他に着るものないし。」自分を見下ろし苦笑する。
「都……」
「え?」
「ありがとう。」
思いもよらぬ言葉に都はきょとんとする。
「都がフェスを見つけてくれなかったら、今頃後悔していた。それに、都のおかげで英雄の書を見つけることができた。」
「それは……まだわからないって……」
「俺はそうだと思ってる、それに都がいたからネフェルは親族に会うことができた。」
手紙を読んだときは信じられなかった。
やがて湧き上がったのは、なぜ危険を顧みず来たのか?という憤り。けれど再会して思うのは、愛しさ。自分を追いかけてきてくれた。それがたまらなく嬉しかった。
だが都にしてみれば、知らない世界で危険なことに巻き込まれたショックは大きかったはずだ。自分が予定通りに動いていれば彼女がこちらに来る必要も、危険と紙一重の行動をすることもなかったはず。
「済まなかった……都に心配をかけたことも、守れなかったことも。」
「心配したのはそうだけど……わたし、リュートのこと感じてたよ。だからネフェルと二人っきりでも怖くなかったし、それにリュートがどうしてあそこに留まったのか、あのときわかったから。」
「あのとき?」
「ゲルズ司教に……触れられたとき。凄く、嫌な感じだったの。黒き竜の……金髪の男の人の感じに似てた。」
「それは……初めて聞くぞ。なんで黙ってた?」リュートは眉をひそめる。
「大丈夫…だったから。」実際、それで曖昧な記憶が蘇ったわけでもなく、精神的な発作を起こしたわけでもなかった。
「それに襲われたときみたいにハッキリした影があったんじゃなくて、だから本当に同じ気配だったか自信なかったし……」何よりその直後にコギンが乱入した末にいなくなってしまった事のほうが、都にとっては一大事だった。
「だけどもし呪術の力の源みたいなものがあって、それが黒き竜の力の源と同じだったら、リュートは放っておくはずないって思ったから……それにマーギスさんに、聖堂に報告するときはわたしの名前を出さないようにってお願いしてくれたでしょ。」
「それは……クラウディアも同じ考えだったから。」
「うん。クラウディアさんもだけど、リュートはわたしのこと守ってくれてるんだって実感した。」
それに都が介在してないところで彼なりに彼女の面目を保ってきたのだと、こちらに来て初めて知った。
「でも、その……」
口ごもる都を、夜と同じ色の瞳が優しく覗き込む。
「遠慮するなと、言ってるだろう。」
「その……離れてて会えなくても……それでも……」
「平気なわけない。」リュートは都の手を取り、甲を親指でなでる。
「こうして触れたい、会って声が聞きたい……そう思ってた。」
都の体から力が抜ける。
「よかった。」
照れたような笑み。
「本当は少し不安だったから。ちゃんとリュートに会えるのか……わたしのこと忘れてないか、って。」
「そんなに俺は信用ないか?」
「そうじゃないけど……」
「離れすぎた、な。」
その言葉に都も頷く。
「わたしね、クラウディアさんやダールさんに会って、わたしが知らないリュートのこと聞いて愉しかった。リュートが……リュート・ラグレスとしてどういう生活してるのか知ることができたから。」
それにアルやネフェルと知り合ったのも嬉しい出来事だった。
「生徒手帳に手紙書いたとき……なんて書こうか凄く悩んだの。でも会ったら普通で、リュートはリュートなんだってわかったら、なんか安心した。」
「俺は逆に心配で仕方なかった。」
「わたしが来るって思わなかったから?」
「それに一人で行動すると思わなかった。」
「それは……自分でも驚いてる。でも心配かけたのはリュートも一緒だよ。」
だから……と言葉を継ぐ。
「今回はおあいこにしておく。でもまたこういうことがあったら……」
「そのときは嫌われないように善処しよう。」
そう言って都を引き寄せ膝に座らせると、その肩に顔を埋めた。
「リュート?」
「少しだけ……このまま……」
腕をまわし、布地越しに感じる細い身体をそっと抱き寄せる。
都もリュートの頭を両手で抱くと黒髪を指先で梳いた。
そうやってお互いの体温を享受するのに言葉はいらなかった。
不思議なほど満ち足りた優しい気持ちが全身に流れ込んでくる。
どれくらいそうしていただろう。
「あのね、」と都が口を開いた。
「お願いがあるの。」
リュートが顔を上げる。
「わたし、字を習いたい。」
「字?」
「この国の文字。だって読めないと不便なんだもん。それと地図が欲しい。行ったところとか、ネフェルのいる所がわかる地図。」
「セルファに言って用意してもらおう。他には?」
軽く息を吐き出してから、都は言った
「どこかに行く時は……行き先言って欲しいの。こっちにいるときも。」少し首を傾ける。
それが彼女の喋る時の癖だと、今ではわかっている。きっと言い出すまでずっと言葉を考えていたのだろう。
「リュートの行動を縛りたいとかじゃなくて、知ってると心の準備ができるっていうか……安心って言うか……」
こつんとリュートは都の額に自分の額を押し付ける。
「都がそう望むなら。なるべく努力しよう。」
「なるべく、じゃなくて……」
言葉が遮られる。
目を閉じて、都は重ねられた唇を受け止めた。
「あ、あのね。もうひとつお願いしていい?」
「うん?」
「日本語の間に英語入ってると、読めないっていうか意味わかんない。」
「フランス語かラテン語のほうがよかったか?」
「じゃなくて!」
「漢字が出てこないんだから仕方ないだろ。」
「平仮名って発想ないの?」
「……ないな。」




